◆小林徳一郎・大野伴睦

小倉鉄道と小林組(小林德一郎)の勃興【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年

小倉鉄道と小林組(小林德一郎)の勃興
【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年

【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年(1944)
 第一二八 小倉鉄道と小林組の勃興  p305-306/327

 初め資本金百五十萬円の金邊鉄道株式会社なるもの設立され、
男爵小沢武雄専務となり山田寅吉を聘して技師長となし、
明治三十年二月 福岡縣小倉市付近の足立村高浜より
呼野、香春を経て下山田に至る約二十七哩の免許状を受け、
三十年六月起工式を挙げ
先づ金辺峠隧道開鑿より着手したが
其後経済界変動のため会社は非常の苦境に陥り
遂に工事を中止するに至った。

 然るに三十六年、岩田作兵衛
資本金百五十萬円の小倉鉄道を発起し金辺鉄道を買収、
明治四十五年五月金辺峠隧道工事に再着手し
次で全線工事を開始した。
請負者は不明であるが、
その一部の工事は左記の小林組の施工である。
大正四年四月、東小倉より上添田に至る二十四哩余を開通した。

 小倉の小林組小林德一郎は出雲の人にして
初め門司に於て微々
たる土木請負業を営みつゝあったがこの線路建設に際し、
小倉海岸の埋立工事を請負い一擧にして巨利を占め
爾來同組は順風に帆を揚げたるが如く
幸運に恵まれ忽ちにして大を爲すに至った。
門司停車場の鉄骨プラット・フォーム、
九州本線遠賀川の複線工事等
何れも仝組の施工である。

 組主小林德一郎は五尺足らずの小男なれど
精悍敏捷にして又
弁口に長し、
曾て軍人と衝突し、
軍人怒って剣に手をかけたを見るや、
小林は例の快辯を揮って、
「軍人の帶剣は國賊外敵を斃すために、
 陛下より許されしもの、
 それを以て吾々良民を斬らば、
 これ聖旨に背くの甚しきもの、
 斬れるものなら斬って見よ」とて
忽ち衣類を脱し素裸となり
「さァ斬れ」と
据り込みしたため相手の軍人も仕末に窮したと云う。

 小林德一郎は一面に於て非常な敬神家にて
出雲の大社に大鳥居を奉納し
宮司千家のためには有数の後援者となり、
また熊本の清正公祠にも、
某宮家御揮毫の額を奉納し、
御揮毫の御礼に数万金を値ひする
素晴しき緋縅の鎧一鏆を献上した。
宮家も其志を深く嘉され
大花瓶をお下げになったと云うことである。

 後年門司小倉附近に廣大なる地所を購入したが、
東京製鋼所が工場敷地として
小倉海岸の埋立を行はんとするに及び
小林は自己所有地所の大部分を無償にて会社へ提供し、
その代償として会社の埋立工事を引受けたと云う。
この製鋼所は後ち浅野製鋼所の買収する所となった。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年07月21日
《小林德一郎》[咸鏡北道明川郡]【鉱区一覧】大正8~9年
[虚言癖のあるオタクの友人]
2014年2月19日水曜日
『小林徳一郎略歴(大野伴睦回想録)』
島根県邑智郡出身
小学校もろくにでず
13歳で流浪の旅で北九州の炭鉱の田川市で坑夫
20歳で小林組(請負業)で親分
その後浅野セメントの工場建設で500万ほど儲ける
[虚言癖のあるオタクの友人]
2014年2月19日水曜日
『鳩山一郎と小林徳一郎(大野伴睦回想録)』
北九州一帯の大親分
九州小倉の炭鉱王
大野との出会い

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年10月24日
快男児・小林徳一郎1/2
[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

改版にあたって・まえがき・奥付[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

改版にあたって・まえがき・奥付[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

大野伴睦回想録 義理人情一代記 大野伴睦著
  鎌倉の長谷観音に立つ句碑
カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
  弘文堂
大野伴睦回想録-表紙
〔画像〕大野伴睦回想録-表紙

右上 著者(高輪の私邸で)
右下 東京音羽の鳩山邸で、(右から)著者、母堂、
   鳩山一郎氏、大野君子夫人、鳩山薫子夫人。

左上 1963年10月31日、訪台の際、松山空港で、
   左から木村駐国府大使、著者、村上勇代議士、何応欽将軍。
左下 左から、村上勇代議士、著者、陳誠氏(当時行政院長)、
   船田衆議院議長(台湾にて)。
大野伴睦回想録-写真1
〔画像〕大野伴睦回想録-写真1

右上 1963年12月大統領就任式典慶祝特派大使として訪韓の時、
   右から金鍾洛氏(金鍾泌氏の実兄)、著者、
   杉道助日韓会談首席代表、中川一郎代議士、德安実蔵代議士。
右下 訪韓後、記者会見する著者(中央)と杉道助(右)中川代議士(左)。

   改版にあたって
 私が回想録を出版して以来、
全国の老若男女の読者から山のようなお便りを頂戴した。
なかには、
「これまで私は大野伴睦という名を聞くだけでも厭だったが、
 兄に推められて回想録を読み、一晩中泣いた」
との意味の長い手紙をある少女から貰った。
この少女とはある婦人雑誌記者の仲介で直接会うことも出来、
私は大変悦しかった。

 またあるお医者さんの奥さんは、この回想録に感じ入り、
私の事務所に花を届けてくれたりした。

 このように見知らぬ人が、私の生涯の赤裸々な記録を読み、
かつ高く評価してくれたことは、
この書がベストセラーになったことと共に、私の望外の喜びである。
しかし投書の中には、回想録が上製本で値段が高いとの意見もあった。
そこで出版社のすすめで、廉価本として再び世に出すことにした。

 私は大衆政治家を自認している。
この書が広く庶民大衆の手にわたれば、何より悦しい。
もうそろそろ政界引退を考えている私にとっては、
こうして見知らぬ人々と、
大野伴睦回想録-写真2
〔画像〕大野伴睦回想録-写真2

心の交流が出来ることが、
我が人生の最高の幸福であると思うようになっている。

 なお、この書の編集に当った私の前秘書の中川一郎君が、
今度、衆議院議員に当選したことは、
この書の大衆向廉価版が世に出ることと同時に、
私にとって、心から喜びとするところである。
  昭和三十九年 節分の日に  大野伴睦

  まえがき
 私は政友会の院外団として、政界入りして以来今日まで、
一度もいわゆる「月給とり」になったことがない。

明日知れぬ政界浮沈の波間に、
五十年ばかりを政党生活ひとすじに過ごして来てしまった。
古稀をこえた今、政界にはもはや何の野心もなく、
時おり老後静穏な句作生活を夢みるようになった。

そんな私を見てか、周囲の友人たちが、
五十年にわたる風変りな私の政治生活の思い出を書き残しておけという。
もとより朝から晩まで公事に追い回される身なので、
十日や二十日で書きあげるわけには行かぬ。
二年、三年と書きためて、
ようやく一書となって陽の目を見るに至ったものだ。

その編集は、私の前の秘書山下勇君(藤田建設専務取締役)や
中川一郎君と、親しい新聞記者諸君をわずらわした。

 こうして出来あがったこの回想録を、
私の六十余年にわたって迷惑をかけつづけた亡き母に捧げたい。
   昭和三十七年夏   大野伴睦
大野伴睦回想録-まえがき
〔画像〕大野伴睦回想録-まえがき

大野伴睦回想録
大野伴睦(おおの ばんぼく)
明治23年9月岐阜県美山村に生まれる。
明治大学、早稲田大学に学ぶ。
東京市会議員となり、終身市会議員の待遇を受ける。
内務政務次官、地方制度調査会、鉄道建設審議会各委員、
皇室会議、皇室経済会議各議員、
国務大臣、北海道開発庁長官などをつとめる。
また、日本自由党幹事長、民主自由党常任顧問、
自由党総務会長、自由民主党総裁代行委員など歴任、
現在同党副総裁。
衆議院商工委員長、同通商産業委員長となり、
衆議院議長2回。衆議院当選13回。
現住所・東京都港区芝下高輪町57

昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
大野伴睦回想録-奥付
〔画像〕大野伴睦回想録-奥付

注文日 2019年3月11日(月)
購入者 小野一雄
出品者 古書みつづみ書房
商 品 ¥600
配送料 ¥257
総 計 ¥857
 古書みつづみ書房-1
〔画像〕古書みつづみ書房-1
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

女傑・松本フミ[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

女傑・松本フミ[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々   p133
   3 女傑・松本フミ  p144-146

 松本フミといっても現在、
この人の名前を知っている人は、ほとんどあるまい。
明治の末から大正にかけて、
政治家の卵の溜り場だった神田・松本亭の女将である。
私も書生時代に七年間も世話になったが、
男勝りの気ッぷのいい女性であった。

現在は靖国神社近くで余生を送っているが、
ときおり私のところにも遊びに来てくれる。
八十余歳の高齢とは思えぬ元気さで、
五十年前そっくりにいまも、天下国家を論じるあたり
「すずめ百まで踊りを忘れず」の感を深くする。

 この松本亭は、いまの中央大学の一隅にあって
犬養木堂はじめ国民党の連中が出入りしていた。
木堂は、この女将の気ッぷを好んで「竜吟窟」と命名した。

関羽ヒゲを生やした支那浪人の佐々木照山などの姿もよくみかけたが、
木堂の関係で国民党の面々の巣になっていた。
その後この松本亭には、大正元年の憲政擁護運動をきっかけに、
私などが参加した「都下大学憲政擁護連盟」が置かれ、
政友会の連中も溜りにするようになった。

 日本新聞の記者だった古島一雄さんが、
代議士になるとき物心両面から、この女将は援助したほどで、
「溜り」に出入りしていた政治家志願の青年は、
ほとんどといってよいくらいに彼女の世話になった。
この私もその一人で、
松本さんの助力なしでは今日の私はなかったと思っている。

 私同様に院外団にいた土倉宗明、藤井達也、深沢豊太郎も
彼女の援助で代議士になった人達だ。
政治が好きだけでなく、
この男は将来見込みがあると思うと、徹底的に支援した。
犬養木堂もおりにふれ
「松本の女将が男だったら、大政治家になったものを――」
と感慨を漏らしていた。
私も全く同感である。

 彼女も、女性であるからにはご亭主もあり、三人の子供までいた。
男勝りの人だけにご主人の方が影が薄く、
私が下宿をしていたころは別居生活のようだった。

 三人の子供のうち、
男の子は厚生大臣をやった小林英三君の娘さんと結婚、
二人の娘は三重県出身の代議士の息子の兄弟に、それぞれ嫁いでいる。

 松本亭の下宿人の変り種の一人に、浅原健三君がいた。
そのころは日大の学生で徹底した右翼だった。
ところが、ひとたび郷里の福岡に帰ると
「熔鉱炉の火は消えたり」の名文句とともに、
最左翼に飛躍してしまった。
両極端は相通ずるとか。
これは真理のようである。

 女将がこんな調子だから、使用人にも毛色の変わったのがいた。
その一人に「お市」という女中がいた。
年齢は私らと同じ二十二、三歳。
勝気だが親切に面倒をみてくれた。

 松本亭の下宿代は一ヵ月十五円、私はロクに払ったことがないが、
夕食にはいつもお銚子が一本ついた。
夕方、党本部から帰ってくると、お市が夕食をだしてくれる。
ちょうど女将がフロに入る時間だ。
鬼のいない間にと、お銚子一本を大急ぎで飲み
「お市、もう一本頼む」といえば彼女はいやな顔もせず
「あいよ」と、何本でも持ってきてくれた。
もちろん、帳場には一本しかつけていない。

 私が市ヶ谷監獄に入っていた間、挿し入れ弁当は、
いつもお市が女将の命で持ってきてくれた。
ある日、弁当箱を開けてみると、
私の大嫌いなラッキョとヌカミソの漬け物が沢山入っている。
「お市の奴、気の利かんやつだ」
私がラッキョ嫌いなのは知っているくせに、
今日に限ってどうしたことか。
独りでぶつぶつ不平をいいながら、
ラッキョと漬け物をハシでつまみ出していると、
高野豆腐が下から出
大野伴睦回想録p144-145
〔画像〕大野伴睦回想録p144-145

てきた。

 ずるずると高野豆腐を引き出して驚いた。
プーンとウイスキーの香りがする。
酒好きの私に飲ませようと、
高野豆腐にウイスキーをたっぷり浸み込ませてある。

「お市の奴、弁当箱からウイスキーの香りがするのを防ぐため、
 わざと漬け物を入れたのだな」
やっと事情がわかったとき、目頭がジーンと熱くなった。

 こう書くと、いかにもお市と私と何かあったみたいだが、
なんの関係もなかった。
ささいなことでお市とケンカ口論もよくした。
彼女は黙っていない。
「伴ちゃん、そんなことをいうのなら私から借りた電車賃、
 いますぐ返して――」
「ああ、いくらでも払ってやる。一体、どのくらいあるのだ」

 こうなると売り言葉に買い言葉。
懐中一文もないのだが、こちらも意地だ。

「四円五十銭よ。今日中に返してよ」
 お市は、私が金を持っていないことを知っているので、
わざと期限付きでいじめようとする。

「よしきた。一時間以内に払ってやるぞ」
 啖呵を切ったものの、私は文なしだ。
自分の部屋に質草でも探そうと戻ると、
女将の長男の子守り婆さんがあとからやってきて
「伴ちゃん、男のくせにお市なんかにバカにされるなんて、なんです。
 これで、さっさと払っておやり」
 きんちゃくからくしゃくしゃになった五円札をだして、
私に貸してくれる。
それをおしいただいて台所に引っ返す。

「お市、金ならいま払ってやるぞ。
 釣りの五十錢は利息にとっておけ――」
「あら、伴ちゃん。お金を持っているんだね」
「当り前さ。男は五円や十円くらいの金はいつでも持っているものだ」

 子守りばァさんから借りた金とは知らず、
びっくりしているお市にむかって、胸を張ったりしたものだ。

 思えば、ふるきよき時代であった。
大野伴睦回想録p146-147
〔画像〕大野伴睦回想録p146-147

昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
神田錦町松本亭の変遷と女将松本フミと孫加賀まりこ
 (2012.3.16 改定) 中村隆昭
大正元年頃 学生だった大野伴睦は騒擾罪で起訴され退学となり、
      「松本亭」の食客となる
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《益谷秀次》【東京外国語学校一覧】明治39-43年【京都帝国大学一覧】 明治43-大正3年

《益谷秀次》
【東京外国語学校一覧】明治39-43年
【京都帝国大学一覧】 明治43-大正3年

《益谷秀次》
東京外国語学校 フランス語学科
明治39年(1906)入学 明治42年(1909)卒業
《益谷秀次》
京都帝国大学 法律学科 選科
明治43年(1910)入学 大正3年(1914)卒業

【東京外国語学校一覧. 明治39-40年】
 本校生徒現員(明治三十九年十月五日) p34/170
  佛語學科第一年級  p35/170
益谷秀次  (石川)
[東京外國語學校一覽]從明治四十年 至明治四十一年
 本校生徒現員(明治四十年五月三十日) p113/170
  佛語學科第二年級  p114/170
益谷秀次  (石川)

【東京外国語学校一覧. 明治41-42年】
 本校生徒現員(明治四十一年五月三十日) p30/175
  佛語學科第三年級  p31/175
益谷秀次  (石川)

【東京外国語学校一覧. 明治43-44年】
  佛語學科  p44/195
  明治四十二年三月第十回卒業生(二十人) p46/195
益谷秀次  (石川)

《益谷秀次》
京都帝国大学 法律学科 選科
明治43年(1910)入学 大正3年(1914)卒業

《林 譲治》
京都帝国大学 法律学科
大正元年(1912)入学  大正7年(1918)卒業

【京都帝国大学一覧. 明治43-44年】
    選科     p154/227
   法律學科
 明治四十三年入學
益谷秀次  石川

【京都帝国大学一覧. 明治44-45年】
    選科     p128/187
   法律學科
 明治四十三年入學  p129/187
益谷秀次  石川

【京都帝国大学一覧. 従大正元年 至大正2年】
   法律學科
  大正元年入學   p129/187
林 譲治  高知
    選科     p132/187
   法律學科
 明治四十三年入學
益谷秀次  石川

【京都帝国大学一覧. 自大正3年 至大正4年】
   法律學科
  大正元年入學   p144/215
林 譲治  高知
  大正三年七月卒業 p162/215
益谷秀次  石川

【京都帝国大学一覧. 自大正7年 至大正8年】
   法律學科
  大正七年七月卒業 p171/251
林 譲治  高知
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「御三家」(益谷秀次・林譲治・大野伴睦)の思い出[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

「御三家」(益谷秀次・林譲治・大野伴睦)の思い出
[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々     p133
   2 「御三家」の思い出  p140-143

 どういうものか、私は旅先で、
親しい人の死去の知らせをきくことが多い。
緒方、三木、鳩山の三氏が亡くなったのも、遊説中で、
日程を打ち切り急いで帰京した。
「妙なめぐり合わせだ」
つね日ごろ、こう思っているためでもなかろうが、
またしても、親友林譲治君の死を大阪の出張先で聞いた。
あわてて、一切の予定を変更、日航機で東京にもどり、
同君の霊前にぬかずいた。
そのときの心境を一句したためた。
  春の海 消えゆく土佐の 巨鯨(おおくじら)

 私と林君、そして益谷君の三人は、
世間も「御三家」と呼んだほど三十数年来の友人であり、
飲み友達である。
年齢的には、益谷、林、私の順で一つずつ違っているが、
毎日の付き合いは兄弟のように「俺、お前」の間柄であった。

 三人の中で、ほとんど病気らしい病気もせず
「僕が最後まで生き残るよ」
といっていた林君が、最初に他界してしまった。
数年前、私が高血圧で酒をひかえると、
林君がやってきて
「酒が飲めないとは気の毒だ。僕は毎晩飲んでいる。羨ましいだろう」
と冗談をいっていたことが、昨日のことのように思い出される。
人の命くらい、測り知れないものはない。

 林君とは、昭和五年にお互が初当選して、
代議士になってから知り合った。
以来、政治行動はつねに一緒で、
北は樺太から南は鹿児島までともに遊説、
戦時中は仲よく翼賛選挙で落選している。
昨年は、永年勤続議員として二人が同時に衆院から表彰された。

彼が当選後、間もなく私が彼を鳩山先生に紹介し、
先生が文部大臣になられたとき秘書官に推薦した。

戦後は彼が議長を辞めるとき、
彼は吉田さんに後任の議長として私を推薦している。

ちょうど、二十七年八月の第三次内閣のこと。
そのころ私は吉田さんの鳩山先生に対する態度が気に入らず、
大いに憤慨していたので、
いまさら議長になれといっても
「俺はいやだ」と、
林、益谷両君のすすめを断わっていた。

 ある日、この両君に料亭に招かれ再び議長就任を口説かれた。
「解散が近いのに、いまさら議長になれるか」
にべなく突っぱねると二人は
「そんなアホなことをいうな。
 議長といえば議員の最高の地位だ。
 ならぬ奴があるか」
それでもいやだというと、ついに林君は涙を流し
「お前、どうしてそんなに強情を張るのか。
 吉田総理もその気持になっているのだぞ」

 涙で攻められるのが、私には何よりつらい。
酔いも手伝って
「君らで勝手にしてくれ」と、いい残して席を立ってしまった。
翌日、衆議院で議長選挙が
大野伴睦回想録p140-141
〔画像〕大野伴睦回想録p140-141

あり、大野が承諾したということで私が選ばれてしまった。

 ところが私が、議長に就任して三日目、
突如として吉田さんは国会を解散してしまった。
いわゆる「抜打ち解散」で、
短期間の議長とは承知していたが、
まさか三日坊主とは知らなかった。

当時大蔵大臣だった池田勇人、
郵政大臣の佐藤栄作、
外務大臣の岡崎勝男の三君が、
吉田さんとの間で秘かに仕組んだ作戦であった。

 私や益谷、林の三人はつんぼ桟敷に置かれていたわけだ。
いよいよ選挙に入ると反対党はこのときとばかり
「三日議長」と私を野次る。
内心、吉田さんの仕打ちに腹も立ったが、
口にだすわけにはいかない。
そこで私は
「たとえ三日でも、一時間でも議長は議長だ。
 君らは未来永劫に議長になれないだろう。
 一輪咲いても花は花、一夜添っても妻は妻。
 三日議長でも議長は議長だ」
と強がりをいって回ったが、
実のところバツが悪いことおびただしかった。

 三人は、政治上のことではつねに助け合ってきたが、
酒席になると勝手放題。
とくに俳句では、林君に負けるものかとお互に競ったもの。
句会での点数は、どちらかといえば私の方が上で、
彼もしきりに残念がっていた。

二十六年ごろの選挙のとき、
私の選挙区に応援演説に来た林君が、私の郷里の家に一泊。
色紙に一句したためて帰った。
    政治家を子に持つ親の古袷
 その後、私が郷里に帰って、笑いながら母に
「あんな句を作られるようじゃ、よっぽど汚い袷を着とったのかい」
「わしァ一張羅の着物を着とったがな」
 母も苦笑していた。
どちらかといえば、繊細な、いわゆる俳句らしい俳句を作る男だった。

 三人のうちの年長者で、
酒席では兄貴格でいつも床の間を背にして坐っている益谷君は、
私が院外団時代の大正九年の原敬内閣の選挙で、代議士となった。
三十二、三歳の若さだった。
彼は石川県能登の素封家の生まれ、
若いころから風変りな痛快な人物だった。
郷里の中学でストライキをやって退学、
東京にでて開成中学を終え、外国に遊び、
京大の仏法科を卒業した。 ※別稿に記載
彼は「二番」で卒業したというが、
よく聞いてみると仏法科の生徒は総計で二人。
つまりビリッカスで卒業したらしい。

 大学を卒えると、裁判官となり、
山口地方裁判所の判事をつとめた。
山口市での益谷判事は名裁判官の評判を博していた。
なるほど、彼の手にかかると大抵のものは無罪か執行猶予。
これでは人気がでるわけで、
「無罪判事」の異名をとった。
そのころから、酒を浴びるように飲み、
料理屋から裁判所に出勤するほどの豪の者だった。

 その後、能登の実家の兄に金を出してもらい、
衆議院に当選して彼は、
当時の国勢院総裁小川平吉氏の秘書官となった。
私と彼との出会いは、このころだ。
秘書官になっても益谷君は、相変わらずお酒をのむと、
豪傑ぶりを発揮する。
小川総裁のお伴で北海道視察に出かけたが、
車中で酒に酔い総裁を
「おいペーキチ、ペーキチ」と呼びつけ、
小川総裁の手回り品は放っぽらかし。
どちらが秘書官かわからない一幕があった。

 酒に関しては、人後に落ちない三人がいつも相寄って飲むのだから、
自然に心は結ばれ政治上でも同じ行動をとり、
のちに「御三家」といわれるまでの間柄になったのも、当り前といえる。
しかし、この三人の政治上の行動は、吉田内閣の初期が絶頂で、
党内を押えていたが、
私が吉田さんと疎遠になるにつれ、
友情は別としてこの「御三家」もばらばらになっていった。

 人の心の弱さがなせるわざ――
こんな結論をつけられても仕方がない。
大野伴睦回想録p142-143
〔画像〕大野伴睦回想録p142-143

昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

快男児・小林徳一郎2/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

快男児・小林徳一郎2/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々
   1 快男児・小林徳一郎  p133-140

 彼の寄進癖は神社仏閣だけでなく、学校にまで及んでいる。
法政大学で中国の漢籍を買うことにしたが、
本代十五万円がどうしても都合できない。
ときの総長は第三次桂内閣や寺内内閣で
司法大臣をつとめた松室致氏で、
この事情を小林さんに語ったところ
「それでは、私が寄附します」と、
無造作に十五万円の図書購入費をだした。
 松室氏は思わず「義書」だと、うなったそうだ。

 また、歌手の赤坂小梅を売り出したのも彼だった。
 昭和五年、小倉の花街にいた小梅を見出した彼は
「器量はそれほどでもないが、唄がすばらしい」と
小梅を東京に連れてきて赤坂からだした。

 この年は私が代議士に当選した年で、
この年の当選者だけで「昭五会」をつくっていた。
会員は林譲治や中島飛行機の中島知久平など。
金に不自由しない集まりなので、痛飲するのが常だった。
小林さんは小梅をこの会にひっぱってきて
「小梅を売り出したい。『昭五会』がP・Rをやってくれ」という。
 それからの「昭五会」の集まりには、
必ず小梅が呼ばれて宣伝大いに努めたものだ。
この間、久しぶりに小梅君に会ったら
「あの頃は、本当にお世話になりました」と、
しきりに懐しがっていた。

 その後、間もなく彼は朝鮮に渡り、炭鉱事業に着手した。
 北鮮の咸鏡鉄道で羅南に近く
明川(めいせん)駅と竜洞(りうどう)駅との中間に鉱区をもっていた。
この付近の石炭は明川炭といい、家庭燃料炭にはもってこいだったが、
何分にも駅まで牛車で運ばねばならないので、採算が合わない。

 そこで、なんとか鉱区近くに駅をつくりたいと、
私に助力を求めてきた。
 日ごろの飲み友達の願いごとだ。
早速、鳩山先生のところへ相談にいくと
先生は学友で朝鮮の鉄道局長大村卓一宛に
「ぜひ、力になって欲しい」と、紹介状を書いてくれた。

 朝鮮に渡り、大村局長を訪問すると、
下へもおかぬ丁重なもてなし。
が、肝心な駅の新設の方は、
クリスチャン局長の大村さんが事務的に処理するだけで、
いっこうに実現しない。
宴会戦術で頼み込もうとしても、
クリスチャンの大村さんは酒や女は一切ご免と、
とりつくしまもない。
こんな局長を相手にしていたのでは、ラチがあかない。
現場の課長クラスに目標を変えて、
連日連夜京城の花柳界に招待して宴会ずくめ。
いまでいえば”供応“になるのだが、
当時はのんびりした時代。
料亭の払いは小林さんが持つし、
どれくらい使っても結構だから、
万事お願いしますという。
余り派手に飲むので、
京城の花柳界では
「政友会の大野さんは、すばらしい金持ちだ」のうわさが飛ぶ。
いささか、くすぐったい感じだった。

 約六ヵ月ほどの“猛運動”の効果が実のり、
ついに駅が新設されることになった。
頼まれた役目も果したので、帰国の準備をしていると、
小林さんが「ヤマを見て帰って下さい」という。
案内されて明川のヤマへ行って驚いた。
ヤマでの彼の住いは、
夜になるとオオカミがでるというほどさびしい山中。
単身で泊って、
夜明けになると起きて入坑する坑夫の勤務ぶりをもとどける。

 花柳界で派手な宴会で騒いだり、
気前よくポンポン金を投げ出すように寄付している
小林さんしかみていなかった私は、
ここで大いに考えさせられた。
一業を成す人は、必ずかくれた努力の半面があるということ――。

 晩年の彼は、九州各地に赤字覚悟の干拓事業を引き受けたり、
育英会の設置に私財を投じるなどして
昭和三十一年一月三日、八十九歳で大往生を遂げた。

 死ぬ三年前、小倉市長とともに上京したのが、私
大野伴睦回想録p138-139
〔画像〕大野伴睦回想録p138-139

が会った最後だった。
このときは、ほかならぬ小林さんの頼みごとというので、
私たち同志が党に働きかけ、
十三億円の予算がたちまちのうちに計上された。
小林さんの人徳のたまものといえよう。
地元の小倉市では、林市長らが中心となって小倉郷土会の手で、
銅像と伝記編纂の計画が立てられ、
今年四月には銅像が完成して、
私もその除幕式に招かれた。

九州の重要産業の工事は、
八幡製鉄をはじめ大半が小林組の手で完成されており、
九州発展にも一役買っているわけで、
郷土の人たちが伝記を編纂したい気持も、ここにあるのだろう。
死んでから、めぼしい財産は見当らなかったほど、
世のために「寄付」してきた人だった。
いまどき、ちょっと存在しないスケールの人物であった。
こういう人こそ、快男児の名に値いするといってよかろう。
大野伴睦回想録p140-141
〔画像〕大野伴睦回想録p140-141

昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

快男児・小林徳一郎1/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

快男児・小林徳一郎1/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々
   1 快男児・小林徳一郎  p133-140
 私の交遊録には、風変りな人物が多い。
小林徳一郎親分もその一人である。
彼は世にいう快男児で、北九州一帯の大親分だった。
気ッぷのいいことは天下無類、
大いに稼いでは、意気に感じると、大いに散じた男で、
いまのセチがらい世の中では、
見当たらないスケールの大きな愉快な男であった。

 私と彼との出会いは、昭和二年の田中内閣のころ、
書記官長だった鳩山先生からある朝、電話がかかった。
「今日、君に九州の小林徳一郎という快男子を紹介する。
 赤坂の宇佐美という料理屋で小林と昼食をとるから、
 君もぜひ来給え」
 指定の料亭に出かけると、
鳩山先生と小林さんはすでに雑談していた。
先生に型どおりの紹介をうけ、三人で昼食をとった。
食事のあい間、小林さんは私に
「先生、わたしは金があると東京へ散じにくるのです。
 東京は金を使うところで、稼ぐところとは思っておりません。
 今後とも、上京の折はぜひお近づきをお願い申し上げます」

 この日はそのまま別れたが、一ヵ月もすると、また上京してきた。
初対面のあいさつ通にさっそく、私のところへ電話をかけてきた。
「一ぱい飲むから、お付き合い願いたい」
こんな調子で、上京のたびに毎晩のように
赤坂、新橋の花柳界を飲み歩く。
すべて小林さんのごちそうだ。
最初のうちは、
大野伴睦回想録p132-133
〔画像〕大野伴睦回想録p132-133

えらく飲みっぷりのいい男だな、くらいの付き合いだったが、
次第に気が合って何時の間にか肝胆相照らす仲になった。

 昭和四年七月、田中内閣は議会を解散、
衆議院の総選挙が行われることになった。
小林さんは議会解散の報ですぐさま上京、
私に電話をかけてきた。
「立候補の門出を祝って赤坂で飲みましょう」
 その晩、二人は赤坂の「永楽」で派手に飲んだ。
宴会の最中に
「先生、選挙費用の一部に使って下さい」と、小切手をくれた。
酔眼朦朧としていたので
「ありがとう」と受け取って、ポケットにねじ込んだ。
このとき、ちらりと額面をみると、
数字の頭文字は「壱」となっている。
「ははァ、一千円もくれたな」ぐらいで、
確かめもせず杯に酒をついでもらった。

 翌朝、目が覚めると前夜もらった小切手を思い出した。
上着のポケットに手を入れると、なるほど紙片が入っている。
手にしてみて驚いた。
額面は壱千円に非ず、壱万円とある。
五円札一枚でゆっくり遊べた時代の一万円だ。
「これは見違えたかな」
宿酔いの目をこすって、もう一度ながめたがやはり
「壱万円也」である。
「なんと気前のいい男だろう」
私もいささかびっくりさせられた。

 この小林さん、自ら語る生い立ちは島根県邑智郡の出身で、
小学校もロクにでていない。
十三歳のとき、はやくも流浪の旅にでて、
流れ流れて北九州の炭鉱、田川市にたどりつき坑夫となった。

 そのせいか、彼は酔うと必ずこんな歌をうたいだす。
  七つか八つからカンテラ下げて
   坑内下りのサノ親のバチ
 二十歳のとき、小林組という請負業をはじめ、
持前の気ッぷのよさと度胸で、
たちまちのうちに押しも押されぬ親分になってしまった。

 その後、浅野セメントの工場建設を請負って、
これが当り五百万円ほどもうけた。
いまから四十年前の五百万円である。
これだけの金があれば一生遊んで暮らせる財産だが、
彼の旺盛な事業欲はこれに満足しないで、
次々と仕事をおこしていった。

 いわば、無学無産の身で一代にして財をなした立志伝中の男だが、
成金にありがちな思い上がったところもなく、
信仰心の厚い謙虚な人物であった。

 現在、熊本市花園町の本妙寺にコンクリート造りの仁王門が建っている。
この仁王門は小林さんの寄進だ。
そのいきさつは、明治二十八年六月二十三日、
小林さんは広島の親分・肥田利助氏と、
この本妙寺の門前で決闘をすることになった。
ことのおこりは前年、肥田氏の身内から彼が侮辱されて
肥田親分に談じ込んだが
「若僧のくせに」と相手にされなかった事件にある。

 この肥田親分は熱心な日蓮信者で、
毎年熊本市の本妙寺に参詣していた。
これを聞いた小林さんはドスを懐にして、乗り込んだのである。
境内に肥田親分を待ちうけ名乗りを上げて対決を迫ると肥田親分は、
お百度を踏むからそれが終るまで待てといったそうだ。
深夜に「南無妙法蓮華経」の声を張りあげ、
熱心にお参りしている親分の姿をみているうちに
小林さんはすっかり感激し、ケンカをする気がなくなった。
人を仲にたて手打ちをしたのだが、
このとき、日蓮信者になることを心に期した。

 聖域を血でけがさずにすんだのは、
ひとえに清正公の遺徳と、後年この仁王門を建てたわけだ。

 あるとき、二人で成田山にお参りした。
帰りに佐倉宗五郎を祭った宗吾堂にいくと、
小林さんは
「佐倉義民伝を読んだことがあるが、彼くらい偉い奴はいない」
といいながら、熱心におがんでいる。
そこには、宗吾堂の屋根修理のため、
瓦一枚二十銭で売っており、寄進を乞う立て札があった。
大野伴睦回想録p134-135
〔画像〕大野伴睦回想録p134-135

 この立て札の前にきた彼は、私をふりかえり
「二千枚も寄進しましょうか」
ポンと二千枚分の金を支払ってスタスタ歩いていく。
普通は参詣人が一枚、二枚と寄進しているのに、
二千枚という大量の寄進に坊さんはびっくり。
帰りがけた私たち一行に追いすがって
「どちら様ですか。全くご奇特なお方、どうぞお名前を教えて下さい」
「いやァ、あたしゃァ名無しの権兵衛ですよ。
 生まれたときは親はおらず、名前もつけてもらえなかったので――」

 大正の初めごろ、
島根県の名門、出雲大社の宮司千家氏が破産寸前になったことがある。
当時、男爵の千家尊福氏は東京府知事や司法大臣まで勤めた人だが、
名家の育ちで人柄がよく、
他人の手形のウラ判を引き受けて大損害を受け、家は没落してしまった。
そのおりの破産整理をやったのが、
原敬内閣で司法大臣を勤めた大木遠吉伯だった。

 このことを新聞で知った彼は、
手元にあった現金二十万円をカバンに詰め込み、車中の人となった。
小林さんは千家氏となんの関係もないのだが、
自分の故郷の名望家が金銭上のことで没落するのを、
持前の義侠心で黙っていられなかったのだろう。
東京駅からタクシーを拾い、芝の葺手町の大木邸にのりつけた。

 もちろん、大木伯とは一面識すらない。
玄関口で御前様に会いたいという風変りな男に、
執事は迷惑顔で追い帰そうとする。

「一体、御前様への用件とはどういうことですか」
「あたしァ名前を名乗るほどの男じゃァないが、
 九州の小林徳一郎というケチな野郎です。
 どうしても伯爵にお目にかかりたい。
 用件はお会いしなければ、申し上げられない。
 とにかく、とりついで欲しい」

 テコでも動かぬ様子に、執事もたじたじとなり、
大木伯にとりついだ。

「何の用件か知らないが、面白い男だ。
 ここへ通しなさい」

 大木伯の前に案内された小林さんは
「伯爵、千家さんには会ったこともなければ、見たこともないが、
 ただ縁あって出雲に生まれ、
 いま日本一の名門千家氏が没落されると聞いている。
 同郷の一人として黙っているわけにいかない。
 ここに二十万円の金があります。
 どうぞ負債整理の一部にお加え下さい」

 出雲出身というだけで、ポンと大金を投げ出したのだ。
さすがに豪胆な大木伯も驚き、かつ感激してしまった。
「小林君。お志し有難う」
手をとらんばかりに喜び、その場で大木伯は無名の土建屋と、
兄弟分の酒杯をかわしたのだった。

 以来、晩年まで両氏は非常に親しく交遊し、
大木伯の死ぬまで小林さんは上京のつど、
芝の屋敷を必ず訪ねていた。

 彼はさらに出雲大社に大鳥居を寄進している。
あるとき、二人で出雲に旅行したが、
出雲大社の彼に対する礼は最高で、
天皇陛下がいかれる一歩手前まで社殿参捧を許されるほどだった。

 千家氏を破産から救った彼は、さらに郷土の埋れた祠を、
いちはやく県社にもり上げてしまった。
八岐大蛇を退治した素戔嗚尊の妃になった稲田姫をまつった祠が、
仁多郡横田村というところにあった。

 村社にもなっていない無格社だったが、
一寄進で、おやしろを造り、神様の生活が困らぬように
山林や田畑までつけ、県社にしてしまった。
このときの費用も数十万円を下らない。
落成式に私も招かれたが、花火を打ち上げ、
近郷在所からの人出で、大変なお祭りだった。
大野伴睦回想録p136-137
〔画像〕大野伴睦回想録p136-137


昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

小林德一郎:小林組倉庫社長【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

小林德一郎:小林組倉庫社長【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

【人材・島根:県人名鑑】
小林德一郎 邑智 高原 p120/263
 小林組倉庫社長
 國德金山鑛業取締役
 小倉市室町一五
明治三年十一月
小林淸四郎の長男に生れ
大正十一年家督を嗣ぐ。
幼時より才智秀れ
豪毅なる性格にして、
長ずるや早くも鑛業界に入り、
その非凡なる技能と豪膽なる掛引を以つて、
小林組を創設し、
同倉庫の社長
國德金山の取締役として
今日の成功を築く。
けだし、
縣出身の鑛業家として代表的な人なり。
性豪毅にして而かも細密、
溫情又溢るゝもの在り。
神佛を信仰する事厚く、
神社佛閣に寄付するところ亦少なからず。
出雲大社の大鳥居はその一つの現れたり。
(家庭)
妻   ミチ    明治 九年 山口縣 木村孫介 妹
男   彦一郎 大正一五年
養子  寛藏  明治二九年 安部三郎 二男
同妻  ミサヲ   明治三六年 福岡縣 木村幸次郎 姉
同長男 德幸  大正一四年
同長女 高子  大正一一年
同二女 壽美子 昭和 四年
同二男 寛治  昭和 六年
同三女 英美  昭和 九年
昭和十三年四月 五日印刷
昭和十三年四月十五日發行
人材・島根 定價 金 五圓也
編 者 島洋之助
發行者 永富彪夫
    東京市豐島區西巣鴨四ノ二九八
印刷者 山縣精一
    東京市神田區神保町三ノ二九
印刷所 山縣製本印刷株式會社
    東京市神田區神保町三ノ二九
發行所 島根文化社
    東京市神田區淡路町二ノ七
    電話 神田(25)二〇一〇 二〇一一番
    振替 東京七七二三〇番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《小林德一郎》法政大學 大正10年卒 推薦【法政大学校友名鑑】昭和16年

《小林德一郎》法政大學 大正10年卒 推薦【法政大学校友名鑑】昭和16年

 

【現代紳士録:出身学校別】大正15年12月25日発行

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020298/440

《小林德一郎》 p337/446

法政大學 大正一〇年卒

株式會社小林組 頭取

小倉市參事會員

(原)島根縣

(現)小倉市室町

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020298/337

 

【法政大学校友名鑑】昭和16年5月25日発行

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461443/424

《小林德一郎》 p302/427

法政大學 大正一〇年 推

島根

小林組 頭取

小倉市參事會員

小倉市室町

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461443/302

 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

《小林德一郎》[日本産寶金山株式會社]【銀行会社要録】昭和14年

《小林德一郎》
[日本産寶金山株式會社]
【銀行会社要録:附・役員録. 43版】昭和14年

【銀行会社要録:附・役員録. 43版】
 昭和14年7月28日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072864/1463
[日本産寶金山株式會社] p896/1469
京城府漢江通三
設立  昭和十年三月
株數  150,000
資本金(拂込濟) 3,000,000
代表取締役    小林德一郎
取締役      小林寛藏
         兒玉勳夫
         安部豐藏
         梅都 勉
         藤本 一
         大野大輔
監査役      井上卓一
         矢崎 曠
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072864/896

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[Wikipedia]
[京畿道 (日本統治時代)]
鉱業
日本産宝金山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%95%BF%E9%81%93_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%29#.E9.89.B1.E6.A5.AD
記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ