大連常盤小学校

《山領須磨子》大連常盤小學校を卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山領須磨子》大連常盤小學校を卒業
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山領須磨子》        p392/506
 奉天平安通二〇
明治三十七年五月、
原一雄氏の四女として
佐賀縣小城郡小城町に生る、
九歳の時兩親に伴はれて滿洲に渡り
大連常盤小學校を卒業し
次で大連市立神明高等女學校に學び、
同校を卒業し、
二十一歳にして山領俊次氏に嫁ぐ、
夫君は東京日本齒科醫學校を卒業し、
奉天醫大病院に六ケ年勤務後、
現住地に開業す、
日尚ほ淺きに拘らず信望厚し、
夫人は柔和溫良の氣質にて年齒未だ若きも、
萬事に理解あり
看護婦の監督等も行届き信賴さる、
目下里方の兩親は内地に歸へりしも、
更らに内地に對し思慕の情を起こさず、
全くの滿洲つ子たるの觀あり、
夫君との間に未だ一子なし、
琴、生花に趣味を有す、
夫君の父君 山領東一氏は内科小兒科醫、
令兄 山領貞二氏は目下滿鐵に勤務中なり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[大連懐かしの歌]大連市歌・大連行進曲・大連引揚げの歌:秦 源治(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)

[大連懐かしの歌]大連市歌・大連行進曲・大連引揚げの歌:
 秦 源治(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一橋大学機関リポジトリ
一橋大学の研究・教育活動の成果
(学術雑誌論文・研究報告書・博士論文・紀要・会議資料・
 教材・図書など)を公開しています。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
   [大連懐かしの歌]
     秦 源治
(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)

大連市歌  p2/8
  作詞 高野運太郎
  作曲 石塚 寛
一、世界の平和護(まも)りつゝ 
  尊(たふと)き歴史こゝにあり
  こゝ大連は満蒙の
  さきがけの地よ譽(ほまれ)なれ 
  我等は市民
  限りなき 幸(さち)をいのらん大大連の
二、東亞にほこる大埠頭
  欧亞を結ぶ大鐵路
  日に日に集(つど)ふ文明の 姿は
  こゝに驗(しるし)あり
  我等は市民手をとりて
  ともに擧(こぞ)らんその道々に
三、櫻(さくら)は咲きて潔(いさぎ)よく
  蘭花(らんか)はかをりとことはに
  かゞやく盟(ちかひ)共榮の
  はえある先驅(せんく)に起(た)つ我等
  晴れたり空はおほらかに
  大大連は力あふれて

新民謡 大連行進曲  p4-6/8
  作詞・作曲者ともに不明 ※下記
  作詞 秋山敏夫
  作曲 古関裕而
一、烟(けむ)る陸橋(りくきょう)
  あの日本橋
  新京通(かよ)ひの
  鐘が鳴る
  狭霧(さぎり)降るのか
  瞳(ひとみ)の中に
  今日も日暮れて
  灯(ひ)が揺れる
二、昔露西亜(ロシア)の
  あの夢の跡
  今じゃ戒克(ジャンク)の
  影寂し
  赤い小旗に
  夕陽が映えて
  風も涼しく
  黄昏(たそが)れる
三、大連富士の
  あの裾麗(すそふもと)
  春は現(うつつ)の
  星ヶ浦
  櫻求めて
  ドライヴすれば
  自動車(くるま)の屋根に
  花が散る
四、萌える若葉の
  あの放射道
  空も碧(みどり)に
  氣もそゞろ
  何處(どこ)に行こうか
  大廣場(ひろば)の眞中(なか)で
  華美(はで)な日傘が
  立ち止まる
五、夜の大連
  あの連鎖街(れんさがい)
  シネマ歸りか
  靴の音
  ペーブメントに
  ネオンが咲いて
  行きつ戻りつ
  夜も更(ふ)ける
六、豆油(とおゆ)豆粕(まめかす)
  あの山埠頭
  別れの唄の
  銅鑼(どら)が鳴る
  故國通(かよ)ひか
  上海(シャンハイ)行きか
  切れたテープは
  泪色(なみだいろ)

大連引揚げの歌  p8/8
  作詞・作曲 山下久
一、耳を澄ませばふるさとの
  岸邊を洗ふ波の音
  瞼(まぶた)の裏に浮かぶのは
  あゝ遠近(おちこち)の山の色
  船が来た来たなつかしい
  祖國へ歸る船が来た
二、山の有様野の景色
  昔のまゝにあるかしら
  僕の生まれたあの町は
  冬の月照る焼け野原
  この眼で見よう戦争の
  あとの祖國の苦しみを
三、民主大連船出して
  民主日本へ水脈(みお)を曳く
  歸る祖國の山川が
  よし崩(くず)れても破れても
  そこが我らの新天地
  自由のための新天地
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大連行進曲 米倉俊英 コロムビア27113
2012/ 12/ 12
外地(満州)
 blog_import_5d63cf484bd1b
〔画像〕blog_import_5d63cf484bd1b
ポーツマス条約後、日本がロシアから租借権を譲り受け、
昭和20年までの約40年間にわたって統治した
関東州の中心都市・大連の新民謡(地方歌、ご当地ソング)。 
昭和7年11月日本コロムビア新譜。
大連市の地元紙・満州日報社が詞を募集し、
秋山敏夫という人の作品が選ばれた。
選定は満州日報社と作詞家・時雨音羽があたった。
作曲者は、まだ無名時代の古関裕而で、
仁木他喜雄が編曲を担当、
声楽歌手の米倉俊英の歌唱で吹き込まれた
(米倉はこのレコードが発売された翌年の昭和8年に、23歳で急逝)。
片面は、同じ満州日報の当選歌(時雨音羽選)の
『大連シャンソン』(新橋喜代三)である。
歌詞の中の「日本橋」というのは、
大連港の埠頭と大連市街地の間にある引き込み線を跨ぐ陸橋で、
人馬や自動車の往来が激しかったとの由。
「星ヶ浦」は大連近郊のリゾート地で、
海水浴場、ホテル、ゴルフ場などがあった。
5番の歌詞には、大連きっての繁華街「連鎖街」も登場する。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年11月08日
[一少年の大連記憶]執筆:秦 源治
(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年01月17日
小川清久(叔父)から小野一雄へ
[大連:小川清秀邸の写真]平成4年6月
住所:大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
No.⑦
7[大連:小川清秀邸の写真]
⑦は二階のベランダから見た正面の景色です。
右側の山裾が静ヶ浦海水浴場
左側の山裾が老虎灘(ロウ コタン)海水浴場で、
その間に島が二ツ見え、よい景色でした。
写真の両側に見える高い建物はすべて戦後の建物です。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
植鉄の旅
大連(9)
≪星ヶ浦≫の東に位置し、並び称されたのが≪老虎灘≫でした。
≪星ヶ浦≫よりも荒々しく男性的な景観をもつ場所のようですが、
「満洲の旅」(昭和15年 マンチュリア・デーリー・ニュース)によると、
その他に「星ヶ浦の国際的海水浴場なるに対し、
ここの【静ヶ浦】海水浴場は学童本位である」とあります。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[一少年の大連記憶]執筆:秦 源治(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)

[一少年の大連記憶]執筆:秦 源治(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一橋大学機関リポジトリ
一橋大学の研究・教育活動の成果
(学術雑誌論文・研究報告書・博士論文・紀要・会議資料・
 教材・図書など)を公開しています。
 満洲の記憶
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
   [一少年の大連記憶]
     執筆:秦 源治
(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)
 編集:甲賀 真広、大野 絢也
    凡 例
・本回想記は、大野絢也、尹国花、菅野智博
「一位日本少年的大連記憶――秦源治先生訪問記録」
(『口述歴史』第14 期、2016 年)として
台湾で発表された内容が基になっている。
本稿は秦源治氏のご意向により、
日本語版を本号へ掲載することとなった。
なお、原稿は2017年夏に原稿をいただいたものである。
・本回想記の翻訳は秦源治氏が依頼した第三者によって行われ、
秦氏が内容の加筆修正を行った。
・秦源治氏の執筆意図を尊重し、
文中の表記や表現は原文のままで掲載している。

私は、大正15 年(1926)12 月に、大連で生まれました。 p2/49
父助市は大連で洋服商を営んでおりました。
昭和8年(1933)に大連常盤小学校、
昭和14年(1939)に大連第二中学校に入学し、
中学時代は“愛鳩部”に所属していました。
昭和19年(1944)南満洲工業専門学校鉱山工学部に進学し、
昭和20年(1945)4 月から弓長嶺鉱山で勤労動員に従事しました。
同年8 月、徴兵検査前に第二国民兵の召集令状を受け、
動員先から帰連したのが8 月15 日午後3 時過ぎで、
その直前の正午には戦争は敗戦に終わったことが分かり
そのまゝ自宅待機、私は戦地に征かずに済みました。
昭和21年(1946)3 月南満工専は繰上げ卒業となり、
昭和22年(1947)3 月29 日には遂に大連最後の日を迎え
“さらば大連!”引揚船「高砂丸」に乗船して大連港を出港、
4月3日佐世保港に上陸し、故国への第一歩を印しました。

四、学生時代  p12/49
(1)大連常盤小学校
昭和8年(1933)4 月4 日、学齢に達して、
最寄りの大連常盤小学校に27回生として入学しました。
元は、明治44年(1911)3 月に開校した
大連第三尋常高等小学校という大連では三番目に古い学校ですが、
常盤橋近くということで、
大正13年(1924)4月1日に大連常盤尋常小学校と改称されました。
所在地は西公園町8番地でした。
<写真>大連常盤尋常小学校 南東角よりの眺望
<写真>大連常盤尋常小学校校章
<写真>大連常盤小学校入学記念写真 昭和8 年4 月4 日

各学年は、1 クラス約50 人の  p13/49
男(青組・黄組)女(赤組・桃組)四クラスで200 人程です。
私は二組(黄組)ですが、
入学52名、転入23 名、転出26 名、卒業49 名でした。
6 年間通年の者は32 名ですが、
転入生を含めクラスメートは75 名です。
平成29年(2017)4 月現在、
連絡のとれるクラスメート生存者は僅かに7 名のみとなり、
淋しい限りです。
我ら27 回生二組の担任教師は、
一年入学から三年まで土川卓郎先生、
四年から六年卒業まで久保勘一先生でした。
<写真>常盤小学校六年二組
<写真>土川・久保両先生 昭和38年
<写真>土川・久保両先生 昭和43年
<写真>大連常盤小学校全景  p15/49
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
満州の記憶 第8号
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月13日
【満州引揚】《小川清秀》《小川 梅》《小川清澄》舞鶴上陸
 昭和22年2月15日《小川清久》昭和28年7月11日
[引揚者在外事実調査票]
3 小川清澄 続柄  次男   性別 男
       生年月日   大正15年7月25日(満29才)
       外地渡航年月 大正15年7月
       引揚出港地  大連  船名 信濃丸
       上 陸 地  舞鶴
       引揚(上陸)年月日 昭和22年2月15日
       生活保護適用の有無 無
       現在地 京都

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月14日
【満州引揚】《小川清秀》《小川 梅》《小川清澄》
[乗船者名簿 信濃丸]舞鶴上陸 昭和22年2月15日
 DEBAKATION  ROSTER
   (引揚名簿)
氏  名   年令 在留地
小川清秀 男 56  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇
小川梅子 女 55  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇
小川清澄 男 22  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月18日
小野文子:略歴
学歴
大連 常盤小学校   昭和2年(1927)~昭和8年(1933)
大連 弥生高等女学校 昭和8年(1933)~昭和13年(1938)
京都女子高等専門学校 昭和13年(1938)~昭和16年(1941)
家事科 第七回卒業(現 京都女子大学)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[大連常盤尋常小學校:訓導]【職員録. 昭和7年7月1日現在】

[大連常盤尋常小學校:訓導]
【職員録. 昭和7年7月1日現在】

【職員録. 昭和7年7月1日現在】
 昭和7年10月27日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447925/5
[大連常盤尋常小學校] p459/714
 大連市西公園町 (七二五八)
訓導 學校長 榊原參藏
       笠原謙三
       吉川邦夫
       阿左見福馬
       石村亭藏
       岩野尚敏
       政本 勇
       武田辰二
       黒川亀三郎
       ?瀬隆子  ※棚瀬隆子:石原隆子
       三代庄之衛門
       鈴木健吉
       境野一之
       山田敏雄
       佐々木俤三
       糸長忠彦
       國東正路
       和田 進
       川原慶吉
       土川卓郎
       上野徳美
       八木橋雄次郎
       安井貞子
       林 菊枝
       西原 俶
       藤田静子
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447925/459

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

※追記:棚瀬隆子:平成26(2014)年9月20日

《小川文子》
[大連彌生高等女学校]
【満洲官民職員録】
【満洲職員録】
【満華職員録】
《小川文子:小野文子》小野一雄の母
[大連常盤小学校]     入学:昭和2年(1927)  卒業:昭和8年(1933)
[大連彌生高等女学校]   入学:昭和8年(1933)  卒業:昭和13年(1938)
[京都女子高等専門学校]  入学:昭和13年(1938) 卒業:昭和16年(1941)
※年度は推定:小野一雄
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2510554.html

《小川文子》[大連常盤小学校]【満洲官民職員録】【満洲職員録】【満華職員録】

《小川文子》
[大連常盤小学校]
【満洲官民職員録】
【満洲職員録】
【満華職員録】

《小川文子:小野文子》小野一雄の母
[大連常盤小学校]    入学:昭和2年(1927)  卒業:昭和8年(1933)
[大連彌生高等女学校]  入学:昭和8年(1933)  卒業:昭和13年(1938)
[京都女子高等専門学校]入学:昭和13年(1938) 卒業:昭和16年(1941)
※年度は推定:小野一雄

[大連常盤小学校]
【満洲官民職員録 : 満州帝国、関東庁、満鉄、
 鉄路総局、電々会社、電気会社. 昭和9年版】
 昭和9年4月29日発行

[大連常盤尋常小学校]
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
 昭和15年12月5日発行

[大連常盤国民学校]
【満華職員録. 康徳9年・民国31年版】
 昭和16年12月12日発行

[大連常盤尋常小学校]昭和9年

【満洲官民職員録 : 満州帝国、関東庁、満鉄、
 鉄路総局、電々会社、電気会社. 昭和9年版】
 昭和9年4月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452665/104
[大連常盤尋常小学校] p90/109
 校長 北里清人
[大連大広場尋常小学校]p90/109
 校長 杉原斧吉 ※松原斧吉
[大連家政女学校]   p90/109
 校長 杉原斧吉 ※松原斧吉
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452665/90

[大連常盤小学校]昭和15年

【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
 昭和15年12月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445663/70
康徳七年九月三十日現在 ※昭和15年(1940)9月30日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445663/4
[大連常盤小学校]  p27/73
 校長 松原斧吉
[大連常盤青年学校] p27/73
 校長 蜂須賀 正
[大連伏見台小学校] p27/73
 校長 坂本信一
[大連伏見台青年学校]p27/73
 校長 坂本信一
[大連早苗小学校]  p27/73
 校長 北里清人
[大連早苗青年学校] p27/73
 校長 北里清人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445663/27

[大連常盤国民学校]昭和16年

【満華職員録. 康徳9年・民国31年版】
 昭和16年12月12日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451327/766
関東州公立学校 p206/791
[大連常盤国民学校] p207/791
 校長 坂本信一
    生・明治二〇年(1887) 熊本県
    学・明治四三年(1910) 熊本県師範卒
    入・大正七年(1918)
    住・大連市千草町一四一
[大連常盤青年学校] p207/791
 校長 蜂須賀 正
    生・明治二六年(1893) 群馬県
    学・大正四年(1915)  群馬師範卒
      大正九年(1920)  中等教員 検定合格
    入・大正一三年(1924)
    住・大連市神明町一〇三ノ二一
[大連早苗国民学校] p207/791
 校長 北里清人
    生・明治二四年(1891) 熊本県
    学・明治四四年(1911) 熊本県師範卒
    入・大正一〇年(1921)
    住・大連市若菜町一〇六
[大連甘井子青年学校]p207/791
 校長 松原斧吉
    生・明治一九年(1886) 愛知県
    学・明治三九年(1906) 名古屋師範卒
    入・大正四年(1915)
    住・大連市 其校
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451327/207

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《小野文子:略歴》
[大正10年(1921) 6月5日生]
[昭和51年(1976)5月16日歿:55歳]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2236663.html

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ