大關增裕(下野国黒羽藩15代藩主)【名将言行録. 続】明治44年
【名将言行録. 続】明治44年
〇大關增裕 p253/268
西尾忠實の子、大關增式の嗣となり、
肥後守に任じ、黑羽城に住す、
慶応三年十二月九日、卒す、年三十一、
-略-
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作新館を新設し、漢學は藩士三田稱平を學頭とし、
劍術は武藤秋を師範とし、
又乘馬を獎勵し、率先騎馬登城を爲し、
又夫人待子に長足流の馬術を訓練せしめ、
又、野外練武の一端として在國中屢々遊獵を行ひ、
餘暇あれば郭外に出で銃獵を爲したり。
又英學敎師靑柳某を湯島天神下の下邸に迎へ、
敎場を設け、在番の士をして就き學ばしむ。
砲術は江川太郎左衞門の塾に
安藤小太郎・奥野鐵太郎を入塾せしむ。
軍學は山脇次右衞門塾に瀧田登・益子四郎を入塾せしむ。
幕府開成所に三田恒介・磯俊策・小牧祐齋をして佛語を修めしむ。
英學敎師高橋八郎に就き、
安藤小次郎・福田鐵太郎をして修學せしむ。
慶応義塾に安藤小次郎・福田鐵太郎を入塾せしむ。
杉田玄瑞塾に磯俊策・小牧祐齋をして
西洋醫學を研究せしむ。
數學敎師塚本完介に就き安藤小次郎をして
洋算の敎授を受けしむ。
西洋畫の傳習は山上兵衞を遣はし、江戸高橋精一及
横濱在留佛國人に油畫・寫眞術を傳習せしむ。
聖堂に三田恒介・伊藤克太郎を入舎修學せしむ。
寫眞技術は坂内伯隆をして
内田九一に就き其技術を修習せしむ。
文久年間、增裕夫人待子をして
長足流の馬術を鈴木勘右衞門に就き訓練せしむ。
馬乘福田多門を先とし、老女小泉春野を後乘と爲し、
三騎にて江戸市中を乘廻り、
向島、飛鳥山、龜井戸、西新井各方面へ
時々遠馬を爲さしめたり、
近世婦人乘馬の嚆矢なり。
增裕遊獵を好み、在封の時、其期節に至り、
餘暇あれば郭外に出て銃獵を試みたり。
常に扈從する者、物頭奥野忠右衞門、近習豐田隆助なり。
江戸に在る時は品川灣にバツテーラに乘じ銃獵を爲したり。
初めて封邑に就きたる時、元治二年、數百名の獵師を召集し、
那須嶽に於て猪獵を爲したり、郷人其勇壯に驚きしとぞ。
慶應三年十二月九日、
獵場にて誤り自身の銃より發したる丸(ガン)に中(アタ)りて死す。
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增裕、越後高田の人吉川儀兵衞を勸農顧問に聘し、
馬醫阿部太次右衞門を勸農方と爲し、
開拓水利其他農業一切の事務に從事せしめ、
田畑の新發を專らとし、
從來田畑の芋延を精査し、餘地は新發の名義とし、
又新發掛を置き、大目付安藤三郎左衞門
郷奉行渡邊文太夫・同小山權四郎を兼務、
松本調平・小林華平を專務とし、
其収務に關する事務を取扱はしめ、
此収入は別庫に入れ、非常の準備と爲したり。
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牛馬其他獸類の皮を以て細工を爲す職業を穢多(ゑた)と稱へ、
四民の外に置きし時、黑羽町外に一區域をなし、
其業を營むものゝ内、半三郎と云ふ者あり、
是に軍用に必要なる各種の皮製作等を傳習せしめ、
領内より産する分は其皮を隨意に取扱ひ、其用に充つ。
增裕時々城内新座敷の内庭又は練兵場に於て侍臣を介し
仕用の目的に依り夫々製作法を指示せり。
封建時代階級あるに斯ることを見聞する者、
皆奇異の感を爲したりとぞ。
明治四十四年五月 七日印刷 續名將言行錄奥付
明治四十四年五月廿五日發行 正價 金貳圓
著 者 岡谷 繁實
東京府豐多摩郡淀橋町百四十三番地
發 兌 文 成 社
東京市本郷區森川町壹番地
電話下谷三〇壹壱番 三貳壹〇番
振替 一九四六七番
發行者 貞金 近松
東京市本郷區森川町一番地
印刷者 平井 登
東京市本所區番場町四番地
印刷所 凸版印刷株式會社本所分工場
東京市本所區番場町四番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、江戸時代末期の大名。
下野国黒羽藩15代藩主。
大関氏黒羽藩15代藩主 (1861年 - 1867年)
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