野本雪巖:野本白巌(眞城)

《儒士:野本武藏》【中津歴史】明治24年12月

《儒士:野本武藏》【中津歴史】明治24年12月

【中津歴史】廣池千九郎編述
[天保子歳ノ改革:天保11年庚子(1840)〕 p142/251

儒士野本武藏ノ陰然之ヲ助クルアリ
而シテ其同志ノ士
天能三藏・小幡篤藏・島津祐太郎等
皆偉能賢才ノ資ヲ以テ政府ノ要路ニ立チ
之ヲ採用スルニ會ス
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/142
明治廿四年十二月十日印刷
明治廿四年十二月十四日出版
定價 金 壹圓
編輯兼發行者 廣池千九郎
       大分縣平民
       大分縣下毛郡鶴居村百五十一番地
印刷者    自由館印刷 擔當人
       門田虎彦
       福岡縣士族
       大分縣下毛郡中津町百六番地 第二戸寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/246

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《野本武藏》野本雪巖の子 野本白巌(眞城)
《天能三藏》
《小幡篤藏》小幡篤次郎小幡甚三郎の父
《島津祐太郎》

blog[小野一雄のルーツ]
2014年04月10日(木)
《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1726/

《野本雪巖=野本晃光:大久保麑山の母の父》【下毛郡誌】昭和2年

《野本雪巖=野本晃光:大久保麑山の母の父》
【下毛郡誌】昭和2年

【下毛郡誌】昭和2年7月20日納本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/462
《野本雪巖》 p369/466
中津藩の儒者なり、
名は晃
字 謙卿
通稱 亮右衞門
初め元良一に橘齋と號す、
宇佐郡白岩村の産
野本全庵の子なり、
家世々醫を業とす、
雪巖醫をなすを屑しとせず、
年十七名家に師事して學ばんとするも
家貧しく資なし、
中津の醫征矢野氏に寄食し
赤松滄洲・松本愚山に就て學び居ること四年、
其の業大に進みて郷に歸り
子弟を教授す、
天明四年 ※1784年
藩の文學に任ぜらる、
適々倉成龍渚
藩命を以て家を江戸邸に移す、
乃ち其の宅を賜はり代つて後進を教授す、
子弟從學する者愈々多し、
明年藩侯其の宅を収め、
學館を創設す、
進修館是れなり、
雪巖乃ち龍渚と相謀り、
新に學規を制し
釋菜を行ひ、
斡旋最も努む、
本藩の文教是れより大に興れり、
文政六年 ※1823年
召されて江戸に赴き君侯の侍讀となる、
天保五年十二月三日 ※1835年1月1日
病んで家に歿す、
歳七十四
龍王安王寺に葬む、
碑銘は帆足萬里の撰する所なり、
雪巖人と為り、
撲直其の學
朱子を宗とす、
著述には國史略詩文集等あり。
 孝婦伊知碑文  野本雪巖
 ―略―
 文化丁卯冬   ※文化4年丁卯:1807年2月
 中津文學臣 野本晃光 奉命謹誌
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/369

[野本良右衛門:野本晁光]
【大分県案内】明治35年10月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766549/282
◎宇佐郡   p256/321
◎孝女市之墓 p264-265/321
文化四年(紀元二千四百六十七年)
藩主 奥平昌高
儒臣 野本良右衛門をして碑銘を作らしめ…
文化四丁卯冬 中津文學臣 野本晁光 奉命謹誌
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766549/264

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>63《教之:大久保麑山》~66《四男 季吉》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-2.html
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《野本雪巖:中津藩の儒者》[豊前人物志](復刻版)昭和48年

《野本雪巖:中津藩の儒者》
[豊前人物志](復刻版)昭和48年

[豊前人物志](復刻版)昭和48年
《野本雪巖》
野本雪巖は中津藩の儒者なり、
名は晃
字 謙卿、
通稱 亮右衞門
初め元良、
一に橘齋と號す、
宇佐郡白岩村の産、
野本全庵の子なり、
家世々醫を業とす、
雪巖
醫を爲すを屑しとせず、
年十七
名家に師事して學ばんとするも
家貧にして資なし、
中津の醫
征矢野氏に寄食し、
餘暇を以て讀書を勉め、
初め原田東岳、倉成龍渚に學び、
年廿二、
京師に遊び和田大淳に寄食し、
赤松滄洲松本愚山に就て學び、
居ること四年、
其の業大に進みて郷に歸り
子弟を敎授す、
天明四年 ※1784年1月
藩の文學に任ぜらる、
適々倉成龍渚
藩命を以て、
家を江戸の邸に移す、
乃ち其の宅を賜はり代つて後進を敎授す、
子弟の從學する者愈々多し、
翌年藩侯其の宅を収め、
學館を創設す、
進修館是れなり、
雪巖乃ち龍渚と相謀り、
新に學則を制し
釋奠を行ひ、
斡旋最も努む、
中津藩の文敎是れより大に興れり、
文政六年      ※1823年2月
召されて江戸に赴き君侯の侍讀となる。
天保五年十二月三日 ※1835年1月1日
病で家に歿す。
歳七十四、
龍王の安全寺に葬る、
http://uchio.sakura.ne.jp/nakatsu/machinami/6/DSCF6361.jpg
碑銘は帆足萬里の撰する所なり。
雪巖人と為り、
撲直其の學
朱子を宗とす、
著と所、國史略、詩文集等あり。

[豊前人物志](復刻版)
昭和四十八年三月一日発行
頒価  一、二〇〇円
著 者 山崎有信
発行者 友石孝之
発行所 美夜古文化懇話会
    福岡県行橋市行事出店町
    井本清美 方
    電話(〇九三〇二)②〇一三二
    振替(下関)一五九六
印 刷 株式会社 文信堂印刷所行橋工場
    行橋市神田町四五七
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[藩儒野本白巖に就き]【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年

[藩儒野本白巖に就き]
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年

【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】
 大正15年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/7
小幡篤次郎先生小傳并に小幡記念圖書舘沿革概要 p2/8

小幡篤次郎先生は
箕田と號し
舊豊前中津藩士供番
小幡篤藏の長男なれとも
先生誕生前篤藏同藩中格式爭に議に坐し
隱居を命せられ嗣なきを以て
同藩士小幡五郎兵衞の弟孫兵衞を養ひて
妹阿秋に妻はせ嗣となせり

先生は其後天保十三年六月 ※1842年7月8日
中津殿町(圖書舘所在地)に生る
幼時四書五經の句讀を父に受け

稍々長して藩儒野本白巖に就き
又藩士古宇田姑山に從ひ漢籍を研修す

先生十四五歳の頃     ※安政2年頃(1856)
白巖の宇佐郡白岩に隠棲し
塾舎を開くに及びて
又之れに從遊せり


十六七歳の頃       ※安政4年頃(1858)
中津町に歸り
藩黌進脩舘に入り舘務(職名)となり
子弟の敎育に從事し
且熱心に武術を修め

文久元年(先生二十歳)には ※1861年
新當流劍道并に立身新流抜合を傳授せられたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/2

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

中津藩儒《大久保麑山》の主宰する私塾
【下毛郡誌】昭和二年七月二十日納本
[下毛郡教育の概説]        p293/466
  第一節 維新前の教育(学制頒布迄)
一 藩立学校            p293/466
二 山川塾             p294/466
三 野本塾             p294/466
  中津町に在り、
  野本雪巖の子 白巌(眞城)の主宰する所
  従学者甚だ多し、
  後
  宇佐郡白岩村に隠棲せしが
  藩の子弟亦従ひて村塾に入り学ぶ者ありしと云ふ。

  (人物篇参照)p370/466
  ―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267456.html

《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)
字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の叔父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、
夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、       (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、         (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
 ―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257816.html

《撰擧人50名姓名並ニ得票ノ點數》
[斯文学会報告書]第壹號 明治14年11月
四百七十点   中村正直君
二百九十三点  小幡篤次郎
百八十点    小野 梓君
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659757.html

《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659775.html

《大久保麑山の父:大久保教直=教連》[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生

《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生

大久保麑山 諱 教之(のりゆき) 通稱 逕三
父     諱 教連(のりつら)
祖父    諱 教行
曽祖父   諱 教道
母方の伯父 野本真城(伯美・白巖)
『扇城遺聞』赤松又二郎 昭和7年
[豊前人物志]山崎有信 昭和14年3月25日発行

大久保次郎兵エ教直  :大久保麑山の父
野本三太郎      :野本真城(伯美・白巖)の長男
大久保麑山と野本三太郎:従兄弟
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]

[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]
 河北展生
第一に目を着けたのは小幡篤次郎である。  (一二三) 一三頁
篤次郎は藩儒野本三太郎等に就て漢書を学び、
其時は二十三歳で、
進修館といふ藩の学校の教頭のようなことをしていた。
野本(三太郎)は(福沢諭吉)先生より相談を受けて
第一に篤次郎を推挙したところ、
篤次郎は純粋の漢学書生であったから、
洋学修業などは思ひも寄らぬというて姿を隠してしまった。
―略―

中津市立図書館所蔵の「中津藩士家系」に、 (一二五) 一五頁
嘉永三年書上のものがある。
上士の家系に関するもので、
子女の婚姻先まで記されて居るが、
残念なことに上士階級に限られ、
然も家中全部は残されて居ない。
下士族階級については、
所謂勤書で各家の当主が代々記されているのみで、
婚姻関係は明らかでない。
―略―

※系図
〔小幡篤次郎家〕           (一二六) 一六頁
 ―略―
〔篤次郎母実家奥平平八郎右エ門家〕  (一二七) 一七頁
 ―略―
〔篤次郎叔母島津祐太郎家〕      (一二七) 一七頁
 ―略―
〔服部浅之助家〕           (一二八) 一八頁
 ―略―
〔小幡杏平・貞二郎家〕        (一二八) 一八頁
 ―略―

〔小幡杏平母 実家 野本三太郎家〕  (一二九) 一九頁
※晁光 亮右エ門 雪巖 =(妻) 片山東籬弘安 女
 (長男) 操 早世
 (二男) 勇 早世
 (長女) 女 小幡冥菴行久 妻
 (三男) 理 武三 白巖 ⇒※野本真城=野本伯美
  (妻) 松川源五エ門知言 女
 (二女) 女 大久保次郎兵エ 教直 妻
 (四男) 耕 第二郎 万春
 (三女) 女 早世

 (夫)理 武三 白巖 ⇒※野本真城=野本伯美
 (妻)松川源五エ門知言 女
   (長女) 小幡玄厚行著 妻
   (二女) 木村仁右エ門重光 妻
   (三女) 女
   (長男) 魚 三太郎
   (四女) 女
   (二男) 某次郎三 早世
   (五女) 女
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
〔和田克太郎・慎二郎家〕    (一二九) 一九頁
 ―略―
〔和田克太郎母実家猪飼勝蔵家〕 (一三〇) 二〇頁
 ―略―

右の様な関係から、       (一三〇) 二〇頁
福沢家と野本家が
早くより親密な関係を持つ可能性は
十分存したものと推定される。
 ―略―
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00100104-19790600-0001.pdf?file_id=55084

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
  別府祐弘
2 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)
 ―略―
後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山(げいざん)について、  注記④
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社から、
若干引用して紹介しておきたい。

「先生の始祖は諱は重敬、大久保右京亮教隆の孫で、
 小田原藩主加賀守忠朝の甥であるが、
 江戸で奥平家に仕え、食禄六百石。
 ―略―
 …君は…
 幼いころからかしこく学問好きで、
 母方の伯父野本真城
〔同藩の儒者であろう〕について学んだ。
 はやくから忠孝の大節を全とうすることを志し、
 武芸では剣・槍・鉄砲・騎馬、学ばぬものはなかった。
 …維新で藩校の文学助教となり、新たに家塾を設けた。
 四方から来塾する者、前後数千余人だった。」 (14-16頁)

大久保麑山先生紀念碑 中村敬宇撰
君諱敎之、
姓大久保氏字誨、
通稱逕三、
號麑山、
先生之始祖諱重敎、
大久保右京亮敎隆孫、
而小田原藩主加賀守忠朝姪也、
實始仕奥平家于江戸、
食禄六百石、
曾祖諱敎道
祖諱敎行
考諱敎連
妣野本氏、
君以文政八年十二月十一日生、
幼頴敏好學、
受業舅氏野本伯美
     ―略―
 明治二十一年四月二十日 元老院議官從四位 中村正直撰
赤松又二郎『扇城遺聞』29頁、昭和7年。
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p57
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html

《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)
字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の
伯父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、
夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、       (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、         (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
 ―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257816.html

ほこりをかぶった「漢詩集」
[舅氏]
舅とは、母の昆(あに)弟をいう。
母方の伯叔父である。
舅や甥は姓が異なる故に古来氏をつけて云うことになっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/syokansu/47702806.html

[藩儒野本白巖に就き]
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659776.html

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