矢野二郎は江戸の人 商法講習所創立當時の敎科書
【小山健三伝】昭和5年
【小山健三伝】昭和5年
第十四章 東京高商時代 p150/522
明治二十五年一月八日、 p151/522
君は東京高等商業學校兼勤を、
四月十六日、同校商議委員を命ぜられしが、
九月二十二日、高等商業の兼勤を解かれ、
同日、東京工業學校長手島精一氏不在中の代理を命ぜられ、
十一月十二日、文部大臣秘書官兼文部書記官に任ぜられぬ。
時の文相は子河野敏鎌なりき。
君、時に三十五歳。
―略―
京橋區尾張町に開き、商法講習所と命名したりき。
この開塾は明治八年八月のことにして、
實に我國に於ける最初の商業學校なりとす。
森氏が此の商法講習所を設立したる理由は、
福澤諭吉翁の文によりて、汎く世に紹介されたり。
文に曰く。
※福澤諭吉翁の文 ―略―
※福澤諭吉翁の文 ―略―
明治七年十一月一日 森富田兩君の需に應じて。
福澤諭吉記す
―略―
翌九年五月、商法講習所は京橋區木挽町十丁目に移り、
東京府廰の管理する所となり、
六月二十二日、矢野二郎氏、東京府商法講習所長となる。
矢野二郎は江戸の人。
弘化二年乙巳(皇紀二五〇五年 西暦一八四五年)
江戸駒込の邸に生る。
本姓は富永氏、夙に矢野氏を冒す。
幼名は次郎吉。
長じて次郎兵衞といひ、後、次郎と稱す。
晩年好みて二郎と書き遂にこれを通稱とす。
兄富永冬樹(名判官として世に知られたる人)と共に
中根半嶺の門に學び、
別に英語を西吉十郎(後に大審院長たりし西成度)に修む。
十七歳、外國方譯官となり、横濱に至り、
運上方(税關)に出仕し、
十九歳、外國奉行池田筑後守一行に隨行して締盟諸國に至る。
明治元年、二十四歳、德川氏の士籍を辭し、
横濱に翻譯所を開く。
二十八歳、友人森有禮の推擧により、外務省に入り、
二等書記官となり辨理公使上野景範に隨ひ、
米國ワシントンに在勤し、滯米四年、
時には代理公使の任を負ひ、
明治八年九月歸朝、
翌九年、商法講習所長となる。
時に三十二歳。
爾來、商業敎育のために貢獻すること十有八年。
東京高商は、森氏によりて生れ、
矢野氏によりて育てられたるものといふべき也。
四十九歳、高商校長を辭し、
六十歳、貴族院議員に勅選され。
明治三十九年六月十七日逝去す。
年六十二。
―略―
―略― p155/522
これを聞く、
森有禮氏が京橋區尾張町に開きし商法講習所の創立當時は、
校規いまだ整はず、
敎師は僅かにホウヰツニー、
及び高木貞作の二人のみなりきと。
商法講習所創立當時の敎科書は左の通りなりき。
一、本科 ブライヤント氏 ストラトン氏帳合法、
略式、本式、ウヰランド經濟書、商法律書
ブライヤント氏 ストラトン氏商用算術、
スペセリヤン流習字。
一、豫備科 クワケンホス英文典、ブエータル算術書、
ケイヘル商法通信作文、語學、綴字、
(備考)規則書ニハ右ノ如ク本科豫備科ノ二科アレドモ
豫備科ハ實際之ヲ開始セザリシト云フ
―略―
昭和五年十二月十九日印刷
昭和五年十二月廿五日發行 非賣品
編輯兼 株式會社 三十四銀行
發行人 大阪市東區高麗橋四丁目
印刷人 桃谷印刷株式會社
大阪市東成區鶴橋南ノ町一丁目
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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