◆【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[花房 愚氏(滿洲國官吏景星縣副參事官)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[花房 愚氏(滿洲國官吏景星縣副參事官)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
[花房 愚氏(滿洲國官吏景星縣副參事官)] p57/291
生年月日  大正元年(1912)二月十日
殉職場所  斉斉哈爾院内
遺族名   母・ よし子
      長兄・睦丸
      弟・ 鈍成
          不學
          凡夫
          無等
      姉・ トキワ
本籍地   新潟縣岩船郡村上町大字庄内三三〇
現住所   同
  略 歴
昭和九年(1934)三月           東京二松學舎專門學校 卒業
康徳元年:昭和9年(1934)六月       滿洲帝國協和會 中央本部 勤務
康徳五年:昭和13年(1938)三月     景星縣 副參事官
康徳五年:昭和13年(1938)十一月十四日 殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)五月二十七日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/57

【満洲国官吏録. 康徳5年4月1日現在】
 康徳5年7月15日発行:昭和13年(1938)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454719/272
◎龍江省  p223/276
○景星縣  p225/276
 屬官 委、三、七五圓  花房 愚
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454719/225

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[滿洲 協和會 中央事務局]
【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659593.html

[林 周吉氏(圖們鐵道警護隊長)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[林 周吉氏(圖們鐵道警護隊長)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
[林 周吉氏(圖們鐵道警護隊長)] p53-57/291
生年月日  明治二十一年(1888)七月
殉職場所  圖們警護隊 廰舎内
遺族氏名  長兄・壽治
      妻・ 千代
      長男・克己
      二男・功
      三男・毅
      四男・秀樹
      二女・紀子
      三女・史子
本籍地   鳥取縣八頭郡用瀬町
遺族現住所 牡丹江市東洋倫街七 第二代用官舎
      長兄 現住所 本籍に同じ
  略 歴
明治三十六年(1903)四月  村立 用瀬尋常高等小學校 高等 卒業
明治四十三年(1910)三月  ○○聯隊 入營
明治四十五年(1912)一月  除隊
大正三年(1914)十二月   關東都督府 巡査 拜命
康徳二年:昭和10年(1935)十二月 退職(警部)
康徳二年:昭和10年(1935)十二月 南滿洲鐵道株式會社 入社
                鐵路總局 警務處 鐵道警務總隊 勤務
康徳五年:昭和13年(1938)五月  滿洲國  治安部 鐵道警備隊
                       圖們警護隊長 被命
康徳七年:昭和15年(1940)二月二十二日   殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)六月十日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/53

【社員録. 昭和12年9月1日現在】
 南満州鉄道株式会社 総裁室 人事課
 昭和12年12月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445379/306
安東警務段 p90/310
警務段長  林 周吉
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445379/90

【満洲国官吏録. 康徳6年4月1日現在】
 康徳6年10月10日発行:昭和14年(1939)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454502/6
◎治安部 p51/439
大 臣 特任  將軍 陸軍上將 勳一位  于 芷山
次 長 簡、一              薄田美朝
部 附        陸軍中將 勳一位  廖 弼宸
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454502/51
○鐵道警護總隊 p55/439
 總監 簡、一     三浦惠一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454502/55
○牡丹江鐵道警護本隊本部 p66/439
 本隊長 薦、一    若山七三郎
 警護官        ―略―
○圖們鐵道警護隊 p66/439
 警護官 薦、三 隊長 林 周吉
 巡 監        吉田喜之助
            ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454502/66

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[岩永靜雄氏(虎林縣參事官)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[岩永靜雄氏(虎林縣參事官)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
[岩永靜雄氏(虎林縣參事官)]  p48-52/291
生年月日  明治四十二年(1909)七月十六日
殉職場所  松花江 上流 賓縣鳥河
遺族氏名  父・ 順太郎
      義母・ヒサ
      長兄・一衙
      次兄・元彦
本籍地   山口縣下關市大字清末一一八九
遺族現住所 同
  略 歴
昭和二年(1927)三月 山口縣立豊浦中學校 卒業
昭和五年(1930)三月 哈爾濱日露協會學校 卒業
昭和五年(1930)五月 小野田セメント 元山支社 勤務
昭和八年(1933)四月 退社
大同二年:昭和8年(1933)十一月   滿洲國 司法部 法務司 勤務
康徳元年:昭和9年(1934)四月    吉林省 虎林縣 屬官 被命
康徳元年:昭和9年(1934)六月    副參事 被命
康徳元年:昭和9年(1934)八月十四日 殉職  卽日 參事官 昇進
訪問月日 昭和十七年(1942)六月十五日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/48
昭和三年(1928)の三月上旬、   p49-52/291
 ※二年(1927)の誤記。
山口縣廰の學務課では
全縣中等學校を卒業する者のうち、
哈爾濱日露協會學校(現 國立大學、哈爾濱學院)へ
縣費支給生として入學する生徒の選抜試驗が行はれた。
 ―略―
いやがうへにも昂揚され固く他日を期して郷關を發つたのである。
時に昭和二年(1927)三月二十日であつた。
 ―略―
在校三年、
卽ち昭和五年(1930)三月二十五日
日露協會學校を卒業した。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/49

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[井口幸夫氏(依蘭縣警佐)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[井口幸夫氏(依蘭縣警佐)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
[井口幸夫氏(依蘭縣警佐)]  p44-48/291
生年月日  明治三十一年(1898)十一月八日
殉職場所  依蘭縣内
遺族名   母・きくゑ
本籍地   福岡縣八女郡水田村大字下妻三〇四
遺族現住所 同
  略 歴
大正二年(1913)三月 八女高等小學校 卒業
大正六年(1917)三月 福岡敎員養成所 修了
大正六年(1917)四月 福岡縣 海軍炭礦 勤務
大正十年(1921)六月 福岡縣 警察部 巡査 拜命
昭和六年(1931)十月 退職
昭和七年(1932)四月 渡滿
康徳四年:昭和12年(1937)三月二十日 殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)五月二十日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/44

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[市原正見氏(樺川縣警尉補)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[市原正見氏(樺川縣警尉補)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
[市原正見氏(樺川縣警尉補)]  p40-44/291
生年月日  明治四十四年(1911)四月一日
殉職場所  佳木斯市 市立傳染病院内
遺族名   父・ 正勝
      母・ ヨシヱ
      祖父・茂太郎
      祖母・イト
      姉・ アイ
      弟・ 正義 正則 正敏
      妹・ メイ
  略 歴
大正十二年(1923)三月 熊本縣阿蘇郡里川村
            碧水小學校 高等科 一學年 修了
昭和五年(1930)三月  熊本縣立 阿蘇農林學校 卒業
昭和八年(1933)    關東廰 巡査 拜命、
            公主嶺 警察署 勤務
康徳五年:昭和13年(1938)六月   樺川縣 公署 警務科 勤務
康徳六年:昭和14年(1939)七月六日 殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)六月二十日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/40

【満洲国官吏録. 康徳6年4月1日現在】
 康徳6年10月10日発行:昭和14年
三江省 樺川縣  p382-383/439
警尉補 市原正見 p383/439
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454502/383

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[滿洲國の文化面は何うか?]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[滿洲國の文化面は何うか?]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
滿洲國の文化面は何うか?  p38/291
建國當時
四千キロの鐵道は一萬キロを突破し、
三千キロの自動車道路は六萬キロとなつた。

九千校に過ぎなかつた初等學校は二萬一千五百校に、
五十萬人の學童は百八十萬人に、
三百六十ヶ所の電報局は七百九十ヶ所に、
百七ヶ所の電話局は四百四十ヶ所と
凡ゆる數字は伸び行く
滿洲文化の姿を物語るもののみである。
文化無きところに國家の發展はないといふ。
右の外
文化關係の數字を少し掲げて見よう。

      建國當時:昭和7年(1932) 康徳七年末:昭和15年(1940)
映画館   三十箇所         百五十箇所
同觀覽人  五十萬人         四百萬人
水道使用者 八萬戸          二十萬戸
大 學   一校           十六校
大學生   三百人          三千五百人
阿片廕者  百三十萬人        五十萬人
康生院   ナシ           百五十箇所
放送局   三箇所          十七箇所
放送聽取者 二千人          四十萬人
電 燈   百二十萬燈        三百三十萬燈
郵政局   千六百箇所        二千百箇所

以上の如く内外諸政全般に亘る隆々たる國運は、
親邦日本の物心兩面よりする偉大なる援助と、
關東軍全軍の不斷の協力指導の賜物であるが、
同時に五族中の指導的民族として
身命を捧げし日系官吏始め
在満邦人の鮮血にまみれし奮闘を忘れることは出來ない。

大東亞戰爭下赫々たる親邦日本の大戰果のもと、
滿洲國は北の護りとして巖然たる存在となつてゐる。
北邊の護りこそは滿洲國建國の歴史的使命に外ならない。

滿洲事變勃發、
滿洲國建國に端を開く
大東亞戰爭下
意義深き建國十周年を迎へ、
今後の重大なる使命を思ふとき、
陣歿皇軍將士、
殉公滿洲國官吏始め
幾多の遺業に輝く
先輩先人の靈に對し
深甚なる感謝を捧げると同時に、
貴き人柱となりし人々の遺族に
謹しんで弔意を表す次第である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/38

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[現在滿洲國を承認してゐる國家:十七ヶ國]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[現在滿洲國を承認してゐる國家:十七ヶ國]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288
(九)飛躍十年と今後の使命            p36/291
建國ここに十周年。  ※建国=大同1年:昭和7年(1932)3月1日
四千五百萬國民はこぞつてこの佳き年を壽ぐ!
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/36
現在滿洲國を承認してゐる國家は親邦日本を始め、  p37/291
中華民國、獨伊樞軸國を合せて次の十七ヶ國に及び、
國際的地位も確固不動のものとなつた。
(承認月日順)

日 本    大同元年九月十五日   ※大同1年:昭和7年(1932)

サルバドル  康徳元年三月三日    ※康徳1年:昭和9年(1934)

ドミニカ   康徳元年八月十六日   ※康徳1年:昭和9年(1934)

イタリー   康徳四年十一月二十九日 ※康徳4年:昭和12年(1937)

スペイン   康徳四年十二月二日   ※康徳4年:昭和12年(1937)

ドイツ    康徳五年七月十八日   ※康徳5年:昭和13年(1938)

ポーランド  康徳五年十月十九日   ※康徳5年:昭和13年(1938)

ハンガリー  康徳六年一月九日    ※康徳6年:昭和14年(1939)

スロヴァキア 康徳六年六月一日    ※康徳6年:昭和14年(1939)

中華民國   康徳七年十一月三十日  ※康徳7年:昭和15年(1940)

ルーマニア  康徳七年十二月一日   ※康徳7年:昭和15年(1940)

ソ 聯    康徳八年四月十三日   ※康徳8年:昭和16年(1941)

外 蒙    康徳八年四月十三日   ※康徳8年:昭和16年(1941)

ブルガリア  康徳八年五月十日    ※康徳8年:昭和16年(1941)

フインランド 康徳八年七月二十日   ※康徳8年:昭和16年(1941)

泰 國    康徳八年八月五日    ※康徳8年:昭和16年(1941)

デンマーク  康徳八年八月十五日   ※康徳8年:昭和16年(1941)

一方建國當初
一億一千萬圓に過ぎなかつた國家財政は、
十年後の今日實に二十數倍の
二十五億九千八百萬圓と一大飛躍を遂げている。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/37

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[Wikipedia]
[満州国]
満州国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、
英語: Manchukuo、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、
1932年から1945年の間、
満州(現在の中国東北部)に存在した国家。
帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」
あるいは「満州帝国」などとも呼ばれていた。
 ―略―
国名[編集]
1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、
国号は「滿洲國」と定められている。
 ―略―
元号[編集]
大同(1932年3月1日 - 1934年3月1日)
康徳(1934年3月1日 - 1945年8月18日)
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

[小島喜久男氏(通北縣警尉補)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[小島喜久男氏(通北縣警尉補)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年
[小島喜久男氏(通北縣警尉補)] p216-219/291
生年月日  大正二年五月二十五日
殉職場所  通北縣南小河子 森林地帯
遺族名   父 慶藏
      母 ナヲ
      兄 三代喜
      弟 道喜 政喜 喜好
本籍地   福岡縣築上郡三毛門村大字三毛門字東出屋一四三七番地
遺族現住所 同
  略 歴
昭和三年(1928)三月  三毛門小學校高等科 卒業
昭和七年(1932)    小倉○○入營
昭和七年(1932)    東京通信敎導隊 派遣
康徳六年(1939)五月  滿洲國警長拜命
康徳七年(1940)五月  殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)六月二十二日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/216
出文協 承認 あ140059號
滿洲建國烈士遺芳錄
定價 參圓
昭和十七年九月二十五日印刷
昭和十七年九月 三十日發行
發行所 滿洲日日新聞社 東京支社出版部
    東京市京橋區銀座西七丁目六番地
    電話 銀座(57)三六九五番
編纂者 滿洲日日新聞社
    奉天市敷島區協和街
發行者 中澤不二雄
    東京市牛込區市ケ谷臺町八番地
印刷所 大日本印刷株式會社 榎町工場
    東京市牛込區榎町七番地
印刷者 平石恒夫 (東東一)
    東京市牛込區榎町七番地
配給元 日本出版配給株式會社
    東京市神田區淡路町二丁目九番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[山守英治氏(奈曼旗參事官)]【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

[山守英治氏(奈曼旗參事官)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年
[山守英治氏(奈曼旗參事官)]  p182-186/291
生年月日  明治三十八年六月七日
殉職場所  奈曼旗公署西北方 約五百米附近
遺族名   妻 ユリ 長女 美英子 二女 榮子 兄 六太郎
本籍地   石川縣金澤市大野町四ノ七七
遺族現住所 東京市赤坂區檜町三     (夫人 及 長女)
      石川縣金澤市大野町四ノ七七 (兄 及 二女)
  略 歴
大正十四年(1925)三月    金澤第二中學校 卒業
昭和七年(1932)三月     早稲田大學 商學部 卒業
康徳元年(1934)一月     熱河省綏東縣 參事官 代理
康徳元年(1934)十二月    奈曼旗 參事官 代理
康徳二年(1935)七月二十三日 殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)二月十七日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/182
北陸の要都、金澤市の第二中學校に劍道の達人が現はれた。
少年劍客山守英治君その人である。

康徳二年(1935)七月の二十三日、
烈日燒くが如き蒙古原野に悵恨のうちに
生命を散らした風雲兒山守參事官は、
既にその少年時代から、
後年に於ける山守參事官の片鱗を見せてゐた。

大正十四年三月、
山守參事官は金澤第二中學を卒業すると、
翌月には早稲田大學第一高等學院に入學した。

それから昭和七年春、商學部を卒業する迄の六年間、
練磨に練磨を重ねてゐた劍道は素晴らしき進境振りを示し、
その劍風には一つの風格さへ備つた程の大成ぶりをみせ、
早大劍道部の主將として全國の學校劍道部を後方に、
早稲田のみが劍道の黄金時代を創りあげた。

山守氏が早大劍道部主將として學生界に君臨してゐた當時、
範士高野佐三郎氏に引率されてアメリカ遠征を企てたことがある。

現在の未亡人ユリさんが、
このアメリカ遠征當時邦人二世として彼地に在つて、
氏との間に美しき結婚迄に進んだ話は餘りにも有名である。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/183
 ―略―
奈曼八仙洞建設の恩人は      p185/291
僅か三十歳の若さを蒙古原野に散らしたのであつた。
氏の壯烈な最後と前後して、    p186/291
藤川警佐夫妻を除き他の六人は
全部壯烈な最後を遂げたのであつた。

遺された若き未亡人ユリさんは
遺兒美英子ちやんを抱き、
父知らぬ二女の榮子ちやんをお腹の中にして、
「山守はいつでも戰死する覺悟でゐましたから、
 さぞ滿足してお國のお役に立つたことでせう」
と哀しみをこらへ毅然と語つた。

長女美英子さんは今
東京市赤坂區檜町三番地に開く
母のさゝやかな洋裁店で、
又二女の榮子ちやんは
故人の兄六太郎氏の住む郷里
金澤市大野町四ノ七七で、
共に立派な父の遺兒らしく健かに育つゐる。

山守參事官代理は殉職の日を以つて參事官に昇進、
かつての流血地たる八仙洞に、
故人を慕ふ旗民達の手に成る墓標が立てられてゐるが、
參事官の英魂は今も尚、
胡砂吹く蒙古に在つて、
故人の遺志を繼いだ後輩達の努力に
隆々躍進する滿洲帝國を静かに見守つてゐる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/186
出文協 承認 あ140059號
滿洲建國烈士遺芳錄
定價 參圓
昭和十七年九月二十五日印刷
昭和十七年九月 三十日發行
發行所 滿洲日日新聞社 東京支社出版部
    東京市京橋區銀座西七丁目六番地
    電話 銀座(57)三六九五番
編纂者 滿洲日日新聞社
    奉天市敷島區協和街
發行者 中澤不二雄   ※別稿に記載
    東京市牛込區市ケ谷臺町八番地
印刷所 大日本印刷株式會社 榎町工場
    東京市牛込區榎町七番地
印刷者 平石恒夫 (東東一)
    東京市牛込區榎町七番地
配給元 日本出版配給株式會社
    東京市神田區淡路町二丁目九番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288

【早稲田大学校友会会員名簿. [昭和10年用]】
 昭和9年12月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/455
山守榮治 昭和7年 商學 石川 p425/462
     石川縣大野町庄町四七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/425

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[早稲田大学 剣道部]
早稲田大学剣道部の歴史
明治30年(1897) 剣道部創立。
        「九徳館」にて内藤高治先生を師範に迎え
        銃撃として活動を始める
明治35年(1902) 浮田和民を部長として体育部発足
        (剣道・柔道・野球・庭球・端艇・弓術)
大正14年(1925) 第1回早慶戦、不戦6人で優勝(於陸軍戸山学校道場)
昭和5年(1930)   斎村範士と部員25名が満州遠征
昭和6年(1931)   高野佐三郎師範、南里三省監督の引率のもと
        和田金次主将以下10名の選手が米国遠征を行う
 ―略―
http://www.waseda-kendo.com/about/

《中澤不二雄》
【明治大学校友会員名簿】昭和10年
【朝鮮満洲旅の栞】昭和13年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659760.html

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