◆台湾

《蓮舫女史の報告》蕭美琴氏「私は、日本よりもアメリカを重視しています」【アジアレポート 28(325)】2000-07

【アジアレポート 28(325)】平成12年(2000-07)
出版者   マスコミ総合研究所
出版年月日 2000-07
陳水扁氏の総統就任演説を読んで p16-19/33
  中村勝範
  慶應義塾大学法学部政治学科卒業
  法学博士。慶應義塾大学法学部教授
https://dl.ndl.go.jp/pid/4430701/1/16
民進党国際部長で、
陳水扁総統の政治ブレーンである蕭美琴氏は
「ハッとするほどの美貌の持主」で、
二十八歳の女性である。
コロンビア大学政治学科出身、
二十四歳で民進党の駐米代表処に勤務、
二十五歳で民進党国際副部長として台湾へ招かれ、
二十六歳で国際部長、
民進党中央本部のなかで最年少の幹部となった。
昨年四月、陳水扁氏が訪米した時、
通訳、秘書、政治分析者として同行し、
陳水扁氏から強い信頼を得た。
この陳水扁総裁の政治ブレーンであり
台湾のニューリーダーである彼女は、
日本にほとんど興味を示さず、
あっけからんと、
「私は、日本よりもアメリカを重視しています」
と言ってのけるという。
ニュースキャスターの蓮舫女史が伝えている
(SAPIO 6・28)

蕭美琴氏は日本より米国を重視する理由として、
米国は台湾関係法を持っていて、
米中関係が穏やかなときも、
非常に気まずくなったときも、
台湾を重視し、
密接な関係を保ってくれるのに対し
「日本の大陸寄りの政策には、非常に不満です」
と言い切っている。
ついでに、
「はっきり言って、日本は台湾軽視です。
 だったら、
 今までのような特殊な愛情を持った関係を見直して、
 これからは
 ほかの諸外国と同じ関係にしていくでしょうね」
とつづけている。
台湾は李登輝的日本への「特殊な愛情」をやめて、
韓国かロシアに対すると同様な
冷めた関係にしていくだろうというのである。

蕭美琴氏のこの日本批判に
異議を唱えることができる日本人はいるだろうか。
 ―略―
先の蓮舫女史は、
日本は「情」の部分で
台湾と手をつないできたが、
法的「理」と経済的「利」の部分で
中国に顔を向けていたと分析する。
その上で蓮舫氏は
「そのつないだ手を、台湾の側から切ってきた。
 そして、アメリカと両手でつながろうとしている」
とつづける。
台湾から親日派がいなくなり、
親米派で固められるのは、
蕭美琴氏が言うように
日本は中国に寄りすぎるからである。
陳水扁氏も総統選挙中に日本に対し
「ひとつだけ(日本に対して)違和感があります。
 それは、中国を恐れすぎること。
 日本が中国の反応を気にしすぎていることです」
とインタビューに答えた、
蓮舫女史は報告するが
「ひとつだけ」というのは
控え目な社交辞令ととっておくべきであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4430701/1/18
ASIAN REPORT
2000.7.15 No.325
編集者 マスコミ総合研究所 編集委員会
発行者 藤田誠子・倉田信靖
発行所 マスコミ総合研究所
東京都港区赤坂6-15-1(赤坂ミツワビル5F)
電話(3584)1108/振替口座 東京3-170508
印刷所 株式会社みづほ
 p32【アジアレポート 28(325)】2000-07
p32【アジアレポート 28(325)】2000-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/4430701/1/32
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[世界経済評論IMPACT]
蕭美琴物語
:駐米大使の最有力副総統候補者
           朝元照雄
     九州産業大学 名誉教授)
          2024.01.08
 2024年1月13日に台湾総統直接選挙が行われ,
与党民進党の頼清徳と美琴は総統と副総統のペアで立候補。
選挙の結果はまだ判明していないが,
仮に当選後,頼清徳と美琴は
台湾を国際舞台の高みへと牽引することが期待されている。
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JIJI.COM  2024年5月29日(水)
頼清徳氏と蕭美琴氏
(2024年5月)20日、
台北で行われた就任式で手を振る
台湾の頼清徳新総統と蕭美琴副総統。
【EPA時事】
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《蓮舫さん》台湾出身の父のこともあって、…やはり私の基軸は中国人ですもの【こども未来 2月(329)】平成11年

【こども未来 2月(329)】平成11年(1999-02)
出版者   こども未来財団
出版年月日 1999-02
 p16【こども未来 2月(329)】1999-02
p16【こども未来 2月(329)】1999-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2889776/1/16


 ホッ!とインタビュー
キャスター 蓮舫さん
〇インタビュアー 山谷えり子さん
 (財)こども未来財団評議員
  サンケイリビング新聞編集長
れんほう◎昭和42年東京都生まれ。
父は台湾出身の中国人。
青山学院大学法学部卒。
中学3年生からモデルとして活動を始める。
17歳のときに帰化
青山学院大学在学中にクラリオン・ガールに選ばれ、
芸能界デビュー。
以来、ドラマ、バラエティー番組はじめ、
テレビ朝日「プレステージ」、
TBS「スーパーワイド」の司会など、
テレビを中心に幅広く活躍する。
平成5年4月からテレビ朝日「ステーションEYE」の
メインキャスターを務める。
同年8月にジャーナリストの村田信之氏と結婚。
(平成)7年10月から(平成)9年2月まで
夫婦で中国・北京大学へ語学留学。
同年(平成9年)4月に双子を出産。

 男も女も自分に向く仕事を見つけて自立することを、
 小さいときから父に教えられて育ちました

キャリアウーマンの代表とも言える
ニュース・キャスターとして、
活躍していた蓮舫さんが、
仕事を一時お休みして夫と共に北京留学したのは、
記憶に新しい。
帰国後まもなく、双子を出産。
待ったなしの子育て奮闘も二人分です。

―― 双子ちゃんの成長ぶりはいかが?
蓮舫 この四月で二歳になります。
   息子が一三キロ、娘が一〇キロ。
   身長は八センチくらい違います。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2889776/1/16
―― ニュース・キャスターになられて
   油がのってきた頃に、
   中国留学なさったのは
   思いきった決断ですね。
蓮舫 自分の基軸をつくりたかったんです。
   報道の仕事はずっと続けたいと思っています。
   ただ、実際にやってみてキャリアを積んで
   幅を広げるためには、
   私のテーマを確立しなければと思ったのです。
   政治・経済をはじめいろいろな意味で、
   これからは中国の動きが興味深い。
   台湾出身の父のこともあって、
   昔から中国にはこだわっていました。
   やはり私の基軸は中国人ですもの。
   身動きがとりやすい二十代のうちに
   留学を終えたいと考えていましたので、
   二十八歳のときに中国留学を決行したのです。

 一人っ子政策を進めている中国では、
 妊娠・出産時期も国や企業の管理下に

 夫や母や男性ベビーシッターに支えられ
 バランスのとれた子育てができている
https://dl.ndl.go.jp/pid/2889776/1/17
こども未来
平成11年2月号 第329号
定価550円(税込)・送料76円
年間購読料6,600円(税込・送料共)
平成11年1月25日印刷/
平成11年2月1日発行
発行人 土井 豊/
編輯責任者 中山和之
発行所 財団法人こども未来財団
    〒104-0061
    東京都中央区銀座3-11-18 眞帆ビル
    電話 03(5550)9450
    ファックス 03(5550)9470
編集協力 厚生省児童家庭局/
制作協力 株式会社 法研
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《陳杏村:福光》曲り角の台湾バナナ【台湾青年 (28)】昭和38年(1963-03)

【台湾青年 (28)】昭和38年(1963-03)
出版者   台湾独立建国聯盟日本本部
出版年月日 1963-03
p1【台湾青年 (28)】1963-03
p1【台湾青年 (28)】1963-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7886321/1/1
  曲り角の台湾バナナ  p5-8/35
  ―バナナ自由化をめぐって―
  林 雲 東
  青果公会と合作社
主「・・・
  まず名前を知っていますか。
  台湾区青果出口業同業公会、
  ふつう青果公会とよばれていますね。
  バナナ輸出業者の団体。
  理事長が陳査某、
  建隆行の主人です」
客「神戸に建隆貿易株式会社というのがありますね」
主「建隆行の子会社ね。
  陳査某の息子、陳建忠が社長です。
  青果公会のメンバーには陳杏村、
  マダム陳と呼ばれる有名な女性、
  理事長の椅子を陳査某と争ってきました。
  ほかに黄木邑、陳清城、王諸回と
  いった連中がいます。
  つぎは合作社。
  高雄、台中とあります。
  正式には高雄青果運銷合作社というんでしょうね。
  バナナの集荷、検査、包装、運送が仕事。
  この連合体が台湾省青果運銷合作社聯合社、
  青聯社という奴ですね。
  理事主席が張明色。
  東港事件の生き残り。
  高雄合作社の主席が謝敏初。
  省議会副議長 謝東閔の弟です。
  ほかに台湾青果産銷聯営委員会というのがあります。
  青果聯合社、青果公会、それに省農会の
  三団体が共同で作っています。
  外貿会の下につくわけです」

客「合作社とバナナ輸出業者は仲が悪いんでしょう」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7886321/1/5
主「・・・
  陳査某の建隆、陳杏村の福光、李麒麟の信義、
  みな同じことです。
  シャニムニ反対です。
  ・・・」

主「陳杏村が組んでいるのは日本バナナ輸入協会です。
  台湾に行っているのは中山信一という副会長、
  正会長が根本博です」
客「陸軍少将でしたか。義勇軍を組織して
  台湾に行った人でしょう。
  なるほどね――。
  バナナ屋さんになっていたんですか。
  いろんな人が台湾に行ってるもんですね」

主「大竹平八郎も行ってますよ。
  参議院議員、国府・ロビーとして有名です」
客「彼はどの派ですか」
主「日本青果輸入協会の顧問、建隆派ですよ」
客「二つの陳はどちらが大きいんですか」
主「それは陳査某派が大きいでしょう。
  萬光(沈水木)、義裕(謝承業)、永光、東和(陳維謙)
  皆集団で国府に申請をだしました。
  陳杏村側は少ないようです」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7886321/1/6
台湾青年 第28号 1963年3月25日
     頒価 ¥100.
     外国送料共 US$ 0.50
発行人  王 育 徳
編集長  廖 建 龍
発行所  台湾青年社
     東京都豊島区千早町2~35
     電話(957)6995番
     振替口座 東京 23534番
https://dl.ndl.go.jp/pid/7886321/1/34
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《秋山富一》住友商事副社長:東京商大・大丈夫会(ラグビー部)【経営コンサルタント (474)】昭和63年

【経営コンサルタント (474)】昭和63年(1988)
著者    経営政策研究所 [編]
出版者   経営政策研究所
出版年月日 1988-04
 東京商大・大丈夫会
  住友商事副社長
  《秋山富一》
つい先日、「大丈夫会」を開いたら一一名集まった。
「大丈夫会」というのは東京商大(一橋大)を
昭和二八年に卒業した
ラグビー部チームメイトの集まりである。

今回出席出来なかったのは伊丹冨佐雄君と
在米の秋山孟彦・山田成男の両君。
これに昭和五四年に急逝した丹羽喜昭君を加えた
一五名がそもそも「大丈夫会」のメンバーである。

在学中は、何事につけ「おい、大丈夫か」と
互に励まし合った仲で、
卒業後も「大丈夫かい」と声を掛け合って
行きたいということから
「大丈夫会」と命名したものである。

当時は、なにしろ戦後間もなくの食糧難の時代、
本来ならスポーツどころではないところだった。
それを我々は空きっ腹を抱えて走り回った。

なかには、学資から生活費まで、
自らの手で稼ぎ出さなければならない境遇の者もいた。

さらに、ジャージやボールなど用具を揃えるためにも
働かなければならなかった。

そんな我々のエネルギー源は何だったのだろうか。

文字通り泥と汗にまみれた青春、
皆の情熱の全てが一個のボールに
注ぎ込まれた時代だった。

同級だけで、一五名、
これでちょうど一チーム編成出来る人数である。

ほぼ、このメンバーで六年間闘ってきたのだから、
チームワークがよくて当然だろう。
いつでも腹を減らしていた我々の最大の楽しみは、
新宿西口にズラリと並んだ屋台をひやかして歩くこと。
そこには、銀シャリから麺類、おでん、まんじゅうと
多彩な食物が揃っていた。

しかし、我々に手が出せるのは、
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/10
3個10円の今川焼きか、
いもきんとんくらいのもの。
それがどれだけうまかったことか―。

今でも今川焼きに目がないというのも多分、
この時代の影響かもしれない。

当時のメンバーで唯一欠けたのが
今は亡き丹羽喜昭君。
彼は、マネージャーとして、
食糧の調達から用具の手配、
合宿所の世話など裏方を一手に引き受けてくれた。

夏の合宿では、
富浦、沼田、妙高、湯田中、新潟など各地に行ったが、
その交通手段を確保するだけでも大変な時代、
彼の苦労は並々ならぬものだったろう。

我々がラグビーにひたすら打ち込めたのも、
こうした諸事万端をまかなった彼あってのことだった。

よくラグビー魂とかラグビー精神という話題が出るが
私に言わせれば、
それはチームプレイにつきるのではないかと思う。
方向が決まったら一丸となって行動する、
トライに向けて一五人の力が結集する瞬間だ。
そこには、
ただ一片のスタンドプレイも介入するすきはない。

ラグビーというゲームは生身の肉体で激突し合う
最大の集団格闘技である。
一九世紀前半の英国の名門パブリックスクール
「ラグビー高」での出来事。
フットボールの試合中ゲームに熱中した
エリスという少年が突然ボールを抱えて走り出した。

もちろん、これは反則である。

しかし、このハプニングに
場内は興奮のるつぼと化した。

ゲームは抜きにして、
選手も観衆も一体になって、
この瞬間のプレイに熱狂したのである。
この出来事がきっかけとなって
ラグビーというゲームが生まれたわけだ。

私は、今はもうボールを持つことはないが、
年に何回かは秩父宮ラグビー場や
国立競技場へすっ飛んで行く。

神奈川テレビがよく中継すると聞くと、
さっそくその受信アンテナを揃える、
ビデオの録画にしても、
最優先でラグビーの中継を入れる――
という熱狂ぶりだ。

先般ニュージーランドのチームが来日し、
オール日本を始めとする各ラグビーチームが
それこそ完膚なきまでに叩きのめされた。

ラグビー狂の私としては
切歯扼腕しきりというところだったが、
これらの試合を見ていて思ったことは
日本選手が実力を十分出し切ることが出来たら
もっとやれるはずだということ。

オリンピックなどでもそうだが、
日本人は本番に弱い。

これは外国人とのパーティーや
仕事の面でも同じかもしれない。
どうも上手くやろうとか
恥をかきたくない
という心理が働きすぎるからのようだ。

日本人は得てして自分に
必要以上のプレッシャーをかけすぎる。
それが、本番に弱いという結果になっている
のではないだろうか。

また、最近はトライやキックで得点をあげた人だけを
個人的に称える傾向が強いが、
得点は一五人全員の総力の結果であるはず、
やはり、そのラグビーの原点を
なおざりにしてはいけない。

先日、我々一一人のメンバーが集まったが
心の中ではいつも一五人出席している。

不滅の「大丈夫会」の面々は次の通りである。
(前出のメンバーは省く)
北村  収(共栄商社社長)
川田 洋一(三菱金属常務)
藤居  寛(帝国ホテル副社長)
谷津米太郎(荏原ボイラ取締役営業部長)
木村  幹(三国コカ・コーラボトリング取締役
      食品総括部長)
鈴木  昭(栗田工業経営企画室関連事業部)
齊藤 昭男(自営業)
齊藤 賢一(新進食料工業副社長)
長谷川暢洋(三菱原子力工業企画管理部長・参与)
田村  稔(日本ケーブル取締役監理部長)
p11【経営コンサルタント (474)】昭和63年
p11【経営コンサルタント (474)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/11
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《真下 昇》エイコンクラブとエリスクラブ【経営コンサルタント (475)】昭和63年

【経営コンサルタント (475)】昭和63年(1988)
著者    経営政策研究所 [編]
出版者   経営政策研究所
出版年月日 1988-05
  わがラグビー人生
 ノーサイドの笛の音まで全力を出す
 ロイヤルドルトンドッドウェル
   営業部長 《真下 昇》
ひとたびラグビーの面白さを知ると、
決してラグビーから離れることはできない。
これは全てのラガーに共通することではないだろうか。

先日、本誌で秋山富一住友商事副社長の
”東京商大・大丈夫会“と題するエッセイを読み
改めて思った次第である。 ※別稿に記載

秋山副社長も書いておられるように、
ラグビーは最大の集団格闘技である。
しかも、あらゆる競争の要素を持っている。
サッカー、バスケットなどの
蹴る、投げる、走る――
柔道、レスリングのように
組む、タックルする――
手、足、体の全てを使う競技である。

自分の特技を生かし、
個性を発揮することによって
チームに貢献する。
ワン・フォー・ザ・オール、
オール・フォー・ザ・ワン、
これがラグビーの根本理念である。

決して自分は英雄にはならない、
自己犠牲によって同志を英雄にする――
これがラグビーだ。

だからボールを抱えて独走し、
そのままトライする。
観衆のヤンヤの喝采を呼ぶこの行為は、
むしろラグビーのそれではない。

一つのトライは十五人全員が
それぞれのパートを完全に果たした
その結果にすぎないのだ。

ニュージーランドのチームが来日して、
オール日本をこてんぱんにやっつけた。
百何対ゼロというまるで
大人と子供の試合のようなゲームだった。
結果について色々批判もあったが、
徹底的に相手を打ちのめす、
決して手かげん、手ぬきをしない、
スコアに関係なく常に全力プレイをする、
これがラグビーのマナーである。

やがてノーサイドの笛が鳴る。
ゲームが終われば、
もうサイドはない。
勝っても負けてもお互いの闘いぶりを称賛しあう。
お互いの健闘に尊敬の念を持つ。

だから、ラガー同士の友情は厚い。
ラグビーを忘れられないのは、
そういうさわやかな友情で
支え合っている面があるからだろう。

戦後、復員して来た学生たちがラグビーを始め、
社会人になった時、
自分たちのエネルギーを発散し、
友情を温め合うために、
OBのクラブを組織した。

その第一号が昭和二二年に誕生した
エイコンクラブである。
エイコンというのは、
どんぐりという意味で
皆同じだということを表している。

その一年後の昭和二三年、
エイコンの対戦相手として
エリスクラブが発足した。

エリスというのは、
秋山副社長も書いておられたように、
一九世紀前半の英国の名門パブリックスクール
「ラグビー高」の生徒の名前。
フットボールの試合中、
ゲームに熱中したエリス少年が
突然ボールを抱えて走り出した。

これはもちろん反則だが、
このハプニングに場内はわいた。
それが、
ラグビー誕生のきっかけとなったのである。

さて、
エイコンやエリスが誕生したが、
当時はまだ社会人のチームはなかったから、
もっぱら対戦相手となったのは、
進駐軍や外国人の混戦チームである。

今でこそ社会人チームや、
各地域のチームが沢山出来て、
盛んとなったラグビーだが、
当時は、
グランドの確保や対戦チームの選定にも
苦労したのである。

私は今、
関東ラグビーフットボール協会の理事と
審判委員長を務めているが、
毎日夜一時間半のトレーニングは欠かさない。

グランドでレフェリーを務める以上、
体力がないといけないし、
太りすぎてもいけないからだ。
グランドで一人だけもたもた動いたりしては
目ざわりだろう。
それで体づくりに務めているわけである。
p86【経営コンサルタント (475)】昭和63年
p86【経営コンサルタント (475)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205750/1/86
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《田頭達市》中大ラグビー部OB エリスクラブ主将【産経日本紳士年鑑 第7版 下】昭和42年

【産経日本紳士年鑑 第7版 下】昭和42年(1967)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1967
《田頭 達市》
 三幸建設(株)社長
 保谷建設業協力会幹事
(生)広島県 昭和5年5月2日
(歷)
昭和28年 中大法学部卒
小川造園に入り
昭和35年 三幸建設を設立 社長に就任
なお中大ラグビー部OB
エリスクラブ主将をつとめる
(趣)ラグビー
(住)東京都保谷市本町三ノ二
   ℡田無(61)一七八一
p130【産経日本紳士年鑑 第7版 下】昭和42年
p130【産経日本紳士年鑑 第7版 下】昭和42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044850/1/130

【産経日本紳士年鑑 第9版 下】昭和45年(1970)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1970
《田頭 達市》
 三幸建設(株)社長
 関東ラグビーフットボール協会評議員
(生)広島県 昭和5年5月2日
(歷)
昭和28年 中大法学部卒
小川造園に入り
昭和35年 三幸建設を設立 社長に就任
なお中大ラグビー部OB
エリスクラブ主将をつとめる
(趣)ラグビー
(住)東京都保谷市本町三ノ二
   ℡田無(61)一七八一
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《畠山一男》昭和37年エリスクラブ監督として台湾遠征【東京紳士録 昭和45年版】

【東京紳士録 昭和45年版】昭和44年(1969)
著者    東京探偵社 編
出版者   東京探偵社
出版年月日 1969
《畠山 一男》
 成蹊大学文学部助教授兼
 保健体育科主任
 東京ラグビースクール校長
 武蔵野市ラグビースクール校長
 秋田県出身
 東京都武蔵野市吉祥寺北三ノ五ノ三七
 電話(51)四〇〇一
勤務 東京都武蔵野市吉祥寺北町三ノ三ノ一
電話 (51)五一八一
歴  大正9年7月28日生
昭和一九年 東京高等師範学校体育科卒業後
土浦海軍航空隊予備学生
昭和二〇年 海軍少尉にて復員
昭和二一年 熊本薬専助教授
昭和二三年 成蹊高教諭
昭和四〇年 現職就任
現在に至る
此間
昭和三八年 ※昭和三七年の誤記
エリスクラブ監督として台湾遠征
関東ラグビーフットボール協会
レフリーソサエテイー委員
同協会評議員 同理事
日本ラグビーフットボール協会
普及指導委員会副委員長
同協会事故防止委員会副委員長
歴任
尚日本体育学会会員
日本体力医学会会員
特 昭和二五年第五回国民体育大会ラグビー東京
昭和二七年ニュージランド在日駐留軍ケーホース再度
各代表選手
著 「ラグビー」スライド及び解説書
  「保健体育概論」
論 「身体発育の加速化現像に関する縦断的研究」
処 フエアプレーとフアイテイングスピリット
宗 禅宗
趣 ゴルフ
家 妻  トミ(昭和4年)
     日本女子大助教授 園芸
  長男  武(昭和27年)
     成蹊高在
  長女 佳子(昭和31年)
親 従兄 財前正士
    (熊本市 鶴屋デパート常務取締役)
p499【東京紳士録 昭和45年版】昭和44年(1969)
p499【東京紳士録 昭和45年版】昭和44年(1969)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016748/1/499
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《菱田一雄》エリスクラブ:台湾遠征に際してお会いした先輩達【蔵前工業会誌 (563)】昭和37年

【蔵前工業会誌 (563)】昭和37年(1962)
出版者   蔵前工業会
出版年月日 1962-07
 台湾に於ける会員の消息
 (ラグビー遠征に際してお会いした先輩達)
 《菱田一雄》
私は工大ラグビー部のOB会にも入っているが、
エリスクラブにも所属している。
エリスクラブは、工大だけでなく、
各大学のOB会で結成されており、
ラグビーをやっているものなら、
たいてい知っているし、
日本でも最強のクラブチームの一つである。

最近、台湾の中華民国ラグビー協会の招きで、
台湾に遠征することとなった。
期日は(昭和37年)2月24日から3月7日まで、
約2週間である。
幸いに私は、多数のクラブ員の中から選ばれて、
中、日親善試合のメンバーになったので、
さき程、台湾に遠征して来た。
その時お会いした工大の三人の先輩の
消息をお伝えしたいと思う。

 写真は台北の町で右から二人目《陳》氏
 三人目《筆者》
p12【蔵前工業会誌 (563)】昭和37年(1962)
p12【蔵前工業会誌 (563)】昭和37年(1962)

  【官報 1942年11月12日】昭和17年
  著者    大蔵省印刷局 [編]
  出版者   日本マイクロ写真
  出版年月日 昭和17年
  ◎臺灣總督府臺南高等工業學校(四十回卒業生)
   機械工學科
  《陳成慶》

《陳 成慶》昭和26年化工卒
名簿では昭和26年卒になっているが、
実際の卒業年度は昭和21年で、
帰国のため卒論が延びてしまったそうである。
現在、台北市にある国立台湾大学化工系副教授として、
台湾の最高学府の旧台北帝大の伝統を受け継いだ
名門校で活躍中である。
台湾大学は、現在、日本の東大、工大と同様に、
物凄く入学がむづかしく学生の勉学態度は、
日本人よりはるかに、真剣だとのことである。

それと云うのも
「中国では、徴兵制度があって、
 大学の途中から2年間は兵役に行かねばならないから、
 勉強の出来るうちは、
 しっかりと勉強するのだと云う意識が強いためである。
 その点日本の学生は、良い意味でのびのびとしているが、
 反面、自由に流れ過ぎているきらいがないでもない。」
と云っていた。

大学の講義は北京語で、
一般に話す言葉は台湾語、
日本に長く留学されていたので、
日本語は、われわれより上手、
アメリカへ2年程留学されていたので、
英語も得意と、
私なんか、日本語だけでも、苦手なものにとって、
誠に羨ましい話だった。

同氏は工大在学中にラグビーをやっておられたとのことで、
特に台湾にいる間ご迷惑をお掛けした。

第一試合は、昔の台北一中のOBとであって、
現在建国中学と名称が変っているところと行ったが、楽勝。
その試合のあとで、
古い写真を一枚持って来られた。
一見して、すぐ戦争中のものと分かった。
本館がきれいなものである。
大学の分析教室の前で、
ラグビーの白いジャージィーに
「生協」と書いたマークをつけて、
桜の木の下で、
本館をバックに15~6名が
坊主頭で試合前に写した写真である。

私の知っている顔は、
大野明(18金)氏しかなかったが、
陳氏は、塚本氏、中村氏などの名を挙げた。
特に塚本氏とは、高工時代の先輩、後輩であって、
なつかしいが、消息が分からないと云っていた。

半日、陳氏の案内で、日本の味の素と同じ、
「味全食品工場」を見た。
同工場は台北から約15分位のところにあって、
グルタミン酸を発酵法で造ったのは、
日本より先だったとのことである。
施、工場長の説明によれば、
現在、増設中の諸施設は、
陳氏の種々のアドバイスによるものだそうである。
現住所は 中華民国台湾省台北市紹興南街32巷14号
現在 長女15才、次女12才、
長男11才、次男9才、3男7才
と三男二女がある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1805588/1/12

  【東京工業大学一覧 昭和15-16】
  出版者   東京工業大学
  出版年月日 昭和16
  《劉主安》 大正一五年 紡 昭和七年大紡
  【東京工業大学一覧 昭和7至8年】
  著者    東京工業大学 編
  出版者   東京工業大学
  出版年月日 昭和7
    染料化學科
  昭和七年三月卒業(八名)
  《劉 主安》臺灣

《劉 主安》 15紡、7染
台北での2戦を楽勝したあと、
第3戦は南下して、台南市営球場において、
全台南市と行った。
その時、グランドに見えられたのが、
劉先輩である。
台南のラグビー協会からの連絡で、
工大の卒業生が来るからと云うので、
始めて、ラグビーを見たとのことであった。

現在、台南市の長栄女子中学の校長を
おやりになっているそうで、
今日も生徒達に、大学時代の恩師、
菱山衡平先生や永海佐一郎先生のことを話して、
生徒達に訓辞をしたところだと、
非常に敬虔な態度で話された。
戦後、日本から来た工大の卒業生に
会ったのは始めてだと、
私のことを非常になつかしがられて、
同夜、台南市長の招待のあと、
一緒に同市を案内して下さった。
教育者としては、
出国が面倒で中々日本に行けないのが残念だが、
何んとかして、日本に行きたい、
そして日本に行ったら、まづ、
恩師の菱山先生のところに、
お見舞に行きたい。
私の日本に行きたい目的の半分は、
これであると、話しておられた。

《江 北辰》 昭和21年機
現在、台北のシンガーミシンに勤務中。
前の劉主安氏の女婿で、
台南から紹介を受けて、挨拶に行った。
今度、シンガーが工業用ミシンの工場を
台北に建てる計画があるが、
その工場の責任者として行く予定があるとのことであった。
現住所 台北市中山北路二段六八A号
    美商勝家縫紐機器股份有限公司
(23化工門 東京首都整備局都市公害部)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1805588/1/13
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《謝哲義》福光貿易(株)社長【東京紳士録 昭和43年版】

《謝哲義》福光貿易(株)社長
【東京紳士録 昭和43年版】
【東京紳士録 昭和44年版】
【新日本紳士録 全国篇 第2版】昭和43年(1968)

【東京紳士録 昭和43年版】
著者    東京探偵社 編
出版者   東京探偵社
出版年月日 1967
《謝 哲義》 p353/677
 福光貿易(株)社長
 台湾出身
東京都府中市八幡町二ノ一六
電(61)三六九八
社 東京都千代田区神田練塀町三
  電話(256)八一一一
歴 昭和2年1月15日生
  昭和二五年 愛知大経済学部卒
  昭和二六年 現社設立 現職就任
  現在に至る
処 誠実
宗 仏教
趣 読書
家 妻  寛寛(昭和7年)
  長男 秋成(昭和32年)
  二男 有紀(昭和35年)
p353【東京紳士録 昭和43年版】
〔画像〕p353【東京紳士録 昭和43年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3017672/1/353

【東京紳士録 昭和44年版】
著者    東京探偵社 編
出版者   東京探偵社
出版年月日 1968
《謝 哲義》 p350/681
 福光貿易(株)社長
 台湾出身
東京都府中市八幡町二ノ一六
電(61)三六九八
社 東京都千代田区神田練塀町三
  電話(256)八一一一
歴 昭和2年1月15日生
  昭和二五年 愛知大経済学部卒
  昭和二六年 現社設立 現職就任
  現在に至る
処 誠実
宗 仏教
趣 読書
家 妻  寛寛(昭和7年)
  長男 秋成(昭和32年)
  二男 有紀(昭和35年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016747/1/350

【新日本紳士録 全国篇 第2版】昭和43年(1968)
著者    本田秘密探偵社年鑑局 編
出版者   本田秘密探偵社
出版年月日 1968
《謝 哲義》 p405/734
 福光貿易(株)社長
 台湾出身
東京都府中市八幡町二ノ一六
電(61)三六九八
社 東京都千代田区神田練塀町三
  電話(256)八一一一
歴 昭和2年1月15日生
  昭和二五年 愛知大経済学部卒
  昭和二六年 現社設立 現職就任
  現在に至る
処 誠実
宗 仏教
趣 読書
家 妻  寛寛(昭和7年)
  長男 秋成(昭和32年)
  二男 有紀(昭和35年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3028986/1/405
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《陳杏村》《謝哲信》丸大商事(株)【帝国銀行・会社要録 第48版1】昭和42年

《陳杏村》《謝哲信》丸大商事(株)
【帝国銀行・会社要録 第48版1】昭和42年

【帝国銀行・会社要録 第48版1】昭和42年
出版者   帝国興信所
出版年月日 昭和42年
丸大商事株式会社  p1125/2113
東京都  中央区銀座東1-2
     電話361-4551
目 的  バナナ輸入
設 立  昭和38年9月
資本金  250万円(500円)
決算期  12月
役 員  (代)陳 杏 村
     (締)柳沼 むめ
     (締)謝 哲 信
     (監)川副 竜男
株 主  10名 陳杏村
従業員  13名
年 商  4億8,000万円
取引銀行 勧銀(京橋)
p1125【帝国銀行・会社要録 第48版1】昭和42年
〔画像〕p1125【帝国銀行・会社要録 第48版1】昭和42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8798249/1/1125
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