小倉鉄道と小林組(小林德一郎)の勃興
【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年
【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年
【日本鉄道請負業史 明治篇 下】昭和19年(1944)
第一二八 小倉鉄道と小林組の勃興 p305-306/327
初め資本金百五十萬円の金邊鉄道株式会社なるもの設立され、
男爵小沢武雄専務となり山田寅吉を聘して技師長となし、
明治三十年二月 福岡縣小倉市付近の足立村高浜より
呼野、香春を経て下山田に至る約二十七哩の免許状を受け、
三十年六月起工式を挙げ
先づ金辺峠隧道開鑿より着手したが
其後経済界変動のため会社は非常の苦境に陥り
遂に工事を中止するに至った。
然るに三十六年、岩田作兵衛
資本金百五十萬円の小倉鉄道を発起し金辺鉄道を買収、
明治四十五年五月金辺峠隧道工事に再着手し
次で全線工事を開始した。
請負者は不明であるが、
その一部の工事は左記の小林組の施工である。
大正四年四月、東小倉より上添田に至る二十四哩余を開通した。
小倉の小林組小林德一郎は出雲の人にして
初め門司に於て微々
たる土木請負業を営みつゝあったがこの線路建設に際し、
小倉海岸の埋立工事を請負い一擧にして巨利を占め
爾來同組は順風に帆を揚げたるが如く
幸運に恵まれ忽ちにして大を爲すに至った。
門司停車場の鉄骨プラット・フォーム、
九州本線遠賀川の複線工事等
何れも仝組の施工である。
組主小林德一郎は五尺足らずの小男なれど
精悍敏捷にして又
弁口に長し、
曾て軍人と衝突し、
軍人怒って剣に手をかけたを見るや、
小林は例の快辯を揮って、
「軍人の帶剣は國賊外敵を斃すために、
陛下より許されしもの、
それを以て吾々良民を斬らば、
これ聖旨に背くの甚しきもの、
斬れるものなら斬って見よ」とて
忽ち衣類を脱し素裸となり
「さァ斬れ」と
据り込みしたため相手の軍人も仕末に窮したと云う。
小林德一郎は一面に於て非常な敬神家にて
出雲の大社に大鳥居を奉納し
宮司千家のためには有数の後援者となり、
また熊本の清正公祠にも、
某宮家御揮毫の額を奉納し、
御揮毫の御礼に数万金を値ひする
素晴しき緋縅の鎧一鏆を献上した。
宮家も其志を深く嘉され
大花瓶をお下げになったと云うことである。
後年門司小倉附近に廣大なる地所を購入したが、
東京製鋼所が工場敷地として
小倉海岸の埋立を行はんとするに及び
小林は自己所有地所の大部分を無償にて会社へ提供し、
その代償として会社の埋立工事を引受けたと云う。
この製鋼所は後ち浅野製鋼所の買収する所となった。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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島根県邑智郡出身
小学校もろくにでず
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20歳で小林組(請負業)で親分
その後浅野セメントの工場建設で500万ほど儲ける
[虚言癖のあるオタクの友人]
2014年2月19日水曜日
『鳩山一郎と小林徳一郎(大野伴睦回想録)』
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