瀬谷小次郎:安藤小次郎:大関増勤

《大關增勤氏に讓渡》西周の邸宅(西小川町一丁目)明治14年2月【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年

【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
著者    相沢英次郎 編
出版者   相沢英次郎
出版年月日 昭和15
(明治四年に初めて寫したる寫眞)
 p8【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
〔画像〕p8【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/8

明治十四辛巳年 朮五十七歳
二月二十三日 西周(にし あまね)
西小川町一丁目の邸宅を
大關增勤氏に讓渡したので、
豫て求め置いた
麴町區下二番町六十三番地の邸宅に引移つた。
 p54【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
〔画像〕p54【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/54
昭和十五年九月二十八日印刷
昭和十五年十月 一 日發行 非賣品
編纂兼 相澤英次郎
發行者 横濱市中区西戸部町二丁目二二一
印刷者 福神 和三
    東京市京橋區銀座西一丁目七番地
印刷所 福神製本印刷所
    東京市京橋區銀座西一丁目七番地
    電話京橋六六八五・六七一〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/88
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《神田五軒町》松平忠禮、酒井忠美、建部秀隆、大關增勤、黑田直養ノ五邸【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968

【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
出版者   睦書房
出版年月日 1968
 ◎神田五軒町
  〇總 説
 〇位 置
舊お成街道の西側にして
北は下谷區西黑門町に接し。
東は龜住町、元佐久間町、榮町に對し。
南は末廣町に連り
西は本郷區湯島三組町を隣とす。
而して一番地より二十番地に岐つ。
 〇町名の起源
神田五軒町は
もと
建部内匠頭、酒井安藝守、
黑田伊勢守、大關信濃守、松平伊賀守
以上五家の邸地たりしを以て。
明治の初 此名を附せり。
p123【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
〔画像〕p123【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640999/1/123
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【東京都市計画土地区劃整理施行区域内町名沿革調 巻1】
著者    東京市区劃整理局 編
出版者   東京市区劃整理局
出版年月日 [昭和9]
神田區五軒町
舊時 松平忠禮、酒井忠美、建部秀隆、
大關增勤、黑田直養ノ五邸ナリ
明治五年
右ヲ合シテ新ニ町名ヲ加フ
藩邸五軒ニ取ルト云フ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212869/1/44
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《下谷原宿町の項で三之輪町》明治五年華族大関氏邸其他土地ヲ此町ニ合併セリ【三の輪町史】1968

【三の輪町史】1968
著者    三の輪町史編さん会 編
出版者   三の輪町史編さん会
出版年月日 1968
明治三年から明治五年にかけて、
東京府志料が
下谷原宿町の項で
 三之輪町トイヒシヲ
 明治三年八月斯ク改称セリ
 明治五年華族大関氏邸其他土地ヲ此町ニ合併セリ
と述べているような変化を遂げた。
原宿というのは、
本項冒頭引用の江戸往古図説及び
地名由来の項を参照していただければ分るが、
三の輪の古い別称である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/22
「大関氏邸其他土地」というのは、
嘉永六年版の切絵図及び  ※下記記載
安政三年(一八五六)版の
根岸谷中日暮豊島辺図に
「大関信濃守、宗対馬守、池田播磨守、
 石川日向守、加藤大蔵少輔」
と記されている地域であったろう。
この地は現在荒川区に編入されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/23
 大関横丁
大関横丁というよりも、
三河島火葬場通りといった方が分りやすい。
現在この大関横丁は明治通りになっている。
明治通りは別名環状線という。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/87
昭和四十三年九月二十日印刷
昭和四十三年十月 一日発行
発行所 東京都台東区根岸五丁目一六番
    三の輪町史編さん会
    電話(八七三)一二五〇番
発行人 編さん会代表 渡辺兼守
印 刷 小竹印刷工場 小竹栄玉
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/112
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「大関信濃守、宗対馬守、池田播磨守、
 石川日向守、加藤大蔵少輔」
【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
出版者   東京都台東区
出版年月日 1967
 p70【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
〔画像〕p70【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984663/1/70
台東叢書 第三集 下谷浅草町名由来考
昭和42年3月25日 印刷
昭和42年3月31日 発行
編集兼 東京都台東区
発行人 東京都台東区東上野四ノ五ノ六
印刷所 有限会社 小竹印刷工場
    東京都台東区東上野五ノ七ノ二
印刷者 小竹栄玉
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984663/1/200
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大関屋敷跡(第六瑞光小学校)(三ノ輪屠殺場)【荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 18)】1978.11

【荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 18)】1978.11
著者    高田隆成 著
出版者   学生社
出版年月日 1978.11
 p34【荒川区史跡散歩 (18)】1978.11
〔画像〕p34【荒川区史跡散歩 (18)】1978.11
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/34
大関屋敷跡(第六瑞光小学校)
大関能登守は下野国黒羽城主で一万八千石、
拝領した敷地約五六〇〇坪、
抱屋敷約二千坪であった。
大関屋敷は日光街道と明治通りと交差
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/44
する信号に「大関横丁」の名を今に残している。
明治通りとして拡幅される前の大関横丁は
その幅二間(約四米)で、
曲りくねりながら火葬場へ通ずる焼場道で、
その前方には清水の森や地蔵堀の地蔵が見えたという。
また、第六瑞光小学校の南側
中林家(南千住一ノ8ノ7)は
もと大関屋敷の留守番百姓をつとめた家で、
その家屋や蔵は屋敷中に建てられたものが残っている。
第六瑞光小学校西北角に
「大関横丁の碑」が建てられている。

大関屋敷跡(三ノ輪屠殺場)
大関屋敷は今でいう南千住一丁目36番地であるが、
明治四年
三ノ輪屠場開設以来、
昭和一二年芝浦屠場の開設されるまでは
屠殺場であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/45
780円
東京史跡ガイド⑱ 荒川区史跡散歩
昭和53年11月1日 初版印刷
昭和53年11月5日 初版発行
著 者 高田隆成
    東京都荒川区東尾久3-2-4
発行者 鶴岡@巳 ※@:阝+正
    東京都千代田区九段南2-2-4
発行所 株式会社 學生社
    東京都千代田区九段南2-2-4
    電話(263)2611(代表)
    振替・東京1-18870番
    編集担当 土屋晃三
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/87
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《大関増勤》住所変遷:明治6年~明治17年【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)

【官許貴家一覧 武家華族之部】明治6年(1873)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 1873
従五位 大関増勤
下ヤ 原宿丁
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【貴家一覧 上(元武家華族之部)】明治6年(1873)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 明6.11
従五位 大関増勤
下ヤ 原宿丁
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族名鑑】明治8年(1875)
著者    西村隼太郎 編
出版者   西村組出版局
出版年月日 明8.3
従五位 大関増勤
第十區一小區
下谷原宿丁六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族銘鑑:鼇頭 増補改正】明治9年(1876)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 1876
従五位 大関増勤
下谷 原宿町六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族銘鑑 増補改正】明治9年(1876)
著者    長谷川竹葉 輯録
出版者   青山堂
出版年月日 1876
従五位 大関増勤
下谷 原宿町六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族名鑑:懐中名鑑】明治10年(1877)
著者    安倍為任 編
出版者   安倍為任
出版年月日 明10.11
従五位 大関増勤
下谷 原宿丁六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)
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【改正華族銘鑑 増補】明治11年(1878)7月
著者    長谷川竹葉 編 [他]
出版者   青山堂
出版年月日 明11.7
従五位 大関増勤
神田五軒町
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【皇族華族名鑑】明治11年(1878)
著者    河内静太郎 編
出版者   河内静太郎
出版年月日 明治11
旧 黒羽藩知事
従五位 大関増勤
湯シマ天ジン丁六十一番

【華族類別譜 上巻 皇別】明治12年(1879)
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤
東京本郷區湯島天神町一丁目六十一番地

【明治華族名鑑】明治14年(1881)
著者    石井孝太郎 編
出版者   深沢堅二
出版年月日 1881
從五位 大關增勤
東京本郷區湯島天神

【明治華族銘鑑】明治14年(1881)
著者    石川孝太郎 著
出版者   深沢良助
出版年月日 明14.5
從五位 大關増勤
東京本郷區湯島天神
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【華族類別譜 上巻 皇別】明治14年(1881)
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤  嘉永五年一月
住所 東京神田區西小川町一丁目一番地

【華族類別譜 (明治16年)上巻】1883
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤  嘉永五年一月
住所 東京神田區西小川町一丁目一番地

【華族部類名鑑】明治16年(1883)
著者    安田虎男 編
出版者   栄文堂
出版年月日 明16.10
從五位 大關増勤
住所 東京神田區西小川町壹丁目一番地

【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
著者    柴山典 編輯
出版者   屏山書屋
出版年月日 1884
從五位 大關増勤
住所 東京神田區西小川町壹丁目一番地
p12【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
〔画像〕p12【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
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【華族名鑑】明治33年(1900)
著者    秀英舎 編
出版者   秀英舎
出版年月日 明33.7
正四位 勳四等 子爵
大關 增勤  嘉永五年正月五日
夫人 年子  慶應三年正月元日
從五位
大關 增輝  明治十二年四月廿四日
東京市小石川區久堅町四十五番地

太田原一淸
東京市神田區五軒町十四番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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屋敷(下)北豐島郡三の輪村・屋敷(上)神田五軒町十四番地 華族 大田原一淸邸【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年

【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
著者    小林華平 編
出版者   小林華平
出版年月日 大正7
 p3【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p3【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
 正三位勳三等 大關增勤公 靑年の肖像
 p5【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p5【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
明治四辛未年八月十五日
※1871年9月29日
增勤携家族移テ東京住箕輪私邸

 明治十二年(1879)五月三十日
     萃族大關增勤家令代  梁瀨昌幸
屋  敷 上
町  名 外櫻田
位  置 今町名番地不相分
坪  數 不相分
給収年月 年月不相分

屋  敷 上
町  名 下谷御成道
位  置 今町名番地不相分
坪  數 不相分
給収年月 年月不相分

屋  敷 上
町  名 神田五軒町
位  置 十四番地 華族 大田原一淸邸
坪  數 三千廿五坪七号五夕
給収年月 給年月不相分
     明治四年十二月 增勤の時 上地
     ※1872年1月

屋  敷 下
町  名 北豐島郡三の輪村
位  置 三百三十七番地 平民山本半七郎
坪  數 五千五百八拾坪
給収年月 給年月日不相分 明治九年九月
     淺草吉野町四十四番地 山本半七郎
(備考) 元禄二年(1689) 櫻田より下谷廣小路へ
     御相對屋敷替云々
     (館千太郎家譜にあり)

     天明年(1781) 記錄ノ内
     上屋敷 三千百四拾五坪
     下屋敷 五千五百八拾坪
     外抱地 貳千六百拾壹坪 年貢地
     (瀧田季昭所藏記錄之内)
 p133【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p133【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
大正七年六月二十一日印刷
大正七年六月二十四日發行 非賣品
編輯兼 小林華平
發行人 東京市麻布區網代町二十一番地
印刷人 鷲見九市
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 株式會社 秀英舎第一工場
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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大関増勤・瀬谷小次郎、高知県貫属平民小野梓「華族ノ留学ヲ奨励スルノ勅語」【黒羽町誌】1982.6

【黒羽町誌】1982.6
出版者   黒羽町
出版年月日 1982.6
 p4【黒羽町誌】1982.6
〔画像〕p4【黒羽町誌】1982.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/9642631/1/4
2 廃藩置県と黒羽藩
明治四年(一八七一)七月十四日、
在京の権大参事が参内を命ぜられ、
廃藩置県の詔勅を賜わり、
大関増勤は黒羽藩知事を免ぜられた。

明治四年(一八七一)七月二十四日、
大関増勤の出京が仰出され、
「家令益子信将、家扶風野六之丞、家従大野尚」
が任ぜられ、準備に当った。
翌二十五日、太政官から帰京するようにとの達があった。

明治四年(一八七一)十月二十二日、
出府した華族に明治天皇は
「華族ノ留学ヲ奨励スルノ勅語」を下された。

 【大日本詔勅通解:虔修 増補謹訂版】1941
 著者    森清人 虔著
 出版者   龍吟社
 出版年月日 1941
   第二五一詔
 [第百二十二代]明治天皇
  華族ノ留學ヲ獎勵スルノ勅語
  明治四年十月二十二日
  太政官日誌
 https://dl.ndl.go.jp/pid/1227912/1/363

「―略―」※原文:上記PDFにあり
この趣旨によって明治五年(一八七二)一月十九日、
増勤はアメリカ留学のための洋行願いを東京府に提出した。
二月十三日、文部省より、「米国留学免許」が渡され、
十四日、「渡航免許状」が外務卿から交付され、
大関増勤・瀬谷小次郎、
高知県貫属平民小野梓の三名は、
 p309【黒羽町誌】1982.6
〔画像〕p309【黒羽町誌】1982.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/9642631/1/309
《大関増勤》 p581-582/615
明治四辛未年七月 ※1871年8月
更廃藩置県免藩知事、
八月十四日携家族移
※明治4年8月14日(1871年9月28日)
于(ここに)東京住箕輪私邸 ※別稿に記載  
(黒羽町蔵文書による)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9642631/1/582
黒羽町誌
昭和五十七年六月三十日 発行
編集 黒羽町誌編さん委員会
発行 黒羽町
   栃木県那須郡黒羽町大字黒羽田町六二二番地
   〒324-02
   電話 〇二八七五(四)一一一一(代表)
印刷 株式会社 東京印書館
   東京都板橋区成増3-36-17
   電話 〇三(九三九)一一五一
https://dl.ndl.go.jp/pid/9642631/1/610
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[大蔵省考課状]神奈川縣ヨリ 大關増勤等米國ヨリ帰朝ノ節 内國人連帰リシ處置ノ稟候:明治6年6月7日

[大蔵省考課状]神奈川縣ヨリ
 大關増勤等米國ヨリ帰朝ノ節 内國人連帰リシ處置ノ稟候:
 明治6年6月7日

第五十四號  p33/71
神奈川縣ヨリ大關増勤等米國ヨリ帰朝ノ節
内國人連帰リシ處置ノ稟候

大蔵省考課状  p37/71
 府縣雜科ノ部 明治六年四月ヨリ六月ニ至ル

第五十四號   p57-59/71
神奈川縣ヨリ華族大關増勤外三名
米國留學帰朝ノ節
亜弗利加(アフリカ)「スヱス」港ニ於テ
十五六歳ノ内國人一人漂泊ノ体ヲ診掛ケ尋問セシニ
伊勢國一志郡川口村農 勢子平助伜鉄次郎ナル者ニテ
辛未年ヨリ ※明治4年(1871)
神戸寄留外國人「コシ」ト云者ニ雇ハレアリシカ
其妻欧州ヘ帰國ニ付一同渡海セシニ
「スヱス」港ヘ上陸シ逆旅(げきりょ:旅館)ニ
三四泊シ其ヨリ
「カイロ」地方ヘ到リシ節
右妻ノ意ニ違ヒ打擲セラレシニヨリ逃走シ
「スヱス」ノ邊ニ狼狽セシ折カラ向キニ
宿セシ逆旅主人ニ邂逅セシニヨリ
前条ヲ語リ其憐ミニ由テ
今其宅ニ寄寓セリ冀(こいねが)ハクニ
一同帰朝タシタキ㫖
頻ニ歎願シ情状憫然ノ至リニ付
此回同舩帰國セシ趣ニテ
當縣ヘ引渡セルニ付
假ニ縣下ノ者ヘ預ケ置キシ㫖
稟報アリ
是ニ於テ同縣ノ報書ヲ副テ右始末
巨細(こさい)取調申白スヘシト
兵庫縣ヘ指令セシニ因テ同縣ニ於テ右事件ヲ捜索スルニ
「コシ」氏ハ佛人ニ非ス英人ノ由ニテ
同國領事ヘ同人始末取調ノ儀ヲ商議セシニ
同人此節横濱滞在中ナレハ神奈川縣ニテ取調ノ方
便利ナルヘク思フニ
當時彼

地ニテ調中ナルヘシ
若 同人同縣ノ調ヲ受ケス帰港ニ及ハヽ
當縣ニ於テ取調速カニ申牒スヘシト来報アリ
(明治6年)六月七日
p58- A07061800100
〔画像〕p58- A07061800100
p59- A07061800100
〔画像〕p59- A07061800100
レファレンスコード A07061800100
記録材料・大蔵省考課状八・本省
国立公文書館太政官・内閣関係記録材料記録材料・
大蔵省考課状八・本省
[規模]71
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02
大関 増勤   元黒羽県知事   Ozich
瀬谷 小次郎  元黒羽県知事随従 Sedzuma
小野 梓             Ono

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月27日
[不破與四郎・東久世通暉・三好退蔵・大関増勤・瀬谷小次郎]
私費留学生
米国留学 東京府貫属華族  大関増勤  當五月 二十一歳五ケ月
仝    宇都宮県貫属士族 瀬谷小次郎 當五月 二十五歳一ケ月
右十ケ月間留学四月二十七日同断
明治六年五月三十一日
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大關彈右衞門 諱は增虎(看護婦  大関チカの父)【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年

大關彈右衞門 諱は增虎(看護婦  大関チカの父)
【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年

【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年
  大關彈右衞門  p234/324
   一、家 系
 大關彈右衞門は、黑羽藩主增裕によつて、
見出されて家老となり、增裕の死に因つて職を退き、
恰も增裕の影をなしたやうな人物であつた。
 彈右衞門は通稱で、諱は增虎、家世々黑羽藩に仕へた。
父を增博と云ふ。
增博は同藩士五月女昭方の二男であつたが、
大關治部左衞門增温の養嗣子となつて、
文政十年(1827)(紀元二四八七)彈右衞門を生んだ。
故に五月女氏とは親戚である。
 彈右衞門の大關氏は、
もと藩主大關家から出たものであるが、
其の年代は明かでない。
始祖を参河守增宣と稱し、
那須郡小林村に住み、大關氏に仕へた。
家紋は藩主と同じく抱柊である。(諸臣系略)
 其の後明治三年(1870)七月、
彈右衞門は、白川縣大屬に採用され、
もと執つた杵柄の勸業の事務を掌つたが、
病を獲て退き、明治九年(1876)五月永眠した。
年五十歳。
黑羽町西崖の先塋に葬つた。
  四、贈 位
  -略-
子孫は東京本郷弓町に榮えてゐる。
昭和十九年一月二十五日印刷  下野勤皇列傳 後篇
昭和十九年一月三十一日發行   【非賣品】
    栃木縣敎育會編
    代表者 瀧田 爲壽
印刷者 江俣 雅央
    宇都宮市旭町二ノ三、四三三
印刷所(東栃一〇) 株式會社三共社印刷所
    宇都宮市旭町二ノ三、四三三
發行所 栃木縣敎育會
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年08月12日
大關 衛:黑羽藩士 大關彈右衛門の長男
(看護婦  大関チカの弟)【野州名鑑】昭和6年
看護ネット 先人の看護の定義
《大關 和(おおぜき ちか)》
大関和は, 1858(安政5)年4月11日, 
下野国黒羽(栃木県那須郡黒羽町)の国家老, 
大関弾右衛門増虎とその妻テツの次女として生まれました。
明治維新の変革に際して、幼き頃から苦労し、
また親同士決めた結婚もうまくいかず
子供を連れて実家に戻ることとなりました。
 -略-
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、江戸時代末期の大名。
下野国黒羽藩15代藩主。
大関氏黒羽藩15代藩主 (1861年 - 1867年)
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大關增裕 皮革の製造【下野勤皇列伝. 前篇】昭和15年

大關增裕 皮革の製造【下野勤皇列伝. 前篇】昭和15年

【下野勤皇列伝. 前篇】昭和15年
  大 關 增 裕  p206/279
  6 皮革の製造  p220/279
 當時皮革の製造は、
賤業の營むものとして、
非常に忌み嫌つたものであるが、
增裕は此の舊慣を打破して、
穢多の半三郎と云ふ者に命じて、
軍事に必要なる皮革の製作法を傳習させ、
時々城内新座敷の内庭、
又は練兵場に召し寄せて、
侍臣を介して使用の目的に應じ、
夫れぞれ指示して製作せしめた。
是れ蓋し
先に增業 ※下記
自ら皮革の制作を試みられた例に
倣つたものであらう。
所が、
關東八州の穢多を支配する
彈左衞門(江戸淺草に住す)と云ふものは、
半三郎が支配の許可を得ずして、
勝手なふるまひを爲すは、
假令領主の仰せとあつても不届千萬だと憤り、
其の筋に訴へて、
彈左衞門の獄屋に投じた。
侯は痛く之を憫み、
町年寄高柳倉次を出府させて、
半三郎を色々と庇護したが、
遂に彼は牢死したので、非常に嘆息された。
昭和十五年十一月一日印刷  下野勤皇列傳 前篇
昭和十五年十一月十日發行   定價 七圓五拾錢
著 者 栃木縣敎育會
發行者 皇國靑年敎育協會
    代表者 大谷 保
    東京市麴町區九段三丁目二番地
印刷所 萩原印刷所
    東京市牛込區山吹町一九八番地
發行所 皇國靑年敎育協會
    東京市麴町區九段三丁目二番地
    振替東京三〇〇〇〇番
    電話 九段一四五八番

【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年
  大 關 增 業  p246-284/324
  一九、練革私記  p274/324
 之は著述と言はうより、鎧製法に就いての、
自家の見を記述せる所謂私記である。
文化九年七月十四日、 ※1812年8月20日
堀大和守親寶に贈れるもので、
其の條目は -略-
昭和十九年一月二十五日印刷  下野勤皇列傳 後篇
昭和十九年一月三十一日發行   【非賣品】
    栃木縣敎育會編
    代表者 瀧田 爲壽
印刷者 江俣 雅央
    宇都宮市旭町二ノ三、四三三
印刷所(東栃一〇) 株式會社三共社印刷所
    宇都宮市旭町二ノ三、四三三
發行所 栃木縣敎育會
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、江戸時代末期の大名。
下野国黒羽藩15代藩主。
大関氏黒羽藩15代藩主 (1861年 - 1867年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増業(おおせき ますなり)は、江戸時代後期の大名。
下野国黒羽藩11代藩主。
大関氏黒羽藩11代藩主 (1811年 - 1824年)
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