◆学校

[英語政治科:明治24年~37年得業]【早稲田大学校友会会員名簿】大正4年

[英語政治科:明治24年~37年得業]
【早稲田大学校友会会員名簿】大正4年

[英語政治科:明治24年~37年得業]
【早稲田大学校友会会員名簿】大正4年
《新聞・雑誌・著述・京都府等を記載》

【早稲田大学校友会会員名簿.大正4年11月調】
 大正4年12月24日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/189
◎英語政治科       p37-41/189
●明治二十四年得業   p37/189
鹽澤昌貞》  茨城  本大學維持員、理事、政治經濟學科長
            敎授、法學博士
《仁王頭辰二》 山口  山口縣吉敷郡吉敷村
《小森虎三郎》 長崎  死亡
《中村順三》  千葉  米國在留
《縄田淸太郎》 福岡  死亡
《三輪淸吉》  山口  北豐島郡高田村大原一六八四
※得業者:6名

●明治二十五年得業   p37/189
岩城之寛》  愛媛  京橋區新佃島 海水館
            財界社 主幹
《高田俊雄》  東京  本大學出版部 主事

●明治二十六年得業   p37/189
《伊東誠次郎》 京都  死亡

●明治二十七年得業   p37/189
《松山忠次郎》 滋賀  東京朝日新聞記者 本大學評議員
《井汲倉藏》  奈良  芝區南佐久間町一、三
            書畫骨董雜誌 社長
《岩佐善太郎》 熊本  京橋區弓町 朝報社
            朝報社 記者
《渡邊繁三郎》 山形  山形縣飽海郡南平田村飛鳥
            新庄内 記者
《岩下直人》  熊本  熊本市東坪井町
            新聞記者
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/37
●明治二十八年得業   p38/189
《大江乙亥門》 新潟  本郷區西片町二〇
            實業之日本 記者

●明治二十九年得業   p38/189
河原林檉一郎》京都  下關市外濱町四九
            三井物産會社 門司石炭部 主任
《川島淸治郎》 岐阜  牛込區横寺町四九
            大日本 記者
《入澤京太郎》 岡山  福岡市藥院原ノ町
            大正時報社 主筆
《人見潤之助》 京都  米國 在留

●明治三十年得業    p38/189
《都倉義一》  神奈川 牛込區喜久井町二〇
            實業之日本 記者、本會幹事
《服部 暢》  熊本  牛込區南榎町
            時事■存社主

●明治三十一年得業   p38/189
《田中収吉》  福岡  北豐島郡高田村巣鴨上リ屋敷三六一五
            東京日々新聞 記者
《倉辻明義》  愛媛  富山市
            富山日報社 主筆
《小山田淑助》 東京  麹町區有樂町一、四 議會春秋社
            新聞之新聞 主幹

●明治三十二年得業   p38/189
《宮部敬治》  熊本  京橋區瀧山町
            東京朝日新聞社 記者
碧川企救男》 鳥取  大阪市今橋三丁目
            大阪新報社 記者
三宅 磐》  大阪  横濱市靑木町上臺町一八六
            横濱貿易新報 社長
西川光次郎》 兵庫  麹町區有樂町三、一
            著述業
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/38
●明治三十三年 得業  p39/189
《中西淳亮》  島根  赤坂區靑山南町五、五
            東京日日新聞 記者

●明治三十四年 得業  p39/189
右近和作》  福井  大阪市江戸堀
            日本海上運送火災保険會社 常務取締役

《安田與四郎》 東京  荏原郡北品川北馬場一二六
            勞力新聞 主幹
《桑原磊三》  新潟  大阪市
            大阪毎日新聞社 記者

●明治三十五年 得業  p39-40/189
《大岡 保》  山形  赤坂區仲ノ町一三
            東京日日新聞 記者
《嘉納虎太郎》 北海道 小樽區
            小樽新聞社 記者
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/39
出野信慶》  京都  京都府船井郡胡麻郷村 p40/189
            胡麻郷村 村長
《筧 通》   香川  大阪市
            大阪時事新報社 記者

●明治三十六年 得業  p40-41/189
《畑田保次》  大阪  大阪市南區天王寺勝山通二、五八九七
            大阪朝日新聞 記者
《松田知之》  石川  横濱市神奈川上反町四六九
            ジャパンヘラルド 記者
原 澄治》  岡山  本大學評議員、倉敷紡績 會社員
            中國民報 社長
菊竹 淳》  福岡  福岡市土手町一九
            福岡日日新聞 記者
《吉田喜太郎》 大阪  大阪市東區農人町一、一四六
            大阪朝日新聞 社員
《奥村卯兵衛》 長野  牛込區拂方町二五
            中外時報社 主幹
《吉田秀彌》  福島  牛込區水道町五二
            商業興信所 編輯員
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/40
《西井行一》  京都  京都府相樂郡中和泉村
            大谷商店 店員
《伊藤五郎右衛門》福岡 福岡縣遠賀郡長津村
《關口泰輔》  新潟  京都市高倉
            大丸呉服店 店員
《平野石藏》  京都  米國 在留

●明治三十七年 得業  p41/189
《木村豐二郎》 滋賀  大阪市天下茶屋與吉之芝八六五
            大阪朝日新聞 記者
            陸軍三等主計
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/41

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[佛英和高等女學校]【中等学校並に校長総覧. 第1編】昭和4年

[佛英和高等女學校]【中等学校並に校長総覧. 第1編】昭和4年

【中等学校並に校長総覧. 第1編】昭和4年
[佛英和高等女學校] p58/132
東京市麹町區富士見町二ノ三五
市電 九段坂上 下車
電話 九段九二三番

同校は初め女子佛英和學校と稱し、
外國語敎授の目的を以つて
明治十二年創立せしものなるが、
その後校舎の擴張をなし發展をなして、
後ち更に高等女學校令の基き、
文部大臣よりの認定を享けて現校名に改め、
大正二年校舎の類焼に遭ひ、
直ちに復舊に着手して、
その翌年竣工を告げ以つて今日に至る、
約五十年間の校歷を有す。
學年及び収容生徒定數
本科五ケ年五百名、
敎員二十二名、
授業料年六拾六圓、
考査料貮圓、
入學料參圓、
昭和四年の入學志願者二百五十三名。
《校長 マリデ・ウチエー氏》
同氏は宗敎家として名あり、
亦た女子敎育家として知らる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1031938/58
昭和四年九月三十日印刷
昭和四年十月十八日發行
金 五圓
編著兼發行人 山崎扇城
       東京市外澁谷町下通二ノ一七
印刷人    庵原忠一郎
       靜岡市土太夫町一〇ノ二
印刷所    田中屋印刷所
       靜岡市土太夫町一〇ノ二
發行所    新聞事報社
       東京市外澁谷町下通二ノ一七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1031938/131

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《高坂正顯》[大正6年3月卒業]【旅順第一中学校一覧】

高坂正顯》[大正6年3月卒業]【旅順第一中学校一覧】

[旅順第一中学校]
大正 年  入学
大正6年3月卒業

【旅順第一中学校一覧. 大正13年】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p29/42
東京帝大文學部 高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939469/29

【旅順第一中学校一覧. 大正14年】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p29/41
文學士 大阪醫大 助教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152264/29

【旅順第一中学校一覧. 大正15年】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p30/44
文學士 大阪醫大 助教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939470/30

【旅順第一中学校一覧. 昭和2年5月】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p29/43
文學士 京都醫大 助教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282201/29

【旅順第一中学校一覧. 昭和3年5月】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p29/45
文學士 京都醫大 助教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276754/29

【旅順第一中学校一覧. 昭和4年5月】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p23/40
文學士 京都府立醫大 助教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277782/23

【旅順第一中学校一覧. 昭和6年5月】
 第五回卒業生 大正六年三月 五十二名 p28/48
文學士 京都府立醫大 教授
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275137/28

第四高等学校:第一部 法科 英法科]
大正6年9月入学
大正9年6月卒業

【第四高等学校一覧・第十臨時教員養成所一覧. 自大正6至7年】
生徒(大正六年九月三十日現在)      p51/115
 第一部 第一年 甲組 英法科 四十人 p57/115
關東都督府 高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940336/57

【第四高等学校一覧・第十臨時教員養成所一覧. 自大正9至10年】
大正九年六月卒業 p116/129
 第一部法科 英法
在京文 高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940339/116

[京都帝國大学:文学部 哲学科]
大正 9年9月入学
大正12年3月卒業

【京都帝国大学一覧. 自大正9年 至大正11年】
學生及生徒姓名 大正十年十一月現在 p156/283
 第五 文學部學生及生徒      p174/283
哲學科
大正九年入學
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940185/174

【京都帝国大学一覧. 自大正12年 至大正13年】
大正十二年三月卒業 p286/339
哲學科 哲學專攻
高坂正顯 愛知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940187/286

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[女子美術學校長 藤田文藏]【因伯立志人物】大正4年

[女子美術學校長 藤田文藏]【因伯立志人物】大正4年

【因伯立志人物】大正4年
[女子美術學校長 藤田文藏] p23/51
女子美術學校長として盡しつゝある
藤田文藏は舊鳥取藩士であつて、
文久二年(1862)
因幡國岩美郡の生れである、
幼少の時から美術思想に富み、
頗る彫刻を好んでゐた。

偶々東京の某校で、
外國から彫刻の敎師を迎へて
之を授けると聞き、
上京して此處に入り
一意專心其技を磨いたのであります。

明治十五年(1882)六月
卒業して出たのでありますが、
當時は未だ我國の事情は
泰西の美術を解する程の度に進んで
ゐなかつたのでありますから、
彫型の業で以て世に立つことは困難でありました。

そこで文藏は靑年女子の敎育に身を投じ
或は基督敎の傳道に力を致し
傍ら其技術を磨いてゐたのであります。

此間殆ど二十箇年間。

明治三十三年に至つて
文藏の技術は社會に認められて
美術學校の敎授に推され、
其名が世に高くなつた。

それから文藏は、
女子美術學校を設立して
多年婦人社會が要求してゐた
希望を充すことゝなり、
今日ますます熱心に
女子美術敎育に盡してゐるのです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911014/23
大正四年七月二十八日印刷
大正四年八月  二日發行
正價 拾五錢
鳥取佛敎靑年會編纂
代表者 岩田勝市
    鳥取市立川町一丁目六拾參番屋敷
發行者 横山敬次郎
    鳥取市上魚町四拾五番地
印刷者 岡村豊次郎
    鳥取市西町百三十一番地
活版所 岡村活版所
    鳥取市西町百三十一番地
發行所 横山書店
    鳥取市大工町筋
    振替 大阪四二六八番
    電話 三〇九番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911014/41

【浅井忠:画集及評伝】昭和4年
[工部美術學校生徒と十一字會同人] p68/155
工學寮に附屬する所の
工部美術學校なるものが創設されたのは
明治九年(一八七六年)の十一月であつた。
 ―略―
「明治九年十一月六日
 工部美術學校ヲ創設シ、本校ニ屬ス。
 其學科ハ畫學、彫刻ノ二科
 (畫學ハ畫法及油畫ヲ敎ヘ、
  彫刻學ハ石膏ヲ以テ
  各種物形ヲ模造スル等ノ諸術ヲ敎ユ)トシ、
 伊人三名ヲ徴傭シテ敎師ト爲シ、
 其校則ヲ選定シテ之ヲ頒布ス。
 二十五日美術學科中
 彫刻生徒ニ限リ、
 官費ヲ以テ就學セシムルモノトシ、
  ―略―」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/68
伊太利から招聘された敎師は
フオンタネージ(繪畫)
ラグーザ(彫刻)
カペレツチ(豫科)
の三人であつたが、
フオンタネージを首班として居た。 p69/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/69
「十二月十四日
 美術學校規則中ニ女子ノ入校ヲ許シ、
 又男女共毎週間、月、水、金ノ三日
 通學ヲ許ス等ノ數條ヲ追加シ之ヲ頒布ス」。
とあるのを見ると、
通學は毎日でなく、
隔日であつたらしい。
兎に角
明治初年に官立學校に於て
男女の共學が行はれて居たのは
面白いことである。

女生には大鳥雛子、岡村政子
中島待乳の妻となつた秋保某や
神中糸子と云ふ樣な人達が居た。

大鳥雛子は當時工作局長であり、
又工部大學校の事務を總理し、
美術學校長をも兼ねて居た
大鳥圭介の女であつた。  p70/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/70
昭和四年十月廿九日印刷
昭和四年十一月五日發行
定價 金七圓
著作者    石井柏亭
       東京府日暮里町字日暮里一〇三五番地
發行者    合名會社 芸艸堂出版部
       京都市中京區寺町通二條南入十八番戸
圖版 印刷者 田中松太郎
       東京府荏原郡大崎桐ケ谷五八二番地
本文 印刷者 一噌連
       東京市芝區兼房町十五番地
發行所    合名會社 芸艸堂
       東京市本郷區湯島一丁目
       電話 下谷 三六〇〇番
       振替 東京四〇九四〇番
       京都市寺町通二條南
       電話 上 二九〇番
       振替 大阪二五八番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/152

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[女子美術大学]
1900年10月 (明治33)
私立女子美術学校設立の許可を受ける
発起人 横井玉子、藤田文蔵、谷口鉄太郎、田中晋
http://www.joshibi.ac.jp/about/development

《學校長:高 良二》 [大阪英語学校]明治11年9月-11年12月

《學校長:高 良二》
【[大阪英語学校]第十学年第一期校表. 明治11年9月-11年12月】

【[大阪英語学校]第十学年第一期校表. 明治11年9月-11年12月】
   第二章 職員 明治十一年九月一日調査  p5/21
 學校長
明治八年十月廿二日囑任    《高 良二》 高知
 敎員
明治十年九月三日 囑任 訓導 《堤 從正》 東京
同           同  《小川?吉》 愛知 ※?=金+冉
                ※小川ゼン吉・小川セン吉
同           同  《甘糟鷲郎》 山形
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/5
―略―
 外國敎員                  p6/21
(明治十一年八月一日ヨリ)
(同 十三年七月三十一日マテ)結約 《アイザック、イートン》  英國

(明治十一年九月十日ヨリ)
(同 十三年七月三十一日マテ)結約 《ゼー、サンマルス》    英國

(明治十一年一月廿一日ヨリ)
(同 十二年一月二十日マテ) 結約 《シ、エチ、エチ、ウォルフ》米國

(明治十一年九月一日ヨリ)
(同 十二年七月三十一日マテ)結約 《ヂ、ゼ、ペンニー》    英國
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/6
   第三章 生徒現数 明治十一年九月一日調査  p7/21
 上等第一級
濱田健次郎 大坂    中野賀充  長崎
雀部 饒  岡山    大島邦太郎 長崎
 計 四人

 上等第二級
加藤彰廉  愛媛    中川恆次郎 大坂
進 經太  山口    吉田經太郎 栃木
佐藤政太郎 大坂
 計 五人

 上等第三級
長谷川末治 長崎    小牧增次郎 大坂
秦 政吉  兵庫    野田鉄之助 長崎
松浦三次郎 兵庫
 計 五人

 上等第四級   ―略―  計 十一人
 上等第五級   ―略―  計 十八人
 上等第六級   ―略―  計 十四人
 下等第一級   ―略―  計 十五人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/7
 下等第二級   ―略―  計 廿一人  p9/21
 下等第三級   ―略―  計 廿二人
 下等第四級   ―略―  計 廿七人
 下等第五級   ―略―  計 十九人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/9
 下等第六級 甲 ―略―  計 廿一人  p10/21
 下等第六級 乙 ―略―  計 十六人
 下等第六級 丙 ―略―  計 十二人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/10

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[京都大学百年史 資料編3 5-1 - 京都大学電子図書館]
第5編  年表
[1875(明治8)年]
2.23 大阪英語学校、校名改称に伴い改正した学則を伺出。3月31日認可。
4.- 大阪英語学校、構内旧理学所と薬園地を内務省大阪司薬場へ引き渡し。
6.24 大阪英語学校、普通科卒業生を対象とした専修科設置を上申。
    12月24日再上申。
9.- 大阪英語学校、授業手伝生制度を導入。
10.10 文部省督学局九等出仕高橋是清、大阪英語学校長に就任。
10.14 文部省八等出仕高良二、大阪英語学校長に就任。
11.29 同志社英学校開校。
1912.2.14 同志社大学設立。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-1.html

[Wikipedia]
大阪英語学校 (旧制)
大阪英語学校(おおさかえいごがっこう)は
、1873年(明治6年)に、
大阪府に設置された官立外国語学校である。
概要[編集]
1873年(明治6年)2月「開明学校」(かいめいがっこう)として設立され、
1874年12月、大阪英語学校と改称された。
中等教育相当の機関で、第三高等学校の前身である。

[Wikipedia]
第三高等学校 (旧制)
旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっこう)は、
京都市に所在した旧制高等学校。略称は「三高」。
現在の京都大学の前身の一つである。
1894年に第三高等中学校(1886年設立)を母体として発足し、
初代校長は折田彦市。

[Wikipedia]
京都大学

《學校長:高 良二》 [大阪英語学校]明治11年9月-11年12月

《學校長:高 良二》
【[大阪英語学校]第十学年第一期校表. 明治11年9月-11年12月】

【[大阪英語学校]第十学年第一期校表. 明治11年9月-11年12月】
   第二章 職員 明治十一年九月一日調査  p5/21
 學校長
明治八年十月廿二日囑任    《高 良二》 高知
 敎員
明治十年九月三日 囑任 訓導 《堤 從正》 東京
同           同  《小川?吉》 愛知 ※?=金+冉
                ※小川ゼン吉・小川セン吉
同           同  《甘糟鷲郎》 山形
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/5
―略―
 外國敎員                  p6/21
(明治十一年八月一日ヨリ)
(同 十三年七月三十一日マテ)結約 《アイザック、イートン》  英國

(明治十一年九月十日ヨリ)
(同 十三年七月三十一日マテ)結約 《ゼー、サンマルス》    英國

(明治十一年一月廿一日ヨリ)
(同 十二年一月二十日マテ) 結約 《シ、エチ、エチ、ウォルフ》米國

(明治十一年九月一日ヨリ)
(同 十二年七月三十一日マテ)結約 《ヂ、ゼ、ペンニー》    英國
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/6
   第三章 生徒現数 明治十一年九月一日調査  p7/21
 上等第一級
濱田健次郎 大坂    中野賀充  長崎
雀部 饒  岡山    大島邦太郎 長崎
 計 四人

 上等第二級
加藤彰廉  愛媛    中川恆次郎 大坂
進 經太  山口    吉田經太郎 栃木
佐藤政太郎 大坂
 計 五人

 上等第三級
長谷川末治 長崎    小牧增次郎 大坂
秦 政吉  兵庫    野田鉄之助 長崎
松浦三次郎 兵庫
 計 五人

 上等第四級   ―略―  計 十一人
 上等第五級   ―略―  計 十八人
 上等第六級   ―略―  計 十四人
 下等第一級   ―略―  計 十五人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/7
 下等第二級   ―略―  計 廿一人  p9/21
 下等第三級   ―略―  計 廿二人
 下等第四級   ―略―  計 廿七人
 下等第五級   ―略―  計 十九人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/9
 下等第六級 甲 ―略―  計 廿一人  p10/21
 下等第六級 乙 ―略―  計 十六人
 下等第六級 丙 ―略―  計 十二人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812599/10

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[京都大学百年史 資料編3 5-1 - 京都大学電子図書館]
第5編  年表
[1875(明治8)年]
2.23 大阪英語学校、校名改称に伴い改正した学則を伺出。3月31日認可。
4.- 大阪英語学校、構内旧理学所と薬園地を内務省大阪司薬場へ引き渡し。
6.24 大阪英語学校、普通科卒業生を対象とした専修科設置を上申。
    12月24日再上申。
9.- 大阪英語学校、授業手伝生制度を導入。
10.10 文部省督学局九等出仕高橋是清、大阪英語学校長に就任。
10.14 文部省八等出仕高良二、大阪英語学校長に就任。
11.29 同志社英学校開校。
1912.2.14 同志社大学設立。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-1.html

[Wikipedia]
大阪英語学校 (旧制)
大阪英語学校(おおさかえいごがっこう)は
、1873年(明治6年)に、
大阪府に設置された官立外国語学校である。
概要[編集]
1873年(明治6年)2月「開明学校」(かいめいがっこう)として設立され、
1874年12月、大阪英語学校と改称された。
中等教育相当の機関で、第三高等学校の前身である。

[Wikipedia]
第三高等学校 (旧制)
旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっこう)は、
京都市に所在した旧制高等学校。略称は「三高」。
現在の京都大学の前身の一つである。
1894年に第三高等中学校(1886年設立)を母体として発足し、
初代校長は折田彦市。

[Wikipedia]
京都大学

[第一回卒業 明治24年4月 15名] 【東京府立第一高等女学校一覧】

[第一回卒業 明治24年4月 15名]
【東京府立第一高等女学校一覧. 明治37年度】

[第一回卒業 明治24年4月 15名]
【東京府立第一高等女学校一覧. 明治40年度】

【東京府立第一高等女学校一覧. 明治37年度】
 明治38年2月12日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813211/68
三 卒業生徒(姓名ノ上ニ○を附セルハ     p49/75
       本科卒業ノ後 師範科ヲ卒ヘタル者
       △ヲ附セルハ
       本科卒業ノ後 補習科ヲ卒ヘタル者トス)

  第一回卒業 明治二十四年四月(拾五名)  p49/75
                (イロハ順以下同シ)
市來 改 ○白石ゆり
     ○市岡こう
      長谷川よし
     ○長谷部せん
花形 改  川部千代
早川 改 ○西巻つじ
     ○小田いつ
      小原ひさ  淺草區精華小學校 敎員
     ○吉川やへ
     ○椿 のぶ
     ○中村なほ
上田 改 ○奥村さと
     ○松岡もと             p50/75
靑木 改 ○平田いよ
     ○平泉よね
  第二回卒業 明治二十四年十月(參拾八名) p50/75
      ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813211/49

【東京府立第一高等女学校一覧. 明治40年度】
 明治40年10月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813212/75
三 卒業生徒(姓名ノ上ニ○を附セルハ     p45/82
       本科卒業ノ後 師範科ヲ卒ヘタル者
       △ヲ附セルハ
       本科卒業ノ後 補習科ヲ卒ヘタル者トス)

  第一回卒業 明治二十四年四月(拾五名)  p45/82
                (イロハ順以下同シ)
市來 改 ○白石ゆり
     ○市岡こう
      長谷川よし
     ○長谷部せん
花形 改  川部千代
早川 改 ○西巻つじ  在 英國倫敦
     ○小田いつ
      小原ひさ  京橋區月島小學校 敎員
     ○吉川やへ
     ○椿 のぶ
     ○中村なほ
上田 改 ○奥村さと
松岡 改 ○羽仁もと
靑木 改 ○平田いよ
平泉 改 ○齋藤よね
  第二回卒業 明治二十四年十月(參拾八名)
      ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813212/45

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

「東京府立第一高等女学校」
[都立 白鴎中高一貫]
都立白鴎高校・附属中学校
125年の歴史ある伝統校
都立初の中高一貫校となり9年目
沿 革
明治21年12月 東京府高等女学校として、
        京橋区南小田原町4丁目8番地に創立(28日)
明治24年5月  同窓会を創設する。
        (明治40年10月 「鴎友会」と名称を定める)
明治33年4月  東京府第一高等女学校と改称する
明治34年7月  東京府立第一高等女学校と改称する
        ―略―
http://www.hakuo-h.metro.tokyo.jp/

[外國教師:英語:佛語:獨語:計17名]【東京帝国大学五十年史. 上册】昭和7年

[外國教師:英語 8名:佛語 5名:獨語 4名:計17名]
【東京帝国大学五十年史. 上册】昭和7年

【東京帝国大学五十年史. 上册】
 昭和7年11月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/789
明治五年壬申二月二十五日  南校    p138/793
 ※1872年4月2日
 ―略―
 外國教師は
 英語に八名、卽ち
フルベツキ
グリフィス
《ウイードルハウス》
スコツト
ウヰルソン
《ホワイマーク》
《メイジョル》
《ホール》

 佛語に五名、卽ち
《マイヨ》
《フォンテーヌ》
《レピシエ》
《ピジョン》
《タルジャン》

 獨語に四名、卽ち
《ローゼンスタン》
《クニツピンク》
《シエンク》
《ゲレーフェン》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/138
第二篇 開成學校 大學南校 南校
    開成學校 東京開成學校 二二二 p146/793
[佛 一ノ部]             p146/793
 教師 《マイヨ》
    《フォンテーヌ》
    《レピシエ》
 教官 《高橋 浩》

[佛 二ノ部]             p147/793
 教師 《マイヨ》
    《フォンテーヌ》
    《レピシエ》
 教官 《高橋 浩》

[佛 三ノ部]             p147/793
 教師 《マイヨ》
    《フォンテーヌ》
    《レピシエ》
 教官 《高橋 浩》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/147
[佛 四ノ部]             p148/793
 教師 《ピジョン》
 教官 《立川光輔》

[佛 五ノ部]             p148/793
 教師 《タルジャン》
 教官 《和田德行》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/148
[佛 六ノ部]             p149/793
 教官 《田中少教授》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/149
但 教師 教官 各受持ノ課ハ 其 頭文字ヲシテ 記號トス p151/793
  壬申四月改 ※明治5年4月(1872年5月7日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453584/151

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《新納竹之助》
<佛語會話 甚タ善シ>
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2599584.html

《新納竹之助》<佛語會話 甚タ善シ>【太政官日誌. 明治6年】

《新納竹之助》
<佛語會話 甚タ善シ>
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】

【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/2
[太政官日誌 明治六年 第九十九號]  p16/197
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/16
〔文部省届書〕 六月三十日分      p18-19/197
   鹿児島縣 貫屬 士族
  《新納竹之助》  十八歳      p19/197
右者 慶應二年四月 ※慶應2年4月(1866年5月15日)
私費ヲ以テ佛國留學
本年五月廿六日歸朝 ※明治6年5月26日(1873年5月26日)
本月十八日     ※明治6年6月18日(1873年6月18日)
東京開成學校ニ於テ
理學教師《マイヨ》
數學教師《レピシェー》
文學教師《フォンテーヌ》ヲ以テ
其學術ヲ試驗ス
佛語會話 甚タ善シ
學科上ニ至テハ 未熟ニシテ
其學力
同校 下等中學 第二級ニ相當ノ由
申出タリ
依テ左ニ其表ヲ掲ク
    試驗表
佛語  格別ニ善シ
    然レドモ國語不通ニ付
    和解ヲ能クセズ
算術  分數 並ニ比例式迄 研業
    其餘 十分ナラズ
地理  初歩ノ部
    未ダ 十分ナラズ
幾何學 平面ノ部迄 研業
    其餘 十分ナラズ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/19

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《新納竹之助の父》

《新納 中三》(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)
(天保3年4月15日(1832年5月15日)
- 明治22年(1889年)12月10日)は、
江戸時代末期(幕末)から明治初年にかけての薩摩藩家老。
通称の刑部でも知られる。
字は久脩。諱が中三[1]。
幼名は万次郎、のち次郎四郎、次郎兵衛。
略歴[編集]
―略―
慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。
薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を
五代友厚・松木弘安とともに引率してイギリスに渡航。
変名を石垣鋭之助と称した。
その後フランス・プロイセン・オランダ・
ベルギー各国を歴訪・視察した。
ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)の
モンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、
ブリュッセルにおいて薩摩藩と
モンブランの商社設立契約を結んだ。
また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、
翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、
勝手方家老に昇進して開成所を所管。
また同年、
息子の竹之助をフランスへ留学させている。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%8D%E4%B9%85%E8%84%A9

[外國教師:英語 8名:佛語 5名:獨語 4名:計17名]
【東京帝国大学五十年史. 上册】昭和7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2599585.html

《米國人:ヘース》《宮本貞幹》【[大阪府立北野中学校]創立五十周年】

《米國人:ヘース》
《宮本貞幹》
【[大阪府立北野中学校]創立五十周年】昭和8年

【[大阪府立北野中学校]創立五十周年】
 昭和8年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075985/127
[大阪府立 北野中學校 沿革 概要] p14/129
明治六年四月  東區難波御堂内ニ
※1873年4月   一校ヲ設ケ
        集成學校ト稱シ
        米國人《ヘース》 及
        十一等出仕《宮本貞幹》ヲ教員トシ
        四學級ヲ編成シ
        英語ニテ普通學科ヲ授ク
        經費ハ府税ヲ以テ支辨ス
        之ヲ本校ノ始祖トス

明治六年九月  東西兩區ニ各一校ヲ増設シ之ヲ
※1873年9月   東西進級學校ト稱シ
        國書ヲ以テ普通學科ヲ授ク
        尋イテ
        東進級學校ヲ難波御堂内ニ移轉ス
        蓋シ集成學校ト相駢ヒ
        英書國書各好ム所ニ從ヒ
        生徒ヲシテ其ノ志ヲ達セシメントスルニ
        出ツルナリ

明治八年九月  西進級學校ヲ東進級學校ニ併合ス
※1875年9月

明治十年二月  鸞輿畿甸ニ臨幸セラルルニ際シ
※1877年2月   兩校ニ臨幸シタマヒ
        加フルニ優渥ナル恩賜アリ
        西南事變起リ
        本校ヲ總督府ニ當テラル
        因ツテ假ニ他ヘ移轉ス

明治十年六月  中之島常安町ノ新築校舎ニ移轉ス
※1877年6月

明治十年八月  集成進級兩校ヲ併セテ
※1877年8月   一トシ
        大阪府第一番中學校ト稱シ
        學科ヲ上下二等ニ分チ
        修業年限ヲ各三箇年ト定ム
        舊 進級學校 監事《瀧 誠齋》
        本校監事ニ任ス

明治十一年八月 學科ヲ修正シ修行年限ヲ五箇年ニ改ム
※1878年8月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075985/14

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[大阪府立  北野高等學校]
 〒532-0025 大阪市淀川区新北野2丁目5番13号
<沿革詳細>
〔明治時代〕
1872(明治5)年 8月 学制頒布。
1873(明治6)年 4月 東区難波御堂内に欧学校を創立。
       5月 欧学校を集成学校と改称。
1874(明治7)年 9月 東進級学校(東区今橋通5丁目)、
          西進級学校(西区靫南通4丁目)開校。
       11月 東進級学校を難波御堂内に移転。集成学校と併設。
1876(明治9)年 9月 西進級学校を東進級学校に合併。
1877(明治10)年2月 明治天皇、集成、進級学校に臨幸。
       6月 北区中之島常安町の新築校舎に移転。
       8月 集成・進級両校合併して大阪府第一番中学校と称す。
1879(明治12)年2月 府立大阪中学校と改称。
          ―略―
http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/chronicle.html

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