《上野艶子》
[新しき時代の生める女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/1
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家] p17/41
東京羽田海岸なる日本飛行學校に入學し、
熱心に飛行術を練習しつつある
上野艶子嬢(十八歳)で、 ※①
嬢は既に同校自働車部を卒業し過般、 ※②
我國最初の婦人飛行家として
同校飛行部に入學したるもの、
技術極めて優秀
近く帝都訪問飛行を試みるといふことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/17
[日本飛行學校へ、《上野艶子》さんが入學]
【航空と女性】昭和18年4月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/123
[日本の女鳥人] p95/125
わが國では、
民間飛行家《白戸榮之助》氏が
大正元年に師《奈良原男爵》の夫人となつた
《福島よね》さんを同乗させて五分ばかり飛んだのが、
婦人昇天の始まりで、
大正五年に來朝した
米人《ナイルス》は、
滋賀縣八日市で《重森きり子》さんを同乗して、
日本婦人最初の宙返りをいたしました。
自分でハンドル持つて天晴れ女飛行家とならうとしたのは
在米同胞の《南地よね子》さんでしたが、
大正年には、
東京羽田に出來た日本飛行學校へ、
《上野艶子》さんが入學しました。
けれども、
ほんとうに女飛行士となつたのは
大正六年
千葉の伊藤飛行場で練習をした
《兵藤 精》さんだした。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/95
◇羽田飛行場に日本飛行学校があったのは
2005/3/20(日) 午後 8:48
―略―
日本飛行学校の主事,
通称「校長」といわれた相羽有は当時21歳,
「教官」となった玉井清太郎飛行士は24歳,
使用する機体は斎藤外市から借りた
キャメロン25馬力エンジンを装備した
NFS玉井式1号機(''' 写真 ''' )で,
飛行学校の授業は
1916(大正5)年12月から開始された.
―略―
飛行学校開校時の練習生には,
長田政雄(21歳),石橋熊一(22歳),山田欣一(19歳),
長谷川常芳(20歳),信田五平次(18歳),青木茂(19歳)ら,
続いて少年飛行士として辻村泰作(当時16歳),
のちにゴジラなど怪獣映画の特撮監督になる円谷英二,
後の片岡飛行学校長の片岡文三郎,福長朝雄,
女性練習生の上野艶子らが参加してきた. ※①
―略―
相羽校長は練習生の就職を考えて,
羽田穴守に自動車練習部を開設した. ※②
これは後に蒲田の公認日本自動車学校として
分離独立することになる.
―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html
<日本最初の女性練習生>
日本で最初に飛行機操縦士免許状を取得した女性は、
千葉県の津田沼で訓練をした兵頭精さんという方だが、
それ以前に上野艶子さんという練習生が
羽田の日本飛行学校にいたそうだ。
まもなく姿を消し、免許状は取得しなかったということだが、
私が偶然に入手した扇子にその人の肖像画があった。
日本髪である。
この扇子にはもう一人、無名だが赤い服の女性が描かれており、
これがカザリン・スティンソンであることは明白。
この絵の元になったと思われる
赤い服の彩色絵葉書があるので、それとわかる。
だが、この扇子にある赤い服のカザリン・スティンソン、
本人とは顔が全然似ていない。
そうなると上野艶子さんの絵も似ているかどうか怪しい。
そうはいっても、スティンソンさんの例から考えると、
上野艶子さんの写真が存在していた可能性はある。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato381.htm
<上野艶子さんの写真>
<日本最初の女性練習生>で上野艶子さんの顔写真について書いた。
―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato461.htm
<日本最初の女性練習生 その2>
日本最初の女性飛行練習生は上野艶子さんだそうだが、
『日本航空機辞典 上巻』(モデルアート社、再版2002年)p.291 の
玉井式飛行機の記事中にその名前があった。
そのページの下から2枚目の写真は先生と練習生が並んで撮ったものだが、
同じ写真の人物名まで記載した
野沢正編『日本航空50年史』(出版協同社、1960年)をみると、
残念なことにここには上野艶子さんはいない。
―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato409.htm
[上野艶子](うえの つやこ)
女性初の飛行家。
大正6年日本飛行学校入学18歳。
公認試験(大正10年から実施)による飛行家は兵藤精だが
大正9年に飛行したので、実際には上野が先だった。
http://www.geocities.co.jp/Stylish/2480/b/a2.htm
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659660.html
[新しき時代の生める女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/1
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家] p17/41
《上野艶子》
―略―東京羽田海岸なる日本飛行學校に入學し、
熱心に飛行術を練習しつつある
上野艶子嬢(十八歳)で、 ※①
嬢は既に同校自働車部を卒業し過般、 ※②
我國最初の婦人飛行家として
同校飛行部に入學したるもの、
技術極めて優秀
近く帝都訪問飛行を試みるといふことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966234/17
[日本飛行學校へ、《上野艶子》さんが入學]
【航空と女性】昭和18年4月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/123
[日本の女鳥人] p95/125
わが國では、
民間飛行家《白戸榮之助》氏が
大正元年に師《奈良原男爵》の夫人となつた
《福島よね》さんを同乗させて五分ばかり飛んだのが、
婦人昇天の始まりで、
大正五年に來朝した
米人《ナイルス》は、
滋賀縣八日市で《重森きり子》さんを同乗して、
日本婦人最初の宙返りをいたしました。
自分でハンドル持つて天晴れ女飛行家とならうとしたのは
在米同胞の《南地よね子》さんでしたが、
大正年には、
東京羽田に出來た日本飛行學校へ、
《上野艶子》さんが入學しました。
けれども、
ほんとうに女飛行士となつたのは
大正六年
千葉の伊藤飛行場で練習をした
《兵藤 精》さんだした。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/95
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇羽田飛行場に日本飛行学校があったのは
2005/3/20(日) 午後 8:48
―略―
日本飛行学校の主事,
通称「校長」といわれた相羽有は当時21歳,
「教官」となった玉井清太郎飛行士は24歳,
使用する機体は斎藤外市から借りた
キャメロン25馬力エンジンを装備した
NFS玉井式1号機(''' 写真 ''' )で,
飛行学校の授業は
1916(大正5)年12月から開始された.
―略―
飛行学校開校時の練習生には,
長田政雄(21歳),石橋熊一(22歳),山田欣一(19歳),
長谷川常芳(20歳),信田五平次(18歳),青木茂(19歳)ら,
続いて少年飛行士として辻村泰作(当時16歳),
のちにゴジラなど怪獣映画の特撮監督になる円谷英二,
後の片岡飛行学校長の片岡文三郎,福長朝雄,
女性練習生の上野艶子らが参加してきた. ※①
―略―
相羽校長は練習生の就職を考えて,
羽田穴守に自動車練習部を開設した. ※②
これは後に蒲田の公認日本自動車学校として
分離独立することになる.
―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html
<日本最初の女性練習生>
日本で最初に飛行機操縦士免許状を取得した女性は、
千葉県の津田沼で訓練をした兵頭精さんという方だが、
それ以前に上野艶子さんという練習生が
羽田の日本飛行学校にいたそうだ。
まもなく姿を消し、免許状は取得しなかったということだが、
私が偶然に入手した扇子にその人の肖像画があった。
日本髪である。
この扇子にはもう一人、無名だが赤い服の女性が描かれており、
これがカザリン・スティンソンであることは明白。
この絵の元になったと思われる
赤い服の彩色絵葉書があるので、それとわかる。
だが、この扇子にある赤い服のカザリン・スティンソン、
本人とは顔が全然似ていない。
そうなると上野艶子さんの絵も似ているかどうか怪しい。
そうはいっても、スティンソンさんの例から考えると、
上野艶子さんの写真が存在していた可能性はある。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato381.htm
<上野艶子さんの写真>
<日本最初の女性練習生>で上野艶子さんの顔写真について書いた。
―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato461.htm
<日本最初の女性練習生 その2>
日本最初の女性飛行練習生は上野艶子さんだそうだが、
『日本航空機辞典 上巻』(モデルアート社、再版2002年)p.291 の
玉井式飛行機の記事中にその名前があった。
そのページの下から2枚目の写真は先生と練習生が並んで撮ったものだが、
同じ写真の人物名まで記載した
野沢正編『日本航空50年史』(出版協同社、1960年)をみると、
残念なことにここには上野艶子さんはいない。
―略―
http://www016.upp.so-net.ne.jp/slb_hasegawa/slb/kato/kato409.htm
[上野艶子](うえの つやこ)
女性初の飛行家。
大正6年日本飛行学校入学18歳。
公認試験(大正10年から実施)による飛行家は兵藤精だが
大正9年に飛行したので、実際には上野が先だった。
http://www.geocities.co.jp/Stylish/2480/b/a2.htm
[新しき時代の生める女運轉手と女飛行家]
【歴史写真. 大正6年9月號】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659660.html