◆愛知英語学校

《小山 温》【現代人名辞典】明治45年

《小山 温》【現代人名辞典】明治45年

【現代人名辞典】
 明治45年6月27日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/1020
《小山 温》君  p256/1027
君は司法省刑事局長兼大審院検事
法學博士なり、
前判事小山轍太郎氏の長男にして、
慶應元年八月二十一日を以て   ※1865年10月10日
三河國碧海郡小山村に生る、

夙に東上して学事に?め、
明治二十三年七月        ※明治23年(1890)
帝國大學法科大學を卒業して
法學士の稱號を得、
直に東京始審裁判所検事試補となり、
尋で判事に任じ、
東京地方裁判所、東京控訴院、
大審院各判事に歴補す、

三十七年官を辭して       ※明治37年(1904)
歐米各國に遊學し、
法學の蘊奥を究め、
且つ司法制度を視察す、

三十九年歸朝して        ※明治39年(1906)
更に大審院判事となる、

同年検事に任じ         ※明治39年(1906)
大審院検事に轉じ
司法省監獄局長を兼ね、

四十二年法學博士の學位を受く、 ※明治42年(1909)
四十四年九月刑事局長を兼ね、  ※明治44年(1911)
同年十二月刑事局長に任じ    ※明治44年(1911)
大審院検事兼任となる、

方今
高等官一等從四位勳四等たり、
夫人を英子と呼び、
長男氏は東京府立第一中學校在學中なり
(小石川區原町一三)
(電話 番町五四〇)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/256

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blog[小野一雄のルーツ]改訂版

《愛知英語學校:生徒》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】2/4
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《成美學校:愛知英語學校:坪内逍遥》【名古屋藩学校と愛知英語学校】4/4

《成美學校:愛知英語學校:坪内逍遥》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】4/4

【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
 昭和10年7月1日発行

 成美學校藩學との關係は全く不案内に候  p21/30
 但し公稱たりしは明かに
 加藤(高明)氏が上級に在りし事
 後年の傳聞に存するのみ、
 成美學校にて
 故野呂景義氏に英語の手ほどきを受け
 故神田選吉
 丸山某氏等にも習ひ候、
 下級生たりしうち
 成美學校が休校となり、
 どうした手續か知らず
 愛知英語學校となり、
 改めて入學せし次第ゆゑ、
 上級の教師外國人などの事は知らずしまひに候、

 愛知英語學校の校長吉川泰次(二)郎氏、
 教師どころを勤めしは故小川?吉氏、 ※?=金+冉
 ドクター、レーサム
 米人にて商人あがりのカイル氏など
 其創設關係より主なる教師なりき、

 其頃は至極うつかり少年なりしゆゑ
 何事もよく取調べもせざりしこと
 記憶の存すべきやうなく候

右は先年博士からの筆者への返書の一節、
實云へばうつかりものどころでなく、
勇藏さんは甚だ温良好學の少年として
早くも同窓生間に知られて居た。

先生が未だ髷をつけられて居たかは判然せぬが、
生徒の中には幾分まだ髷が殘つて居た者もある。

そして先生は義經袴と云ふ
へりに紫色の切れのあるものを着して居られた。

或る役人の息子は洋服に赤フランネルで
異彩を放つて居た、
他は勿論和服の時代である。

さて貸本屋「大惣」
それは江戸から八犬傳の馬琴が遊びに來る、
博士の所謂日本一であり、
最古の貸本屋で郷土文化に多大の寄與をなしたものだ。

私の少年時代には幾分
貸本(それも明治出版の)をして居た様に思ふ。
尤も經營者はもう變つて居て、
多分靜觀堂の親類の人。

博士は日曜の如きは辨當、座布團携帯で、
「大惣」の書庫に自由に陣取られたものだ。
番頭さんも御常連の勇藏さんには特別扱いひで、
悠々と萬巻の書冊裡に心ゆく許り渉猟せられた。

博士にとつても生涯忘れ難き少年時の樂しき追想ではあるし
壯年の頃さへ番頭さんの夢までよく見られたと云ふ。

之れ又一面には博士今日の大成も
一日にして成るものでない事を想ふ可きである。

云ふまでもない
笹島の自宅から田圃道を辿つて
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
片端の英語學校に通はれて居たが、
明治八年上京せられた。
此時に御手紙にある様に
と改められた。  ※勇藏⇒雄藏

そして開成學校(今の帝大の前々身)に入學せられた頃には、
もう一かどの江戸文學通で、
地方出身の同窓生を驚かしたものだ。

その「大惣」も廢業して
藏書を東京へ賣却して仕舞つた(註十四) ※(註十四)p28/30

後年の平出文庫の散逸を見ても、
徒らに綜合大學必要の聲のみ高く、
而して郷土人の貴重な文献に對する
愛惜の足らぬを遺憾に思ふ。

話は又英語學校に戻るが、
毎月に月旦評と云ふ小報告が出た。

英文の一覧表を見ても
總ての標準を外國に仰いた時代だ。

此學校は急激な時代に中學生どころを
ウント英語専門で地理數學などやつたらしく、
今日から思へば確かに變則な話である。

生徒も各自目的を立てゝ
必ずしも卒業證書が唯一の希望でなかつた様子、

教師と生徒の交情は密なもので、
校長が上京する時など、
級長を呼んで留守中皆んなしつかり勉強する様、
君から云ふて呉れと云ふ様な親切があつた。

まだ私塾時代の「先生」に對する敬虔なあるものが
少年の頭にあつた時代である。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/22
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
    名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
    名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
    名古屋市中區小林町十二番地
    電話 中(3)一五四五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/28

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《愛知英語學校:坪内逍遥》【名古屋藩学校と愛知英語学校】3/4

《愛知英語學校:坪内逍遥》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】3/4

【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
 昭和10年7月1日発行

英語學校を記述するに當り、  p19/30
忘れ難きは郷土の生むだ
坪内老博士に思ひを走らせなければならぬ、
博士は七十七年昔の
安政六年五月廿二日、  ※安政6年5月22日(1859年6月22日)
美濃太田、代官所(尾州領)で呱々の聲を揚げられた、
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/19
 ―略―
博士の父君は平之進、     p20/30
代官所の手代(代官の次席)であつた、
 初代坪内平右衞門
 濃州牧田村御料所生れにて
 小牧代(官)手代
 文化十年死、     ※文化10年(1813)
 是れ曽祖父也

 二代坪内平右衞門(祖父)は
 初め
 磯村仁久左衞門組足輕中間
 後
 小牧代官手代
 又
 鵜多須代官手代
 後
 太田代官手代
 嘉永七年死、    ※嘉永7年(1854)

 自分の父平右衞門は小牧に生れたれど
 早く太田に移りしよし
 他は不明の如くに候(坪内博士來書)
   (續尾北郷土資料寫眞集)

博士のは維新後、
其樂(註一二)と改め ※(註一二)p27/30
數年前迄あつた
名古屋市電気局の南、
當時の
愛知郡那古野村大字廣井字上笹島十八番屋敷
に隠退して、
悠々自適の生涯を送られた。

今の鈴木信義博士の家である、
以前は中村に通ずる清正公道なるものがあり、
先年道路改修で大分様子も變化したが、
其樂翁の時は平家(ひらや)と思ふ、

母堂は當時の春日井郡大曽根村
矢野藤兵衞五女ミチ
文政四年生れ、    ※文政4年(1821)

此里方は以前は酒問屋で
昭和三年春逝かれた  ※昭和3年(1928)
平兵衞さんは博士が
竹馬の友の息子と云ふ。

母堂は大の劇通であり、
其家は資産もあり舊家であつた、
嘗て尾州侯が御忍びで遊びに
來られたと云ふ傳説もある、
通人で産を傾けた人や
俳人二道も出して居る。

二道松浦羽洲の執筆をなし、
後ち立机して宗匠となつた、

博士は環境や芝居好きの母堂の影響で
自然に草艸紙趣味があつた。

後年博士が戯曲家となられたのも
演劇通であられたのも
無理ならぬわけである。

勇藏さんの通つた、
巾下の寺子屋、
それは當時有名な書家
柳澤維賢の孫に當る
孝之助氏、

漢學の白水學校
和泉町吹原氏の西隣にあつた
増田春邇郎氏經營のそれで、
尚繪畫を
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/20
當時日置に住してゐた      p21/30
四條派の喜田華堂畫伯に學ばれた。

先生の出世作「書生気質」の挿繪原圖を
先年
長原孝太郎畫伯
(故人、東京美術學校教授、
 明治神宮繪画館奉献陸海軍聯合大演習の武豊港筆者)
(註十三)の邸で拜見したが、 ※(註十三)p27/30
一寸素人ばなれのしたものだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
    名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
    名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
    名古屋市中區小林町十二番地
    電話 中(3)一五四五番
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《愛知英語學校:生徒》【名古屋藩学校と愛知英語学校】2/4

《愛知英語學校:生徒》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】2/4

【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
 昭和10年7月1日発行

生徒は總計二百四十四人(愛知縣人最多數) ※244人 p17/30

士族百三十八人  ※138人
平民百〇六人で、  ※106人
當時紅顔の少年、
後の明治學界其他の諸名士を澤山に輩出した、
冗長乍ら左に摘要する。
 第二級 第四年 第一期
鈴木矢之輔  愛知縣士族
福田馬之助  同
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/17
津金邦彦   同
神田選吉   同
磯松景義   同     ※野呂景義
阿部直秀   濱松縣士族
坪内勇造   愛知縣士族
八代六郎   同  平民
私の知れる程度で多少の説明をする。

鈴木氏は東京大學理學部三年生で死亡、

福田氏は犬山藩の人、
十七年工部大學造船科卒業、
海軍中將(造船?)
※工部大学校(現・東京大学)
 造船学科
 明治17年5月卒業
 福田馬之助 愛知


津金氏死亡、

神田氏は工部大學卒業、
逓信官吏死亡、
※工部大学校(現・東京大学)
 電気工学科
 明治16年5月卒業
 神田選吉 山口


磯松氏は後年の野呂理學博士、
※東京大学
 採鉱冶金学科
 明治15年7月卒業
 野呂景義


阿部氏は死亡、

坪内氏は逍遙博士、
勇造は勇藏の誤、
※東京大学
 哲学、政治学、理財学、和漢文学科
 明治16年7月卒業
 (政治、理財)坪内雄蔵 愛知


八代氏は海軍大將、
昭和五年七月死亡、
尾北、樂田の人で
淺井正次郎大佐に勸められて
海軍に投じた人、

次ぎの第三級第三年二期の廿名の内に
雪嶺博士の
三宅雄三郎(山内典貞氏所藏英文一覧にも三郎と在)
※東京大学
 哲学、政治学、理財学、和漢文学科
 明治16年7月卒業
 (哲学)三宅雄二郎 石川


中川郊次郎氏 駒場農學校卒業、
愛知師範學校長、名古屋に於ける幼稚園の發起者、
明治地震詳報の著がある。
(註一〇) p27/30
※駒場農学校(現・東京大学)
 獣医学科
 明治15年6月卒業
 中川郊次郎 愛知


鈴木勲太郎は同じく駒場出身 二級
鈴木氏の實兄、
後、師範學校長、
※駒場農学校(現・東京大学)
 獣医学科
 明治15年6月卒業
 鈴木勲太郎 愛知


金石年表の奥田抱生など

其他理學士、堀鉞之亟(杏庵の後裔)
※東京大学
 純正化学科
 明治18年7月卒業
 堀 鉞之丞 愛知


伊藤篤太郎
理學博士(本草家圭介博士の孫)

好生舘の佐藤勤也博士、

小山温法學博士、  ※別稿に記載
※帝国大学(現・東京大学)
 法律学科(第一部)
 明治23年7月卒業
 小山 温 愛知


醫師平出謙吉

藏書家の平出鏗二郎
前富山地方裁判所法官、

後 辯護士、磯部以呂久(醇)
※東京大学
 法学士
 明治16年7月卒業
 磯部 醇 岐阜


鐵道官吏瀬田金三郎(岸と改姓)
※帝国大学(現・東京大学)
 応用化学科
 明治21年7月卒業
 岸 金三郎 愛知


坪井僊太郎、
※帝国大学(現・東京大学)
 土木工学科
 明治21年7月卒業
 坪井僊太郎 岐阜


加賀秀一(加藤)
※文科大学(現・東京大学)
 撰科
 哲学科第三年全科
 加賀秀一 岐阜



山内典貞の諸氏、

尤も雪嶺博士、伊藤博士、岸、磯部、山内、加藤の
諸氏などが健全で
大半は最早故人と思ふ。

同校は學術奨勵の意味で、
學費の乏しいものには
書籍を月賦で拂渡し、
又は暫時貸與すると云ふ規則があつた。

尚、授業料は一學期(九月より翌年二月迄)
三圓即ち一學年六圓である、
其れも若し家貧窮なれば證人があれば
減額もされた。

一家二人以上入學せる時は
一人分の授業料でよいと云ふ
可成社會的の制度もあつた。(註一一) ※(註一一)p27/30
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/18
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
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    名古屋市西區船入町壹丁目八番地
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印刷者 三浦印刷所
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《愛知英語學校:校長・外人教師:明治9年》【名古屋藩学校と愛知英語学校】1/4

《愛知英語學校:校長・外人教師:明治9年2月》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】1/4

【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
 昭和10年7月1日発行
次ぎに愛知英語學校の記事に移る、  p17/30
 七年五月初メテ  ※明治7年(1874)5月
 名古屋七間町ニ
 成美學校ノ校舎ヲ譲受ケ
 直轄愛知外國語學校ヲ設ケラル
 同年十二月    ※明治7年(1874)12月
 同校ハ其校名ヲ
 愛知英語學校ト改稱ス
 然ルニ
 十年       ※明治10年(1877)
 同校廢校トナルヤ
 後畧  (愛知縣史 下巻)
 ―略―
尚、明治九年二月  ※明治9年(1876)2月
同校一覧に依れば、
校長 吉川泰二郎(和歌山縣人、新錢座時代の慶應義塾教師、
         後年の日本郵船社長)
   小川?吉 (後に郵船重役) ※?=金+冉
     セン ※小川セン吉・小川ゼン吉
   丸山 愿 (後に市會議員)
外人教師 米人    ヲーカイル(算術及地理)
     澳(濠)人  ダブリユ、ヱッチ、フリーム(英語及歴史)
     米人    ゼーヱ、マツクレラン夫人
     英人    ゼームス、グーデン
其他   邦人教師九名、
監事兼舎長 成田五十穂氏以下五名の會計及書記、
尤も之は教師兼任が大半である。
外人教師は米人ドクトル、ヱッチ、レーザムが最初で、
當時は同氏のみで
其辭職後の後任がマツクレランである、

同校の經費は一ケ年一萬二千圓であつたが
後に六千圓増額された。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/17
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