大久保系圖:転記

<大久保系圖:No.01>01《宗圓》⇒<大久保系圖:No.12>78《大久保品子》

<大久保系圖:No.0101《宗圓》⇒<大久保系圖:No.1278《大久保品子》

[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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<大久保系圖:No.0101《宗圓:藤原宗円》~24《忠長》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660329.html

<大久保系圖:No.0225《忠教》~44《女子:江川太郎左衛門英利 室》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660332.html

<大久保系圖:No.0345《重教》~45《重教》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660333.html

<大久保系圖:No.0446《教明》~49《某:喜太郎 早世》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660334.html

<大久保系圖:No.0550《教豊》~59《女:奥平彌六郎 妻》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660335.html

<大久保系圖:No.0660《教行》~62《教忠》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660336.html

<大久保系圖:No.0763《教之:大久保麑山》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660337.html

<大久保系圖:No.0864《二男 文卿》~66《四男 季吉》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660341.html

<大久保系圖:No.0967《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660342.html

<大久保系圖:No.1074《六女 リウ:別府⇒脇屋》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660349.html

<大久保系圖:No.1175《三男 慎二》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660346.html

<大久保系圖:No.1275《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660358.html
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<大久保系圖:No.12>75《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》

<大久保系圖:No.12>
75《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》

《大久保慎二の子供》<大久保系圖>

祖父 大久保麑山 文政8年12月11日生
         ※1826年1月18日
         明治18年8月18日歿
         ※1885年8月18日
         享年 59

祖母    きせ             ※1837年?
         明治38年2月4日歿
         ※1905年2月4日
         享年 68

父  大久保慎二
母  大久保利根子

<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
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75《三男 慎二》※大久保慎二
     明治四年一月二十九日生 ※1871年3月19日

   妻 利根子
     茨城縣下總 古河藩主 土井子爵ノ分家
     土井利治ノ長女ニシテ
     大正十年(1921)一月十日朝
     享年 五十四

     昭和二十三年(1948)七月四日 p25/28
     老衰ノ為歿
     享年 七十八才

76《長男 謙治》※大久保謙治
     明治二十九年(1896)生
     大正十一年(1922)
     早稲田大學ヲ卒業
     三越ニ就職
     運動具部主任
     大正十二年(1923)
     関東大震災後 三越を去り
     日本活動寫眞株式會社へ入社 後
     宣傳部長、営業部長を歴任
     大東亜戰後 仝社を去り
     アドボードKK、常務取締役
     外 一二の會社を歴任す
     松浦浪子と結婚し
     長女 満里子は、
     ハワイ二世ジェリー大村と結婚し二男あり

     世田谷区世田谷町一ノ二三八に居住
     昭和二十七年(1952)三月十九日
     胃癌にて歿す
     享年 五十六才
     戒名 景徳院恭山宗謙居士
     京都 東福寺 即宗院に葬る

77《次男 次郎(昭和二年 博司と改名)》
    ※大久保次郎:大久保博司
     明治三十一年(1898)四月二日生
     大正十三年(1924)
     京都 同志社大學卒業
     學生時代 ラグビー選手
     卒業二年前よりその主將を務む
     卒業後
     横浜ホテル、ニューグランドへ入社 後
     用度課長、
     昭和十七年(1942)
     仝ホテルを去り
     箱根強羅ホテルへ
     取締役支配人として招聘され
     昭和二十五年(1950)に
     日活株式會社
     日活ホテル建設の為め仝社へ入社し
     開業後
     支配人を奉職

     昭和九年(1934)四月
     ホテル・ニューグランド 在任中
     植松登志子(三十二才)と結婚す
     長男 武司(昭和十三年九月九日生)
       ※大久保武司
     長女 道子(昭和 十年七月七日生)
     昭和二十八年(1953)
     現住 豊島、千川町の家に移る
     昭和三十年(1955)四月
     仝家を購入
     八月 登記す

78《長女 品子》※大久保品子
     明治三十四年(1901)生
     幼少より健康優れず
     発育不良
     終生 未婚の不愚なり
     大東亜戰 終年
     昭和二十年(1945)七月六日
     腎臓病にて歿す
     戰争中とて医師なく
     葬儀屋なく
     最後迄
     不愚不運に終る
     誠に哀悼にたえず
     享年 四十七才なり
     戒名 融法院妙敏日明大姉
     京都 東福寺 即宗院に葬る p28/28
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<大久保系圖:No.11>75《三男 慎二》

<大久保系圖:No.11>
75《三男 慎二》

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《大久保麑山:後妻の子供》
《三男 慎二・妻 利根子》

父 大久保麑山 文政8年12月11日生 ※1826年1月18日
        明治18年8月18日歿 ※1885年8月18日
        享年 59

母    きせ             ※1837年?
        明治38年2月4日歿  ※1905年2月4日
        享年 68
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<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
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75《三男 慎二》※大久保慎二
     明治四年一月二十九日生 ※1871年3月19日
     兄 恂 死亡ニ付 家ヲ繼グ
     十五歳ニシテ 父ヲ亡ヒ
     其翌年 兄ニ從ヒテ 大阪ニ赴キ
     次デ東京ニ出デ
     東京専門學校(早稲田大學ノ前身)ニ學ビ ※別稿に記載
     業 終ヘテ後
     大阪毎日新聞社ニ入社ス

     之ヨリ先
     明治二十四年(1891)
     兄 死亡ノタメ
     一時 中津ニ歸リ
     同地ノ扇城學館ニ教鞭ヲ取レリ ※扇城学舎:別稿に記載

     明治二十七八年(1894・1895)
     日淸戦役ノ時
     大阪毎日新聞社ヨリ ※別稿に記載
     從軍記者トシテ派遣サレ
     明治二十七年(1894)十二月
     宇品ヲ出發シ
     第二軍ニ從屬シテ
     威海衛ノ攻略戰ニ從ヒ
     講和成リテ後
     大阪ニ歸リ同社ノ
     初代名古屋支局長 兼 京都支局長トナリ
     名古屋ニ住シ後 京都ニ移ル

     明治二十九年(1896)
     茨城縣舊古河藩士
     土井利治ノ長女ヲ娶リ
     二男二女を挙グ

     明治四十五年(1912)
     大阪毎日新聞社ヲ辞シテ
     名古屋ノ扶桑新聞社ヲ買収シ ※下記
     社長トナリ之ヲ經營ス
     二年ノ後
     他ニ譲渡シテ新聞界ヲ去リ

     鳥取縣岩美郡ニ在ル     ※下記
     寶得鑛山ノ経營に從事ス
     数年ノ後
     大阪ノ藤田組ニ譲渡シ
     爾来實業ニ從事ス

     大正十年(1921)
     妻ニ死別シ
     其翌年(大正11年)京都ヲ去リテ
     東京ニ移住シ一時
     舊中津藩主 貴族院議員
     奥平昌恭伯ノ秘書トナレリ ※下記

   妻 利根子
     茨城縣下總 古河藩主 土井子爵ノ分家
     土井利治ノ長女ニシテ
     大正十年(1921)一月十日朝
     京都ニ於テ突如
     腦溢血ニ罹リ急逝ス
     享年 五十四
     京都 東福寺 塔頭 即宗院ニ葬ル
     法號 貞心院妙觀日照大姉

    ※慎二
     昭和二十三年(1948)七月四日 p25/28
     老衰ノ為歿
     享年 七十八才
     戒名 享徳院愼愿日法居士
     京都  東山區本町十五
     東福寺 即宗院ニ葬
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【華族名簿. 大正13年5月31日調】
 伯爵
貴族院議員 從三、勳四
《奥平昌恭:マサヤス》 明治一〇年六月一六日生
《夫人禎子:ヨシコ》  明治一六年二月一五日生
東京市芝區高輪南町五三
電話 高輪 二二九
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916319/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖:No.11>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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<大久保系圖:No.10>74《六女 リウ:別府⇒脇屋》

<大久保系圖:No.10>
74《六女 リウ:別府⇒脇屋》

《大久保麑山:後妻の子供》
《六女 リウ:別府リウ⇒脇屋リウ》

父 大久保麑山 文政8年12月11日生 ※1826年1月18日
        明治18年8月18日歿 ※1885年8月18日
        享年 59

母    きせ             ※1837年?
        明治38年2月4日歿  ※1905年2月4日
        享年 68
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<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
74《六女 リウ》※別府リウ⇒脇屋リウ
     明治元年三月十日生 ※1868年4月2日  p23/28
     姉シズ ノ歿後
     別府義顯ニ嫁ス ※別府義顯:調査中
     同人 死亡後
     東京ノ醫師 脇屋正人ニ嫁ス
     昭和二年(1927)十月二十九日歿ス
     享年 五十九
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖:No.10>74《六女 リウ》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-4.html
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<大久保系圖:No.09>67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格

<大久保系圖:No.09>
67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格

《大久保麑山:先妻の子供達:7名・5女2男》

父 大久保麑山 文政8年12月11日生 ※1826年1月18日
        明治18年8月18日歿 ※1885年8月18日
        享年 59
母    みよ             ※1832年?
        慶應2年8月11日没  ※1866年9月19日
        享年 34

<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
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67《長女 セツ》※別府セツ
     福岡縣築上郡三毛門村   p21/28
     酒造業 別府又十郎 義齊二嫁ス
     大正六年(1917)三月二十九日 歿ス
     法號 妙徳院釋照琳信女

68《二女 ナヲ》※加来ナヲ
     大分縣宇佐郡齊藤村 酒造業
     加来宇三郎 惟則ニ嫁ス
    ※加来宇三郎の長男:加来佐太郎
     昭和元年(1926)九月七日歿ス
     享年 七十二

69《三女 ミツ》※本多ミツ
     安政四年六月九日生 ※1857年7月29日
     大分縣下毛郡秣村 酒造業
     本多文三郎 政盛ニ嫁ス
     昭和十年(1935)六月十四日歿ス
     享年 七十九

70《四女 アキ》※大邊アキ
     安政六年八月三日生 ※1859年8月30日
     福岡縣築上郡大河内村 醫師
     大邊晋 正隆ニ嫁ス
     昭和十一年(1936)一月三十日歿ス
     享年 七十八
     法號 真元■釋知曉信女 ※■:くさかんむりに弇

71《長男 恂》※大久保 恂
     文久元年九月二十三日生 ※1861年10月26日
     藩黌舘ニ學ビ
     十七歳ニシテ ※明治11年(1878)
     家督ヲ繼ク
     二十歳ノ時  ※明治14年(1881)
     京都ニ遊學シ
     村上佛山ノ門ニ入リ
     漢學ヲ學ブ
     明治十八年(1885)
     父ノ病ニヨリ歸郷シ
     助教トシテ
     中津中學校ニ教鞭ヲ取リ
     又
     父ニ 代テ塾生ニ代講ス
     二十六歳ノ時 ※明治20年(1887)
     大阪ニ出デ
     次デ上京シ
     獨學ヲ以テ英學ヲ修ム
     年餘ニシテ
     〔パーレー〕ノ萬國史ヲ讀破シ得ルニ至ル
     人 皆 以テ 天才トナシ
     将来ヲ嘱望サル
     明治二十四年(1891)
     肺患ニ罹リ
     同年(1891)十一月八日
     遂ニ起タズ
     享年 三十一
     中津 大法寺ニ葬ル
     法號 守法院遊山日恂居士
     中津藩士 逸見栗藏ノ長女
     武子ト婚約アリシモ
     遂ニ果サズシテ逝ク

72《五女 シズ》※別府シズ
     元治元年五月二十四日生 ※1864年6月27日 p22/28
     明治十六年(1883)一月五日
     福岡縣築上郡三毛門村
     官吏 別府義顯ニ嫁ス ※別府義顯:調査中
     同年(1883)九月二十六日
     病歿ス
     享年 二十
     謚 嚴淨信女

73《二男 格》※別府 格
     夭ス
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>67《長女 セツ》~73《二男 格》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-3.html
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<大久保系圖:No.08>64《二男 文卿》~66《四男 季吉》

<大久保系圖:No.08>
64《二男 文卿》~66《四男 季吉》

《大久保麑山の弟:文卿:玄冥:季吉》

長男:大久保麑山
二男:大久保文卿:醫師
三男:大久保玄冥:西福寺 住職
四男:大久保季吉:日指季吉

<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
64《二男 文卿》※大久保文卿
        幼名 輔
        天保元年三月十日生 ※1830年4月2日
        宇佐郡下 市村ニ住シ
        醫ヲ業トシ後    ※下記
        下毛郡柿坂村ニ移住ス

65《三男 玄冥》※大久保玄冥
        幼名 三藏
        九歳ニシテ母ニ離ル
        其 遺言ニ依リ僧トナリ
        宇佐郡赤尾村
        西福寺ノ住職トナル
        德望高ク
        遠近ノ善男善女ニ渇仰サル

66《四男 季吉》※日指季吉
        豊後 日出領 日指某ノ養子トナル
        天保十二年六月二十五日 ※1841年8月11日
        四歳ニシテ死ス
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《大久保文卿》
【日本医籍】明治22年8月8日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/241
《大久保文卿》 p188/246
大分縣 下毛郡 柿坂村
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/188
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《大久保玄冥》
[西福寺]
住所: 〒879-0233 大分県宇佐市赤尾1860
浄土真宗本願寺派
http://www.nokotsudo.info/list/oita.html

【本派本願寺寺院名簿】明治41年9月
西福寺 p691/764
臼杵崇得
臼杵式部
豊前國宇佐郡津房村大字尾立
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822567/691

【本派本願寺寺院名簿】大正11年
西福寺 p786/961
臼杵信念
福岡縣宇佐郡津房村尾立
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943796/786

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[明治22年(1889年) 4月1日 大分県 町村制施行 14町265村設置]
255 宇佐郡 長峯村⇔宇佐郡 大根川村, 佐野村, 木部村,
               清水村, 今仁村, 赤尾村

276 宇佐郡 津房村⇒宇佐郡 六郎丸村, 楢本村, 東恵良村,
               尾立村, 川崎村, 板場村, 松本村,
               萱籠村, 東椎屋村, 若林村, 五郎丸村
http://uub.jp/upd/s_oita.html
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>63《教之:大久保麑山》~66《四男 季吉》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-2.html
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<大久保系圖:No.07>63《教之:大久保麑山》

<大久保系圖:No.07>
63《教之:大久保麑山》

《大久保麑山:教之:巳之助:藏之助:逕三》

<大久保系圖>
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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※①~⑮:系統
※大久保麑山の系統:g01~g08
 33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
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63《教之》※大久保麑山
     巳之助 藏之助 逕三 p16/28
     文政八年十二月十一日 ※1826年1月18日
     中津ニ生ル
     母ハ野本亮右衛門 晁光ノ女 ※野本雪巖=野本晃光:別稿に記載
     妻ハ中津藩士 坪坂豊八ノ女
     天保十二年  ※1841年1月
     十七歳ニシテ學館塾長被仰付 ※野本白巖・宇佐郡白岩村の家塾
                   ※下記に訂正。
                   ※學舘=進脩館(中津藩)
                   ※塾長=遷喬舎:野本塾(中津)
                   ※別府祐弘様より、指摘があり、
                    再確認を行った。2015/05/04
                   ※改めて、別稿に記載します。
    ※[藩儒野本白巖に就き]
     【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年
     http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659776.html


     弘化四年八月 ※1847年9月
     家督相續被仰付
     御番人仕候時ニ
     二十三歳

     幼ヨリ學ヲ好ミ
     中津ノ碩儒
     野本白岩ニ學ビ
     白岩ハ叔父ナリ

     後年 年月不詳
     宇佐郡安心院村ニ私塾ヲ開キ ※当時:莊村
     子弟ヲ教育ス
     同村ニ麑山(カゴヤマ)ト稱スル山アリ ※別稿に記載
     之ニ因ミテ麑山ト號ス

     後 中津ニ歸リ
     塾ヲ船場ニ移シ
塾ヲ船場ニ移シ
※船場町    大久保藏之助:大久保麑山
※留守居町   福沢諭吉
※弓町(左端) 増田宋太郎
※[中津城下大繪圖](慶應年間)下記

     明治十二年(1879)
     更ニ邸ヲ片端町ニ購ヒ
     此處ニ移轉ス
     邸内二千余坪ヲ有シ
     梅樹多ク又 竹林アリ
     因テ塾名ヲ
     半竹半梅處ト稱ス
    ※[半竹半梅處:學校本主・大久保逕三
     【学校幼稚園書籍館博物館一覧表. 明治14年】
      所在地  豊前國下毛郡片端町

     當時
     中津ニ橋本塩巖 白石照山ノ 二儒アリ
     麑山ト共ニ中津ノ三碩學ト稱セラレ
     何レモ私塾ヲ開キテ
    ※[中津藩儒《大久保麑山》の主宰する私塾
     【下毛郡誌】昭和二年七月二十日納本
      三 白石塾
      四 橋本塾
      五 大久保塾
     子弟ヲ教育シ二豊ハ素ヨリ肥筑薩隅及ビ長方
     四國ノ各地ヨリ来リ
     學ブ者頗ル多ク
     中津ハ是等
     學生ノ爲メ非常ニ繁昌シタリ

     明治維新ノ後
     中學校開設セラルルニ及ビ
     其教授ニ聘セラレ
     晩年ニ至ル迠
     勤メテ怠ラザリシ
    ※≪明治14年≫[中津中学校:学校長:大久保逕三]
     【学校幼稚園書籍館博物館一覧表. 明治14年】
     http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659858.html


     明治十六年(1883)
     文部省 其多年學界ニ盡セシ功績ヲ賞シ
     六國史 及ビ 蒔繪 硯箱ヲ賜フ

     明治十八年(1885)二月
     黄疸ヲ患ヒ
     同年(1885)八月十八日
     遂ニ永眠ス
     享年 六十一
     中津 寺町 大法寺ニ葬ル
     法號 隨法院麑山日遊居士

     歿後門人相謀リ記念碑ヲ
     中津公園ニ建立シ   ※下記『碑像マップ』2015/3/5
     碑文ヲ中村敬宇ニ請ヒ
     永ク後世ニ傳フル事トセリ

     敬宇撰スル處ニ碑文
     左ノ如シ 録シテ以テ傳記ニ更ユ

    [大久保麑山先生紀念碑]
     君 諱 教之 姓 大久保 字 子誨
     通稱 逕三 號 麑山
     六世之祖 諱 重教 大久保右京亮教隆孫而
     小田原藩主 加賀守忠朝姪也
      〔―略―:写真〕
      欲任大事  須是篤實
      譬之基固  方可築室
      君重躬行  以誨弟子
      風軌傳後  罔有窮己
     明治二十一年(1888)四月二十日
      元老院議官 從四位 中村正直 撰

     妻  みよ 慶應二年八月十一日没 ※1866年9月19日
           享年 三十四
           中津 大法寺ニ葬ル
           法號 秋峰院妙遊日詠大姉

     後妻 きせ 明治三十八年(1905)二月四日歿
           享年 六十八
           中津 大法寺ニ葬ル
           法號 法喜院妙善日随大姉
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[中津城下大繪圖](慶應年間)
ふるさと豊前中津の会
〒871 中津市新堀町
今永正樹(元市立図書館長)
電話0979(22)3606
振替 下関3-6573
中津市牛神・川原田印刷所
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『碑像マップ』
[大久保麑山先生記念碑]
winecolor | 2015/3/5 22:27
文政8年-明治18年(1826-1885)享年61
教育者
大分県 中津市 二ノ丁 (中津大神宮)
http://hizou.30maps.com/map/85804
[大久保麑山先生記念碑]
http://hizou.30maps.com/files/node201503/1425562126_15.jpg

『碑像マップ』
「大久保麑山先生の碑」名称板
winecolor | 2015/3/5 22:33
大分県 中津市 二ノ丁 (中津大神宮)
http://hizou.30maps.com/map/85806
「大久保麑山先生の碑」名称板
http://hizou.30maps.com/files/node201503/1425562480_15.jpg
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<大久保系圖:No.06>60《教行》~62《教忠》

<大久保系圖:No.06>
60《教行》~62《教忠》

<大久保系圖>
 本國參河
 家紋 上リ藤ノ内大ノ字
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 ※①~⑮:系統
 ※大久保麑山の系統:g01~g08
  33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
60《教行》g06 ※大久保麑山の祖父
       生國 豊前 登崎
       幼名 五郎三郎
       母ハ 教豊ノ嫡女
       七歳ニシテ家督ヲ續ク
       妻ハ夏目勘觧由滿守ノ女
       享和二年三月 ※1802年4月3日
       不埒之行為アリ
       永ノ御暇被仰付 p13/14
       上毛郡三毛門村ニ移リ
       村社ノ東方ニ寓居シ
       妻ノ里方 夏目家ノ仕送リヲ受ケ
       余生ヲ送リタリ
       三毛門村某寺 住職 素封家
       別府某等ト交遊シ ※別府某:別府義彬
      ※《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.007
        062『義彬』25-1
        号 三毛門兵藏
        安永二癸巳三月十三日生(1773年4月4日)
        ※享和2年(1802) 29歳
        ※文政1年(1818) 45歳
        文政七年甲申八月十八日(1824年9月10日)
        以 病 辭職
        天保二年辛卯七月十八日卒(1831年8月25日)
        歳五十九

       豪傑ヲ以テ 呼バレタリト謂フ
       文政元年八月五日卒ス ※1818年9月5日
       享年 四十八
       法號 積善院殿壽慶宗遠居士
       上毛郡廣津村 天仲寺ニ葬ル

       妻ハ
       文政三年十一月二十六日 ※1820年12月31日
       享年 四十四
       法號 積劫院殿宗壽妙遠大姉
       上毛郡廣津村 天仲寺ニ葬ル

       嫡子ニ 駒太郎教忠アレドモ
       右ノ咎ニ依リ
       家督 相續 許サレズ
       六百石ノ知行ヲ百石ニ減ゼラレ
       養子 可致㫖 御沙汰アリシニ付
       妻ノ兄 夏目主齡近貞 次男
       金之助滿卿ノ嫡子
       内藏之助ヲ養子ト為シ
       享和二年三月 ※1802年4月
       家督ヲ相續セシム
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
61《教連》g07 ※大久保麑山の父
       生國 豊前 内藏之助 信吉 治郎兵衞 教直
       實ハ 夏目勘觧由ノ弟 金之助滿卿ノ嫡男
       享和三年五月入テ ※1803年6月
       養子トナリ
       名跡 相續被仰付

       妻ハ 野本亮右衞門晁光ノ女
       文化二年九月廿五日 ※1805年11月15日
       家内不慎ニ付
       御叱ノ上 十人扶持 被仰付
       文化十三年七月 ※1816年7月
       御番人 仕事候時ニ 十六歳

       天保二年四月 ※1831年5月
       日置流 弓術 相傳御目録 頂戴
       弘化四年八月 ※1847年9月
       願ノ上 隱居被仰付
       元治元年七月朔日 歿ス ※1864年8月2日
       中津 大法寺ニ葬ル
       法號 得是院岳翁日道居士

       妻ハ
       天保十年八月九日 歿ス ※1839年9月16日
       法號 信是院妙道日元大姉
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
62《教忠》  教行ノ嫡子 駒太郎 後 幸八 ト 改ム
       父 教行 不埒ノ行為アリシ為メ
       家督 相續 相續叶ハズ
       中津藩 御料
       豊前 下毛郡樋山路村 庄屋
       桑原興惣太貞久ノ養子トナル ※原本:𥸮原
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※[三河大久保代氏総系譜]
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>01《宗圓》~62《教忠》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-1.html
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<大久保系圖:No.05>50《教豊》~59《女:奥平彌六郎 妻》

<大久保系圖:No.05>
50《教豊》~59《女:奥平彌六郎 妻》

<大久保系圖>
 本國參河
 家紋 上リ藤ノ内大ノ字
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 ※①~⑮:系統
 ※大久保麑山の系統:g01~g08
  33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
50《教豊》g04
        生國 武蔵 後 教亮 治郎兵衞
        幼名 源之助 又 勝治 後 又 内記
        元文三年十二月二十六日 ※1739年2月4日
        家督ヲ續ク
        時ニ 十九歳
        母者 重教 末女
        享保十九年 ※1734年2月
        父ニ随テ 豊前 中津ニ住ス
        時ニ 十五歳     p11/28
        妻者 木村權兵衞 女 p12/28
        寶暦十二年九月十八日卒ス ※1762年11月3日
        四十三歳
        法號 圓智院殿諦應哲信居士
        豊前 中津 大法寺ニ葬ル

51《女》    菅沼猪兵衞定條 室
        一、猪兵衞ヲ 文左衞門ニ作ル

52《女》    豊前 下毛郡 福島村
        本派本願寺 末 長久寺 室

53《某》    次郎助 幼名 志津馬
        一、正清 要人 弥太郎
        奥平五郎吉衞門正昭 養子ニ作ル
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
54《教通》g05
       生國 豊前 長五郎 縫殿 p12/28
       實ハ 奥平采女以正 三男 一・三ツ 五・作ル
       養母ハ 木村權兵衞定節ノ女
       寶暦十二年十一月十二日 ※1762年12月26日
       家督ヲ續ク 時ニ 十四歳
       永六年五月 ※安永6年5月:1777年6月6日
       不行跡ニ付
       隱居禁足 被仰付 然ルニ
       由緒アル家柄ニヨリ p13/28
       特別ノ思召ヲ以テ
       伜 五郎三郎ヘ新知 六百石 被下
       相續被仰付
       時ニ 二十九歳
       隠居ノ後
       弓月 又 泰山ト號す
       文化九年十一月十三日卒ス ※1812年12月16日
       年 六十四
       法號 示教院殿本利日喜居士
       上毛郡廣津村 廣運寺ニ葬ル

       妻ハ 教豊ノ嫡女
       文政三年四月十三日卒 ※1820年5月24日
       年 七十三
       法號 本示院殿了正妙喜大姉
       上毛郡廣津村 廣運寺ニ葬ル

       明治十九年(1886)八月二日
       當時ノ家長 恂
        ※恂:71《長男 恂》
       實姉 別府節 加来直 等ト協力シ
        ※別府節:67《長女 セツ》(別府又十郎の妻)
        ※加来直:68《二女 ナヲ》(加来宇三郎の妻)
       教通夫妻トモ 中津 大法寺ニ 改葬ス
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
55《女》   教通 妻

56《女》   岡田五左衞門重喬 妻

57《女》   菅沼三郎左衞門定考 妻

58《女》   西尾十兵衞尚光 妻

59《女》   奥平彌六郎 妻
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※[三河大久保代氏総系譜]
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>01《宗圓》~62《教忠》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-1.html
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<大久保系圖:No.04>46《教明》~49《某:喜太郎 早世》

<大久保系圖:No.04>
46《教明》~49《某:喜太郎 早世》

<大久保系圖>
 本國參河
 家紋 上リ藤ノ内大ノ字
[所蔵:大久保武司様]
[提供:別府祐弘様]
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 ※①~⑮:系統
 ※大久保麑山の系統:g01~g08
  33《教隆》g01~63《教之:大久保麑山》g08
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46《教明》g03
      生國 下野 左七 幼名 又吉郎 又左源太
      實ハ 奥平修理定晧 四男
      寶永三年 ※1706年2月
      重教ノ養子ト為ル

      養母ハ 牧野備後守様
      御家老 戸倉甚五左衞門廣影 女
      享保三年十月七日卒 ※1718年10月30日
      法號 法性院妙相日實大姉
      本法寺ニ葬ル

      享保四年二月十三日 ※1719年4月2日
      教明 二十八歳ニシテ 家督ヲ續ク p9/28

      同十三年十一月二十五日
      ※享保13年12月25日:1728年12月25日
      御鷹之鴈 御拜領被遊候時
      請取役蒙仰相勤上使
      御使番 御役 小川新九郎殿

      享保十四年 ※1729年1月
      夏目勘觧由 江戸 在番之砌
      知行高 六百石者 新知 御加増共ニ
      御藏前 概ニテ可有之所
      何故ヲ御小姓組 概ニテ有之哉之㫖
      御詮議之趣ニ付 申出候ニトノ儀ナリ
      依之申達候赴者
      先年 亡父 重教杢入様ヘ昌章公ヨリ
      御内密ト御使相勤 御墨附 拜領仕候
      子細ニ付於 今 御小姓組
      概ニテ頂戴致来候赴 申達 相濟
      享保十九年七月 ※1734年7月
      御在所 住居 被仰付
      同十一月 ※享保19年10月:1734年10月
      中津ニ着
      元文三年十月二十九日卒 ※1738年12月10日
      四十八歳
      豊前 中津 大法寺ニ葬ル
      法號 隨義院殿實應了達居士 p10/28
※[Wikipedia][大久保教寛]
子 教端、教平、
娘(伊東長丘正室)、
娘(水野忠英正室、のち大久保教明正室)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%95%99%E5%AF%9B
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
47《五郎三郎》 早世 元禄十年卒 ※1697年1月
        五歳
        武州 淺草 本法寺ニ葬ル
        法號 順正院幻光靈位

48《女》    能勢三十郎殿 御組 小十人組頭
        辻覺左衞門守輝 室
        實者 御目付 御役 近藤平八郎重興 女
        秋元隼人正殿 御組 御書院番 組頭
        阿部甚三郎正敏 室
        享保十八年五月朔日卒 ※1733年6月12日
        青凉院妙空日壽大姉
        武州 江戸 小石川 蓮華寺ニ葬ル

        母 廣影 女
        奥津能登守殿 小普請役 御小姓組 御番
        原田庄八郎種芳 室
        延享元年七月二十八日卒 ※1744年9月4日
        法號 光輪院殿妙月日詠大姉
        武州 江戸 本法寺ニ葬ル
        母者 廣影 女

        養子 教明 妻
        延享二年八月十七日卒 ※1745年9月12日
        五十歳
        法號 嶺光院殿妙應日感大姉
        豊前 中津 大法寺ニ葬ル

49《某》    喜太郎 早世
        享保六年正月十四日卒 ※1721年2月10日
        五歳
        甲州 身延山ニ葬ル
        法號 智性院幻覺靈位
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※[三河大久保代氏総系譜]
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>01《宗圓》~62《教忠》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-1.html
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