小野雄二・コメント

小野京園(小野美鈴)毎日女流書展(第48回)佳作賞:毎日新聞社 令和六年七月十三日

  賞 状
近代詩文書部
 小野京園
あなたの作品は第四十八回
毎日女流書展において審査の結果
成績優秀を認められましたので
ここに佳作賞を贈り
その栄誉をたたえます
 令和六年七月十三日
   毎日新聞社
 小野京園-1
〔画像〕小野京園-1

  寒さにふるえた者ほど
  太陽を暖かく感じる
ウォルト・ホイットマンの言葉
     京園
小野京園-2
〔画像〕小野京園-2

◇近代詩文書=小野京園(京都市右京区)
 小野京園-3
〔画像〕小野京園-3
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年09月17日14:18
小野京園(小野美鈴)第57回創玄展 詩文書部 二科賞
[公益社団法人 創玄書道会]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《小野雄二》コメント「高校籠球ふるさと記(京都府編)」2022年12月01日

《小野雄二》コメント「高校籠球ふるさと記(京都府編)」2022年12月01日

blog[小野一雄のルーツ]バスケットボール編
「高校籠球ふるさと記(京都府編)」
バスケットボールプラザ・No84 (2019年11月)
2022年12月1日

コメント
1. 小野雄二2022年12月01日 18:56
長崎インターハイがでてきたので、もしかしたらと期待していました。
山城の森さんは、国体京都予選決勝の時の監督でした。
※準決勝で東山を破ってくれました。
東山とやっていたら、負けたでしょうね。
山城は相性が良かったので。
20点差の敗戦でがっくりだったと思います。
決勝戦後、南波さんにかけられた一言はよく覚えています。
南波道雄先生(洛南高校顧問)
私の方にやってきて、
「うまくやれば近畿で勝てるよ、滝川工業だけど」。
南波先生が監督だったら、近畿で勝って国体に出場したかも。
結果は一回戦負け(膳所高)。
東山の石川さん(当時産大?)、試合を見に来ていました。

山城の吉川さんは試合したことがあります。
オリンピック選手です。
双ヶ丘だと思います。
インターハイ京都予選の決勝リーグと国体予選です。
日吉ヶ丘が東山に敗けたので、ややこしいことに。
勝っていたら、
山城(2勝)と日吉ヶ丘(1勝1敗)の決勝戦
(勝っても負けてインターハイ出場)
7点差で勝てば、インターハイへ、こんな条件での試合。
※隣のコートで東山(1勝1敗)と平安(2敗)。
※平安のコーチは、東山の大石さんの兄
最後5分だけ、私が出場、7得点を。
山城は結果3位、ガードの何て名前だったかな、彼は泣いていました。

東山の清水も懐かしいですね。
よく練習していたようです。(チャーボー情報)※柴田和志

京都市右京区嵯峨野秋街道町25-2-403
小野雄二
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小野京園(小野美鈴)第57回創玄展 詩文書部 二科賞[公益社団法人 創玄書道会]

小野京園(小野美鈴)第57回創玄展 詩文書部 二科賞
[公益社団法人 創玄書道会]

   二科入賞者名簿
     詩文書部  p2/14
二科賞 
小野 京園(京都)B
B⇒東京都美術館に陳列されていました。
 第57回創玄展 二科賞 小野京園
〔画像〕第57回創玄展 二科賞 小野京園
 美術写真 高林写真研究所
〔画像〕美術写真 高林写真研究所

 詩文書部 二科賞
〔画像〕詩文書部 二科賞

【創玄】公益社団法人 創玄書道会
 創始者 金子鷗亭
☆結果速報☆
 『第57回創玄展 会員・一科・二科(篆刻・刻字部含む)』
会員・一科・二科(篆刻・刻字部含む)の成績が決定いたしました
二科審査
(2021)1月22・23日、国立新美術館において鑑別・審査、
第57回 創玄展
終了いたしました
東京都美術館
令和3年3月9日(火)〜3月14日(日)
9:30〜17:30 (展示室への入場は17:00まで)
※最終日は14:30閉室
主催 公益社団法人 創玄書道会
後援 文化庁・東京都・毎日新聞社
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LIXIL、深まる混迷 株主支持巡り攻防 [日本経済新聞]2019年3月21日(木)

LIXIL、深まる混迷 株主支持巡り攻防 [日本経済新聞]2019年3月21日(木)

[日本経済新聞]2019年3月21日(木)
LIXIL、深まる混迷 株主支持巡り攻防 
住建・不動産
2019/3/20 16:22 (2019/3/21 0:24更新)
 ―略―
今回、この連合に、
LIXILグループの旧INAX創業家の伊奈啓一郎取締役も加わった。
伊奈氏は「会社のガバナンスをより正しい方向に向かわせたいとの
機関投資家の考えを伺い、賛同することにした」と声明を出した。
伊奈氏は昨年10月の取締役会で
瀬戸社長がCEOを退任する人事案などに反対していた。
 ―略―
潮田氏が次に経営を委ねる人材として目をつけたのが瀬戸氏だった。

16年に社長に就いた瀬戸氏は海外での拡大路線の修正にかじを切り、
後手に回っていた国内事業の立て直しなどを優先。
次第に潮田氏との路線の違いが鮮明になっていった。
潮田氏による本社のシンガポール移転案も浮上し、
両者の対立は決定的になったとみられる。

18年10月31日開催の取締役会で瀬戸氏退任に反対したのは
当事者の瀬戸氏のほか、
伊奈氏と同様にINAX出身の川本隆一取締役の計3人。
この時、社外取締役2人が採決に参加しなかったが、
潮田氏を含む7人が賛成し承認された。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔小野一雄:小野雄二〕『小野又一中尉:陸軍技術将校』コメントより

〔小野一雄:小野雄二〕
『小野又一中尉:陸軍技術将校』コメントより

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月27日(金)
『小野又一中尉:陸軍技術将校』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2239336.html

2014年06月24日(火) 19:25 by 小野雄二
親父から聞いた軍隊時代のこと。
殴られたのは一回だけだとか。
殴られる前に上官からこう言われたそうです。
「明日から、殴られることはないだろう。
 だから今日お前を殴る・・・」。
それから、親父はこんなことも言っていました。
「大きな声では言えないが、軍隊は楽しかった」と。
飛行機のエンジニアとして、
好きな仕事ができたからだと思います。

2014年06月24日(火) 19:30 by 小野雄二
母から聞いた中国での話。
四平に住んでいる頃のことだと思います。
いろいろあって里帰りしたそうです。
大連までは遠かったと・・。
汽車に乗って、
地平線の見える大地を、一昼夜以上かな?
とにかく遠かったと言っていました。

2014年06月25日(水) 07:04 by 小野一雄
母(小野文子)の話は、始めて知りました。
四平駅~大連駅 585.9km
特急「あじあ」 7.1時間
急行「はと」  8.5時間

特急「あじあ」 (1934年 - 1943年)
表定速度 82.5km/h
急行「はと」  (1932年 - 1945年)
表定速度 68.4km/h

2014年07月09日(水) 12:03 by 小野雄二
終戦時は、退役していたと聞いています。
満飛に戻っているんでしょうね。
そのへんの経緯を教えてください。
終戦時、退役していなかったら、
シベリアだったと親父は言っていました。
満飛ではなく、満鉄だったら、
当分帰国できなかったのでしょう。
飛行機技術は、
当時の中国では
まだ必要とされていなかったのでしょうね。

2014年07月09日(水) 13:12 by 小野一雄
陸軍技術将校として、
昭和16年~19年の間、
二年間、過ごしたと思います。
それ以外の事は全く分かりません。

2014年07月09日(水) 13:31 by 小野一雄
稲荷小学校5-6年生(昭和32-33年頃)
正月2乃至3日、新年の挨拶に、
辻本繁孝様(准尉)、
山川様(当番兵・一乃至二等兵)、
二名の方が、来られていました。
家で飲んで、軍隊時代の話を、
楽しそうに話しておられました。
特に、山川様は、シベリアに抑留されていて、
物凄く、苦しい生活をされたのに、
話は、本当に面白かったです。
それから、親父の行きつけの、
祇園のお茶屋に行き、
その日は帰って来なかったと思います。

山川様は、デザイナーとして成功されて、
大阪心斎橋に事務所がありました。

2014年07月09日(水) 16:47 by 小野雄二
ハルピンには、満飛の工場はあったのですか?
終戦時は、ハルピンだったと思いますので、
軍隊であれば、即シベリアだったと。
ハルピンの話では、
白系ロシア人の美女が川で水浴しているという噂を聞き、
見に行ってみたら、そんなことはなかったと・・。

敗戦後、品のないロシア兵
(両腕には、腕時計がいくつも留めていた)が
家に入ってきたときの話、
隠し持っていたピストルを見つけられたら
殺されていたかも・・、
その時、ロシアの将校が入ってきて、
引き上げるように命令し、命拾いをしたとか・・。

2014年07月09日(水) 16:57 by 小野雄二
山川さんの話。

シベリア編:
トイレに行ったら、凍り付いていたので、
ハンマーで叩いたら、
その飛沫が顔にかかってしまったとか・・・。

日本の料亭編:
外人を連れて料亭に行き、
その外人がトイレに行って出てきた時、
仲居さんが、水を入れた杓子を差し出した。
背の高い外人にとって、
杓子の位置は、彼のその位置だったらしい。
その外人は、
「日本人は、清潔好きなんだ」と思い、
ズボンからあれを出したと、
仲居さんもびっくりした素振りも見せず。
何気なく、水をかけたとか。
山川さん曰く
「外人も立派だけど、
 何気なくそうした仲居さんもすごい。
 外人の面子もつぶれず、
 笑い話になったとか・・。」

2014年07月10日(木) 09:23 by 小野一雄
トイレ:穴を掘って、板を渡しただけのトイレ。

2014年07月10日(木) 09:28 by 小野一雄
[Wikipedia]
満州飛行機製造は1938年後期に日本政府の監督の下[1]、
満州重工業と中島飛行機の支部として設立された[要出典]。
主力工場はハルビンに所在した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E8%A3%BD%E9%80%A0

2014年07月10日(木) 09:56 by 小野一雄
大阪の花柳界の女性であった
女子挺身隊と中学校(…)
女学校(…)の動員生徒で運営されていた。
中学生は破砕、溶融、切断の各工場に配属され、
女子挺身隊は切断、包装両工場、
女学生は包装工場に配属されていた。 p131

動員延期組は、
当時哈爾濱に新設された ※昭和20年(1945)年初
満州飛行機の北機械製作所へ勤務するよう指示された。 p132

工場に隣接する飛行場には
特攻隊員が待機していて、
戦闘機の出来上がるのを待っていた。
私も一度、
できたばかりの九七戦に乗って飛び立つ
鉢巻姿の特攻隊員を、
遥かに見送ったことがある。  p133
『満州で生まれ育った私』
 神奈川県 谷澤 淳
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12hikiage/H_12_129_1.pdf
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔小野一雄:小野雄二〕[満洲飛行機製造株式会社の思い出]コメントより

〔小野一雄:小野雄二〕
[満洲飛行機製造株式会社の思い出]コメントより

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月15日(木)
[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176728.html

2014年06月25日(水) 09:36 by 小野雄二
満州飛行機には、
優秀なエンジニアが国策で集められたようです。
親父から聞いた話ですが、
その中でもとびっきり優秀な人がいたそうです。
確か東大航空卒だと思います。
瀬戸内海の島の出身の秀才で
島を出るとき島民が見送ったという話があったそうです。
満州飛行機に入社してもその能力を発揮し、
すごかったそうです。
ところが、敗戦を迎え、会社がなくなることを知り、
目的を失ったのか、
別人のようになってしまったと言っていました。

2014年06月25日(水) 09:44 by 小野雄二
親父から聞いた満州飛行機でのこと。
20代で工場長になったそうです。
部下は当然年長者の人が大半、
職人気質の人も多く、
「この若造が・・・」って感じだと思います。
親父が認められたのは地位ではなく、
「酒」だったそうです。
「酒が飲めてよかった」と言っていました。
職人達に酒で認められたのか、
仕事もうまくいったとか・・・。

2014年06月25日(水) 13:51 by 小野一雄
《中島 穆》
満洲飛行機製造株式会社
南機械製作処
製作部 第一工場
東京帝国大学 工学部 航空学科
昭和14年3月卒業
恐らく、この方だと思います。
詳細は、別稿に記載します。
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1917/

2014年06月25日(水) 14:09 by 小野雄二
親父からの話。
満州飛行機に就職した理由ですが、
確か富士製鉄だと思いますが、
そこに就職が決まっていた。
ところが、急遽、
満州飛行機に変更になったと言っていました。
おそらく、当時の国策で、
飛行機会社に人材を優先的に
投入したのではないかと思います。

2014年06月25日(水) 14:15 by 小野一雄
《小野又一》
満洲飛行機製造株式会社
北機械製作処
第二製作部 江沼孝太郎
 第一工場 小野又一
※確認は出来ません。

「日本ミネチュアベアリング株式会社」
当時 副社長 『江沼孝太郎』

「東洋ミネチュアベアリング株式会社」
社長 『小野又一』
社員 3~5名
大阪市北区老松町
昭和30年(1955) 頃 創立
昭和39年(1964) 頃 倒産

※江沼孝太郎様
 京都市東山区清水五丁目の家に、
 泊りに来ておられました。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176729.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔小野一雄:小野雄二〕≪氷の上ヲ走?ホヲカケタ アイスボート≫コメントより

〔小野一雄:小野雄二〕
≪氷の上ヲ走?ホヲカケタ アイスボート≫コメントより

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月09日(金)
≪氷の上ヲ走? ホヲカケタ アイスボート≫
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2224074.html

2014年07月07日(月) 09:40 by 小野雄二
中国税関の待遇はよかったのでしょうね。
こんな話を聞きました。
(おじいさんのこと)
今でいうリフレッシュ休暇ですが、
期間について、2つの選択があったそうです。
半年か一年と聞きました。
世界一周旅行できるのではと、
またその費用を賄えるだけの収入があったのでしょう。

2014年07月07日(月) 09:54 by 小野一雄
[小川清久(叔父)から小野一雄への手紙:
 平成4年(1992)6月5日]
この家は満鉄本社の設計課長の設計になり、
昭和9年に父が建てたものです。
 家の裏門と勝手口は煉瓦で
 ふさがれてしまってました。
 裏に続いて建てられていた貸家14軒
 (当時、満鉄や三井物産等の課長クラスが入っていましたが)
 はそのまま健在でしたが、
 いずれも一戸に二所帯が住んでいるようでした。
1915年(大正4年)中国税関に入り、
上海・営口・青島・海南島で勤務し、
昭和5年(1930年)大連税関に転勤、
翌年(昭和6年)が満州事変、
昭和7年に満州国が成立して、
大連税関が満州国に接収された時に、
退職した時の退職金等で建てた家と貸家だったのでした。
鎭魂!
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350941.html

2014年07月07日(月) 13:17 by 小野雄二
2007年、念願の大連へ行きました。
見かけは無愛想なタクシーの運転手でしたが、
住所を手がかりに、民主街の家を見つけてくれました。
インターフォーンもなかったので、
大声で住人に呼びかけてくれ、
やっと思いで、家に入ることができました。
叔父が訪れたときは、幼稚園だったそうですが、
その時は普通の住居として使っているようでした。
玄関にはビール瓶が・・・。
家の近くまで開発の手が伸びていました。
今は、どうなっているのでしょうか?
帰国後、大連から来た人に家の場所/写真を見せたら、
3000萬人民元位はするかな?
って言っていました。

2014年07月07日(月) 14:14 by 小野一雄
3,000萬人民元
3,000萬 × 16円 =48,000万円
平成26年(2014)7月7日 14時08分現在
中国元  1.
日本円 16.455488

2014年07月08日(火) 11:09 by 小野雄二
人民元レート、今、16円になっているのですね。
こんな人民元高では、中国も輸出が大変。
これでは、中国経済も大変。

2014年07月08日(火) 13:23 by 小野一雄
平成26年(2014)7月8日 13:21
1人民元 =
16.4131365 円
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%83%20%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔小野一雄:小野雄二〕[母方の曽祖父:イギリス人]コメントより

〔小野一雄:小野雄二〕
[母方の曽祖父:イギリス人]コメントより

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月03日(木)
母方の曽祖父:イギリス人[ジョージ・ノット?]―01
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240144.html

2014年06月28日(土) 10:04 by 小野雄二
小さな頃、母方の曽祖父のことは知りませんでした。
祖父の写真は見たとき、
「何だか外人みたい」という感想でした。
高校生位の時?
母が曽祖父の写真を見せてくれ、
イギリス人だったことを教えてくれました。
やっと祖父が外人みたいだった理由が判明しました。
戦時中は、イギリス人の血を引いていたので、
肩身の狭い思いをしたこともあるそうです。
でも、満州にいたので、まだましだったかも?
内地(日本)だったらどうだったでしょうか?

2014年06月28日(土) 10:46 by 小野一雄
《祖父の写真》
《小川清秀 大連税関監視官 大連市光風台五三》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182947.html

2014年06月28日(土) 11:47 by 小野一雄
安井病院(京都民医連第二中央病院)に、
末期の乳癌で入院中の母(小野文子)を見舞いに、
昭和50年頃、
福岡から、祖父(小川清秀)の妹(溝口サン)さんが、
来られた時に、私も、始めて曽祖父の事を知りました。

安井病院の副院長が、足立道五郎先生で、
父(小野又一)と、神戸一中、第三高等学校、京都大学と同級。
安井病院に、昭和47年8月~昭和51年5月の間、
母は入退院、手術も多数回、
足立先生、諸先生、看護婦の皆様に、
お世話になりました。
父も、昭和47年1月8日、
ノートルダム女学院の新年会が行われた、
体育館の和室で、くも膜下出血で倒れ、
亡くなる、1月31日迄、安井病院に入院、
お世話になりました。
足立道五郎先生:平成23年(2011)10月歿》

2014年06月28日(土) 14:33 by 小野雄二
足立先生には、私の結婚式の主賓挨拶をお願いしました。
家内は当時堀川病院に勤務しており、
主賓は近藤先生という医師でした。
私の主賓が安井病院長の足立先生とは知らずに
出席された近藤先生は、
当日そのことを知りびっくりされたそうです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔小野一雄:小野雄二〕[小野梓先生七十年記念祭 演劇]コメントより

〔小野一雄:小野雄二〕
[小野梓先生七十年記念祭 演劇]コメントより

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月07日(月)
[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
《小野梓》野澤英一 作
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240149.html

2014年07月05日(土) 10:57 by 小野雄二
金子堅太郎が訪れた。
 金子は伊藤博文の内意をうけて
 小野に駐米特命全權公使の依頼に來たのである。」
この件は、梓の健康の理由で頓挫したのでしょうか?

2014年07月05日(土) 12:58 by 小野一雄
小野梓大隈重信から、引き離す為です。

小野梓「留客斎日記」
[伊藤博文滞欧憲法調査の考察]瀧井一博 著
明治14年の政変によって大隈重信とともに
前年の10月政府を追われていた小野梓が、
この日伊藤と同じ船で渡航する友人の見送りのために
その場に居合わせていたのである。
後述するが小野と伊藤の渡欧の間には少なからぬ因縁があった。
その小野の姿を認めたとき,
伊藤の胸中には何が去来したであろうか。
小野は日記でただ次のように記すのみである。p41

「此日伊藤参議卜船上ニテ会フ。
 参議慇懃礼ヲ為シ,握手シテ別レヲ告グ。
 余未ダ其故ヲ解スル能ハズ〔原文漢文〕12)。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267451.html

2014年07月05日(土) 13:02 by 小野一雄
駐米特命全權公使は、名誉職で、
仕事はありません。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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