◆手代木勝任:手代木直右衛門

《手代木勝任》<依願免本官 高知縣權參事>【太政官日誌. 明治9年7-12月】

《手代木勝任》
<依願免本官 高知縣權參事>
 ※明治9年10月12日(1876年10月12日)
【太政官日誌. 明治9年7-12月】

【太政官日誌. 明治9年7-12月】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/2
[太政官日誌 明治九年 第六十四號]   p44/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/44
八月十五日                p47/196
  ○
任 陸軍 二等藥劑正   《永松東海》  p48/196
任 陸軍 少尉      《綾瀬和三次》 p48/196
任 司法少丞       《小野 梓》  p48/196
 ※明治9年8月15日(1876年8月15日)
○八月十七日
  ○
依願免本官  高知縣權令 《岩崎長武》  p48/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/48
 ※明治9年8月17日(1876年8月17日)

[太政官日誌 明治九年 第六十六號]   p56/196
○八月二十八日
任 高知縣權令 兼 地租改正局 六等出仕如故
       租税寮六等出仕 兼 地租改正局 六等出仕
             《小池國武》  p57/196
 ※明治9年8月28日(1876年8月28日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/57

[太政官日誌 明治九年 第七十七號]    p129/196
○本月(十月)十二日分           p132/196
依願免本官 高知縣權參事 《手代木勝任》  p132/196
 ※明治9年10月12日(1876年10月12日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/132

[太政官日誌 明治九年 第七十九號]      p138/196
○十一月一日
 ※明治9年11月1日(1876年11月1日)
  ○
今般特旨ヲ以テ
位階 宣下候事          《松平容保》 p138/196
叙  從五位           《松平容保》 p138/196
  ○
補 開拓使 六等出仕
        開拓使七等出仕  《鈴木大亮》 p139/196

先年依願位記返上被 聞召候處
今般特旨ヲ以テ復位被 仰付候事  《南部信民》 p139/196
叙 從五位            《南部信民》 p139/196
同                《水野利光》 p139/196
今般特旨ヲ以テ
位階 宣下候事          《板倉松叟》 p139/196
叙  從五位           《板倉松叟》 p139/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/139
○十一月一日
 ※明治9年11月1日(1876年11月1日)
  ○
今般特旨ヲ以テ
位階 宣下候事          《小笠原長行》p140/196
叙  從五位           《小笠原長行》 p140/196
今般特旨ヲ以テ
位階 宣下候事          《松平定敬》 p140/196
叙  從五位           《松平定敬》  p140/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787673/140

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《手代木勝任》<依願免兼官 高知縣 權參事 七等判事>【太政官日誌.明治9年】

《手代木勝任》
<依願免兼官 高知縣 權參事 七等判事>
 ※明治9年5月9日(1876年5月9日)
【太政官日誌. 明治9年1-6月】

【太政官日誌. 明治9年1-6月】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787672/2

[太政官日誌 明治九年 第四十七號] p221/275
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787672/221
○五月九日分             p226/275
依願免兼官 高知縣 權參事 兼 七等判事 《手代木勝任》
 ※明治9年5月9日(1876年5月9日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787672/226

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《手代木勝任》<任 高知縣 權參事>【太政官日誌. 明治7年】

《手代木勝任》
<任 高知縣 權參事>
 ※明治7年2月21日(1874年2月21日)
【太政官日誌. 明治7年 第1-63号】

【太政官日誌. 明治7年 第1-63号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787666/2

[太政官日誌 明治七年 第三十四號] p139/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787666/139
○二月廿一日分     p141/246
任 高知縣 權參事   高知縣 七等出仕 《手代木勝任》
 ※明治7年2月21日(1874年2月21日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787666/141

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《手代木勝任》<補 高知縣七等出仕>【太政官日誌. 明治6年】

《手代木勝任》
<補 高知縣七等出仕>
 ※明治6年7月20日(1873年7月20日)
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】

【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/2
[太政官日誌 明治六年 第百十一號]      p81/197
  ○七月廿日                 p81/197
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/81
  ○
任 大阪府 權參事   外務省  七等出仕
            正七位 《内海忠勝》  p84/197
補 高知縣 七等出仕  正七位 《手代木勝任》 p84/197
 ※明治6年7月20日(1873年7月20日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/84

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《手代木勝任》<香川縣:權參事 正七位>【太政官日誌. 明治5年】

《手代木勝任》<香川縣:權參事>
 ※明治5年壬申11月5日(1872年12月5日)

《手代木勝任》<叙:正七位>
 ※明治5年壬申11月10日(1872年12月10日)
【太政官日誌. 明治5年 第85-108号】

【太政官日誌. 明治5年 第85-108号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787663/2
[太政官日誌 明治五年 第九十五號]       p31/294
○壬申十一月五日                 p31/294
 ※明治5年壬申11月5日(1872年12月5日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787663/31
  ○                      p34/294
左院 七等出仕被  仰付       《細川廣世》
任 香川縣 權參事          《手代木勝任》
石鐵縣 七等出仕被 仰付 石鐵縣典事 《山本一郎》
○壬申十月十七日分                p34/294
 ※明治5年壬申10月17日(1872年11月17日)
任 一等軍醫  軍醫寮 七等出仕   《中 定勝》
同       軍醫寮 七等出仕   《堀内利國
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787663/34

[太政官日誌 明治五年 第九十九號]       p46/294
○壬申十一月十日  p46/294
 ※明治5年壬申11月10日(1872年12月10日)
叙 從六位     《白根多助
同         《高木久成》
叙 正七位     《堀 小四郎》
同         《手代木勝任》
同         《平部朝致》
同         《山東直砥
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787663/46

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《手代木直右衞門》《秋月俤次郎》等<特命ヲ以  被免>【太政官日誌:明治五年】

《手代木直右衞門》
《秋月俤次郎》等
<特命ヲ以 被免>
【太政官日誌. 明治5年 第1-18号】

【太政官日誌. 明治5年 第1-18号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787660/2
[太政官日誌 明治五年 第二號] p10/152
○壬申正月六日          p11/152
 ※明治5年壬申1月6日(1872年2月14日)
  ○ 青森縣          p12/152
別紙
《手代木直右衞門》
《秋月俤次郎》永預
《海老名郡治》以下十一名
 御預被 仰付置候處
 特命ヲ以
 被免候条
 此㫖可相達事
別紙
《手代木直右エ門》
《秋月俤次郎》
《海老名郡治》
《井澤茂右衞門》
《井澤守之進》
《春日郡吾》
《田中源之進》
《諏訪伊助》
《佐川官兵衞》
《辰野源之允》
《柳田新助》
《竹下 登》
《三宅内匠》
 以上              p13/152
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787660/12
  ○  從五位 《松平定教》  p13/152
同苗《定敬》儀   特命ヲ以 御預 被免候事
  ○  從五位 《板倉勝弼》  p13/152
同苗《勝靜》儀   特命ヲ以 御預 被免候事
  ○  從五位 《松平容大》  p13/152
同苗《容保》《喜德》儀    特命ヲ以 御預 被免候事
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787660/13

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[會津三傑]《廣澤安任》《秋月悌次郎》《手代木直右衞門》【会津藩庁記録】

[會津三傑]
《廣澤安任》
《秋月悌次郎:秋月胤永》
《手代木直右衞門》
【会津藩庁記録. 文久3年 第3】

【会津藩庁記録. 文久3年 第3】
 大正8年4月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920645/287
 會津藩廰記録 第三          p5-6/290
     原題 公式御達 并 見聞集  p5/290
     附 鞅掌錄
   緒 言
一  本書ノ解題ハ元治元年第一部ニ記セリ今贅セス
一  別ニ《廣澤安任》ノ鞅掌錄二巻ヲ附錄トス
   素ト箇人ノ私記ナリト雖モ
   藩ノ要路ニ在テ
   藩主《松平容保》ノ意ヲ承ケテ
   諸藩ノ有志ト交渉シ
  《容保》守護職拜命以來
   朝幕交渉雄藩ノ離合ヲ詳記スル上ニ於テ
   尤モ有力ノ史料ナルノミナラズ
   一部ノ藩廰記録ト見ル
   亦タ妨ゲザルヲ以テナリ
一 《安任》
   通稱ハ《富次郎》
   會津藩士ナリ
   少時家貧シ
   筆耕ヲ業トシ
   席布ヲ織リ           p6/290
   備ニ苦學ス後
  《容保》ノ知ル所トナリ
   常ニ左右ニ侍シテ
   獻替スル所頗ル多ク
  《秋月種樹》    ※校正ミス《秋月胤永:秋月悌次郎》
  《手代木直右衞門》ト共ニ
   會津三傑ノ名アリ
   明治二十四年二月一日
   病テ歿ス
   年六十二
 大正八年四月  日本史籍協會
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920645/6

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[Wikipedia]
[秋月 悌次郎](あきづき ていじろう)
(文政7年7月2日(1824年7月27日)
- 明治33年(1900年)1月5日)は、
幕末の会津藩の藩士。
明治時代の教育者である。
名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。
明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。
婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%82%8C%E6%AC%A1%E9%83%8E

《手代木勝任》西北條・東南條・東北條郡長【職員録. 明治27年(乙)】

《手代木勝任》
 岡山縣:西北條・東南條・東北條郡長
【職員録. 明治27年(乙)】

[高知縣]權參事《手代木勝任》

【官員録. 明治9年8月】
[高知縣] 土佐國土佐郡高知 p159/170
      高 五十一万石余
權 令     正六位 《岩崎長武》  カウチ
權參事
 兼 七等判事 正七位 《手代木勝任》 アヲモリ
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779244/159

[岡山縣]川上郡長《手代木勝任》

【改正官員録. 明治11年12月】
[岡山縣] 備前國御野郡岡山 p217/238
      高 百拾九万石余
郡區職員           p209/238
 ―略―
 川上郡長 正七位 《手代木勝任》
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779270/219

[岡山縣]岡山區長《手代木勝任》

【職員録. 明治19年(乙)】
[岡山縣] 岡山區弓之町     p174/252
○岡山區役所 岡山區岡山東中山下 p176/252
 區長 奏任官四等(下)
    正七位 《手代木勝任》
         岡山區岡山東中山下二十七番 貸舎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779754/176

[岡山縣]西北條・東南條・東北條郡長《手代木勝任》

【職員録. 明治27年(乙)】
[岡山縣] 岡山市弓之町        p142/192
○西北條・東南條郡役所 西北條郡津山町 p145/192
 郡長 六等(年六〇〇)
   兼 東北條郡長 從六、勳六 《手代木勝任》
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779768/142

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[板垣參謀 降使《桃澤、秋月、手代木》をいたわる事]【西郷隆盛一代記】

[板垣參謀 降使《桃澤、秋月、手代木》をいたわる事]
【西郷隆盛一代記 : 絵入通俗. 3冊】

【西郷隆盛一代記 : 絵入通俗. 3冊】
 村井弦斎, 福良竹亭 編
 弦斎居士、竹亭主人 編述
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781393/5
 明治33年10月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781393/181
○第参百四 會津城の降伏(其 三)  p54/186
 板垣參謀 降使をいたわる事

一旦の義に激して君のために死するは易く、
恥を忍び垢を受け
君の家を全うするは難しとかや、

桃澤、秋月、手代木の三士は
君のためとは云ひながら
縄目の恥辱を受け
大小さへ奪はれ
見るもあはれの樣となりたるども
胸中元より恥づべき所あらねば、
一刻も速に官軍の本陣に到り
首尾よく使命を果さんと心
自ら勇み足の進むを覺へず、

九月二十日の暁 
 ※慶應4年:明治1年9月20日(1868年11月4日)
城下なる土州藩の陣營に到りぬ、
米澤の陣將は斯くと云ひ入れしに、
參謀板垣退助は直に三士を延見し
其陳述を聞取り、

「降伏の義は事重大にして
 自分一存にては計りがたし、
 他の參謀と會議をなし
 總督府の御指圖を受くべければ、
 しばらく當方にて待たるべし」と告げ、

又た三士の縄付となれるを見
「斯かる姿にて我陣營まで參られしかとて」、

直ちに部下に命じ
三士の縛を解かしめ

二ノ丁なる民家を宿所と定め
其處に護送せしめたり、

間もなく土佐藩の軍目付
高屋佐兵衛、
板垣の命を受け、
三士の宿所に來り

大小を渡し
警固のものに向ひ
鄭重に取扱ふべしとの命を傳へしかば、
三士は板垣の好意を感謝し
何分の命を下るを待つ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781393/54
○第三百七 會津城の降服(其 五) p58/186
 會津公 父子 軍門に降る事

慶應四年九月廿二日は如何なる日ぞ、
 ※慶應4年:明治1年9月20日(1868年11月6日)
 ―略―
此朝八時
白旗に降參と記せしものを
追手門に三ケ所建てしが、

正午頃官軍の陣營より
軍監中村半次郎
軍曹山縣小太郎、
使番唯九十九
錦旗を擁し薩長土の精兵を前後に從へ
歩武粛々として追手門に來る、

此時城中より
秋月俤次郎、
手代木直右衛門の兩人
麻上下を着し
無腰にて出迎へ之を式場に導く、
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781393/58
○第三百十四 萱野權兵衛の忠誠   p69/186
        一藩に代りて死する事
 ―略―
 ◎會津戦争に現はれたる人々    p70/186
  ―略―
  西郷頼母、
  秋月俤次郎の兩人は
  生存して會津にあり又た

  手代木直右衛門は其後
  岡山邊の郡長を勤め居りしが、  ※別稿に記載
  今尚ほ健康にして存生し居れりと云ふ、

  萱野權兵衛が
  刎首を申渡されし時は
  佐川官兵衛、
  山川大藏、
  秋月俤次郎、
  手代木直右衛門等は
  永預を命ぜられしが
  後に至りて
  其の蟄居を許るされたるなり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781393/70

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[降伏人諸藩預人名簿]
《手代木直右衞門:秋月悌次郎》等
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2572352.html

[降伏人諸藩預人名簿]《手代木直右衞門:秋月悌次郎》等

[降伏人諸藩預人名簿]
《手代木直右衞門:秋月悌次郎》等
[降伏人諸藩預人名簿]          p1/139

<元 松平容保 家来 叛逆 巨魁之内>  p2/139
     高須藩永預   手代木直右衞門
     同       秋月悌次郎
同 罪一等重キ者
     熊本藩ヘ御預  海老名郡治
     同       井澤茂右衞門
     同       春日郡吾    p4/139
     同       井澤守之進

     佐倉藩ヘ御預  田中源之進
     同       小森一貫齋
     同       諏訪伊助
     同       佐川官兵衛

     古河藩ヘ御預  辰野源之允
     同       柳田新助

     飯野藩ヘ御預  竹下 登
 附箋 p3/139
     飯野藩ヘ御預
      ○廣澤冨次郎
       触見銭次 ?
       土屋宗太郎
       高津九右衞門
       和田市兵衞
     容保家名相立倣上ハ相續之者ヘ
     引渡可申上?兵部省ヨリ達シ?

     飯野藩ヘ御預  竹下 登    p3-4/139
     同       大久保予一郎  p5/139
同    辨官支配 水野國之助ヘ御預 三宅内匠
同 箱舘 降伏人
     川越藩ヘ御預  伊藤利兵衞
     前橋藩ヘ御預  大久保三次郎
     郡山藩ヘ御預  荒井 登
     同       松田精介
     同       荒井大助
     同       小松省三
     同       田村數馬    p5/139
     同       大久保小四郎  p6/139
     同       長谷川昇助
     同       長谷川松之助
     同       森 健助
     同       有賀 茂
     同       秋野金次郎
     古賀藩ヘ御預  山田陽次郎
     同       小野權之丞
     德嶋藩ヘ御預  雜賀孫六郎
     同       片岡初太郎   p6/139
     金澤藩ヘ御預  島 貞之進   p7/139
             島(定之進)  p7/139
     尼ケ崎藩ヘ御預 東條 一
<アシユローツト艦乗組 降伏之者>    p7/139
     今治藩ヘ御預  真宮魯三郎
     亀山藩ヘ御預  神田圖書
     館林藩ヘ御預  保科頼母
     中村藩ヘ御預  若山磯次郎
     同       林 勝次郎
     同       石田五輔
     同       宮本浅吉
     延岡藩ヘ御預  長谷川丈之介  p7/139
     久留米藩ヘ御預 赤城倍一    p8/139
             赤城(信一)
     島原藩ヘ御預  蓮池誠蔵
     香春ヘ御預   五十嵐伊織
<元 會津 降伏人>           p8-9/139
     四千七百八人
      内
     東京ニ而謹慎 二千七百拾二人
     高田藩ニ謹慎 千六百三拾四人
     若松表ニ謹慎   百七拾二人
         此内 松平慶三郎アリ
     石狩国 移住    百九十人
     外ニ若松表ニ差置  老若男女
            凡 壹萬四千人
       此ハ 若松縣 管轄ニ相成居候事

<元 仙臺藩 箱舘 降伏人>       p10/139
  ―略―
       福岡藩ニテ謹慎 竹中丹後  p127/139
       津藩ニテ謹慎  松平越中  p127/139
記録材料・降伏人諸藩預入名簿
【 階層 】国立公文書館>内閣>記録材料>
記録材料・降伏人諸藩預入名簿
【 レファレンスコード 】A07060043700【 画像数 】139
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より

《高須藩永預 手代木直右衞門》
《同     秋月悌次郎》
[会津藩と高須藩]
 ―略―
二 会津藩士の保護
 ―略―
高須藩には、明治二年六月から
手代木直右衛門と秋月悌次郎の二名が預けられた。
初め東京四ッ谷屋敷の囲いのない勤番長屋の様な所に住まわせ、
七月に高須に移った。
 ―略―
明治四年正月、高須藩の大塚権大参事ほか
二名から明治政府へ照会した文書に、
 一 東京四谷邸是迄官邸に御届相成居候処私邸に御届替、
   角筈私邸は御差上相成候哉之事
   但朝廷え御逹済之四谷邸之内に
   斗南藩士卒寓居羅在候間此侭差置候積もりにて宜哉
 一 御預人元会津藩
   手代木直右衛門
   秋月貞次郎義
   御引取可被成下哉之事
 というのがあり、
 国元に手代木直右衛門、秋月悌次郎を預かり、
 四ッ谷邸に斗南藩士卒を保護していたことが知れる。
 残念ながら現在のところ四ッ谷邸に居た人数、名前など不明である。
 ―略―
http://www7.ocn.ne.jp/~takasu/aizu.html

《福岡藩ニテ謹慎 竹中丹後》
[Wikipedia]
[竹中 重固](たけなか しげかた)
(文政11年(1828年) - 明治24年(1891年))は、
江戸幕府後期の旗本。
従五位下遠江守、丹後守。号は春山(しゅんざん)。
 ―略―
明治2年(1869年)、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、
5月28日、養父竹中図書の薦めにより投降した。
 ―略―
維新後は領地没収・除族のうえ、
福岡藩預り、のちに竹中家預りに処される。
明治4年(1871年)、養父重明とともに北海道に入植する。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E5%9B%BA

《津藩ニテ謹慎 松平越中》
[Wikipedia]
[松平 定敬](まつだいら さだあき)は、
幕末の伊勢桑名藩の藩主
(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。
京都所司代。定綱系久松松平家13代。
兄に尾張藩主徳川慶勝、
一橋家当主徳川茂栄、
会津藩主松平容保などがいる。
いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。
 ―略―
官位 従五位下越中守、従四位下侍従
   左近衛権中将、従二位
 ―略―
明治2年(1869年)
         4月26日、横浜に移動。
         5月20日、降伏。
         8月1日、桑名藩は定教(幼名:万之助)をもって
              藩主となし存続。
         8月15日、江戸における
              伊勢の津藩(藤堂家)の藩邸にて永禁錮処分。
明治4年(1871年)3月15日、身柄を伊勢桑名藩に移動。
明治5年(1872年)1月6日、謹慎を免ず。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC

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