◆[龍南會雜誌]第五高等学校

《隈部幸夫・熊本縣士族》退官退職轉任履歷書 國勢院:大正11年

《隈部幸夫・熊本縣士族》退官退職轉任履歷書 國勢院:大正11年

  自大正 九年五月
  至仝 十一年十月
退官退職轉任履歷書
 (官房) 國勢院
A07090203000-001
〔画像〕A07090203000-001

姓 名   隈部幸夫  p127/136
原 籍   熊本縣熊本市新南千反畑町二十一番地
府縣族籍  熊本縣士族
生年月日  明治二十九年三月廿三日
大正 二年三月     熊本縣天草中學校卒業
仝  八年六月     第五高等學校卒業
仝 十一年三月     東京帝國大學工學部鑛山科卒業
仝    四月     東京帝國大學工學部大學院ニ入學目下攻究中
同    六月十三日  任國勢院技手
            給五級俸         國勢院
同    同      第二部工場課勤務ヲ命ス  同
     七月二十三日 死亡
A07090203000-127
〔画像〕A07090203000-127
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レファレンスコード A07090203000
件名 単行書・国勢院引継書類(十ノ一)・退官退職転任履歴書・総裁官房
   国立公文書館 内閣 単行書
   国勢院引継書類単行書・国勢院引継書類(十ノ一)・
   退官退職転任履歴書・総裁官房
【 画像数 】136
作成年月日 大正9年5月~大正11...
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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熊本大学学術リポジトリ
Title     雜報 : 雜録
Citation   龍南, 172: 80-83
Issue date  1919-10-23
龍南, 172:80-83-p1
〔画像〕龍南, 172:80-83-p1

 大學豫科 第二十八回(大正八年七月) p2/5
  卒業生氏名(二百四十六人内支九人)

 第二部 工科  六十三人  p3/5
東 隈部 幸夫
龍南, 172:80-83-p3
〔画像〕龍南, 172:80-83-p3
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【第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧. 自大正5至6年】
○生 徒 (大正五年九月末日調)   p60/148
 第二部 第一年 甲一之組 四十四人 p67/148
隈部幸夫 熊本

【第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧. 自大正8至9年】
 大學豫科 第二十八回(大正八年七月)卒業(二百四十六人)p180/205
    第二部 工科(六十三人) p181/205
東工  隈部幸夫 熊本      p182/205
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【東京帝国大学一覧. 從大正8年 至大正9年】
學生生徒姓名
 第四 工學部 p350/452
  採鑛學科  p355/452
 大正八年入學
隈部 幸夫  熊本士

【東京帝国大学一覧. 從大正9年 至大正10年】
學生生徒姓名
 第四 工學部 p352/463
  採鑛學科  p357/463
 大正八年入學 p357/463
隈部 幸夫  熊本士
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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東京大学学術機関リポジトリ
アイテムタイプ 学位論文 / Thesis or Dissertation
言語      日本語
著者      隈部 幸夫
著者所属    東京帝国大学工学部採鉱学科
内容記述    種別:卒業論文
発行年     1922
著者版フラグ  publisher
出版者     東京帝国大学工学部
学位      bachelor
学位授与機関  東京帝国大学工学部
学位授与年月日 1922 ※大正11年
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德廣巖城(上林 暁)[龍南会雑誌(五高)]第五高等學校龍南會 熊本大学

德廣巖城(上林 暁)[龍南会雑誌(五高)]第五高等學校龍南會 熊本大学

熊本大学学術リポジトリ
Title 岐阜提灯 : 創作
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 179: 44-60
Issue date 1921-09-09

熊本大学学術リポジトリ
Title 批評
Author(s) 竹内, 良三郎; 西川, 巖; 秋田, 實; 長江, 藤次郎; 
     西澤, 富則; 河瀨, 嘉一; 八波, 則吉; 上田, 英夫
Citation 龍南, 179: 74-100
Issue date 1921-09-09
    批評    p2/28
乙種 ○秋田 實  p9/28
岐阜提灯      p14/28
ひとしく酷暑の陽に身を曝らして
牛馬の如く水災後の堤防に働くものゝ中で、
賃錢の得られるものは何もない人間で、
多少なりとも自分の物と云ふものを持つ地元の者は
復舊工事に喘ぎながら只過ぎし禍を呪ふてゐる、世は樣々だ。
酒に飲まれて不行跡の直らない車力をつかまへて、
酒の失敗や馬の尿に立つ虹まで描冩の爲めの描寫に忠實であるが、
文章はまづい、此一篇全体からして何の爲めに書いたものか
わからないやうにして了ふ、損な事だ。
割引しても同じ賃金にさへなればいゝ、
馬と道路が餘計に傷むばかりだと考へてゐる男に
金が身につかう筈はなし、
果ては馬まで取替へて了ふ、
そのまた跡始末まで人の世話になりながら、
ボンヤリ見上げた醉眼に娘の初盆の提灯が映つた、
それが岐阜提灯だ、あんまりあつけがない。

熊本大学学術リポジトリ
Title 山を焼く(二幕) : 小説
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 181: 17-47
Issue date 1922-03-10

熊本大学学術リポジトリ
Title 鰯の頭(喜劇一幕) : 戯曲
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 183: 69-83
Issue date 1922-10

熊本大学学術リポジトリ
Title 特殊部落の驕兒
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 185: 44-62
Issue date 1923-03

熊本大学学術リポジトリ
Title 雨後(一幕)
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 186: 1-17
Issue date 1923-07

熊本大学学術リポジトリ
Title 金貨
Author(s) 德廣, 巖城
Citation 龍南, 188: 30-40
Issue date 1923-12
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【第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧. 自大正10至11年】
 第七 生徒及卒業生  p84/189
  一 生徒氏名(大正十年四月末日調)
  文科 第一年甲二ノ組(四十一人) p91/189
德廣巖城  高知

【第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧. 自大正13至14年】
  七 卒業者氏名  p99/207
 高等科 第三十三回(大正十三年三月)卒業(二百五十七名) p179/207
  文科甲類(百名)
東文 德廣巖城  高知

【東京帝国大学一覧. 大正15至昭和2年】
  卒業生姓名   p265/392
 文學部      p270/392
  英吉利文學科  p275/392
○昭和二年三月卒業
德廣巖城  高知
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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KUROSHIO SUNABI MUSEUM
上林 暁と黒潮の文学・文化
上林 暁 〜本名・徳廣 巌城〜
1902年、現在の黒潮町下田ノ口に生まれる。
県立第三中学校(現・中村高校)の頃より作家を志し、
生涯その志を変えることがなかった。
大方あかつき館(上林暁文学館)
〒789-1931高知県幡多郡黒潮町入野6931-3
tel:0880-43- 2110
fax:0880-43- 0222
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[上林暁]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上林 暁(かんばやし あかつき、
1902年(明治35年)10月6日 - 1980年(昭和55年)8月28日)
は、日本の小説家である。高知県西部の幡多郡出身。
本名は、徳廣巌城(とくひろ いわき)。
来歴・人物
高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口
(現在は幾多の町村合併を経て黒潮町)に生まれた。
高知県立三中(現高知県立中村高等学校)の時代には、
雑誌『文章世界』に影響を受け、
友人らと語らって回覧雑誌『かきせ』を発行し、
この頃に小説家になる希望を持った。
また、芥川龍之介に傾倒する。
1921年(大正10年)に熊本の第五高等学校文科甲類に入学。
入学した年に校友会雑誌『龍南』の懸賞創作に応募した
『岐阜提燈』が三等に入選。
翌年には雑誌部委員となる。
1922年(大正11年)に高等学校の寮を出て、
熊本市上林(かんばやし)町75の森山方に下宿、
「上林」の筆名は、このときに住んだ地名に由来する。
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『北辰神武一刀流 小栗篤三郎:東京帝國大學 船田一雄』第五高等学校[龍南會雜誌]74

『北辰神武一刀流 小栗篤三郎:東京帝國大學 船田一雄』
第五高等学校[龍南會雜誌]74:39-60

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 74: 39-60
Issue date 1899-10-25
Type Departmental Bulletin Paper
Right
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074-010【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
◎東京だより p22/23
左に掲ぐるものは東京帝國大學 船田一雄君■、
中嶋先生の許に達したる書翰の一片なり。
終日蠢爾小説を繙き心膓を腐らすことをやめて
左の全文を讀め。

(前略)
在熊中心身共に健全を得て
僥倖にも高等學校卒業の榮を得たるは
偏に先生の賜と感謝罷在候
上京後も都下靑年の風儀を實見して
益剱道修養の必要を看取し、
良師を得て其の啓發にあづからんと存じ居り候處
漸く昨日
北辰神武一刀流
小栗篤三郎と申す先生の事を聞き込候故 ※原本:小粟
昨日より早速入門を乞ひ
稽古をはじむることを得る樣に相成り候
小栗先生は當年既に七十三歳の高齢なるも
意氣の豪健壯者も企及志得ざる次第にて
毎日朝より夕にかけ
幾多の健兒を相手に稽古に余念なく候
本日の如き
令息危篤なるにも拘らず
平然として御稽古を致され
假令一日寸時たりとも休みたりとありては
開國以來連綿たる神州の武道に對し
誠に相濟まぬ次第なり
頑兒の死生の如き固より顧みるに足らずとて
其愛兒の寐處と僅に障子一枚を隔てたる道場にて
平常の如く丁々戞々として稽古相成候には
門人一同感服致し候
其他近來武士道の頽廢
日に甚しきを慨され候等
大に先生と感を同しくされたる點
不少と愚考致し候
何卒御上京の節は是非御訪問相成度
一寸乍序愚見申添置候
(中略)
今回川崎君より一高寒稽古の模樣を聞き
羨望にたへず候
(以下略)
【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
〔画像〕【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
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wikipedia[船田一雄]
船田 一雄
(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日[1])は
大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。
生涯[編集]
愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。
久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、
試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に
編入学する[2]。
中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、
船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという[2]。
1896年(明治29年)、
愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学[2][3]。
1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して
東京帝国大学法科大学独法科に進んだ[2]。
在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した[2]。
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提供館(Library) 埼玉県立久喜図書館 (2110009)
質問 「小栗篤三郎」についての資料をさがしている。出身地不明。
回答 『武芸流派大事典』(東京コピイ出版部)p652-653
   〈北辰真武一刀流〉の項に
   「祖は小栗篤三郎義宣、文政10年(1827)美濃国可児郡久々利村生まれ、
    千葉周作の門に入り北辰一刀流の免許を得る」と記述あり。
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『別府祐六:大正7年度 卒業生』第五高等学校[龍南會雜誌]168

『別府祐六:大正7年度 卒業生』
第五高等学校[龍南會雜誌]168-145-147

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 大正七年度第廿七回卒業生氏名
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 168: 145-147
Issue date 1918-12-25
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/6865
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/6865/1/168-018.pdf

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大正七年度 第廿七回 卒業生(二百五人)    p2-4/4
 ※大正7年(1918)

第一部 甲類 法律科 政治科 經濟科 商科 五十二人
 ―略―
京 別府祐六 ※京都帝國大學

第一部 乙類 英語文科            二十人
 ―略―

第一部 丙類 獨語法律科 政治科      二十四人
 ―略―
東 向坂逸郎 ※東京帝國大學
 ―略―

第二部 甲類 工科              六十人
 ―略―

第二部 乙類 理科              十一人
 ―略―

第二部 丙類 農科               五人
東    高田得一 ※東京帝國大學
東    牟田邦基 ※東京帝國大學
東北醫科 高橋輝一 ※東北帝國大學
東    上村英一 ※東京帝國大學
東    小林 聰 ※東京帝國大學

第三部 醫科                三十三人
 ―略―

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『別府賢吉:大學豫科 第十二回卒業生』第五高等学校[龍南會雜誌]101

『別府賢吉:大學豫科 第十二回卒業生』
第五高等学校[龍南會雜誌]101-64-126

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 101: 64-126
Issue date 1903-10-24
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5611
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5611/1/101-013.pdf

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○卒業證書 授與式  p2-5/64
七月一日、 ※明治36年(1903)7月1日
本校工學部第三回、
大學豫科第十二回
卒業證書授與式を擧行せらる。
 ―略―
本年卒業生の姓名は左の如し。
工學部 第三回 卒業生
土木工學科(九名)
 ―略―
機械工學科(八名)
 ―略―

大學豫科 第十二回 卒業生
     〔○は京都大學ヘ〕
     〔△は福岡大學へ進入〕
第一部 法科(四十六名)
 ―略―
 別府賢吉(福岡) ※東京帝國大學
 ―略―

第一部 文科(二十四名)
 ―略―

第二部 工科(二十八名)
 ―略―

第二部 理科(七名)
 ―略―

第二部 農科(十名)
 ―略―

第三部 醫科(二十八名)
 ―略―

又當日の學事報告は左の如し。
 ―略―

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『別府賢吉:東西德敎の比較』第五高等学校[龍南會雜誌]100

『別府賢吉:東西德敎の比較』
第五高等学校[龍南會雜誌]100-183-204

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 100: 183-204
Issue date 1903-06-25
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5708
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5708/1/100-026.pdf

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○第三回演説會記事       p4/23
滿地の新綠微風に薫ずる
五月廿二日夜、    ※明治36年(1903)5月22日
演説部は卒業生餘䬻を兼ね、
第三回演説會を瑞邦舘裡に開く。

『東西德敎の比較』 別府賢吉君 p7-8/23

豊頬とカイゼルの髯とを
徐ろに壇上に運んで説て曰く、

余少時漢學を崇拜し西洋の物質的文明を蔑視せしが、
近時少しく基督敎を研究するに至り
卽ち今聊か東西思想界の比較を試みんとす、

先づ西敎の主なる基督敎は其の理想を唯一神にして
愛、正義、眞理の神なるゴツトに置けり、

之に對し東洋思潮の根源たる儒敎は、
治國平天下を以て目的とせり、
今其の及ばせし社會的現象に見れば、
我國明治維新の大業の如き
戰國時代の活劇の如き、
是れ儒敎の力にして

佛蘭西革命の如き
米國獨立の如きは
是れ基督敎の力なり、

一は愛と正義の敎にして
ルツテル、ワシントンの如き人物出でたり、

一は大義名分を精神として
藤田東湖、四十七士の如き義士現はれぬ。

要するに基督敎の根本義は神の前には公共なり、
正義の前には恐るゝ所なしといふに在り、

然りと雖も這般の思想は東洋にも亦
古來存せりしなり、

彼の義理の爲めには身を忘れ、
水火の中をも辞せざるが如きは
此の思想の發現なり。

基督敎が文明を西洋に與へし如く。

儒敎は東洋に文明を與えざりしと雖も、
其の眞理は必ず存在せりしなり、
唯其の精神の發展せざりしのみ。

次に両敎の將來を想望するに、

余は到底基督敎に隨喜する能はず、
文明人を救濟する宗教なりと信ずる能はず、
今日西洋に於て戰爭等の殘忍なる事行はれ、
漸く德敎の根本を喪失せんとしつゝあるは
全く此の故なるが如し。

佛敎は吾人をして
厭世的の境涯に導きし弊はありとするも、
而も死に對する大覺悟を養成せし上に於ては、
却て大に西人に誇らんと欲する所なり、

西人は多く死に對して
恐怖の念を懐くと雖も、

我國民は全く之を超脱し、
平然として死を見ること歸するが如し、

是れ我か國民が善戰の士なる所以にして、
斯くの如き思想は
全く東洋的の大精神より
胚胎し來りたるものなりと信ず、

と西敎は遂に東敎の上に
出つる能はざるを論じ
終りて降壇せり。

其の滔々として
東を論じ
西を説き、

理を談し
例を掲げ、

巧みに擒縱の妙を極めて
遂に其の要を逸せざりしは、

さながら渓流の
紆餘曲折の致を呈しつゝも、
終始東指して大海に朝するに似たり、

而も其の切實なる語氣は
大に聽者を感せしめたりき。

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『東京大學進入:松村仙藏』第五高等学校[龍南會雜誌]94

『東京大學進入:松村仙藏』
第五高等学校[龍南會雜誌]94-66-96

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 94: 66-96
Issue date 1902-10-20
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5389
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5389/1/094-011.pdf

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○卒業證書 授與式 p2/32
七月一日、     ※明治35年(1902)7月1日
本校工學部 第二回、
大學豫科  第十一回
卒業證書授與式を擧行せらる。
―略―
本回卒業生の氏名は左の如し

工學部 第二回 卒業生
 土木工學科(十名)
 ―略―
 機械工學科(七名)
 ―略―

大學豫科 第十一回卒業生

 『東京大學 進入』

法科(二十六名)
 加村光政   林田 操   林 季彦
 藤堂要藏   佐藤梅太郎  三塚文藏
 中川吉郎   有永 昇   上田萬平
 田島勝太郎  中野太三郎  小川元重
 野村 新   八尋伊三   是松盈進
 川上 完   大西竹次郎  木下伊都麿
 鮫島 壽   吉田 博   林 秦吉
 吉原龜三郎  御廚規三   上床瑞彦
 松村仙藏   山崎政士

文科(十二名)
 ―略―
工科(二十三名)
 ―略―
理科(五名)
 ―略―
醫科(十七名)
 ―略―

 『京都大學進入』

法科(五名)
 ―略―
理工科(四名)
 ―略―
醫科(九名)
 ―略―

又當日の學事報告は左の如し
 ―略―

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『活動の時機:別府賢吉』第五高等学校[龍南會雜誌]91

『活動の時機:別府賢吉』
第五高等学校[龍南會雜誌]91-56-89

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 91: 56-89
Issue date 1902-04-25
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5325
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5325/1/091-010.pdf

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○演説部大會(三月七日)           p27/35
 ※明治35年(1902)3月7日

第一席は『活動の時機』なる題を掲げて立てる  p28-29/35
一部獨法二年の別府賢吉君である、

君が諄々として説く所を聞けば
大体こうである、

宇宙間の萬物は皆活動して居る
――勿論此處には君の審しき例証があつたのである――
人も亦其の數に漏れ?活動して居る、

彼の偉人傑士は只?の活動が、
より大に、
より烈しかつたのだと説き、

更に進みて、
社會と活動を悲觀して
厭世的な考を持つ人あり、

又は他人の活動を罪悪と見て、
それを禁せんが爲め
書を焼きし秦始皇の如きあれども、
二者共に否なりと辨駁し、

更に滔々數万言
――支那流で云へば――
であつたが、
惜むらくば、
演説し終らざるに時間が來た、

が而し、
その結論も、
大概は讀むことが出來る、

時間の短いのは、
始めから、
判然つて居るのだから、
思想も適當に短縮して置く必要があるのだ、

この点が卽ち稽古になるのである、
龍南の辨士には屡々
演し終れずに降壇するものがあるが
此の風は大に注意す可きものである。

第二席はスヰート先生である、
――先生は別府君が演説中に來られた――
演題は御國名物のスキスピア、
内懐から原稿を取出されて、
自分の演題は、
セキスピアとしあるけれど、
實は、
セキスピアを例證として、
如何に英文學を研究す可きかを
説くのであるとの前置て、
ピチャピチャ饒舌られたが、
實の所、
雜報子は、
聞き取ることが出來ぬ
――英語が下手であるから――
が大体を綴り合せて見ると、
書物は一編大体を通讀して、
その後に文法的に解す可し、
これ英文學を研究する奥の手で、
又其書物の著者が、
如何なる境遇にあるしとき、
その著ありしかを知る必要あり、
―略―

於是乎        p32/35
遠山部長は壇上に立ちて
各辨士を批評せらるゝには

別府君は誠に好個の辨士である、
アーチキユレーションも
明晰であつたし、
語の中に卽ち
音のムーブメントのに
思想の愉快が籠つて居て
聽く者が中々聽き取り易かつた……
説明的の演説には最も適當して居る、
が動もすれば平板に流るゝ患があるから
それを一ツ注意せねばならぬ、
又今少し強く
エキスプレツスションをなした方がよい、
君はまだ二年で練習する機會があるから
奮發し給へ
―――
先生話中に必ず
上衣の一番下のボタンを
懸けてははずす癖あり
―――
―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

『炊事委員長:松村仙造』第五高等学校[龍南會雜誌]90

『炊事委員長:松村仙造』
第五高等学校[龍南會雜誌]90-51-76

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 90: 51-76
Issue date 1902-02-15
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5305
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5305/1/090-009.pdf

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

○第二學期 炊事委員長 p25/27
本學期 炊事委員長には左の三氏 當選せり
    購入長 松村仙造
    保管長 矢野 漸
    會計長 長尾正保

○學寮會 幹事 改撰  p25/27
一月十四日   ※明治34年(1901)1月14日
改撰の結果、
第二學期學寮會幹事
左の如く當撰す
    藤堂要藏
    前原助市
    大庭忠司
    中束光五郎
    西岡達郎

○叙任辞令
 三十四年    ※明治34年(1901)
  十月十五日  講師 高田采松
         依願屬託ヲ解ク
  十月十八日  校長 櫻井房記
         鹿児島縣ヘ出張ヲ命ス
  十月二十一日 ウヰルリアム、イー、ヱル、スウヰート
         本校英語科教師トシテ
         本年十月十六日ヨリ
         明治三十五年七月三十一日マデ傭入
         月俸 金 貳百五十圓 給與
 ―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【第五高等学校一覧. 明治34-35年】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/1
○職員(明治三十四年十一月十五日現在) p26/303
學校長    正五位 勳五等 理學士 櫻井房記  東京  士族
工學部 主事 從六位     理學士 神谷豐太郎 東京  士族
  敎授
數學  大學豫科 數學科主任 評議員 幹事心得
       正六位     理學士 杉山岩三郎 愛媛  士族
外國留學中  從六位     文學士 夏目金之助 北海道 平民
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/26
  傭外國敎師            p29/303
英語 佛語 羅甸語(ラテン) パシユリエ、エス、レツトル
                     ヘンリー、エル、フアルデル
               (瑞西國ローサン大學)    瑞西國

獨語 羅甸語(ラテン)    ドクトル、フリドリフ、カアル、
                    アルノルド、ハアン
               (獨逸國ハルシー大學)    獨逸國

英語         ウヰルリアム、イー、エル、スウヰート 英吉利國
  囑託醫員
衛生醫      醫學 得業士    柿田末四郎 熊本  平民
衛生醫 助手             中村宮照  鹿児島 平民
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/29

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

『在寮法科生懇話會:別府賢吉・松村仙造』第五高等学校[龍南會雜誌]86

『在寮法科生懇話會:別府賢吉・松村仙造』
第五高等学校[龍南會雜誌]86-64-104

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 86: 64-104
Issue date 1901-06-18
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5199
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5199/1/086-011.pdf

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

『在寮法科生懇話會』 p18/42
本學年最終の懇話會は
六月三日午後八時から  ※明治34年(1901)6月3日
瑞邦舘で開かれた、
―略―

次は別府君の「偶感」、 ※別府賢吉
ジゴ聲張り揚げて
現社會の狀態を
痛憤したのはよかつたが
手足の活動が酔狂に類して居たのは
聽者の拍手を迎ゑたと同時に又た
其の笑を招いた。

―略―

次に出たのは
知名の松村和尚樣、   ※松村仙造
何か説敎でもなさるのかと
耳傾けて居たが、
幽靈の、
鬼の、
腕かぢりの、
脛かぢりので終つたには
少々閉口仕つた。

―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


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