◆《藤井秀二》

《藤井秀二》【営業別電話名簿. 大正11年用】

《藤井秀二》
【営業別電話名簿. 大正11年用】

【営業別電話名簿. 大正11年用
 大阪・神戸・大阪府管内及尼崎・芦屋・御影・西ノ宮】
 大正10年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/572
大阪 醫業   p15/574
《藤井秀二》   p20/574
南 三三三八
大阪市 南區 大寶寺 西ノ丁 二三七
小兒鍼術 及 小兒科専門
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/20

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 


《四花灸治:奥西正緒》【営業別電話名簿. 大正11年用】

《四花灸治:奥西正緒》
【営業別電話名簿. 大正11年用】

【営業別電話名簿. 大正11年用
 大阪・神戸・大阪府管内及尼崎・芦屋・御影・西ノ宮】
 大正10年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/572
[鍼灸 按摩業]  p280/574
《四花灸治:奥西正緒》
新町 一二二一
大阪市 西區立賣堀北 三ノ二六地
灸術業
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/280

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 


《長門谷丈一》[大阪醫科大學 昭和2年卒業]【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】

《長門谷丈一》
[大阪醫科大學 昭和2年卒業]
【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】

【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】
 昭和8年10月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464677/218
 四、元 大阪醫科大學 卒業者  p133/223
  昭和二年三月卒業 (九四名) p137-138/223
《長門谷丈一》 大阪
《藤井朋道》  兵庫
《藤井正太郎》 山口
《藤井 覺》  兵庫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464677/138

【日本医籍録. 昭和15年版】
 昭和16年1月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1071099/1225
《長門谷丈一》 (醫博) p699/1228
大阪市 西區南堀江上通三ノ二七
明治三十六年三月十六日生
大阪市出身
昭和二年 大阪醫大 卒業
登録 五六五三六號
昭和十一年四月 學位 受領
主論文 灸ノ實驗的研究
爾來 現地開業
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1071099/699

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《長門谷貫之助》[大阪醫學校 明治18年卒業]【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】

《長門谷貫之助》
[大阪醫學校 明治18年卒業]
【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】

【大阪帝国大学一覧. 昭和8年度】
 昭和8年10月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464677/218
 一、元 府立大阪醫學校 卒業者 p118/223
  明治十七年九月卒業 (四名)
《江上 潮》   熊本
《中原竹次郎》  山口
《難波 貢》   廣島
《上甲 廉》   愛媛
  明治十八年三月卒業 (六名)
《上原晋策》   大分
《北 道太郎》  大阪
《小林圓太郎》  大阪
《竹嶋猪三郎》  大阪
《地原繁太郎》  島根
《長門谷貫之助》 大阪
 明治十八年九月卒業 (一〇名)
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464677/118

【日本医籍】明治22年8月8日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/241
《長門谷貫之助》 p25/246
大阪市 西區 南堀江上通三丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/25

【帝国医籍宝鑑】明治31年8月7日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/409
開業醫之部   p61/427
《長門谷貫之助》 p84/427
大阪市 西區 南堀江上通三丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/84

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/965
《長門谷貫之助》 p155/976
醫學校 明治十八年六月
大阪 平民
文久三年生
大阪市 西區 南堀江上通三ノ一八九
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/155

【営業別電話名簿. 大正11年用
 大阪・神戸・大阪府管内及尼崎・芦屋・御影・西ノ宮】
 大正10年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/572
大阪 醫業   p15/574
《長門谷貫之助》 p19/574
櫻川 二〇二五
大阪市 西區 南堀江上 三ノ一八九四
灸治専門
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950542/19

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《藤井秀廣:立賣堀北通五丁目》【浪華の魁】明治15年【日本医籍】明治22年

《藤井秀廣:立賣堀北通五丁目》
【浪華の魁】明治15年
【日本医籍】明治22年

【浪華の魁】明治15年7月出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803736/206
[有名諸大家]   p195/207
 ○醫業    p203/207
洋《藤井秀廣》 立賣堀北通五丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803736/203

【日本医籍】明治22年8月8日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/241
[大阪府]    p23/246
 ○西區     p24-25/246
《藤井芳哉》   阿波座三番町   p25/246
《藤井秀廣》   立賣堀北通五丁目 p25/246
《長門谷貫之助》 南堀江上通三丁目 p25/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/25

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


『森琴石.com』
大阪の有名諸大家(おおさかの ゆうめいしょたいか)
(一)『浪華の魁(なにわのさきがけ)』
編輯人:垣貫一右衛門(北区曽根崎新地壱丁目三十九番地)
出版人:垣貫與祐(北区曽根崎新地一丁目三十九番地同居)
明治十五年一月十九日
 ―略―
〇醫業
藤井秀廣:立売堀北通五丁目
 ―略―
http://www.morikinseki.com/kanren/kanren_a.htm

[鍼灸醫と鍼灸會4/4]【西区史. 第1巻】昭和18年

[鍼灸醫と鍼灸會4/4]
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
四、鍼灸醫と鍼灸會               p405/484
尚鍼灸家として有名なるものゝ中より二三を擧ぐれば、 p407/484

「藤井小兒はり」
西長堀北通一丁目
四ツ橋北詰にあり
前記《藤井秀二》の經營である。

天文元年        ※①天文1年壬辰:西暦1532年
            ※③天文元年:元文元年の原文校正ミス
            ※③元文元年丙辰:西暦1736年
            ※③平成26年2月12日:小野一雄
《藤秀孟郡子》なる人が ※下記参照
河内柏原より大阪に出で、
中津町(今の東清水町)に來りて醫者を始め、

次代より大寶寺町西之町(現在 御堂筋角)に移り
代々醫者で鍼術を兼ねた。

當主は其七代目に當り  ※當主:藤井秀二
昭和五年現在地に移轉した。

また藤井家五代《秀年》の弟《秀廣》も醫者で
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/407
幕末頃より
立賣堀穴喰屋橋北詰に
鍼専門で開業して居たが、
死去の後は息女の姉妹二人が後を嗣いだ。
現今では珍しい事は無いが
當時の女醫は珍らしく
小兒鍼の藤井先生と一層有名になつたといふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/408
「阪井はり」で通つて居る
京町堀一丁目の阪井家は
代々加賀大聖寺藩の鍼醫であつたが、
幕末の頃《阪井豊作》なる人
當地に移りて廣く一般施療に從ひ、
慶應二年「鍼術秘要」二巻を著して一派を成した。
現在の當主はその三代目である。

南堀江上通三丁目には
「ながとやの灸」で有名な長門谷家がある。
此邊が船着場であつた頃は
遠國の人々がよく灸治に來たといふ事であり、
其名は享和版の「浪華なまり」にも記されてゐる舊家で、
當主は阪大出身で灸の研究で學位を取つた人である。
※當主《長門谷丈一

また「四花灸」で名高い立賣堀北通の奥西家
永享年間に其源を發し其名は遠近に知られて居る。

幸町二丁目の
「天平本院」は薩州藩御典鍼灸醫
肥後守正の直流である
《郡山七二》が經營して居る。
氏は大阪に出て約二十年
大阪市鍼灸會設立の功勞者で
現にその會長である。

尚 按摩術、マツサージ術を營業する者は
西區に男女を合して二百四十名である。
(昭和十五年十二月三十一日現在)
(大阪市統計書による)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/408

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《藤秀孟郡子》

[日本内經醫學會談話室]
2011年3月18日金曜日
35-2 鍼法辨惑
投稿者 菉竹
35-2『鍼法辨惑』
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼法辨惑』(シ・626)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』35所収
 ―略―
○明和旃蒙作噩:明和二年(一七六五)。旃蒙:乙。作噩:酉。 ※②
○仲秋:陰暦八月。 ○望:十五日。 
○河内:現在の大阪府の東部。 
○藤秀孟郡子:京都大学医学図書館富士川文庫目録には「加藤秀孟」とある。
『国書総目録』はこの説とともに、
大阪出版書籍目録等により「藤井郡子」説を載せる。
 ―略―
http://daikei.blogspot.jp/2011/03/blog-post_18.html

※②明和2年乙酉:西暦1765年
http://maechan.net/kanreki/

※③平成26年2月12日:小野一雄
[鍼灸治療所蓬菴(よもぎあん)]
〒649-7206 和歌山県橋本市高野口町向島84-13
 ―略―
小児はりの歴史は古く
江戸時代中期の
元文元年(1736年)に
藤井秀孟の「鍼法弁惑」には、
小児はりの記載があるといわれています。
 ―略―
http://yomogian.com/syounihari.html

[鍼灸醫と鍼灸會3/4]【西区史. 第1巻】昭和18年

[鍼灸醫と鍼灸會3/4]
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
四、鍼灸醫と鍼灸會            p405/484
鍼の實驗的研究で全國最初に學位を得た人に p407/484
《藤井秀二》がある。
氏は西長堀北通一丁目に
「藤井小兒はり」を經營して居る。

又同じく鍼の研究では
京町堀通四丁目に内科・小兒科を開業して居る
《水野重元》あり。

灸治にては南堀江上通三丁目に
「ながとやの灸」で有名な
長門谷丈一》、

江ノ子島西之町に神經精神内兒科を開業して居る
《瀧野憲照》も灸に關する學者で、
臨床上にも灸療を行ふて居るが、

以上の四氏は孰れも醫師にして
鍼灸を學理的に研究して學位を得た人々である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/407

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[鍼灸醫と鍼灸會2/4]【西区史. 第1巻】昭和18年

[鍼灸醫と鍼灸會2/4]
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
四、鍼灸醫と鍼灸會  p405/484
鍼灸術は明治維新以後
西洋醫術の輸入に依つて一時は全く
衰頽の境に至つたのであるが、
明治三十四年に大阪鍼灸會が組織せられ、
鍼灸醫道の復興挽回を叫び、
大正、昭和の現代に至り次第に盛況を增して今日に至つた。

殊に本區内に於ける鍼灸醫は學界方面に於ても
鍼又は灸の研究に依りて
醫學博士の學位を得た人々
(大阪市内に四名)は、
孰れも我が西區の人々であり、
其他 斯界の教育機關として創立せられた
關西鍼灸學院或は鍼灸に關する
出版物等も皆
西區を中心として發展して來たのである。

鍼灸會は明治三十四年頃に
堀江の《藤井楠次郎》、《長門谷貫之助》、
江戸堀の《山本新梧》、《吉田多市》等
西區に於ける當時の新人であり
先覺者を以て任ずる人々が發起して
大阪鍼灸會を組織し、
機關誌「日本鍼灸雑誌」を發行するに至つた。

此「日本鍼灸雑誌」は爾來毎月一回發行せられて居たが、
大正三年には大日本鍼灸醫會の機關誌となり、
昭和十六年には株式組織に改め
「株式會社日本鍼灸雑誌社」を創立して
社長《藤井秀二》を始め、
《山本新梧》、《長門谷丈一》、《郡山七二》等
西區出身者の多くが取締役又は監査役に就任し、
本社を西長堀北通一丁目に置き
全國に於ける鍼灸界唯一の専門雑誌として
斯界に多大の貢献と裨益を與へてゐる。

明治三十四年頃には
大阪鍼灸會の他に
大阪市内に警察署管内を單位とせる
鍼灸會等が創立せられた事もあるが、
是等は孰れも法規に基いたもので無く、
一部同志が相集りて設立したに過ぎず、

昭和七年六月
大阪府令に基き大阪市内を單位とする
公認大阪市鍼灸會が設立されて
始めて眞に統制ある同業組合としての
機能を發揮するに至つたものである。

大阪鍼灸會時代の會長は
初代《藤井楠次郎》
二代《長門谷貫之助
三代《市川隆助》
四代《山本新梧》

新組織後の大阪鍼灸會は本部の外に
各警察署管内毎に事務機關として支部を置き、
顧問に現府會議長《蒲田利郎》を委嘱し
益々會務の向上發展を期して居る。

尚大阪市内に於ける現會員數は
一千五百餘名の多きに達し、
其内西區で開業せる者は百二十一名である。
現 會 長 《郡山七二》  幸町二丁目
現 副會長 《末吉久一》  京町堀通五丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/406
新町支部長 浅田亮一
川口支部長 木村政太郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/407

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[鍼灸醫と鍼灸會1/4]『鍼師:54名』【西区史. 第1巻】昭和18年

[鍼灸醫と鍼灸會1/4]
『鍼師:54名』
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
四、鍼灸醫と鍼灸會  p405/484
大阪は古來鍼灸の盛んな土地で、
中でも西區には古くより著名な鍼灸醫が輩出して居るのである。
前項醫師と病院の章に引用した
「儒者醫師、目醫師、鍼師、外科、歯醫師、按摩名寄帳」
(享保十二年九月改) ※1727年10月
(薩摩屋仁兵衛控)の内に記されて居る
鍼師の名は四十八名であるが、    ※54名の誤記:小野
當時の鍼灸醫師は孰れも相當の勢力を持ち、
中には大名の御抱へあり
或は
御屋敷出入を許されて
醫師と同格に取扱はれて居た者が多かつた。

『鍼師』         p405/484
撚針駕 《芝 武七》   布屋町
撚針駕 《原 泰菴》   江戸堀一丁目
管針駕 《小濵隆伯》   出口町
撚針  《尾崎元理》   船町

撚針駕 《益川喜八郎》  布屋町
指針  《藤居五郎兵衛》 江戸堀一丁目
管針  《三浦利端》   布屋町
捻針  《曾根正伯》   江戸堀一丁目

撚針駕 《東 意休》   布屋町
撚針  《山主九八》   江戸堀二丁目
管針  《平賀新十郎》  布屋町
管針  《清水理丹》   江戸堀三丁目

撚針駕 《林 松伯》   江戸堀四丁目
管針  《和田原楚伯》  江戸堀五丁目
管針  《津原無腦》   玉澤町
管針  《今藤源右衛門》 玉澤町

撚針駕 《小山隆悅》   道空町
管針  《浦江春益》   江戸堀五丁目
管針  《田中立仙》   玉澤町
撚針  《星野了安》   山田町

管針  《小寺甚六》   新淡路町
打針  《高木伊織》   江戸堀五丁目
管針  《園 鬼才》   坂本町
管針  《武藤道叔》   兵庫町

管針  《堤 泰元》   新天満町
撚針  《福原丹治》   海部堀川町
管針  《大崎了意》   油掛町
打針  《山口可佑》   信濃町

撚針  《河合主水》   奈良屋町
管針  《大澤嘉兵衛》  衽町
管針  《美島清菴》   釘屋町
管針  《守川因益》   三右衛門町

撚針  《河本宜仙》   上博勞町
管針  《中奥忠節》   下博勞町
撚針  《松下元智》   北堀江二丁目
撚針  《長谷川忠治》  北堀江二丁目

撚針  《和田平内》   橋通二丁目
管針  《堤 仲菴》   長堀富田町
管針  《池村壽丹》   白髪町
管針  《綾部一歩》   山本町
    ※40名
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/405
『鍼師』         p406/484
管針  《河村要節》   山本町
撚針  《長谷川幸節》  長堀富田町
管針  《岡本杏菴》   薩摩堀納屋町
撚針  《稻原桃壽》   立賣堀北側一丁目

管針  《山口長伯》   立賣堀中橋町
捻針  《尾上周菴》   帯屋町
撚針  《山田本立》   助右衛門町
撚針  《三浦元和》   助右衛門町

管針  《富山理玖》   伊達町
撚針  《古礒宮内》   孫左衛門町
撚針  《安井養菴》   南堀江一丁目
管針  《河原林春律》  南堀江三丁目

撚針  《山口常休》   南堀江四丁目
管針  《林 彦兵衛》  幸町三丁目
    ※14名
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/406
名の上に、撚針、管針、指針と記したのは孰れも其流派である。

撚針の法は古く
欽明天皇の朝に支那より傳來せる方式で、
古の鍼家は多く此法を鍼治に應用した。

また指針は打鍼法のことで
德川時代の初期に京都の醫師
《御園意齋》の發案したるものにて、
世に無分流と稱せらるもの即ち之である。

管針は德川時代に
《杉山和一》によりて創始せられたるものにて、
世に杉山眞傳流と稱され、
此流派の流を汲む鍼家は現今最も多く
且つ有名な流派である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/406

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

「浪華人物録文化改正:17名」[醫師と病院]【西区史. 第1巻】昭和18年

「浪華人物録文化改正:17名」
[醫師と病院]
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
三、醫師と病院   p398/484
文化の向上と醫術の普及とは常に正比例することは
古今東西に變りなき定石である。
本區の地域は元和以降より   ※元和1年(1615)
次第に發達し來つた地であるが、
大阪に入津する諸國船舶の船着場の要衝に位し、
昔より人口も多く且つ繁榮の地であつた關係上、
此地に醫師を開業せる者は頗る多かつたのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/398
また浪速叢書攝陽奇觀巻之四十五に掲載せられてゐる
「浪華人物録文化改正」の醫家部より、
本區の地域のものを記すれば左の拾七名がある。

《井後玄朔》   山本町  p400/484
《柴田正均》   うつぼ
《齋藤方策》   かごや町
《小松久吾》   ほり江

《野呂典膳》   江戸堀
《猶林昌元》   船町
《三木道哉》   ほり江
《西田耕悅》   かうじ町

《松本順庵》   ざこば
《鵲橋元恒》   江戸堀
《松尾元章》   解船町
《尾形貞齋》   山本町

《小宮山節齋》  京町堀
《三島壽山》   江戸堀
《桃原尭民》   うつぼ
《柳 主計》   うつぼ

《岡 養庵》   しらが町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/400

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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