◆《女流飛行機操縦士》

《上野艶子》[新しき時代の生める女飛行家]【歴史写真. 大正6年9月號】

《上野艶子》
[新しき時代の生める女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】

【歴史写真. 大正6年9月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/1
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家] p17/41
《上野艶子》[新しき時代の生める女飛行家]
《上野艶子》
 ―略―
東京羽田海岸なる日本飛行學校に入學し、
熱心に飛行術を練習しつつある
上野艶子嬢(十八歳)で、        ※①
嬢は既に同校自働車部を卒業し過般、 ※②
我國最初の婦人飛行家として
同校飛行部に入學したるもの、
技術極めて優秀
近く帝都訪問飛行を試みるといふことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/17

[日本飛行學校へ、《上野艶子》さんが入學]

【航空と女性】昭和18年4月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/123
[日本の女鳥人]  p95/125
わが國では、
民間飛行家《白戸榮之助》氏が
大正元年に師《奈良原男爵》の夫人となつた
福島よね》さんを同乗させて五分ばかり飛んだのが、
婦人昇天の始まりで、

大正五年に來朝した
米人《ナイルス》は、
滋賀縣八日市で《重森きり子》さんを同乗して、
日本婦人最初の宙返りをいたしました。

自分でハンドル持つて天晴れ女飛行家とならうとしたのは
在米同胞の《南地よね子》さんでしたが、

大正年には、
東京羽田に出來た日本飛行學校へ、
《上野艶子》さんが入學しました。


けれども、
ほんとうに女飛行士となつたのは
大正六年
千葉の伊藤飛行場で練習をした
《兵藤 精》さんだした。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/95

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン]
◇羽田飛行場に日本飛行学校があったのは
 2005/3/20(日) 午後 8:48
 ―略―
 日本飛行学校の主事,
通称「校長」といわれた相羽有は当時21歳,
「教官」となった玉井清太郎飛行士は24歳,
使用する機体は斎藤外市から借りた
キャメロン25馬力エンジンを装備した
NFS玉井式1号機(''' 写真 ''' )で,
飛行学校の授業は
1916(大正5)年12月から開始された.
 ―略―
 飛行学校開校時の練習生には,
長田政雄(21歳),石橋熊一(22歳),山田欣一(19歳),
長谷川常芳(20歳),信田五平次(18歳),青木茂(19歳)ら,
続いて少年飛行士として辻村泰作(当時16歳),
のちにゴジラなど怪獣映画の特撮監督になる円谷英二,
後の片岡飛行学校長の片岡文三郎,福長朝雄,
女性練習生の上野艶子らが参加してきた.   ※①
 ―略―
相羽校長は練習生の就職を考えて,
羽田穴守に自動車練習部を開設した.      ※②
これは後に蒲田の公認日本自動車学校として
分離独立することになる.
 ―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html

<日本最初の女性練習生>
 日本で最初に飛行機操縦士免許状を取得した女性は、
千葉県の津田沼で訓練をした兵頭精さんという方だが、
それ以前に上野艶子さんという練習生が
羽田の日本飛行学校にいたそうだ。
まもなく姿を消し、免許状は取得しなかったということだが、
私が偶然に入手した扇子にその人の肖像画があった。
日本髪である。
この扇子にはもう一人、無名だが赤い服の女性が描かれており、
これがカザリン・スティンソンであることは明白。
この絵の元になったと思われる
赤い服の彩色絵葉書があるので、それとわかる。
だが、この扇子にある赤い服のカザリン・スティンソン、
本人とは顔が全然似ていない。
そうなると上野艶子さんの絵も似ているかどうか怪しい。
そうはいっても、スティンソンさんの例から考えると、
上野艶子さんの写真が存在していた可能性はある。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato381.htm

<上野艶子さんの写真>
<日本最初の女性練習生>で上野艶子さんの顔写真について書いた。
 ―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato461.htm

<日本最初の女性練習生 その2>
日本最初の女性飛行練習生は上野艶子さんだそうだが、
『日本航空機辞典 上巻』(モデルアート社、再版2002年)p.291 の
玉井式飛行機の記事中にその名前があった。
そのページの下から2枚目の写真は先生と練習生が並んで撮ったものだが、
同じ写真の人物名まで記載した
野沢正編『日本航空50年史』(出版協同社、1960年)をみると、
残念なことにここには上野艶子さんはいない。
 ―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato409.htm

[上野艶子](うえの つやこ)
女性初の飛行家。
大正6年日本飛行学校入学18歳。
公認試験(大正10年から実施)による飛行家は兵藤精だが
大正9年に飛行したので、実際には上野が先だった。
http://www.geocities.co.jp/Stylish/2480/b/a2.htm

[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659660.html

[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]【歴史写真. 大正6年9月號】

[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】

【歴史写真. 大正6年9月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/1
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家] p17/41
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]
新しき時代と共に生れて來る社會百般
 機關は獨り男子のみならず
一般の婦人に對して種々様々の職業を提供しつつある。
殊に此頃の婦人は自ら女子の解放を呼號し要求し、
從來の退嬰的乃至静止的境涯から脱して
一躍活動的境地を開拓せんとする傾向著しく、
近年又
歐州大亂に際し各交戰國に於ける婦人等の目覺ましき活躍振りは
我國の年若き婦女子の心を刺戟し、
最近に於ては妙齢の婦人の自働車運轉手として世に立つもの、
又は飛行機操縦に志すもの等
相亞いで現るるに至つた。

寫眞の右は
大正六年七月十四日
東京自働車學校を卒業して
一人前の運轉手と成りすました
關原いく子嬢(十八歳)。


又左は
東京羽田海岸なる日本飛行學校に入學し、
熱心に飛行術を練習しつつある
上野艶子嬢(十八歳)で、       ※別稿に記載
嬢は既に同校自働車部を卒業し過般、
我國最初の婦人飛行家として
同校飛行部に入學したるもの、
技術極めて優秀
近く帝都訪問飛行を試みるといふことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/17

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[関原いく子](せきはら いくこ)
女性初の自動車運転手。
大正6年18歳の時、東京自動車学校を卒業。
運転手を職業とした。
http://www.geocities.co.jp/Stylish/2480/d/c1.htm

《上野艶子》
[新しき時代の生める女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659661.html

[朴敬元への弔慰飛行:正田マリエ・李貞喜]【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年

[朴敬元への弔慰飛行:正田マリエ・李貞喜]
【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年

【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年10月1日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/404
≪航空界の殉職者≫    p134/412
 ▲民間(昭和八年一月以降)
  朴 敬元(二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/134
≪航空近時≫       p134/412
 ◇女流飛行家の弔慰飛行 p138/412
  昭和九年(1934)八月七日
  女流飛行家
  正田マリエさんはサルムソン機を、
  李貞喜さんは水上機を操縦して、
  昨年伊豆玄獄山頂で墜死した、
  故朴敬元嬢の空からの弔慰飛行を行つた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/138
≪民間航空機乗員一覧≫  p132/412
(昭和九年(1934)八月現在)
[二等飛行機操縦士]    p133/412
今井小まつ
李 貞喜
上仲鈴子
瀧澤美喜代
長山きよ子
梅田芳江
久保田なほし
薮内光子
松本キク
馬淵テフ子
木部シゲノ
正田マリエ
鈴木しめ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/133
[三等飛行機操縦士]   p134/412
本登勝代
米山イヨ
藤井ヤエ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/134

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[墜落した女鳥人 朴敬元(Pak Kyongwon)]
http://nekonote.jp/korea/hito/pak.html

[金髪の女流飛行士 正田マリエ]
http://nekonote.jp/korea/hito/jp/marie.html

[北に拉致された女鳥人 李貞喜]
http://nekonote.jp/korea/hito//igh.html

[二女流飛行士:長山きよ子、梅田芳江]【毎日年鑑. 昭和10年】昭和9年

[二女流飛行士:長山きよ子、梅田芳江]
【毎日年鑑. 昭和10年】昭和9年

【毎日年鑑. 昭和10年】昭和9年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117046/316
『世界の飛行界』 p102/320
「日本」
[二女流飛行士]
 昭和八年十月十九日、
 千葉縣船橋第一航空學校の
 長山きよ子、
 梅田芳江の兩嬢は
 優等の成績で二等飛行士となつた
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117046/102

【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年10月1日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/404
≪民間航空機乗員一覧≫  p132/412
(昭和九年(1934)八月現在)
[二等飛行機操縦士]    p133/412
今井小まつ
李 貞喜
上仲鈴子
瀧澤美喜代
長山きよ子
梅田芳江
久保田なほし
薮内光子
松本キク
馬淵テフ子
木部シゲノ
正田マリエ
鈴木しめ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/133
[三等飛行機操縦士]   p134/412
本登勝代
米山イヨ
藤井ヤエ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/134

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[亞細亞飛行學校女子部:教官 馬淵てふ子・松本きく子]【毎日年鑑. 昭和10年】

[亞細亞飛行學校女子部:教官 馬淵てふ子・松本きく子]
【毎日年鑑. 昭和10年】

【毎日年鑑. 昭和10年】昭和9年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117046/316
[亞細亞飛行學校女子部] p102/320
 東京洲崎の亞細亞飛行學校にゐる
 女流飛行家群は
 女流航空界の世界的レヴエルを目ざし、
 女子飛行部を新設、
 昭和九年六月十四日開部式を擧げたが、
 同部敎官は
 馬淵てふ子、松本きく子 ※松平きく子:誤記
 兩二等飛行士である
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117046/102
「民間飛行學校 同練習所 其他」 p104/320
[亞細亞航空學校、亜細亞航空機關學校]
(校長 飯沼金太郎
東京市杉並區宿町二三二
 ―略―
[國粹義勇飛行隊]
(隊長 笹川良一
大阪東區北濱一ノ二八
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117046/104

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

≪空から盟邦の訪客≫
[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]
【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659603.html

[馬淵テフ子:私立フヱリス和英女學校]【中等教育諸学校職員録】

[馬淵テフ子:私立フヱリス和英女學校]
【中等教育諸学校職員録】

【中等教育諸学校職員録. 昭和6年5月現在(第28版)】
 ~
【中等教育諸学校職員録. 昭12年(第34版)】
【高等女学校女子実業学校職員録. 昭和13年5月現在】

【中等教育諸学校職員録. 昭和6年5月現在(第28版)】
私立フヱリス和英女學校  p258/766
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖、修、英、   エルゼ、シヱーフアー
 ―略―
體、         馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448131/258

【中等教育諸学校職員録. 昭和7年5月現在(第29版)】
私立フヱリス和英女學校  p260/799
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長(歸國中)   エル、ゼ、シヱーフアー
校長代理、聖、音、 林 貞
 ―略―
體        馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448085/260

【中等教育諸学校職員録. 昭和9年5月現在(第31版)】
私立フヱリス和英女學校  p217/684
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖書、    エル、ゼ、シヱーフアー
副校長、聖書、音、 林 貞
 ―略―
體        馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448112/217

【中等教育諸学校職員録. 昭和10年5月現在(第32版)】
私立フヱリス和英女學校  p233/721
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖書、   エツチ、ヴイ、イー、ステゲマン
聖書、音、    林 貞
 ―略―
體       馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448162/233

【中等教育諸学校職員録. 昭11年(第33版)】
私立フヱリス和英女學校  p227/746
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖書、   エツチ、ヴイ、イー、ステゲマン
聖書、音、    林 貞
 ―略―
體       馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446094/227

【中等教育諸学校職員録. 昭12年(第34版)】
私立フヱリス和英女學校  p235/766
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖書、   エツチ、ヴイ、イー、ステゲマン
聖書、音、    林 貞
 ―略―
體       馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446114/235

【高等女学校女子実業学校職員録. 昭和13年5月現在】
私立フエリス和英女學校  p92/272
  横濱市中區山手町
  明治三年九月
校長、聖書、   エツチ、ヴイ、イー、ステゲマン
聖書、音、    林 貞
 ―略―
體       馬淵テフ子
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462071/92

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[馬淵テフ子]
1911.6.5(明治44)~1985.2.23(昭和60)
昭和期の女流飛行家、教育者
青森県弘前市出身。
東京出身の職業軍人であった馬淵常義と
秋田県鹿角市八幡平小豆沢の神社の出のナヨの長女として
父の任地で生まれる。
母方・小豆沢安倍家の孫にあたる。
1919(T8)小学校は父の任地の都合で転々としたが、
精華高等女学校卒業を経て、
'31(S6)日本女子体育専門学校(日本女子体育大学)卒業。
同年、横浜のフェリス和英女学校体育教師に迎えられた。
球技はあまり得意ではなかったが、
ダンスや体操の指導でははつらつと生徒を引っ張った。
徒歩部をつくり、
生徒を引率して北アルプス踏破を敢行するなど積極的な活動を行った。
 ―略―
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mabuchi_cho.html

[フェリス女学院中学校・高等学校]
 フェリス女学院のあゆみ
http://www.ferris.ed.jp/annai/ayumi.html

[馬淵テフ子飛行士:郷土訪問旅行]【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年

[馬淵テフ子飛行士:郷土訪問旅行]
【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年

【国民年鑑. 昭和10年】昭和9年10月1日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/404
≪航空近時≫       p134/412
 ◇馬淵嬢の郷土訪問旅行 p138/412
  昭和九年(1934)八月十日
  女流飛行家
  馬淵テフ子飛行士は、
  サルムソン機で
  郷土訪問飛行として、
  深川浦飛行場出發、
  秋田に向つたが、
  途中仙臺に箸陸した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/138

≪民間航空機乗員一覧≫   p132/412
(昭和九年(1934)八月現在)
[二等飛行機操縦士]    p133/412
今井小まつ
李 貞喜
上仲鈴子
瀧澤美喜代
長山きよ子
梅田芳江
久保田なほし
薮内光子
松本キク
馬淵テフ子
木部シゲノ
正田マリエ
鈴木しめ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/133
[三等飛行機操縦士]   p134/412
本登勝代
米山イヨ
藤井ヤエ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120228/134

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[Wikipedia]
[馬淵 テフ子](まぶち ちょうこ)
(1911年(明治44年)6月5日 - 1985年(昭和60年)2月23日)は、
日本の女性パイロット。青森県弘前市出身。
 ―略―
1934年(昭和9年)3月、女性18人目[1]
(13人目という説もある)の
二等飛行操縦士の資格を取得。
4月、伊豆玄岳へ初の単独飛行[2]。
8月14日、サルムソン2A2型陸上機で
航空学校進学の援助をしてくれた
祖母の故郷・秋田県鹿角市への郷土訪問飛行を果たす。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%B7%B5%E3%83%86%E3%83%95%E5%AD%90

[馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関スル件]『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

[馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

(表) 主管 東亜局長 主任 東亜局第三課長  p2/7
昭和九年十月十六日起草 電送第16182号
昭和9年10月16日後9時20分発
宛 在満 菱刈大使
発 広田外務大臣
件 馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関スル件
記録件名 本邦人航空関係雑件(馬淵テフ子)
略 第一〇三四号

二等飛行機操縦士馬淵テフ子ハ
在満将士慰問並日鮮満民族ノ融和親善ノ目的ヲ以テ
左記要領ニ依リ東京、新京間ノ飛行ヲ実施シ度キ旨
願出アリタル趣ヲ以テ
逓信省ヨリ満洲国側ノ飛行許可取付方幹旋アリ度キ旨
申越シタルニ付テハ右可然御取計ノ上
結果回電アリ度

一 十八日東京出発大阪、大刀洗、蔚山、京城、平壌、新義州、
  大連、奉天ノ各地ニ着陸ノ上
  新京ニ赴キ帰途ハ汽車ニ依ル予定
  (大連新京間ハ二十一日ニ飛行ノ筈)
二 使用機ハ「サルムソン」式 二A二型
  (J-BETE)
奉天・安東・営口ニ轉電セリ

空監第一一九七号 昭和九年十月十九日 p4/7
 外務次官殿  逓信次官
[馬淵テフ子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]
今般二等飛行機操縦士馬淵テフ子ヨリ
在満將士慰問ノ目的ヲ以テ
左記計画要領ニ基キ
新京訪問飛行ヲ実施致度趣ヲ以テ
許可方願出有之候処
当省トシテハ本計画カ日満親善上寄与スル処
多大ナルモノアリト認メ
其ノ願出ヲ許容スルト共ニ
出来得ル限リノ援助ヲ与ヘ
之カ達成ヲ期セシメ度意嚮ニ有之候条
満洲国政府ニ対シ其ノ領土上ノ飛行許可取計方及
本飛行完成上必要ナル援助依頼方可然
御交渉相煩度此段及御依頼候

  [記]     p4/7
一 航空ノ目的   在満将士慰問並日鮮満同胞ノ融和親善
二 航空ノ日時   昭和九年十月中旬 東京出発
          第一日 東京  ― 大坂 ― 大刀洗
          第二日 大刀洗 ― 蔚山 ― 京城
          第三日 京城  ― 平壌 ― 新義州 ― 大連
          第四日 大連  ― 奉天 ― 新京
          (帰途ハ汽車便ニ依ル)
三 使用機     サルムソン式二A二型
          (発動機 サルムソン式二三〇馬力)
四 使用機ノ国籍及
  登録記号    J-BETE
五 乗 員     二等飛行機操縦士 馬淵テフ子
六 出発地 途中着陸地及到着地
  (イ) 出発地   東京
  (ロ) 途中着陸地 大坂、大刀洗、蔚山、京城、平壌、
            新義州、大連、奉天
  (ハ) 到着地   新京

 廣田外務大臣宛 在満 菱刈大使発 電報写 p5/7
馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関シ
満洲国側飛行許可取付濟
尚許可条件ニ付テハ
松本キク子ニ対スルモノト同様ノ条件ヲ附ス

[馬淵飛行士ノ航路変更ニ関スル件]     p5-6/7
馬淵飛行士ハ関東軍司令部係官ヨリノ注意ニ依リ
二十七日新義州ヨリ奉天ニ直航ノ上
新京ニ赴クコトニ航路ヲ変更シタルニ依リ
当方ヨリ同人ニ対シ
新義州ニ到着後
安東領事館ニ赴キ
右許可取付方
御取計ノ上
安東領事館ト適宜連絡アリ度
安東・奉天ニ轉電セリ

    [御 願] ※自筆          p7/7
 昭和九年十月二十三日  馬淵テフ子
逓信大臣 床次竹二郎殿
             私儀
今回擧行の訪満飛行に関し
本月十九日附
空 監第一一九七号を以て
航空路及離着陸場の指定を
相変更処
今般都合に依り航空路を
新義州より奉天へ直行の??
変更致度?条
許可願?度
此段重て及
御願?
10.女流飛行家馬渕蝶子嬢訪満飛行関係
【 階層 】外務省外交史料館>外務省記録>
F門 交通、通信>1類 交通>10項 航空>
0目>本邦人航空関係雑件 第三巻
【 レファレンスコード 】B10074776200
【 年代域 】昭和9年【 画像数 】7
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より

≪空から盟邦の訪客≫
[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]
【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659603.html

[松本キク子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659604.html

[松本キク子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

[松本キク子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

空監第一〇三五号 昭和九年十月二日 p2/11
 外務次官殿  逓信次官
[松本キク子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]
今般二等飛行機操縦士松本キク子ヨリ
日満親善並皇軍慰問ノ目的ヲ以テ
財団法人埼玉県人会後援ノ下ニ
左記計画要領ニ基キ
新京訪問飛行ヲ実施致度趣ヲ以テ
許可方願出有之候処
当省トシテハ本計画カ日満親善上寄与スル処
多大ナルモノアリト認メ
其ノ願出ヲ許容スルト共ニ
出来得ル限リノ援助ヲ与ヘ
之カ達成ヲ期セシメ度意嚮ニ有之候条
満洲国政府ニ対シ其ノ領土上ノ飛行許可取計方及
本飛行完成上必要ナル援助依頼方可然
御交渉相煩度此段及御依頼候

[飛行計画要領]  p3/11
一 航空ノ目的   日満親善並皇軍慰問
二 航空ノ日時   十月八日
          東京飛行場出発
          本目的達成後
          汽車便ニテ帰還ノ予定
三 使用機     サルムソン式二A二型
          (発動機 サルムソン式二三〇馬力)
四 使用機ノ国籍及
  登録記号    J-BASJ
五 乗 員     二等飛行機操縦士 松本キク子
          航空機機関士   平岡 勇
六 出発地 途中着陸地及到着地
  (イ) 出発地   東京飛行場
  (ロ) 途中着陸地 大坂、大刀洗、蔚山、京城、新義州、奉天
  (ハ) 到着地   新京

[松本キク子ノ訪満飛行ニ関スル件]  p3-4/11
埼玉県人會後援ノ下ニ
二等飛行士松本キク子及
機関士平岡勇ハ
日満親善及皇軍慰問ノ目的ヲ以テ
左記要領ノ通
東京、新京間ノ飛行ヲ実施シ度キ希望ニテ
逓信省ヨリ右ニ付
満洲国?ノ許可取付方
申越アリタルニ付テハ
右御取計ノ上
結果回電アリ度
尚本件飛行ニ関シ
逓信省ニ於テハ
貴電第三九〇号
愛国飛行義勇隊ノ訪満飛行ノ如キ
不始末ヲ演スル恨ナキコトヲ保証スル由ナリ

 ―略―

[昭和9年10月15日 一九六一四 略] p6/11
 新京   十二日後発
 本省 十月十二日後着
 廣田外務大臣   菱刈大使
第一二〇四号
往電 第一一八六号ニ関シ
(邦人女流飛行家訪満飛行ノ件)
一 出発ノ日取御電報アリ度シ
二 本件許可ニ対シ左ノ条件ヲ附セリ
  写真機ヲ携行スルトキハ
  新義州飛行場ニ於テ
  関東軍嘱託濱名航空官ノ封印ヲ受ケ
  新京飛行場ニ到着ノ際
  関東軍航空官ノ査閲ヲ受クヘシ
  右ニ違反シタルトキハ
  写真機ヲ没収ス
安東ヘ転電セリ

[貴電 第一二〇四号ニ関シ]  p7/11
松本キク子ハ、
天候不良ノ為、
東京出発ヲ二十日ニ延期シタリ

[謹啓]            p9/11
愈々御清祥の段奉慶賀候
陳者皇軍慰問、
日満親善飛行の挙に対しては、
種々深厚なる御援助を賜はり
有難く奉感謝候
 一 機体は去る十日床次逓信大臣より
   「白菊号」と命名
 一 メツセージは岡田首相、林陸相、床次逓相、其他拝受
 一 皇軍慰問品、日満親善書簡、約四萬圓は
   今十五日陸軍省を経て関東軍へ寄托
 一 飛行機は去る十二日
   六郡省より最后の部分品を受領、
   洲崎、亜細亜飛行学校に於いて整備完了濟
大体以上の如くに候得共、
御承知の如く
我が国女流飛行界
最初の海外飛行にも有之候間、
飽迄慎重を期し、
特に、
斯界先輩の御注意も有之候間
急遽予定の一部に変更を加へ
左記の如く日程決定致し候間
御諒承相仰ぎ度
此段御報告旁々御禮迄如斯御座候也
 追而 これを以て出発前の御挨拶に代へ申候間
    事情御諒承を賜はり
    御寛容の程希上げ候
 昭和九年十月十五日
  皇軍慰問 日満親善飛行
   飛行機操縦士 松本きく子
  右
   後援会代表者 山口六郎次

      日 程
十月十五日 航空路視察のため東京発大刀洗へ!
〃 十六日 大刀洗より蔚山へ=更に大刀洗へ引返す
〃 十七日 大刀洗より東京へ帰着
〃 十八日 飛行機整調(夜送別会)
〃 十九日 休養
〃 二十日 午前七時~八時の間、
      東京羽田飛行場出発

[松本及馬淵両飛行士ノ出発延期ノ関スル件]   p10-11/11
貴電 第一二〇四号 及 第一一八六号ニ関シ
松本ハ
廿四日京城発途中
新義州奉天ニ着陸ノ上
同日中新京着、
馬淵ハ廿六日大連発奉天ニ着陸ノ上
同日中ニ新京着ノ予定トナリタリ
安東、奉天、轉電セリ

※訂正前本文:小野一雄
[松本及馬淵両飛行士ノ出発延期ノ関スル件]   p10-11/11
貴電 第一二〇四号 及 第一一八六号ニ関シ
松本及馬淵両飛行士ハ
大阪飛行場カ目下
聯合艦隊航空隊ノ爲
使用セラレ度ル結果
?????
出発日取ヲ延期シ
松本ハ廿二日当地発

廿四日京城発途中
新義州奉天ニ着陸ノ上
同日中新京着、
馬淵ハ
廿三日当地発
廿五日京城ヨリ
平壌、新義州、??ヲ経テ
大連ニ到リ

廿六日大連発奉天ニ着陸ノ上
同日中ニ新京着ノ予定トナリタリ
安東、奉天、轉電セリ

9.女流飛行家松本嬢訪満飛行関係
【 階層 】外務省外交史料館>外務省記録>
F門 交通、通信>1類 交通>10項 航空>
0目>本邦人航空関係雑件 第三巻
【 レファレンスコード 】B10074776100
【 年代域 】昭和9年【 画像数 】11

『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より

[二等飛行機操縦士:松本キク]
[航空機機関士  :平岡 勇]

【国民年鑑. 昭和11年】昭和10年10月1日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/485
≪民間航空機乗員一覧≫  p149/492
(昭和十年(1935)八月一日現在)
[二等飛行機操縦士]    p150/492
松本キク  p133/492
馬淵テフ子 p133/492
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/150
[航空機機関士]      p151/492
平岡 勇
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/151

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


≪空から盟邦の訪客≫
[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]
【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659603.html

[馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659605.html

≪空から盟邦の訪客≫[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]【満洲国現勢. 康徳2年版】

≪空から盟邦の訪客≫
[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]
【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年

【満洲国現勢. 康徳2年版】昭和10年3月1日発行
 編輯兼發行人 里見 甫
 發行所    滿洲國通信社
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242934/571
≪空・陸・海から盟邦の訪客≫
≪空・陸・海から盟邦の訪客≫
〔写真〕p67-578[松本嬢:馬淵嬢 飛來す]

[松本嬢 飛來す]
(康徳元年:昭和9年(1934)十一月四日) p67/578
『白菊號』

[馬淵嬢 飛來す]
(康徳元年:昭和9年(1934)十一月五日) p67/578
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242934/67

[二等飛行機操縦士]
 松本キク
 馬淵テフ子
◇女流飛行家 訪滿飛行

【国民年鑑. 昭和11年】昭和10年10月1日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/485
≪民間航空機乗員一覧≫   p149/492
(昭和十年(1935)八月一日現在)
[二等飛行機操縦士]    p150/492
松本キク  p133/492
馬淵テフ子 p133/492
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/150
≪航空近時≫        p152/492
〔昭和九年九月以降 重要記事〕
 ◇女流飛行家 訪滿飛行  ※月日記載なし
  女流飛行家
  馬淵てふ子、同
  松本キク子の
  訪滿飛行に成功した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120267/152

【毎日年鑑. 昭和11年】昭和10年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117095/286
『航空界の一ケ年』 p100/288
昭和九年十月
 ▲松本きく子嬢は十月廿二日、
  馬淵てふ子嬢は十月廿六日
  東京出發、
  いづれもサルムソン式を操縦、
  女子最初の訪滿飛行として
  松本嬢は十一月三日新京に、
  馬淵嬢も十一月五日安着した
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117095/100

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[西崎キク]
満州訪問飛行
http://www.town.kamisato.saitama.jp/ijin/ijin04.htm
白菊号 (サムルソン式2A2型)
http://www.town.kamisato.saitama.jp/ijin/ijin04-02.htm

[Wikipedia]
[馬淵 テフ子](まぶち ちょうこ)
(1911年(明治44年)6月5日 - 1985年(昭和60年)2月23日)は、
日本の女性パイロット。青森県弘前市出身。
 ―略―
1934年(昭和9年)3月、女性18人目[1](13人目という説もある)の
二等飛行操縦士の資格を取得。
4月、伊豆玄岳へ初の単独飛行[2]。
8月14日、サルムソン2A2型陸上機で
航空学校進学の援助をしてくれた
祖母の故郷・秋田県鹿角市への郷土訪問飛行を果たす。
10月26日、サルムソン2A2型陸上機「黄蝶号」を操縦して
満州国建国親善飛行を敢行。
途中故障不時着などを経験しつつも、日本海を横断し、
西崎(旧姓:松本)キクと共に
日本女性飛行士として初の海外渡航を実現(11月5日に新京に到着)。
この実績によりハーモン・トロフィーを受賞した。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%B7%B5%E3%83%86%E3%83%95%E5%AD%90

[松本キク子ノ新京訪問飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659604.html

[馬淵テフ子ノ訪満飛行ニ関スル件]
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659605.html

[亞細亞飛行學校女子部:教官 馬淵てふ子・松本きく子]
【毎日年鑑. 昭和10年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659608.html

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