【太平洋戦争航空史話 下】1980
著者 秦郁彦 著
出版者 冬樹社
出版年月日 1980.8
〔画像〕p1【太平洋戦争航空史話 下】1980
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民間飛行操縦士番附
大正十四年一月五日現在
「民間操縦士番附」
(「国民新聞」大正14年1月5日より)
【女流飛行家】
木部しげの(福岡) 兵頭精子(愛媛)
【練習中の女子】
前田あさの(奈良) 今井小松(京都)
〔画像〕p8【太平洋戦争航空史話 下】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12398659/1/8
女流飛行家の行方
《木部しげの》
免状取得者のなかでは兵頭さんにつづく
二番目の女流飛行家であり、
新制度で女性としては最初の二等操縦士になった。
高等飛行もかなりできたようだが、
昭和二年十一月家族のいた朝鮮へ
郷土訪問飛行を企て墜落、断念した。
男装で通し、のちにグライダー教官や
羽田空港のガイドになったりした。
《西原こまつ(今井小まつ・雲井龍子)》
第三号の女流飛行家。
飛行家を志したのは州崎で
スチンソンの曲技飛行を見たのが
きっかけというから、
誰よりも早い。
大正八年に家出して浜松の福長飛行学校へ入り、
その後転々としたため免状の取得はおくれた。
三保の松原にあった根岸飛行場で
飛行機による魚群探知の仕事をしていたが、
念願の二等操縦士免状を取ると
航空界から足を洗った。
筆もたち、
技術では戦前派の随一と称された。
《朴敬元》
朝鮮出身の女流飛行家としては
大正十二年五月ごろ
ウラジオストックで
赤軍から免状を取ったと伝えられる
朴東熈、朴順化の二人がいるが、
正式に航空局の免状をもらったのは
この人が最初であろう。
入校してから二等操縦士になるまで
二年半たらずのスピード出世だったが、
昭和八年八月
日鮮満親善の東京—新京間飛行に飛びたって
伊豆の山に衝突惨死した。
事故で死んだ唯一人の女流飛行家でもある。
《松本キク》
埼玉女子師範を出て
小学校の先生をしていた松本嬢は
昭和六年安藤飛行機研究所に入り、
二年半後に水上機による女性初の免状を獲得した。
利根川に着水する郷土訪問飛行に成功したのち、
女性が誰もやっていなかった海外飛行を企画した。
そこで陸上機の練習をして、
後援会が贈ったサルムソン2A2型「白菊号」で
「日満親善、在満皇軍慰問」と銘打って
昭和九年十月二十二日羽田飛行場を離陸した。
途中京城で不時着したが飛行機を修理して
十一月四日新京飛行場についた。
この飛行で彼女にはパリの国際飛行協会から
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一九三四年度の「最もすぐれた飛行士」として
ハーモン・トロフィーが贈られている。
なお馬淵テフ子嬢も同じコースに挑戦し、
松本嬢より一週間おくれて大阪を飛びたったが、
新京着は一日おくれ無念の涙をのんだ。
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太平洋戦争航空史話(下) 定価1500円
1980年8月15日 初版第一刷発行
著 者 秦 郁彦
発行者 高橋直良
発行所 冬樹社
東京都千代田区神田神保町3-27-6
郵便番号 101 振替 東京8-7757
電話 東京(03)264-0346(代表)
装 幀 田淵裕一
印刷/製本 図書印刷株式会社
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