◆[坪内國子]

[坪内國子]【女優総まくり】紅鳥生 著:大正6年

[坪内國子]【女優総まくり】紅鳥生 著:大正6年

【女優総まくり】紅鳥生 著:大正6年
[坪内國子] p113-116/119
…△失戀する勿れ發奮せよ△…
純潔無垢、
眞に品行方正で新しい女優を求めたら、
數ある女優の中でも先づ
坪内國子より外には絶對に無いと云つても可い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906845/113
それは我が國劇界の大恩人
坪内博士の養女といふだけに、
確實に裏書されるのである。

坪内博士は劇を自己生涯の一事業として
常に努力されるのみならず、
曩に文藝協會をあれまでにして解散されたのも、
一つは博士の餘りに嚴肅な性格の爲に、
現今の所謂芝居道なるものと
遂に調和が出來なかつたからである。

國子は幼い頃から博士に
陶冶されて來た人だといふだけでも、
一般の女優などゝは同日の論ではない。

國子は人も知る如く
一代の名妓ぽんたの娘であつたが、
故あつて博士の養女に娶はれたのである。

まだ女優とは勿論斷言出來ない、
文藝協會の試演に
一二度出演した事があるだけではあるが、
然し眞に女優の地位を高め、
眞實の藝術家たるべき
女優の出現を望むに於ては、
先づ國子などは理想に近い方である。

それは兎に角、
國子は筒井筒振り分け髪の昔しから
同じ養子坪内士行とは許嫁の間柄で、
士行が早稻田大學を卒業すると、
演劇研究の爲に英國へ遊學した。

國子は唯々士行の歸朝を待焦れてゐたが、
この程漸く歸朝してヤレ
嬉しやと思ふ間もなく、
マダム・ホームスといふ
戀人が歐米から士行を追蒐けて
遥々日本へやつて來た。

士行は英國に在る裡、
例の故郷病に罹つた折り、
このホームス嬢と深い戀に墜ちて、
養父坪内博士が許された
約束の三ケ年が經つと、
自分で働き、
硝子窓を拭いたり、
又は演劇をしたり、
種々辛苦を嘗めて、
ホームスとは戀の歡樂に醉盡してゐたが、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906845/114
愈々歸朝する事になつて、
涙乍らに必ず日本へ呼び寄せてやる
約束を結んで袂別れた。

處が歸朝した後の士行は
國子に對しては不愍に思ひ乍らも、
遠く英國の空に自分を戀ひ慕ふてゐる
ホームスの事を思ひ遣ると
矢も楯も堪らず、
原稿料やその他働いた金を送つて、
ホームスを呼び寄せ、
麹町三年町の佐藤別邸といふ
高等下宿で二人が侘住居を始めた。

驚いたのは坪内博士や國子で、
博士は態々逗子の別莊へ
士行を呼び寄せて篤と説諭したが、
士行はホームスとの割なき仲の事情を
殘らず打明けた。

老の頑迷とは云へ
流石は一代の文學者逍遥博士だけに、
『國子には氣の毒だが、
 詮方がない、
 お前はお前で自由な行動を
 執つたがよからう。』と、
粹の通つた言葉に、
士行、ホームスは大喜びで、
近頃は柳の新芽が吹き初むる銀座街頭を、
二人は微笑ながら什麼(いか)にも
仲のよさゝうに手を引き乍ら散歩してゐる。

氣の毒なのは國子、
大久保の邸宅に引籠つたきり、
滅多に外出の姿も見せない。

纏綿せる這個(しゃか)の事情を見ては、
士行の振舞も空勝(あながち)
無理とは云ひないし、
一方國子には猶更同情せざるを得ない。

失戀變じて勇猛なるとやら、
一と奮發して堕落しきつた
現今の女優界に革新を促しては如何!。

なにはともあれ、
世を擧げて濁り盡せる女優界裡に、
いぢらしき國子のあるを見ては、
心なの筆者も衷心より
特にこの記事を
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906845/115
本書の巻末に附して、
將來彼女の發奮と併せて
幸福を祈らざるを得ない。

大正五年四月廿三日印刷
大正五年四月廿六日發行
大正六年四月 六日再版
定價  金四拾五錢
著作者 山本喜市郎
發行者 宮澤由三郎
    東京市神田五軒町二十番地
印刷者 日下主計
    東京市京橋區松屋町二ノ六
印刷所 高野印刷所
    東京市京橋區松屋町二ノ六
發行所 光洋社書店
    東京市神田五軒町
    振替 東京四六八一番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906845/116

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《飯塚友一郎:妻 くに》【帝国大学出身名鑑】昭和7年

《飯塚友一郎:妻 くに》
【帝国大学出身名鑑】昭和7年

【帝国大学出身名鑑】昭和7年12月16日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/1002
《飯塚友一郎》   p125/1005
 隆文館株式会社  常務
 有限責任信用組合 相互金庫 理事
 辯護士
 父  由太郎 明治四年生 現戸主
 妻  くに  明治三三年生       ※旧姓:坪内くに
        東京府 關島清兵衛 二女 ※鹿島清兵衛
        文學博士 坪内雄藏 養子
        成女高女卒
 嗣子 五郎藏 大正一〇年生
 女  やなぎ 大正一一年生
君は東京府 酒商 飯塚由次郎の長男
明治廿七年十一月 東京府牛込區に生る
第一高校を經て
大正八年 東京帝大 法科 佛法科を卒業し
大正八年十二月 現地に辯護士を開業す
曩に東京府會議員(牛込區選出)
所得税 調査委員たり
宗教  佛敎
趣味  劇文學
(神奈川縣鎌倉郡腰越津村谷戸)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/125

【花】明治34年6月
明治三十四年五月廿八日印刷
明治三十四年六月 四日發行
編輯發行兼印刷者 鹿島清兵衛
         大阪市東區瓦町一丁目八十一番屋敷
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832599/14

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚仁兵衛》(牛込區横寺町七)【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年

《飯塚仁兵衛》
(牛込區横寺町七)
【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年

【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年4月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/9
牛込區 通寺町  p581-582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
四〇ノ一 宅地  一五四・一三 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p582/617
五〇   宅地   四二・六三 横寺町七 《飯塚元吉》
五一   宅地   四八・二六 横寺町七 《飯塚元吉》
五二   宅地   五二・一六 横寺町七 《飯塚元吉》
五三   宅地   四八・四八 横寺町七 《飯塚元吉》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/582
牛込區 横寺町  p582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
 四   宅地  一三五・六五 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p582/617
 五   宅地  一二四・六八 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
 六ノ一 宅地   二〇・二五 横寺町七 《飯塚春之助》
 六ノ二 宅地   四〇・五〇 横寺町七 《飯塚元吉》
 七   宅地  三五三・八一 横寺町七 《飯塚八重》  ※
 八   宅地  一九八・四三 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
二四   宅地  一七〇・六〇 横寺町七 《飯塚元吉》
三〇   宅地  二〇九・〇〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三一ノ一 宅地  一八八・七〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三一ノ二 宅地  一九九・六八 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三二   宅地   四五・五〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/582
牛込區 横寺町  p582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
三九   宅地   四四・二四 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p583/617
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/583

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《飯塚仁兵衛》(牛込區横寺町七)【日本現今人名辞典】明治36年・明治45年

《飯塚仁兵衛》
(牛込區横寺町七)
【日本現今人名辞典】明治36年・明治45年

【日本現今人名辞典】明治36年2月14日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/796
《飯塚仁兵衛》  p72/802
(いひつか、にへゑ)
君は東京屈指の酒造家なり
大古源之助氏 長子
天保十四年九月      ※天保14年9月:1843年9月24日
上總國木更津在?南に生る
 ―略―
(納税 三〇〇圓餘、東京市牛込區横寺町七)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/72

【現代人名辞典】明治45年6月27日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/1020
《飯塚仁兵衛君》  p136/1027
君は酒造家なり。
上總の人、
大古源之助氏の長男にして、
天保十四年九月を以て   ※天保14年9月:1843年9月24日
木更津在?南村に生る、
夙に商業に志し
十二歳江戸に出で某店に入りて
店丁となり精勤以て?に力め、
遂に??に依り
飯塚氏の養子となる、
同家は牛込區内屈指の舊家にして
累世酒造を業とす、
君其業を襲ぐに及び
益其發展に力め、
斯界の重鎭を以て目せらるゝに至れり、
曩に東京府酒造組合の創立せらるゝや
推されて頭取となり、
爾來繼續上任する事數回に及ぶ、
明治十三年以來
常に牛込區名譽職に推選せられ、
區内の公共事業一として君の手に俟たざる無く
聲望甚高し、
日本赤十字社、
海防費獻金枚擧に邊あらず、
賞狀賞杯を受けし事
十數回に及び
二十六年黄綬褒章を賜はれり、
三十二年
内外火災保険會社を創立して社長に推され又
日本酒精會社及中央貯蓄銀行の重役たり、
曩に市會議員に擧げられたる事あり、
夫人を亡とき子と呼び
五男あり
(牛込區横寺町七 電話 番町 一一三三)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/136

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚友一郎》【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】

《飯塚友一郎》
【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】

【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】
 大正14年8月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/243
日本辯護士名簿 大正十四年七月現在  p5/247
 日本辯護士協會(事務所 電話 銀座 二八六〇)
○東京地方裁判所所屬 貳千百貳拾九名 p5/247
 (一) 東京辯護士會(一七二二名) p5/247
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/5
《飯塚友一郎》 本籍 東京      p7/247
事務所 牛込區若松町一〇二
電 話 牛込 六一九七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/7

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《飯塚友一郎》【帝国大学出身録】大正11年

《飯塚友一郎》
【帝国大学出身録】大正11年

【帝国大学出身録】大正11年4月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970710/870
《飯塚友一郎》  p70/872
 東京市牛込區若松町一〇二
君は東京市牛込區横寺町七番地に原籍を有し
明治廿七年十一月を以て生る
第一高等學校を經て
大正八年 東京帝國大學 法學部 佛法科 卒業
大正八年十二月 辯護士登録
現地に開業し
以て 今日に至る
大正十年六月 牛込區選出 所得調査委員となる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970710/70

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚友一郎》【第一高等学校一覧】【東京帝国大学一覧】

《飯塚友一郎》
【第一高等学校一覧】
【東京帝国大学一覧】

[第一高等学校 佛法科 大正2年9月入学]
[第一高等学校 佛法科 大正5年7月卒業]

[東京帝国大学 法律学科 仏蘭西法 大正5年9月入学]
[東京帝国大学 法律学科 仏蘭西法 大正8年7月卒業]

【第一高等学校一覧. 自大正2年至3年】
 大正2年12月8日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/179
◎七章 生徒姓名(大正二年九月末調)        p64/180
 ○大學豫科                    p64/180
第一部 一年五之組 佛法、政治、佛文科(四十一人) p74/180
私立成城 《飯塚友一郎》 東京
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/74

【第一高等学校一覧. 自大正5年至6年】
 大正5年12月22日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940279/206
大正五年七月(第一高等學校 大學豫科) 卒業 p180/207
佛法科(三十七人)              p181/207
《飯塚友一郎》 東京             p182/207
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940279/182

【東京帝国大学一覧. 從大正5年 至大正6年】
 大正6年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940167/491
○學生生徒及姓名(大正五年九月末調)     p266/492
 第二 法科大學               p270/492
法律學科                   p270/492
 第一年(姓名イロハ順)           p274/492
佛蘭西法ヲ兼修スルモノ            p275/492
《飯塚友一郎》 東京平            p275/492
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940167/275

【東京帝国大学一覧. [大正8年度]附録】
 大正9年3月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152274/142
○學士及卒業生姓名          p7/144
 法學士               p7/144
法律學科(佛蘭法選修)(姓名五十音順) p19/144
《飯塚友一郎》 東京
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152274/19

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[坪内くに子嬢の婚禮姿]【歴史写真. 大正9年8月號】

[坪内くに子嬢の婚禮姿]
【歴史写真. 大正9年8月號】

【歴史写真. 大正9年8月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966265/1
[坪内くに子嬢の婚禮姿]  p37/45
文學博士《坪内逍遥》氏の
養女《くに子》嬢(二二)は
博士養子《士行》氏と
二世の契りを取交すべき
約束の人であつたが、
人も知る如き事情の下に其の事成らず、
嬢の母校成女女學校長
《宮田脩》氏夫妻の媒酌にて
牛込の素封家
法學士《飯塚友一郎》氏(二七)と ※《飯塚友一郎》別稿に記載
大正九年六月三十日
日比谷大神宮に於て
華燭の典を擧げ
夕刻五時より
帝國ホテルに於て披露の宴を催した。
[坪内くに子嬢の婚禮姿]

《宮田 脩:早稲田大学 文学科 明治31年卒業》

【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
 大正4年12月24日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/189
◎早稲田大学 評議員之部   p6-7/189
《宮田 脩》 評議員     p7/189
 牛込區南山伏町一四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/7
◎文學科           p73/189
●明治三十一年得業      p75/189
《宮田 脩》 東京
 住所前出(評議員の部)
 本大學評議員
 成女高等女學校長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/75

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


※成女女學校長 宮田脩氏

[成女学園中学校:成女高等学校]
 成女のあゆみ
明治
1899(明治32)年 麹町下二番町に成女学校創立 初代校長 吉村寅太郎
1903(明治36)年 山根正次 第二代校長就任
1906(明治39)年 現在の富久町に移転
1908(明治41)年 成女高等女学校と改称 宮田修 第三代校長就任
1909(明治42)年 校歌『この花』制定
http://www.seijo-gk.ac.jp/ayumi.html

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ