◆高田畊安

高田畊安・妻 疋田輝子(勝海舟の孫)六男一女の略歷【平和主神武天皇】昭和13年

高田畊安・妻 疋田輝子(勝海舟の孫)六男一女の略歷【平和主神武天皇】昭和13年

【平和主神武天皇】
◎著者の略歷   p27-30/57
 著者は文久元年(一八六一年)八月
京都府加佐郡(舞鶴市)に生まる。
父は增山守正にして、武士、醫師及文學者なりき。
累代舞鶴藩主牧野家家老たりし增山家の孫なり。
母は竹子にして高田畊安
(累代同地大庄屋なりし高田家の長子なりしも、
 家督を弟に讓りて、自らは醫師と成れり)
の孫なり。
兄正道(まさみち)は父の增山家を嗣ぎ、
二男なる著者は母の高田家を嗣げり。
明治七年(1874)父の愛讀賞讚する天道溯源を讀む。
九年(1876)京都醫學豫備校に入り、
一二年(1879)之を卒へて京都醫學校に入り、
一七年(1884)卒業して醫師と成る。
之より先、一五年(1882)五月
兄が肺結核に由りて死し
次で又自ら脚氣に罹りて轉地療養中キリスト敎の
信仰を始め、
新島同志社々長に面會し、
九月より其の敎會に出席し、
十月ラールネド博士によりて受洗す。
一七年(1884)東京に上り、
大學豫備門の全科の試驗に及第して
東京大學醫學部初級に入り、
二三年(1890)卒業して
東京帝國大學醫科大學の助手と成る。
之より先き、一七年(1884)
下谷一致敎會(長老派)のキリスト敎靑年同盟會に入り、
次で同敎會へ轉會す。
二〇年(1887)深井梶之助及植村正文兩牧師より
按手禮を受けて長老と成る。
二一年(1888)東京帝國大學學生キリスト敎靑年會を
大西(後日博士と成る)らと共に創立す。
二五年(1892)疋田輝子(勝海舟の孫)と結婚す。
之より先、大學第一醫院看護婦養成所の講師を命ぜらる
又二五年(1892)濟生學舎理學的診斷法實習の講師と成る。
又二六年(1893)同校同科臨牀講義講師と成る。
二七年(1894)香港にペスト病流行につき
政府より調査の爲に派遣せられたる
靑山北里兩博士中靑山博士が罹病したるに由り、
東京醫學會、學士會及
國家醫學會を代表する慰問使として香港に渡り、
二ヶ月にして同博士と同伴歸朝す。
二九年(1896)大學を辭し、
東京に東洋内科醫院(私立病院)を創立す、
三二年(1899)神奈川縣茅ヶ崎海濱に
南湖院(サナトリウム兼病院)を創立す。
三五年(1902)濟生學舎閉校す。
四四年(1911)歐洲に渡り、
ドレスデン市萬國衞生品博覽會を見、
諸所の病院及サナトリウムを見學し、
敎會及靑年會を訪ひ、
ベルリン大學に入學して學生として聽講及實習し、
四五年(1912)ローマに開かれたる國際結核病學會に列し、
歸途スイスのタボースに於て研究後歸朝せり。
大正五年(1916)醫學博士の學位を受く。

輝子との間に六男一女を擧げしが
女は腦病の爲に死し他は健存せり、
就中長男安正(やすまさ)は南湖院の園藝部長兼X線
寫眞掛を勤む。
戸川安宅の女仲子(なかこ)を娶り
長子三太(さんた)を始めとして四男二女を生む。

二男以下五子は皆醫學士にして、
就中二男重正(しげまさ)は醫學博士にして
東洋内科醫院及南湖院の次長たり。
小崎弘道の女弘子(ひろこ)を娶りて三男一女を生む。

三男守道(もりみち)は横濱十全病院内科副部長を勤め、
松岡勝輔の女ツヤ子(醫)を娶りて三女一男を生む。

四男眞(しん)は醫學博士にして、
慈惠醫科大學耳鼻咽喉科講師、
讀賣新聞社診療部同科主任及
南湖院同科副科長を勤む、
池田謙齋の孫正(まさこ)を娶りて一男を生めり。

五男善(ぜん)は慈惠會醫科大學外科講師を勤む。

六男美正(びせい)は秋田縣衞生技師にして、
秋田市健康相談所長たり、
佐藤堅助の女茂子(しげこ)(醫)を娶れり。

本年五月東京帝國大學學生基督敎靑年會創立五十年の記念會あり。
長與大學總長も來りて靑年會の爲に及創立者たる著者の

高田畊安
本寫眞は昭和十三年五月東京帝大學生基督靑年會より出張撮影
p29【平和主神武天皇】
〔画像〕p29【平和主神武天皇】
爲に祝辭を述べ、
又同會は著者の寫眞額と花瓶と次の表彰狀を著者に送れり。
    表彰狀
        高田畊安殿
 本會創立の事に當られ
爾來半世紀に亙り渝らさる熱誠を以て
盡瘁せられ本會をして今日あらしめたるは
貴下に負ふ所多大なりと言ふへし
茲に本會五十周年記念式を擧行するに當り
深厚なる感謝を以て之を表彰す
 昭和十三年五月十三日
   東京帝國大學學生基督敎靑年會
     理事長 岩住良治

 著者が其の略歷を茲に附錄せし動機は
本書の讀者に本書の所説が受け容れられんが爲であります。
著者は『常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ』
(テサロニケ前書五の一六―~一八)の聖句を
愛唱して居る者であります。
 千九百三十八年 昭和十三年 七月七日
  東洋内科醫院長
  南 湖 院 長
   醫學博士 高 田 畊 安
               謹著
昭和十三年七月二十八日印刷
昭和十三年八月 一 日發行  正價五拾錢
著述兼 東京市麴町區九段四丁目十五番地
發行者 高田 畊安
印刷者 東京市本郷區駒込林町百七十二番地
    柴山 則常
發行所 神奈川縣高座郷茅ヶ崎字南湖
    南 湖 院
發賣所 東京市京橋區銀座西八丁目九番地
    警 醒 社
    電話銀座千五百八十七番
    振替東京 五百五十三番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《高田畊安:高田守正の二男》【人事興信録. 4版】大正4年

《高田畊安:高田守正の二男》
【人事興信録. 4版】大正4年

【人事興信録. 4版】大正4年1月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995/1040
高田畊安  東洋内科病院長  p437/1041
      南湖院長
      京都府平民
 妻 テル 明治三年一一月生 ※明治3年11月:1870年12月
      東京士族 疋田正善 長女
 男 安正 明治二六年三月生 ※明治26年(1893)3月
 男 重正 明治二八年六月生 ※明治28年(1895)6月
 女 ノブ 明治三二年四月生  ※明治32年(1899)4月
君は京都府平民高田守正の二男にして
文久元年八月十九日を以て生れ ※文久1年8月19日:1861年9月23日
明治三年二月家督を相續す   ※明治3年2月:1870年3月
夙に東都に遊學し
帝國大學醫科に入り
明治二十三年卒業して     ※明治23年(1890)
醫學士の稱號を得
特に内科に精通せり
明治二十九年         ※明治29年(1896)
東洋内科醫院を開設し又
明治三十二年         ※明治32年(1899)
南湖院を創立し其院長として
診療に從事し
刀圭界に名聲嘖々たり
家族は尚
三男 守道(明治三〇年九月生)  ※明治30年(1897)9月
四男 眞 (明治三五年五月生)  ※明治35年(1902)5月
五男 善 (明治三八年二月生)  ※明治38年(1905)2月
六男 美正(明治三九年一二月生) ※明治39年(1906)12月
あり
(東京、神田、駿河臺鈴木町二)
(電話 本局 八八八)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995/437

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《増山持正:高田畊安の弟》と[南湖院の医師]【日本医籍録. 昭和11年版】

《増山持正:高田畊安の弟》と[南湖院の医師]
【日本医籍録. 昭和11年版】

【日本医籍録. 昭和11年版】昭和11年7月19日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048198/1395
《増山持正》 p208/1398 ※  ※高田畊安:弟
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
南湖院
明治九年十二月三日生 ※明治9年 (1876)12月3日生
大正五年
試験及第 登録 三九五六四號

《高田重正》 p208/1398  ※高田畊安:二男
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
内科 南湖院
明治廿八年六月十日生 ※明治28年(1895)6月10日生
大正十年
東大醫學部 卒業 登録 四八一一三號

《高田 眞》 p208/1398  ※高田畊安:四男
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
南湖院
明治三十五年五月廿一日生 ※明治35年(1902)5月21日生
昭和四年
東京慈恵醫大卒業 登録 六〇六一〇號

《佐藤重一》(醫博) p208/1398
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
南湖院
明治廿六年十月三日生 ※明治26年(1893)10月3日生
大正十年
東大醫學部 卒業 登録 四八〇二八號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048198/208
《河野桃乃》 p207/1398
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
南湖院
明治八年三月七日生 ※明治8年(1875)3月7日生
明治三十二年
試験及第 登録 一二七〇八號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048198/207
《森 英造》 p209/1398
神奈川縣 高座郡 茅ヶ崎町一二八九三
南湖院
明治三十五年七月十五日生 ※明治35年(1902)7月15日生
大正十年
東京慈恵醫専卒業 登録 五四九〇一號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048198/209

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《増山守正:高田畊安の父》【改正官員録】明治13年7月~明治25年10月

《増山守正:高田畊安の父》
【改正官員録】明治13年7月~明治25年10月

【改正官員録. 明治13年7月】明治13年7月2日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779288/261
[文部省] 竹平町壹番地 p148-149/265
卿   《河野敏鎌》高知 正四位 勳二等
          西小川町二丁目壹番地
少輔  《九鬼隆一》京都 正五位 勳四等
          本郷元町壹丁目九番地
三等出仕《加藤弘之》東京 正五位
          上二番町四拾四番地
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779288/148
九等属 《増山守正》京都  p149/265
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779288/149

【改正官員録. 明治19年上1月】明治19年1月出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779357/280
文部省 竹平町壹番地 p176/282
文部大臣 《森 有禮》鹿児島 正四位 勳二等
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779357/176
七等属 《増山守正》京都  p178/282
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779357/178

【改正官員録. 明治21年甲11月】明治21年11月24日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779422/200
宮内省之部 博物館 p19/201
属 判任 九等 《増山守正》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779422/19

【改正官員録. 明治21年甲12月】明治21年12月24日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779424/201
宮内省之部 博物館 p19/202
属 判任 九等 《増山守正》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779424/19

【改正官員録. 明治25年10月1日甲】明治25年10月1日再版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152162/229
宮内省 帝國博物館 p23/231
總長 《九鬼隆一》從三位 勳二等
         特命全権公使
         宮中顧問官
書記 《増山守正》 p23/231
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152162/23

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[増山守正:高田畊安の父]住所:丹波国何鹿郡綾部~東京市神田區駿河臺鈴木町

[増山守正:高田畊安の父]
 住所:丹波国何鹿郡綾部~東京市神田區駿河臺鈴木町

[増山守正 丹波国何鹿郡綾部第一區坪内村五百九十二番地]明治9年11月
[増山守正 上京第三十一區上大坂町廿三番路次止宿]   明治10年2月
[増山守正 丹波國何鹿郡坪内村五百九十二番地]     明治10年3月
[増山守正 丹波國何鹿郡第一區本宮村千四百廿九番地]  明治10年12月

[増山守正 東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留]   明治26年2月
[増山持正 東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留]   明治26年2月

[増山持正:高田畊安の弟]

【臍の西国 : 滑稽窮理. 初編】明治9年11月
明治七年十月廿二日 出版願  p32/35
明治九年十一月   出版發兌
著述者    増山守正
       京都府士族
       丹波国何鹿郡綾部第一區坪内村五百九十二番地
京都開版書屋
出版人    福井源次郎
       京都府下平民
       下京第六區三条通寺町東入貳拾番地
出版人    福井孝太郎
       京都府下平民
       上京第三十區寺町通三条上ル六百八拾四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882686/32

【因循一掃】明治10年2月
明治九年六月十六日 出版願  p34/35
明治十年二月    出版發兌
著述者    増山守正
       京都府士族
       上京第三十一區上大坂町廿三番路次止宿
京都開版書屋
出版人    福井源次郎
       京都府下平民
       下京第六區三条通寺町東江入貳拾番地
出版人    福井孝太郎
       京都府下平民
       上京第三十區寺町通三条上ル六百八拾四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767835/34

【明治新撰西京繁昌記. 初編 下】明治10年3月
明治九年十二月四日 御届   p29/30
明治十年三月    出板發兌
編輯者   増山守正
      京都府貫属士族
      丹波國何鹿郡坪内村五百九十二番地
京都書林
出板人   大谷仁兵衛
      京都府下平民
      下京第五區辨慶石町五十六番地
出板人   福井源次郎
      京都府下平民
      下京第六區石橋町二十番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765696/29

【天地神仏人体服食諸器械異名抜萃一覧表】明治10年12月
明治十年十月十日 出版御届   p2/8
同年  十二月  刻成
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/2
定價 金三錢五厘        p6/8
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/6
纂輯者 并 出版人 増山守正  p7/8
          京都府士族
          丹波國何鹿郡第一區本宮村千四百廿九番地
賣弘所       書肆 福井源次郎
          京都三條通寺町東入町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/7

【京都繁栄記】明治26年2月
明治廿六年二月廿三日 印刷  p59/63
  仝年 仝月廿七日 出版
編輯者    増山守正
       京都府士族
       東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留
發行兼印刷者 増山持正
       右 仝族 仝番地寄留
彫刻     山口唯女
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765591/59

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[増山守正:高田畊安の父]住所:丹波国何鹿郡綾部~東京市神田區駿河臺鈴木町

[増山守正:高田畊安の父]
 住所:丹波国何鹿郡綾部~東京市神田區駿河臺鈴木町

[増山守正 丹波国何鹿郡綾部第一區坪内村五百九十二番地]明治9年11月
[増山守正 上京第三十一區上大坂町廿三番路次止宿]   明治10年2月
[増山守正 丹波國何鹿郡坪内村五百九十二番地]     明治10年3月
[増山守正 丹波國何鹿郡第一區本宮村千四百廿九番地]  明治10年12月

[増山守正 東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留]   明治26年2月
[増山持正 東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留]   明治26年2月

[増山持正:高田畊安の弟]

【臍の西国 : 滑稽窮理. 初編】明治9年11月
明治七年十月廿二日 出版願  p32/35
明治九年十一月   出版發兌
著述者    増山守正
       京都府士族
       丹波国何鹿郡綾部第一區坪内村五百九十二番地
京都開版書屋
出版人    福井源次郎
       京都府下平民
       下京第六區三条通寺町東入貳拾番地
出版人    福井孝太郎
       京都府下平民
       上京第三十區寺町通三条上ル六百八拾四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882686/32

【因循一掃】明治10年2月
明治九年六月十六日 出版願  p34/35
明治十年二月    出版發兌
著述者    増山守正
       京都府士族
       上京第三十一區上大坂町廿三番路次止宿
京都開版書屋
出版人    福井源次郎
       京都府下平民
       下京第六區三条通寺町東江入貳拾番地
出版人    福井孝太郎
       京都府下平民
       上京第三十區寺町通三条上ル六百八拾四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767835/34

【明治新撰西京繁昌記. 初編 下】明治10年3月
明治九年十二月四日 御届   p29/30
明治十年三月    出板發兌
編輯者   増山守正
      京都府貫属士族
      丹波國何鹿郡坪内村五百九十二番地
京都書林
出板人   大谷仁兵衛
      京都府下平民
      下京第五區辨慶石町五十六番地
出板人   福井源次郎
      京都府下平民
      下京第六區石橋町二十番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765696/29

【天地神仏人体服食諸器械異名抜萃一覧表】明治10年12月
明治十年十月十日 出版御届   p2/8
同年  十二月  刻成
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/2
定價 金三錢五厘        p6/8
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/6
纂輯者 并 出版人 増山守正  p7/8
          京都府士族
          丹波國何鹿郡第一區本宮村千四百廿九番地
賣弘所       書肆 福井源次郎
          京都三條通寺町東入町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863383/7

【京都繁栄記】明治26年2月
明治廿六年二月廿三日 印刷  p59/63
  仝年 仝月廿七日 出版
編輯者    増山守正
       京都府士族
       東京市神田區駿河臺鈴木町十六番地寄留
發行兼印刷者 増山持正
       右 仝族 仝番地寄留
彫刻     山口唯女
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765591/59

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《院長 高田畊安:高田輝子》《副長 河野桃野》【南湖院一覧. 昭和10年12月】

《院長 高田畊安:高田輝子》
《副長 河野桃野》
【南湖院一覧. 昭和10年12月】

【南湖院一覧. 昭和10年12月】
南湖院職員録 p67/87
本部
 院長 高田畊安
 主婦 高田輝子 ※高田畊安 夫人
 副長 河野桃野
醫局
 次長 高田重正 ※高田畊安の子
 副長 河野桃野
 副長 高橋誠一
 醫員 增山持正
 同  森 英造
 同  坂本希平
 同  西川 雪
 マッサージ係 吉江嘉明
薬局
 局長 橋爪四方平
 局員 松本喜一
 同  小島貞五郎
事務局
 顧問 井伊松蔵
庶務課
 課長 泉 行蔵
    ―略―
物品課
 課長 中谷三郎
    ―略―
會計課
 課長 飯山 淸
    ―略―
炊事部
 部長 寺澤銀次郎 p67/87
 顧問 坂部朝雪
    ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025204/67
汽罐部       p68/87
 部長 今井玉吉
建築部
 部長 小野伍兵衛
 部員 增山愼一郎
 同  福地松太郎
 同  加藤英一
 同  小野勝次
土木部
 部長 鈴木繁蔵
 部員 吉田亀吉
 臨時 富所松平
洗濯部
 部長 森 小八
 部員 臨時 岩崎治佐久
 同     深野仁太郎
園藝部
 部長  高田安正  ※高田畊安の子
 部員附 柴 金太郎
測候部
 部長 大井 新
 部員 新保 邊
 同  奥 勉三郎
 同  兩澤得三
看護部
 取締   吉村 良
 取締輔佐 山本 蓮
 看護婦  小沼 愛
      ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025204/68
看護見習生 p69/87
 鶴田キク 齋藤千代 原口千代 和田さわ子
 小林多鶴 大津秀子 關千鶴子
看護學講習生
 大和田めぐみ 氏家ふき 大和田すゑよ 太田あつ子 遊佐政子
 藤間トシ   池元喜美 大谷園子   齋藤ジュン 中田千枝
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025204/69
昭和十年十二月二十一日印刷
昭和十年十二月二十五日發行
編輯兼發行者 高田畊安
       神奈川縣高座郡茅ヶ崎字南湖
印刷者    柴山則常
       東京市本郷區駒込林町一七二
印刷所    合資會社 杏林舎
       東京市本郷區駒込林町一七二
發行所    南湖院
       神奈川縣高座郡茅ヶ崎字南湖一二八九三
       電話 ちがさき 二番 一〇一番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025204/86

《高田重正》醫學部 醫學科 第四年生

【東京帝国大学一覧. 從大正9年 至大正10年】
 大正10年3月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940171/461
醫學部 醫學科 第四年生 p348/463
《高田重正》 京都 平  p348/463
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940171/348

《高田畊安》(醫博)《高田重正》《河野桃野》

【日本医籍録】医事時論社 大正14年8月10日発行
《高田畊安》(醫博) p431/1332
東京府 三番町三〇
東洋内科醫院
文久元年八月十九日生 ※文久1年8月19日(1861年9月23日)
―略―
《高田重正》     p431/1332
東京府 麹町區 三番町三〇
明治廿八年六月十日生 ※明治28年(1895)6月10日生
京都府出身
大正十年       ※大正10年(1921)
東大醫科卒 登録 四八一一三號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/431
《高田畊安》(醫博) p527/1332
神奈川県 高座郡 茅ヶ崎町 南湖院
文久元年八月十九日生 ※文久1年8月19日(1861年9月23日)
京都府出身
明治廿三年 東大醫科卒 登録 九七二號
《河野桃野》     p527/1332
神奈川県 茅ヶ崎町 南湖院 内
明治八年三月七日生 ※明治8年(1875)3月7日生
廣島縣出身
明治三二年     ※明治32年(1899)
試験及第 登録 一二七〇八號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/527

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《高田畊安:夫人てる子》【大正人名辞典】大正6年

《高田畊安:夫人てる子》
《安正》《重正》《守道》《直》《善》《善正》《のぶ子》等の數子あり
【大正人名辞典】大正6年

【大正人名辞典】大正6年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946063/1127
《高田畊安》君 p1125/1128
△出生地 京都府
△現住所 東京、麹町、三番、三〇
△生年月 文久元年八月十九日 ※1861年9月23日生
 東洋内科醫院長 南湖院長 醫學博士
博士は京都の人
高田守正氏の二男にして
文久元年八月十九日を以て生る、 ※1861年9月23日生
少壯既に社會人類の爲に一身を捧げんとするの志あり、
醫を以て身を立て幾多の薄倖者を救濟せんとす、
茲に於て早く東京に出で
東京帝國大學醫科に入り
明治二十三年を以て卒業す、 ※明治23年(1890)
時に君僅に二十二歳なりき、
斯る年少の醫學士は當時に於ても異數に屬せり、
頭脳明晰而も君は之に満足せず
醫科大學の助手となり、
第一醫院に勤務して専ら内科を専攻す、
二十九年に至り       ※明治29年(1896)
東洋内科醫院をお茶の水河畔に設け後
麹町三番町に移し、
三十二年          ※明治32年(1899)
相州茅ヶ崎に南湖院を創立し
共に其院長として診察に從事し令名嘖々たり、
故を以て大正五年に至り   ※大正5年(1916)
醫學博士の學位を授けらる、
夫人を《てる子》と呼び、
《安正》《重正》《守道》《直》《善》《善正》《のぶ子》等の
數子あり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946063/1125

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《高田畊安》京都府立醫學專門學校:【東京帝国大学一覧】【日本医籍】等

《高田畊安》
 京都府立醫學專門學校:
【東京帝国大学一覧】【日本医籍】等

【京都府立医学専門学校創立三十年紀念沿革略史】明治41年11月
京都府立醫學專門學校(現 京都府立医大)
明治17年3月 第一回 卒業生12名
明治十七年三月 第一回 卒業生 十二名 p32-33/76
河北鉚三郎 石川
大里憲治  愛知
高田畊安  京都
兒玉良吉  愛知
平井平吉  京都
香山晋次郎 京都
増田善次郎 京都
岡本家次郎 京都
本田國太郎 京都
服部忠直  京都
太田岩太郎 京都
星野元彦  京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812713/32
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/691/
京都府立醫學專門學校
明治17年3月 第一回 卒業生 12名の医籍
03《高田畊安》  京都
【日本医籍】内務省衛生局:明治22年8月8日出版
高田耕安 東京府 神田區 駿河臺 鈴木町 p7/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/7

【帝国医籍宝鑑】明治31年8月7日発行
全國郡公私立病院           p58/427
東洋内科医院 院長 醫學士 高田耕安 p58/427
東京府 神田區 駿河台 鈴木町二
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/58

【帝国医籍宝鑑】明治31年8月7日発行
開業醫
醫學士 高田耕安 東京府 神田區 鈴木町十六番地 p66/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/66

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
東京市 神田區 駿河臺 鈴木町 二 p58/976
電話 本局 八八八
高田畊安 京都平民
學士 廿一年五月  ※明治21年5月(1888年5月)
文久元年生     ※文久1年(1861年3月29日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/58

【日本医籍録】医事時論社 大正14年8月10日発行
高田畊安(醫博) p527/1332
神奈川県 高座郡 茅ヶ崎町 南湖院
文久元年八月十九日生 ※文久1年8月19日(1861年9月23日)
京都府出身
明治廿三年 東大醫科卒 登録 九七二號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/527

【東京帝国大学一覧】明治19-20年
第三 醫科大學學生 p73/91
醫學科 第二年   p76/91
高田耕安 京都   p76/91
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813163/76

【東京帝国大学一覧】明治20-21年
第三 醫科大學學生 p104/161
醫學科 第三年   p106/161
高田耕安 京都   p106/161
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813164/106

【東京帝国大学一覧. 明治21-22年
第三 醫科大學學生及撰科生徒 p107/169
醫學科 第四年        p108/169
高田耕安 京都        p108/169
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813165/108

【東京帝国大学一覧】明治22-23年
第三 醫科大學學生及生徒 p116/185
醫學科 卒業受驗生    p116/185
高田耕安 京都      p116/185
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813166/116

【東京帝国大学一覧】明治23-24年
第三 帝國大學卒業  p194/236
明治二十三年七月卒業 p201/236
醫學士        p199/236
高田耕安 京都    p201/236
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813167/201
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/693/

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《高田畊安》君:東京東洋内科醫院:南湖病院長【現代加佐郡人物史】大正6年

《高田畊安》君:
 東京東洋内科醫院:
 南湖病院長
【現代加佐郡人物史】大正6年

《増山守正》二男
《増山説道》子孫
《高田竹子》母:七世高田久兵衛の長子高田畊安氏の孫女

【現代加佐郡人物史】大正6年9月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923555/95
《高田畊安》君 p18/97
醫學博士
東京東洋内科醫院 兼
南湖病院長
東京市麹町區三番町

氏は文久元年八月十九日 ※1861年9月23日生
綾部藩士増山守正氏の二男に生れ
幼名を復齋と稱せり、
祖先は藤原鎌足の後裔にして
丹後田邊藩の首席家老
増山説道先生の子孫にて
説道先生の墓碑は天台寺に存せり

母は高田竹子にて
加佐郡中筋村字京田
高田久兵衛氏の    ※九世高田久兵衛
前々代久兵衛氏の   ※七世高田久兵衛
長子高田畊安氏の孫女にて
畊安氏は醫を志し家督を弟に譲りて
自ら分家せり
以來醫を業とせること四代

氏は明治四年       ※明治4年(1871)
高田家の養子となり
畊安を襲ひ醫業に從事する事となりたり、
年十六歳即ち明治九年   ※明治9年(1876)
笈を京都に負ひ
京都府醫學豫備校に入り
同十二年卒業、      ※明治12年(1879)
直に京都府醫學校(當今:醫學専門學校)に入り
十七年卒業同年      ※明治17年(1884)
東京大學豫備門分黌(當今:第一高等學校)
全科の試験に及第し
同年東京大學醫學部に入学 ※明治17年(1884)

二十三年         ※明治23年(1890)
東京帝國大學醫科大學卒業以來
同大學内科教室に助手たりしこと六ケ年
此間看護學講師を兼ね、
醫學校在學中は書籍器械掛を嘱託せられ

明治二十七年には     ※明治27年(1894)
東京醫學會、國家醫學會、學士會を代表し
慰問使として香港に靑山博士等を慰問し、

且亦明治二十五年より   ※明治25年(1892)
東京濟生學舎内科講師を担當せり、

明治二十九年       ※明治29年(1896)
大學助手辭任
東京に東洋内科醫院と稱する病院を創立し越へて

三十二年         ※明治32年(1899)
神奈川縣茅ヶ崎町の海濱に
南湖院と稱する病院を創立し
共に其長として現在に至れり、

然るに日進月歩の醫術は尚氏をして満足せしむるに至らず、
明治四十四年、五の兩年  ※明治44年(1911)
氏は伯林(ベルリン)大學に入りて
醫學諸科
殊に肺結核病の診療法を研究し
其れよりドレスデン市萬國衛生品博覧會を参?し

更に羅馬(ローマ)市萬國結核病學會に列し、

瑞西(スイス)ダボースの肺病診療法を視察し、
尚進んで欧州大陸に於ける宗教上及び
醫事衛生上の現状を視察して歸朝せり、

尚明治三十年以來     ※明治30年(1897)
私立看病學講習所を開き
既に二百余名の卒業生を出せり、

大正五年二月十四日    ※大正5年(1916)
第九百七十二號を以て
醫學博士の學位を授與せられたり、

資性温厚にして気品高雅、
明晰なる頭脳を有す、
其小學時代勿論大學時代の如きも
常に優等なる成績を持續し學生の模範を稱せられたり

品行方正極めて厳格にして博覧強記、
幼時麒麟兒とは彼の事かと將來を嘱目せられたるが、
實に然り、果せる哉、
同業者頗る多き東都の地に於て
一頭角を現はし赫々たる名聲を博せり、

殊に氏は熱心なる基督教信者にして
禁酒煙を堅守せるが意志極めて鞏固にして
風采、態度悠揚として?すべからざるものあり、

今日の成功を?ち得たる洵に故なきにあらざるなり、
年歯尚春秋あり
刀圭界の爲めに益々貢献を望む。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923555/18

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ