大江卓

米利堅人[ジヨシア、ヱツチ、ホール] 民部省ニ傭ヒ開墾局 明治四年三月【民部省日誌】明治4年

米利堅人[ジヨシア、ヱツチ、ホール] 
民部省ニ傭ヒ開墾局 明治四年三月
【民部省日誌】明治4年

【民部省日誌】明治4年
 明治辛未 第二號 自三月 至四月
 民部省日誌
民部省日誌 明治四年辛未 第二號 p14/31
 三月 朔日(一日)
〇米利堅人[ジヨシア、ヱツチ、ホール]ヲ
 民部省ニ傭ヒ開墾局ニ属セシメ
 追々種藝牧畜等ノ事ヲタメ為サシメントス
※種藝牧畜(クサキノ ヤシナヒ ケモノヽ ヤシナヒ)
【民部省日誌】明治4年p14
〔画像〕【民部省日誌】明治4年p14
官版  不許飜刻
御用御書物所
芝神明前    和泉屋市兵衞
日本橋南壹町目 須原屋茂兵衞
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《農業技師ホール》明治四年大藏省に勸農寮【日本工業史】昭和17年(1942)

《農業技師ホール》明治四年大藏省に勸農寮
【日本工業史】昭和17年(1942)

【日本工業史】昭和17年(1942)
 一方では明治四年大藏省に勸農寮が設けられ、
農業技師ホールの建言により
(明治)五年二月
一四名の海外傳習生を米國に派遣する事となつた。
其の中の出島松藏には ※下記
專らビールの研究に當らせることになつた。
併し寮は同年十月に癈止せられたので目的は達せられなかつた。
 【日本工業史】昭和17年(1942)p144
〔画像〕【日本工業史】昭和17年(1942)p144
昭和十七年 九月廿五日初版印刷
昭和十七年 十月 一日初版發行
昭和十七年十二月 一日再版發行
昭和十八年 三月十八日三版發行
昭和十八年 八月 十日四版發行(二〇〇〇部)
(出版會承認 い110307號)
大觀日本文化史薦書
日本工業史
停 定價金參圓
特別行爲税 相當額 拾四錢
賣價 金參圓拾四錢
著作者 南種 康博(ナグサ ヤスヒロ)
發行者 株式會社 地人書館
    代表者  上條  勇
    東京市神田區錦町三ノ二二
印刷所 株式會社 秀英社
    東京市神田區小川町二ノ一二
印刷者 西川喜右衞門
    東京市神田區小川町二ノ一二
    (東東四一二三)
發行所 株式會社 地人書館
    東京市神田區錦町三丁目
    振替東京一五三二番
    電話神田 八九五番
配給元 日本出版配給株式會社
出版會々員番號一一七五二〇番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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酒造  出島松蔵
大蔵省届
 右ノ通 今般諸職為修行 米國留學申付
 尤 何レモ職業研究ノ譯ニ付
 於當省辭令 相渡申候 依之此段御届申進候也
    二月十三日
   ※明治5年2月13日(1872年3月21日)
大蔵省伺:14名には出島松蔵は入っていない。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年7月9日03:43:26
[由良守応、十余名諸職業研究]学資 洋銀800弗/年:明治5年2月
  大蔵省届
 牧畜  由良勸農助  同   山澤靜吉  礦物  井上幾太郎
 同   吉田慶蔵   塗物  山本彌吉  農業  田代靜之助
 染物  入江音次郎  織物  梶山鼎助  同   柳中譲蔵
 酒造  出島松蔵   ガラス 白根貞蔵
 右ノ通 今般諸職為修行 米國留學申付
 尤 何レモ職業研究ノ譯ニ付
 於當省辭令 相渡申候 依之此段御届申進候也
    二月十三日
   ※明治5年2月13日(1872年3月21日)
  大蔵省伺
 勸農助由良守應   山澤静吉    井上幾太郎
 吉田慶蔵      田代静之助   入江音次郎
 白根貞蔵      赤羽四郎    梶山鼎蔵
 柳井譲蔵      山本彌三    小谷静三
 池田猪之助     平澤太助⇒※平原太作:別稿に記載
 右ハ先般伺濟ニ依テ諸職業研究ノ為メ
 米國ヘ被差遣候儀
 其節御届申上置候者共ニテ
 彼地滞在中外 留學生ト違ヒ
 學資ノ儀ハ 一人ニ付 一ヶ年 洋銀八百弗
 外ニ往返舩車賃トモ被下候樣仕度
 右御金ノ儀ハ牧畜御益金并官林御拂代等ヲ以
 仕拂候積リ御坐候
 此段相伺候也  四月二日
        ※明治5年4月2日(1872年5月8日)
 伺之通
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勸農寮 御雇 毛利凌雲 彈直樹 ホール【辛未政表】明治五年壬申(1872)四月

勸農寮 御雇 毛利凌雲 彈直樹 ホール
【辛未政表】明治五年壬申(1872)四月

【御雇外国人一覧】明治5年3月発行
勸農寮 p5/36
姓名  米 ホール   p6/36 ※別稿記載  
給料  月給 二百五十元
期限  辛未三月ヨリ一カ年
職務  牧畜種藝
【御雇外国人一覧】明治5年3月発行p6
〔画像〕【御雇外国人一覧】明治5年3月発行p6
明治五年壬申三月
發兌 室町三丁目 中外堂
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【辛未政表】明治五年壬申(1872)四月
 辛未政表 大主記  杉 亨二 編纂
   凡  例
一 表中所載勅奏判ノ官員ハ
  (明治4年)辛未十二月ノ職員録ニ據ル
  等外ハ諸省及開拓使東京府ヨリ差出ス所ノ調書ニ本ク
 大藏省  p23/62
勸農寮 御雇 毛利凌雲 彈直樹 月給 種藝
町門番 給料 御雇ホール家賃共
金 六十九兩一分二朱
【辛未政表】明治五年壬申(1872)四月p34
〔画像〕【辛未政表】明治五年壬申(1872)四月p34
勸農寮 書籍買上 苗木植付賃
官員外給料種藝 場人足賃
御雇ポール給料家賃共
金 百八兩永十五文
洋銀五百弗
霞ケ関種藝所 鳥飼料 其外@@入費
御雇ボール給料家賃
巣鴨種藝所 門番給料
金 百十一兩二分永百四十五文八分
洋銀二百五十弗
勸農御雇ポール 給料家賃 巣鴨種藝所 門番人 給料共
金 十九兩一分二朱
洋銀二百五十弗
霞ケ関種藝所 馬飼料
御雇ホール 家賃等
金 十九兩永十八文八分
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【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
(経済評論社, 1912-02)  
 嗚呼故彈直樹君の隱れたる事績を追想ふ / 龍玉生
【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p11
〔画像〕【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p11
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1473968/11

大藏省勸業局に職を奉じ
 ―略―
五年九月晦日 勸農寮に召され
宮内省より御履物料御調達の恩命を恭ふせり
 ―略―
【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p12-1
〔画像〕【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p12-1
【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p12-2
〔画像〕【経済評論. 12(3)】明治45年(1912)p12-2
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1473968/12
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大江卓 彈直樹 民部省 明治4年5月出仕【融和事業研究. 50】昭和13年7月(1938-07)

大江卓 彈直樹 民部省 明治4年5月出仕
【融和事業研究. 50】昭和13年7月(1938-07)

【融和事業研究. 50】昭和13年7月(1938-07)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
(中央融和事業協会, 1938-07)  
維新前後の部落解放と彈直樹について / 高橋梵仙 p20/81
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1495833/20
 大江の建言を受けた大木民部大輔は、    p28/81
大江を民部省に入れて手腕を揮はしめたいとの考へから、
その民部省入を勸誘したのである。
依て大江も其氣になり、
只其際の條件として自分と一緒に彈直樹を任用し
民部省の役人にして貰ひ度いと申し出た。
彈は其頃既に平民籍に入つてゐたが、
まさか役人にする譯には行かぬ。
流石大木も弱つたが、遂に我を折り、
直ぐ役人にするのも變だからといふので、
御用掛とし、
大江は地理寮出仕權大佑準席といふことで
就任したのが明治四年の五月であつた。(18)
 大江は民部省に出仕して事務を執るに際しても、
彈を上席に据えて談笑したものであるといふ。
※下記:【大江天也伝】大正15年(1926)
 詳細に記載あり
【融和事業研究. 50】昭和13年(1938-07)p28
〔画像〕【融和事業研究. 50】昭和13年(1938-07)p28
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1495833/28
引用註  p29-30/81
(17)雜賀博愛著「大江天也傳記」大正十五年版一二九~一三一頁
(18)同書 一四三頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1495833/30
昭和十三年七月二十三日印刷
昭和十三年七月二十五日發行 第五十輯
編集兼 小山 三郎
發行人 東京市麴町區霞ケ關三ノ三
印刷所 今井印刷所
    東京市深川區牡丹町一ノ七
印刷人 今井彦太郎
發行所 財團法人 中央融和事業協會
    東京市麴町區霞ケ關三ノ三
    振替 東京七〇、〇八六番
    電話 銀座 一、一四八番
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1495833/80
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【大江天也伝】大正15年(1926)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
雑賀博愛 著 (大江太, 1926)  
  大隈參議に倚る p122-123/517
 大江は斯くて岩崎の情誼により
其年(明治3年)十月無事東上することが出來たが、
土佐先輩に倚るの危險を慮り、大隈參議邸に入つた。
傲岸不遜、荀くも人に下らぬ大江は、
桑原深造なる書生を伴れて、
賓客として大隈邸に坐り込んだものである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021167/123
  民部省に入る  p128-129/517
【大江天也伝】大正15年(1926)p128
〔画像〕【大江天也伝】大正15年(1926)p128
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021167/128

【大江天也伝】大正15年(1926)p129
〔画像〕【大江天也伝】大正15年(1926)p129
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021167/129
大正十五年一月 廿日印刷  大江天也傳
大正十五年一月廿三日發行  非賣品
著作者 雜賀 博愛
    東京府豐多摩郡長崎村千九百十四番地
發行者 大江  太
    東京市麻布區笄町九十四番地
印刷者 大江印刷 專務 中山喜三郎
    東京市麻布區笄町八十一番地
印刷所 大江印刷株式會社
    東京市麻布區笄町八十一番地
發行所 大江  太
    東京市麻布區笄町九十三番地
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021167/515
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「大江卓の足跡を辿る 吉松富彌」土佐すくも人 第36号(2020年版)

「大江卓の足跡を辿る 吉松富彌」土佐すくも人 第36号(2020年版) 


 土佐すくも人 第三十六号(2020年版)
大江卓の足跡を辿る 吉松富彌   12
人道主義のパイオニア

 はじめに            12
 大江卓の生い立ちと足跡     13
 マリア・ルーズ号事件      15
 幕末、明治、大正、昭和を結ぶ  22
 大江卓との絆

 出逢いあり 別れも有れど    29
       此の世には花咲く河の流れ有り。
 (平成三十一年三月三十一日 九十一翁 吉松富彌詠)

吉松富彌 略歴          29
昭和二年一〇月二三日生。
昭和一九年   東京都立第六中学校(現 新宿高校)卒業。
昭和一九年九月 広島県江田島海軍兵学校七六期入校。
昭和二〇年八月 終戦により帰郷。
昭和二六年   早稲田大学理工学部電機工学科卒業。
昭和二七年   個人吉松商会として機械業を始める。
昭和三四年   株式会社吉松商会設立(機械製造)
        代表取締役社長。
◎昭和三四年
 「新聞製作技術開発に貢献した」として、
 日本経済新聞社・日刊工業新聞社・
 読売新聞社・朝日新聞社より感謝状拝受。
◎平成十三年から二十八年まで
 「戦争のお話」「地域の地理歴史について」
 と題して小学校六年生対象に
 社会科講師を委嘱される。

 吉松家 父方家系図   30

 吉松家 母方家系図   32

 ◇編集後記◇      80
◎吉松富彌さんから「大江卓の足跡を辿る」という
 原稿をお寄せいただきました。
 吉松家と大江家の係わりが細く述べられています。
    (非売品)
土佐すくも人 第36号(2020年版)
 令和2年4月25日発行
編集・発行 三元社 〒165-0027
      東京都中野区野方1-56-2
      津野輔猷方
編集委員  伊賀朗氏・岩村ゆりえ・小野信哉・千谷克昭
      竹村章・津野輔猷・三好庸雄
印刷・製本 株式会社アイガー
      ©東京宿毛会 2020
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桑原深造:大江卓[土佐すくも人][小野梓傳]
左 桑原深造 右 大江卓
左 桑原深造(※小野一雄) 右 小野梓

《土佐宿毛の教育者 酒井南嶺》
『酒井南嶺伝』昭和63年発行
〔門人〕   p132
 南嶺からよく愛されたのは
 大江卓と小野梓であった。 p135

《小野梓:大江卓宛書翰「解題」中村尚美》
『小野梓全集 第五巻』昭和57年

《小野梓:大江卓宛書翰:明治17年(1884)5月11日》
『小野梓全集 第五巻』

《小野梓:大江卓来訪・明治17年8月31日》
『小野梓全集 第五巻』昭和57年
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大江卓其子を勵ます【名士奇聞録】嬌溢生 著・明治44年

大江卓其子を勵ます【名士奇聞録】嬌溢生 著・明治44年

【名士奇聞録】嬌溢生 著・明治44年
 大江卓其子を勵ます  p137-138/277
大江卓の男(だん)其實業に志して大に計劃する所あり、
父に訴へて容易に其資本を得んと欲す、
卓色を作(な)して曰く
『實業は身を利し國家を益するを目的とす、
 計劃若し宜(よろしき)を得て其人信(しん)あらんか、
 資本家之を助くること蟻の
 甘きに就くが如し、
 親子は情に脆し、
 由來實業の友たるに利あらず、
 汝金玉の志あらば去つて他山の石に就け、
 岩崎・後藤の叔父さん皆共に謀るに足れり、
 ※岩崎弥之助・後藤象二郎
 居ながら親の脚(すね)を噛(かじ)つて
 袖手して金を儲けんと欲するは、
 抑(そもそ)も亦大間違の極(きはみ)ならずや』と、
男(だん)俯伏(ふふく)して語なし、
只(たゞ)膏汗(あぶらあせ)の背(はい)に湧くを知る。
明治四十四年十一月二日印刷
明治四十四年十一月七日發行
定 價  五十錢
著作者  嬌溢生
發行者  增田義一
     東京市京橋區南紺屋町十二番地
印刷者  佐久間衡治
     東京市京橋區西紺屋町廿七番地
發行所  株式會社 秀英舎
發行所  實業之日本社
     東京市京橋區南紺屋町十二番地
     電話 京橋八七四番八七五番
     郵便振替 貯金口座三貮六番
大賣捌所 東京堂、東海堂、北隆館、至誠堂、上田屋、大阪盛文館、
     京都東枝律書房、名古屋川瀨書店、久留米菊竹金文堂
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月30日 05:34 ◆小野梓 大江卓
《大江太:大江卓の長男》
【現代人名辞典】明治45年『土佐すくも人』第10号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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高知縣士族《大江 卓》【百官履歴. 下巻】昭和3年

高知縣士族《大江 卓》【百官履歴. 下巻】昭和3年

【百官履歴. 下巻】
目 次    p5/286
百官履歷索引 p11/286

 二六八 高知縣士族 《大江 卓》 卓造 p138/286
慶應改元明治戊辰五月 兵庫縣判事試補被仰付候事
 ※1868年6月
同年十二月 治河掛被仰付候事
 ※1869年1月
同二年己巳五月 兵庫縣奏任出仕被仰付候事
 ※1869年6月
同年七月 依願免職務
 ※1869年8月
同四年辛未五月 出仕申付候事 民部省 但 地理大佑准席之事 ※下記
 ※1871年6月
同年七月 任庶務大佑 民部省○同月 福岡縣ヘ出張申付候事 民部省
 ※1871年8月
同年九月十日 工部省七等出仕被仰付候事
 ※1871年10月
同年十月廿八日 神奈川縣七等出仕被仰付候事
 ※1871年12月10日
(原朱)              (原墨)
同年十一月十四日 廢神奈川縣更置同縣○同日 任神奈川縣參事
 ※1871年12月25日
同五年壬申七月十三日 任神奈川縣權令
 ※1872年8月16日
同年八月二日 叙正六位
 ※1872年9月4日
同六年癸酉一月廿四日 先般秘魯國マリヤルーヅ船訴訟裁判一件
 ※1873年1月24日 勉勵從事候ニ付目錄之通下賜候事 縮緬 二疋
同七年甲戌一月十五日 補大藏省五等出仕
 ※1874年1月15日
同年四月廿四日 兼任記錄權頭
 ※1874年4月24日
同年六月廿七日 免兼官
 ※1874年6月27日
同八年乙亥二月七日 故廣澤參議殺害一件取調ニ付參座被仰付候事
 ※1875年2月7日
同年十月七日 免出仕
同十一年戊寅八月十九日 位記被褫候事
昭和三年二月二十日印刷  百官履歷下巻
昭和三年二月廿五日發行     非賣品
    東京府豐多摩郡杉並町大字高圓寺四百十八番地
編輯者 大塚武松
    東京市四谷區新堀江町三番地
    日本史籍協會代表者
發行者 早川純三郎
    東京市京橋區新湊町五丁目一番地
印刷者 高橋赤次郎
    東京市四谷區新堀江町三番地
發行所 日本史籍協會
    電話四谷三二八七番
    振替東京三九四五番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年07月01日 04:20 ◆京丹波町 野口正利議員
大江卓氏の解放運動:三好伊平次・述【維新前後に於ける解放運動】昭和5年
そこで大江氏は地理係出仕、彈は御用係りといふことで
何れも民部省の役人となつた。
こゝで一寸(ちよつと)一言したいのは
明治四年五月に民部省が彈直樹即ち
元の彈左衞門を民部省御用掛として採用したことである。
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[陸奥宗光]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治10年(1877年)の西南戦争の際、
土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆[注 2]を謀ったが、
陸奥は土佐派と連絡[注 3]を取り合っていた。
翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。
明治5年
3月5日 - 従五位[2]
10月5日 - 正五位[2]
1875年(明治8年)11月28日 - 従四位[2]
1878年(明治11年)8月19日 - 位記被褫[2]
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明治四年には大江卓が差別廢止の建白書を提出した【国民同和への道】昭和17年

明治四年には大江卓が差別廢止の建白書を提出した
【国民同和への道】昭和17年

【国民同和への道】昭和17年
 三 明治維新における解放 p12-13/31

幕末、皇政復古の運動が盛んになるに伴なつて、
四民平等の精神に基づき、
過去久しきに亘つて苛酷な取扱を受けた人々に對しても、
その解放を論ずる者が現れるやうになつた。

例へば、加賀前田家の侍講千秋順之助
豐後の儒者帆足萬里の如き人々は、
これに關する論策を發表し、
憂國の赤誠をこめて時勢を論じ、
解放の必要なる所以を説いた。

そこで、これらの人々の努力は漸次與論を喚起し、
解放の氣運を醸成して行つた。

慶應三年十二月皇政復古のことが成り、
明治元年三月十四日、
維新の國是の大方針が中外に宣布せられた。

この御誓文の一箇條に


と宣べさせられたことは、
一部の人々に對する差別の問題に對しても、
政府の處理方針が奈邊にあるべきかを示すもので、
實にこれによつて明治の聖代における
國民同和の基礎が定められたといつてよい。

德川氏においても、
これに先立つて明治元年一月、
先づ關東八州外數州における部落の頭領であつた
彈左衞門に對して平民とする旨の沙汰書を下し、
次いでその部下六十餘人をも彈の願ひを容れて平民とした。

彈は更に進んで配下の部下全部の解放運動に着手して
願書を提出したが、
江戸城の開城に際會したため、
一先づ解放のことは沙汰止みとなつた。

さて維新の大方針がかように明示せられたので、
一部同胞に對する差別撤廢の聲は益々高まつた。

さて維新の大方針がかように明示せられたので、
一部同胞に對する差別撤廢の聲は益々高まつた。

明治二年三月に設立せられた與論公議の府たる公議所においては、
衆口一致して差別撤廢の聲を唱へた。

明治四年には大江卓が差別廢止の建白書を提出した。

ここにおいて、
政府はこれらの不幸なる人々の現状並びに解放の方法、
解放後の措置等について調査研究を進め、
遂に明治四年八月太政官布告を發し、
これらの人々に對する差別的稱呼(穢多非人)を廢し、
その身分・職業共平民と同樣たるべきことを定め、
よつてここに制度上の差別は撤廢せられた。

當時解放せられた人々は、
その總數三十八萬餘と稱せられる。

かくて、萬民あまねく皇恩に浴する時世となつたのである。

しかし、これを以て問題の解決を見るわけにはいかなかつた。

この人々は、法の上においては自由民となりながら、
事實においてはその後も依然として差別を受け、
解放の眞精神に副はざる結果となつた。

ここに同和問題の發生する所以があるのである。
昭和十七年八月 十五日印刷
昭和十七年八月二十一日發行
  文部省社會敎育局
印刷者 久保田眞吉(東京五五六)
    東京市京橋區西八丁堀一丁目四番地
印刷所 眞宏社印刷所
    東京市京橋區西八丁堀一丁目四番地
    電話 京橋(56)二九六九番
發賣所 財團法人 同和奉公會
    東京市麴町區三年町一ノ二一
    振替 東京七〇〇八六番
 日本出版文化協會會員番號 第二二〇〇八〇號
(出文協承認 あ180112號)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月22日 05:16 ◆京丹波町 野口正利議員
《上豊田区の歴史:野口正利議員》
「京丹波議会だより」第57号[平成30年4月]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
カテゴリー《大江卓》
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[卓囲会]大江卓研究会

[卓囲会]大江卓研究会

高知県宿毛市出身の
ヒューマニスト 大江卓

大江卓の生涯
生い立ち

大江 卓(おおえ たく)
(弘化4925日(1847112日)
~大正10年(1921年)912日)は
日本の政治家・実業家・人道主義者。
土佐国幡多郡柏島(現在の高知県大月町)で生まれる。
父、大江弘は宿毛市出身であり、
一時的に柏島に駐在していた時に生まれたことから、
宿毛市出身と一般的に言われている。
幼名は秀馬、斎原治一郎。
後藤象二郎は義父にあたり、妻は後藤象二郎次女、小苗。
慶応3年(1867年)土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。
このとき坂本龍馬中岡慎太郎陸奥宗光らと知り合う。
 ―略―
http://wwwa.pikara.ne.jp/takuikai/ooetaku.html



《大江太:大江卓の長男》【現代人名辞典】明治45年『土佐すくも人』第10号

《大江太:大江卓の長男》
【現代人名辞典】明治45年
『土佐すくも人』第10号

【現代人名辞典】明治45年
 明治45年6月27日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/1020
《大江 太》君  p284/1027
君は印刷業者なり、
高知縣士族
大江卓氏の長男にして、
明治二年を以て生る、
夙に木版術を研究し、
製版印刷の業を營む
(麻布區笄町九四)
(電話 芝四〇)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/284

【慶応義塾出身名流列伝】
《大江 太氏》 印刷業  p126/536
 東京市麻布區笄町九四
 (明治二年生)
大江太
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715/126

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


『土佐すくも人』第10号(1993年版)<東京宿毛会>

[宿毛の大江卓]橋田庫欣 p39-66
 ―略―
今日は大江卓の直系の
ひ孫の方がお出で下さっています。
三人姉妹ですが、
真ん中の方は
文部大臣や衆議院議長をなさった
坂田道太さんの奥様で、
御夫妻で来てくれるはずでしたが
ヨーロッパへ行くことになりましたので来られません。
そのお姉さまとお妹様が来てくれていますので
御紹介いたします。 p39

〔大江卓の家系〕  p41
大江弘(明治三年改姓)⇒
大江卓⇒
大江太⇒
大江恒吉⇒
多慈子・
三知世(坂田道太夫人)・
幸子
〔大江卓の家系〕 

特に南嶺にはその塾で徹底的に漢学を習いました。
大江は後に
「酒井南嶺にいちばん可愛がってもらったのは
 わたしと小野梓だった」
といっています。
塾では漢詩についても特別な教育を受けました。
だから大江卓も小野梓も多くの漢詩を作っています。 p41

土佐宿毛人 第10号(1993年版)
平成5年10月22日発行
土佐すくも人発行所
東京都中野区野方1-56-2
三元社

《小野梓:大江暹之訃・明治17年9月5日》
『小野梓全集 第五巻』昭和57年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2377314.html

[平野恵一]
2006/07/25
9 大江卓の人生
 ―略―
明治十一年、国事犯として盛岡に向かう折り、
福沢諭吉に養育を託した
長男・太は長じて印刷業を起こし、
恒吉という長男にその業を継がせる。
恒吉は二女をもうけた。 ※三女
その下の娘・三知世は、
熊本第二区選出で、厚生大臣、文部大臣、
防衛庁長官、衆議院議長を歴任した
坂田道太元議長の令夫人である。
坂田道太元議長は議員引退に当たって、
よくみられた世襲議員をつくらず、
政界美談として世間から賞賛され、
有終の美を飾ったことは記憶に新しいところであるが、
その姿と大江卓とが重なるように感じるのは、
私一人であろうか。(おわり)
 ―略―
http://hirakei.no-blog.jp/hirakei/2006/07/post_3c79.html
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