[日本女医会雑誌]第33号〔6/6〕昭和3年12月30日発行
[日本女醫會雜誌]第三十三號 目次
◎會員名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一
新入會員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六三
女醫界の恩人弘田博士逝く・・・・・・・・・六六
女醫界の恩人
東大名譽敎授弘田博士逝く P66
東大小兒科學會々頭醫學博士弘田長氏は、
先年腦溢血を發して以來健康勝れず、
病褥に親しまれてゐたが、
去る十一月廿七日 ※昭和3年(1928)11月27日
遂に養生不叶不歸の客となられた。
博士は女醫界の恩人で、
未だ大學で他科に女醫の研究を許さざる時に於て
夙に介補或は傍觀生として之を許し、
明治四十三年(1910)
婦人共立育兒會病院設立せらるゝや、
博士監督の下に女醫のみを採用し、
自由に診療及研究を遂げしめたのは、
女醫の發展の爲めに裨益する所が尠くなかつた。
上記の婦人共立育兒會病院は爾來引續き
女醫のみの手を以て營めれてゐる。
從つて博士の薫陶を受けた女醫は少なくない。
去る十一月三十日午後一時より ※昭和3年(1928)11月30日
葬儀及告別式を行はれたが、
各宮殿下の御供物及竹田宮妃殿下の御代拜あり
醫界の巨星悉く集り、
非常に盛大なものであつた。
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※「京都府立医科大学附属図書館」所蔵の原本をコピー
平成21年(2009)10月 小野一雄
〔追加〕PDF:平成29年4月28日
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【東京帝国大学一覧. 明治20-21年】
醫學士 p124/161
明治十三年卒業 p125/161
弘田 長 高知
小金井良精 新潟
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813164/125
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
[Wikipedia]
弘田 長(ひろた つかさ)
1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、
日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E7%94%B0%E9%95%B7
[弘田長先生略歴]
http://www.petitspoissons.com/ped/HirotaJ2.html
[父のこと 弘田 親輔]
父のことについては、没後に皆さまのお心づくしにより「遺影」が刊行され、
それに父のほとんどすべての全貌をつくされておりますので、
ここでは「遺影」に出ていないこと、
それは、父がどうして遠い土佐の田舎からはるばる東京へ出て
医学を修業するようになったか、
なぜ小児科への道を歩むようになったか、
というようなことについて申上げようと思います。
明治三年に時の政府から貢進生という制度が発令されました。
これは明治の新政府が中央集権をねらった政策であるともいわれておりますが、
それは全国から優秀な少年を選抜して東京に集め、
他日国家有用の材たらしめんとする意図のもとに、
今日の中学、高校、大学に当る八年制の課程を習得させる制度でありました。
その選抜方法は、五万石以下の藩から一人、
五万石以上の藩から二人、
十五万石以上の藩からは三人の少年を選定することになっておりました。
父の住む土佐藩は、もと遠州浜松の五万石の小藩でありましたが、
関ケ原の役の勲功によって一躍二十五万石の土佐の大藩に封ぜられましたので、
三人の少年を送る資格を持ち、
父はその三人の少年のなかに加えられて明治四年、
十三歳の時に上京致しました。
―略―
全国から東京に集った少年たちは、
志望に従って東校(医)と南校(法)に分けられましたが、
始めから家業の医を志した父は、神田和泉橋の東校の寄宿舎に入寮しました。
父と時を同じゅうして
備前岡山の三十一万石の池田藩から三人の少年が送られてまいりましたが、
その少年の一人が後年の小金井良精先生でありまして、
小金井先生と父とは、この時から終生の交りを結んだわけであります。
なお、父と同じころに南校には、
小村寿太郎、鳩山和夫、穂積陳重、古市公威の諸氏がおられたもようです。
―略―
(この文章は昭和34年東大小児科70周年を記念して刊行された
「東大小児科の生い立ち」の中から転載したものです。)
http://www.petitspoissons.com/ped/HirotaJ3.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年06月23日 05:44 ◆貢進舎生姓名簿
[貢進舎生姓名簿=310人]明治4年1月
【東京帝国大学五十年史. 上册】1/6
027 岡山藩 當間源二郎
028 岡山藩 岸本竹三郎
029 岡山藩 長尾峯太郎
030 高知藩 宮崎辰吉 ▲宮崎簡亮(辰吉)※①
031 高知藩 福岡鋼三郎 ※②
032 高知藩 北尾星一郎
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2551546.html
※①[宮崎簡亮(辰吉)]
新聞記事文庫 政治(6-016)
時事新報 1916.4.5-1916.4.16(大正5)
岩倉公献替録 (一〜九)
(一)
本日より紙上に連載せんとするは
故岩倉右大臣が政局に関与したる当時、
自ら手記したるもの或は人に命じて記録せしめたるものにして
明治の初期に於ける絶好の史料なり
只記録の数量に限あると共に各記録の脈絡を欠き読者をして
多少隔靴掻痒の感あらしむるは遺憾なれども
仔細に玩味するときは当時の事情を研究せんとするものの為めに
無上の裨益を与うべし
而して本記録を保存したるは右大臣の秘書たりし
故宮崎簡亮氏なり氏は高知県の人、
明治の初年土州藩の貢進生として大学南校れ入り
夙に校中の雋才を以て目せら卒に業後、
右大臣の知遇を受けて其秘書と為り
明治十五年即ち右大臣逝去の前年まで十数年間一日の如く
其公務を賛翼したりと云えば
下に掲ぐる諸記録も氏の筆に成りたるもの多かるべし
―略―
データ作成:2010.6 神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10087520&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※②[福岡鋼三郎]
南国土佐へ来てみいや
会津若松西軍墓地 1 - 会津戦争で亡くなった土佐藩兵49名が眠る
2015-09-28 Mon | 幕末他藩| 龍馬関連番外編
土佐藩墓所の正面にある灯籠。
爲孝英兄建之
福岡鋼三郎孝廣
明治元年戊辰中冬
此処にゃ、土佐藩胡蝶隊に参加しちょった
土佐藩家老・福岡宮内孝成の次男・福岡友治郎も眠っちょり、
この灯籠は、一緒に参戦しちょった、
弟・福岡鋼三郎が建てたがじゃと思います。
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