尾家實藏・尾家悅藏

[別府 猛]尾家悅藏の実弟:三毛門村 手永 大庄屋【築上郡人名辞書】昭和12年

[別府 猛]尾家悅藏の実弟:三毛門村 手永 大庄屋
【築上郡人名辞書】昭和12年

[尾家悅藏 君]《君は三毛門村 別府猛氏の實兄》
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行
[尾家悅藏 君] 築上郡三毛門村 p132-133/166
君は三毛門村 別府猛氏の實兄、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/132

[別府 猛 君]
【築上郡人名辞書】昭和12年7月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023688/135
[別府 猛 君] p112/137
三毛門村 大字 三毛門 八百八十七番地
明治十年五月十五日生  ※明治10年(1877)5月15日
君の祖先は三百年前の舊家にして
三毛門 手永の大庄屋たりし事あり、
維新前八石たりし仙内の四男に産れ
別府家を相續す

三毛門小學校、
中津高等小學を卒へ
明治二十六年 ※明治26年(1893)
大阪市立商業學校に入學

仝二十九年  ※明治29年(1896)
東京海上保險會社々員として入社し
大阪神戸支店へ勤務、

明治三十三年 ※明治33年(1900)
家事の都合に依り退職 歸郷

明治三十四年 ※明治34年(1901)
當時 百三十銀行(現 安田銀行)倉庫主任として勤務、
明治四十五年 ※明治45年(1912)
退職 歸里

大正六年   ※大正6年(1917)
三毛門村々會議員に當選
大正九年   ※大正9年(1920)
郡會議員に當選
其間
郡參事會議員に當選
大正十一年  ※大正11年(1922)
三毛門村村長に當選
今日に至る。


君は大正十一年 ※大正11年(1922)
村農會長に當選
今日に至る。

其他各種名譽職多々あり
昭和十一年九月二日 ※昭和11年(1936)9月2日
内務省より
昭和六年乃至九年
事變に於ける勤勞により
金二十円を賞賜せらる。

性温厚篤實風彩勝れる紳士にして
特徴は煙草を呑む名人男なり、
身長 五尺一寸二分
体量 十六貫
顔の好紳士である。

夫人は山田村
吉川賢治郎 四女 壽子さん
明治十五年九月二十一日生 ※明治15年(1882)9月21日
現在 三毛門村婦人會長、

二男二女あり
長男 義雄君 廿一歳 築中卒   自宅にあり
次男 英雄君 十五歳 築中三學年 通學中である
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023688/112

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[尾家悅藏]恒成常太郎:夫人(尾家悅藏 三女)【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

[尾家悅藏]恒成常太郎:夫人(尾家悅藏 三女)
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

[尾家悅藏 君]

《恒成常太郎:夫人は三毛門村沓川の素封家 尾家悅藏氏 三女である》

[恒成常太郎]三毛門村 大庄屋 別府家
【築上郡人名辞書】昭和12年7月31日発行
《三毛門村 大庄屋 別府家より出で恒成家を嗣いだ》
《夫人は三毛門村沓川の素封家 尾家悅藏氏 三女である》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2398606.html

《君は三毛門村 別府猛氏の實兄》
《富豪 尾家家に嗣子となり、實藏翁に仕へて孝養頗る力む。》
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/160
[尾家悅藏 君] 築上郡三毛門村 p132-133/166
君は三毛門村
別府猛氏の實兄、

幼にして出藍の譽れ高く、
垂髷の頃
其の爲
人を愛され

富豪 尾家家に嗣子となり、
實藏翁に仕へて孝養頗る力む。

聲望 夙に隆く
擧げられて
郡村會議員、
同農會代表者、
家督相續税審査委員等に歴任し、
現今 三毛門村名譽村長に在職、
鋭意治績を擧げて令名あり。

嘗て政界に驅逐して
正義正論を主張し
地方同志の中堅たりしが、
近時感ずるところありて
政争の渦中を去り、
專ら實業に勵み、
忙中の閑を得て
毎に各府縣を視察し
斯業の研究を怠らず。

醸造の醤油を『亀甲鶴』と云ひ
風味佳良
博覽會品評會に出品して屡々賞を授けられ、
往年 東宮殿下 御買上の榮を得、
現に陸軍の御用品たり。

君 住友吉左衞門氏の知遇深く
氏の揮毫に係る
『勤務節約獨立自重』の扁額を楣間に掲げて
座右の銘とせり。

爲人剛毅英俊、
業を嗣いで堅實勵勉、
良婿の評あり、
家道窂乎瑞氣室に滿つ。
尾家家の前途 又 多祥なる哉。

直接國税納額 六百三十一圓六十六錢五厘。
(四十一年度調) ※明治41年(1908)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/132

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[尾家實藏 君]《業を養嗣子 悅藏氏に譲り》【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

[尾家實藏 君]《業を養嗣子 悅藏氏に譲り》
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

[尾家實藏 君]
《先年 業を養嗣子 悅藏氏に譲り》
《大分縣中津町  小畑源左衞門氏の長男》
(豊前水産組合長 小畑兵三郎氏の實兄)

【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/160
[尾家實藏 君] 築上郡三毛門村 p130/166
君は築上郡 第一流の富豪にして
温和誠實精力絶倫の人也。
實は大分縣中津町
小畑源左衞門氏の長男
(豊前水産組合長 小畑兵三郎氏の實兄)、

天保八年三月を以て生れ、  ※天保8年3月(1837年4月5日)
十八歳の時
尾家家に入り
先代 慶右衞門氏の嗣子となる、

弱冠にして庄屋役を命ぜられ
幾くもなくして大庄屋格に進み、
治績を擧げ、
藩主 小笠原侯より金泥紋章入りの賞杯を下賜せらる。

維新後 戸長に就任し、
郡町村制を施行さるるや
郡村會議員となり、
所得税調査委員
其の他の公職に從ひ公務に盡くすこと多年、

進んで公共慈善事業に義捐し
賞を受くる事屡次。

往年 金二百圓を日本赤十字社に寄附し
特別社員に列せられ、
擧家 其の正社員たり

農は君の最も熱心せるところ、
夙に農本主義を執りて
拮据經營頗る力め、
遂に今日の成功を見るに至る。

此の間 農事の改善進展に努力し
實績を擧げしこと枚擧するに遑あらず、

就中 居村 沓川區の如き
君が甚大の苦心によりて
千頃の旱田
今や瑞穂洋々たるを見る。

君 農に成功して清酒、醤油醸造を創め、
經營宜ろしきを得て業務日に繁昌、
兩々共に郡内に頭角を抜き、
功成り名を遂げ

先年業を養嗣子 悅藏氏に譲り、
風月を侶として悠々老を樂しむ。

往年還暦の賀莚に際し
東久世伯、末松氏を始め
朝野知名の士、
君の爲めに壽を祝して詩歌を贈りしもの
數百千に及べり。

直接國税納額 四百八十一圓八十二錢。
(四十一年度調) ※明治41年(1908)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/130

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[豊前水産組合長 小畑兵三郎氏]
新聞記事文庫 水産業(1-032)
福岡日日新聞 1912.8.10(大正1)
[山口福岡]両県入漁問題解決
―略―
福岡県より小畑兵三郎氏
大分県より今角長賀氏
出席して交渉の結果
仮契約を締結し
更に来る十七日長須に於て
本契約書の交換をなすことに解決し
熊木技師は十一日迄大分県に滞在し
夫より香川、愛媛方面に向う由
データ作成:2010.4 神戸大学附属図書館
http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10083634&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

[恒成常五郎:恒成常太郎の養父]【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

[恒成常五郎:恒成常太郎の養父]
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年

【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/160
[恒成常五郎 君] 築上郡合河村 p141/166
君は築上郡 屈指の大地主にして
豪富の名 江湖に知らる。
爲人剛毅勇健、
襟度豪懐。
郡の一角 山紫水明の郷にありて
悠然髙臥すと雖
財界幷に政界に於ける蔚然たる勢力を有す
(自由黨時代よりの政友會有力者)。

夙に擧げられて
元 上毛郡町村組合會議員、
築上郡會議員、
築上郡 學校組合會議員、
合河村 學校學務委員、
合河村會議員等に歴選し、
郡政村治に貢獻すること多年、
現今 村會議員として
專ら村政の樞機に參與し、
其の中堅となりて
力を盡すこと多大也

君 又 進んで
軍資、
恤兵、
公共、
慈善事業に寄金し
賞を受くること十數度。

明治二年二月五日生。   ※明治2年2月5日(1869年3月17日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/141

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[恒成常太郎]三毛門村 大庄屋 別府家【築上郡人名辞書】昭和12年

[恒成常太郎]三毛門村 大庄屋 別府家
【築上郡人名辞書】昭和12年7月31日発行

《三毛門村 大庄屋 別府家より出で恒成家を嗣いだ》
《夫人は三毛門村沓川の素封家 尾家悅藏氏 三女である》

【築上郡人名辞書】昭和12年7月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023688/135
[恒成常太郎 君] p60/137
合河村大字川底
築上郡屈指の大地主にして富豪の名
江湖に知らる
温厚篤實なる君は
本郡 三毛門村 大庄屋 別府家より出で
恒成家を嗣いだ。
明治三十三年 三毛門尋常小學校に入學し  ※明治33年(1900)
仝三十五年三月仝校卒業、         ※明治35年(1902)3月
仝年四月千束高等小學校に入學       ※明治35年(1902)4月
仝三十七年 第三學年修學         ※明治37年(1904)
幼時より英敏
常に優等たり
三學年修業中
中津中學試驗にパスし
仝中學を卒へ、              ※明治45年(1912)
大正五年 熊本醫學專門學校 眼科 卒業後 ※大正5年(1916)
行橋町に眼科醫を開業後
郷里の懇望に依り自宅に於て眼科醫を開業、
偶 八屋町に於て名聲ありし
浦野眼科醫師 死亡に依り
浦野跡にて眼科を開業す、
遠近 其の仁術の巧妙と徳を慕ひ
患者の數 日に増し多く
以前に優る評番あり、

上毛郡町村組合會議員に當選
合河村々會議員 三期
村長に推され、
道路の改修、
講堂寄附、
學校建築等
一般社會村治に貢献する處多大也
君は學務委員たり
君は亦 先代 常五郎氏と反對なる民政黨に屬し、
斯界にも大なる勢力を有して居る

祖父を幸七氏と云ひ
庄屋を勤め巨万の富を有する勤勉家、

養父 常五郎氏は、
爲人剛毅勇健、
襟度豪懐、
郡の一角 山紫水明の郷にありて
財界並に政界に於ける蔚然たる勢力あり、
自由黨時代よりの政友會有力者
元 上毛郡町村組合會議員、
築上郡會議員、
合河村 學校學務委員等 歴任、
合河村々會議員等に歴任し、
郡政村政に貢獻すること多年、
村政の樞機に參與し、
村の中堅となりて
力を盡すこと多大であつた
其他
軍資恤兵、
慈善、
公共寄附等
各事に奔走、
寝食を忘れて盡力し、
感謝状を受領せる事
十數度に及ぶと云ふ
稀に見る大人物であつたが
大正四年 四十七歳の壯年時代    ※大正4年(1915)
巨木の倒るゝが如く他界したのは
地方自治の爲め大なる損失であつた

夫人は三毛門村沓川の素封家
尾家悅藏氏 三女である
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023688/60

《別府常太郎 中津中學校 明治45年卒業》
【大分県人士録】大正3年4月4日発行
大分縣 中津中學校 卒業生 名簿     p268/291
第十四回 卒業生(六十二名)明治四十五年 p268/291
別府常太郎                p268/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/268

《恒成常太郎 熊本醫學專門學校 大正5年5月卒業》
【熊本医科大学一覧. 昭和8年度】
舊 私立 熊本醫學專門學校 卒業者 一、三五五名 p82/115
大正五年五月卒業(一三七名)           p88/115
恒成常太郎 福岡                 p89/115
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447089/89

《恒成常太郎 郷里の懇望に依り自宅に於て眼科醫を開業》
【日本医籍録. 昭和11年版】昭和11年7月19日 第11版発行
福岡県   築上郡 p930/1398
恒成常太郎 合川村下川底
      恒成眼病院
      明治廿六年三月三十一日生    ※明治26年(1893)3月31日
      大正五年五月 熊本醫專 卒業  ※大正5年(1916)5月
      同六年三月ヨリ         ※大正6年(1917)3月
      同七年六月迄 母校 小兒科教室 ※大正7年(1918)6月
      同七年十二月ヨリ        ※大正7年(1918)12月
      同十年二月迄          ※大正10年(1921)2月
      東京恩賜財團濟生會病院 眼科 勤務
      昭和六年二月ヨリ        ※昭和6年(1931)2月
      原籍地 築上郡合川村ニテ眼科開業
      同七年三月ヨリ         ※昭和7年(1932)3月
      丸屋町ニ出張診療        ※八屋町
      至 現在
      村長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048198/930

《浦野眼科醫師》
【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
福岡県   築上郡   p658/976
浦野事三郎 得業士 明治廿四年十月 ※明治24年(1891)10月
      福岡平民 慶應三年生  ※慶応3年(1867)
      八屋町一三一〇ノ一
浦野文彦  得業士 明治三十三年十一月
      福岡平民 明治三年生  ※明治3年(1870)
      八屋町一三一〇
恒遠淸太郎 試験 十七年五月
      福岡平民 安政三年生  ※安政3年(1856)
      横武村薬師寺五九一
大邊 晋  ○○ 十七年四月    ※明治17年(1884)4月
      福岡平民 嘉永元年生  ※嘉永1年(1848)
      岩屋村大河内一九二三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/658
大邊 亮  得業士 四十一年三月  ※明治41年(1908)3月 p659/976
      福岡 平民
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/659
「得業士」 舊高等學校 及 官立醫學専門學校卒業生ニシテ p52/976
      學士號ヲ得ザル者
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/52
※○○   従来開業醫

【日本医籍録】大正14年8月10日発行
福岡県   築上郡 p1065/1332
浦野事三郎 八屋町
      浦野眼科醫院
      慶應三年十一月三日生  ※慶応3年11月3日(1867年11月28日)
      明治廿四年 高等學校卒 ※明治24年(1891)
      登録番号 五七五九號
      同廿八年 開業     ※明治28年(1895)
      日赤病院 宮下眼科病院 等 研究
      趣味 南畫

恒遠淸太郎 横武村薬師
      安政三年十一月十七日生 ※安政3年11月17日(1856年12月14日)
      明治十七年 登録 五六五四號 ※明治17年(1884)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/1065

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《大邊 晋》
《大邊 亮》
[大邊晋:大河内傳次郎の父]
【帝国医籍宝鑑】【日本杏林要覧】『大河内傳次郎』富士正晴
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2258769.html

[大邊亮:大河内傳次郎の長兄]
[長崎医学専門学校]『大河内傳次郎』富士正晴
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2258770.html

[大邊 男(マスオ):大河内傳次郎]
[日光社]『大河内傳次郎』富士正晴
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2258768.html

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