早稲田大学創立125周年記念:平成19年10月

元早稲田大総長の奥島孝康さん死去、85歳2024/5/2 13:40産経新聞

元早稲田大総長で日本高野連会長を務めた
肺炎のため東京都の病院で死去した。
85歳。愛媛県出身。
1963年に早大を卒業し、
法学部長などを経て94年から2002年まで総長。
08年から15年まで日本高野連会長。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月24日04:40
早大当局VS革マル派 早稲田大学の奥島孝康・元総長の
12年戦争【さらば革命的世代】第4部[平成21年]2009.5.30
 「革マル派との対決は、
いろんな人の協力があってこそできたこと。
ただ、革マル派と手を組む人が
学内に大勢いたことは我慢できなかった」
 例えば、教授の中にも、清廉潔白を売り物にして常々
「不正は良くない」という割に、
革マル派の不正は容認するという人、
保守的な主張を繰り返す一方で、
裏では革マル派と結託していた人もいたという。
 「彼らとの対決を通じて思想的な立場よりも、
その組織や個人が実際にどんな行動を取っているのかを、
見極めることができた。
『世の中を変える』と口先では言いながら、
実際には『変わらないほうがいい』
と内心では思っている人が大勢いることも知りました」
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月09日08:12
小野梓先生 122回忌法要・パーティー会場
2007年3月10日
秋沢ホテル
高知県宿毛市幸町6-43
122回忌法要・パーティー会場
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前列
右から
奥島孝康(早稲田大学 第14代総長)
小野一雄
後列
右から
別府祐弘(当時 上武大学 ビジネス情報学部 教授)
後藤英輔(全国公正取引協議会連合会 顧問)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年08月05日06:15
[思い出の写真帖]W125-30
〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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奥島先生最終講義02・02
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早大の勃興・早大ラグビーの創始【日本ラグビー史】昭和39年(1964)

【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
出版者   日本ラグビーフットボール協会
出版年月日 1964
Ⅰ 早大の勃興  p48-54/220
1 早大ラグビーの創始
  ■好餌の虎肉試食会
京都では三高、同志社その他が発足したものの、
お膝元の東京では、
大正にはいっても依然
慶応の独り舞台のまま幾年かを過ぎた。
この低迷をやぶって、
関東諸大学ラグビー勃興の導火線となったのが、
なにかにつけて慶応の好ライバルである
早大のラグビー創始であった。

早大ラグビーの創始者は、
井上成意である。
大正5年(1916)、
同志社普通部出身の井上は、
同窓の西村聰とともに早大に入学した。
ふたりは文科と法科にわかれたが、
法科の西村のクラスに、
慶応から転じた岩崎粂雄、斎藤亀四郎や、
三高の中心人物国光郁文の弟の
国光素介がおって、
かれらが井上が誘った
同志社出の玉貫力、増田修らとともに、
西村の下宿、戸塚の北越館へ集って、
いわば発起人会のようなものがつくられた。
みんなで早大にもラグビーチームを
つくろうではないかと衆議一決、
井上は同志社の旧友に頼んで、
同大の練習着の着古しと古ボール1個を送ってもらい、
岩崎もまた慶応の塩川潤一や滝川純三らに頼んで
ボールの寄贈をうけた。
大正7年のことである。

井上にせよ西村にせよ、
ラグビーはかくべつ深い経験があるわけでなく、
むしろその点では、
慶応普通からきた岩崎が一番の経験者であった。
仲間の勧誘には各自が奔走したが、
なかでもクラス委員の瀬尾俊三が
石丸五郎、黒沢昌弘、名和野秀雄らを引入れ、
文字どおりの苦肉の策として
虎肉懇親会という珍趣向を案出し、
これをやった機会に新たに仲間に加わったのが、
台北一中でラグビーをやっていたという
磯部秀景、角屋定政、小原兵蔵の3名であった。(注)

大正7年(1918)秋、いよいよ本格的活動に入った。
新入部員歓迎の虎肉試食の会を催すから、
ふるって参加されたいとの掲示が
学生控室にはりだされたが、
この珍奇な趣向にはだれも驚いた。
しかし、これは決して、
羊頭狗肉のインチキではなく、
実際に虎の肉を試食に供したのだから面白い。
というのは、
井上の従兄に佐久間秀雄という人がいて、
この人が当時虎大臣の仇名をつけられた
山本唯三郎の朝鮮の虎狩りに随行して
虎肉の分配に預ったのを、
井上がさらに分譲してもらって、
これを試食することにしたのであった。
もっとも場所は高田の馬場の程近い
桜肉屋であったというから、
虎肉は文字どおり試食で、
あとは馬肉であったことは確かなことだ。
問題の虎肉は塩漬だったので
味もなにもあったものではなかった。
(注)早くも大正7年(1918)に
   早大ラグビーに参加した
   磯部ら3人の台北一中出身者が、
   台北一中でのラグビー経験者で
   あったということは、
   大きな驚きであるが、
   その事情については、
   あとで"満鮮台のラグビー“の項で書こう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/48
  ■早大コーチの人々
さて、ようやく人員も整ってきた早大ラグビーは、
まず先輩のコーチを受けるべきだということになり、
井上ら同志社関係の縁もあって、
最初、同大の露無文雄を迎え、
ついで早大のメンバーであった
大久保謙治の弟、
大久保次郎(のちの博志)を招いた。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《大久保謙治》[早稲田大学ラグビー部創設]
大正7年11月7日【早稲田ラグビー六十年史】
昭和54年(1979.3)
大久保謙治》は ※下記ブログに記載
ハードルの選手として名を知られ、
その弟の《大久保次郎》は ※下記ブログに記載
同志社の有名な選手だったことから、
ラグビーに関心はなくわない。
これもまた、
弟からボールをもらって蹴っていた。
77《次男 次郎(昭和二年 博司と改名)》
     ※大久保次郎:大久保博司
     明治三十一年(1898)四月二日生
     大正十三年(1924)
     京都 同志社大學卒業
     學生時代 ラグビー選手
     卒業二年前よりその主將を務む

三高の国光がやはり兄弟の好誼で
顔を出したこともある。

しかし、ラグビーをやるのに、
慶応を無視するのはおかしい、
という意見も出て、
かなり後のことではあるが、
大正11年(1922)夏の沓掛合宿に橋本寿三郎を招き、
同年秋の早慶1回戦直前には、
増田鉱太郎のコーチも受けた。
  ■5年続いた零敗
  ■最初の勝ちいくさ
  ■夏合宿の開祖
しかし、早慶両校にとってのみならず、
日本のラグビー史上に、
大跳躍台となったのは、
なんといっても大正11年(1922)11月23日の
早慶第1回戦の敢行である。
[早大の沓掛(軽井沢)の夏合宿]
 夏合宿練習の嚆矢、大正11年(1922)8月。
 早大は謙虚に慶応のコーチをうけた。
 前列中央Aのマークがコーチの橋本寿三郎。
 p49【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
p49【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/49
〔写真・三枚〕
三高対早大第1回戦
大正8年(1919)1月15日、
於 戸塚球場。
[極東オリンピック余聞]
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/50
〔写真・三枚〕
同志社対早大第1回戦
大正12年(1923)1125日、
於 戸塚球場。
2 第1回早慶戦前後
   ■難関の突破
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/51
〔写真・三枚〕第1回早慶戦
   ■拍手以外の応援禁ず
大正11年(1922)11月23日 於三田綱町
 第1回戦メンバー
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/52
   ■早大頭角あらわす
3 入場料問題
   ■慶応お家騒動か
   ■田辺メモ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/53
 入場料問題に関する田辺メモ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/54
日本ラグビー史
頒布価格 ¥2200 送料¥150
昭和39年11月20日 発行
発行者版権所有者
    財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    会長 香山 蕃
印刷者 桜井文雄
発行所 財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    東京都港区赤坂青山北町3の68
印刷所 株式会社 桜井広済堂
    東京都港区芝三丁目24番地5号
    電話(453)0551(代表)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/198
主要ラグビー試合戦績及出場者氏名一覧表
昭和39年11月20日 発行
発行者版権所有者
    財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    会長 香山 蕃
印刷者 桜井文雄
発行所 財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    東京都港区赤坂青山北町3の68
印刷所 株式会社 桜井広済堂
    東京都港区芝三丁目24番地5号
    電話(453)0551(代表)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/219
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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早大当局VS革マル派 早稲田大学の奥島孝康・元総長の12年戦争【さらば革命的世代】第4部[平成21年]2009.5.30

早大当局VS革マル派 早稲田大学の奥島孝康・元総長の12年戦争
【さらば革命的世代】第4部[平成21年]2009.5.30
産経ニュース © 2009 Microsoft

早稲田大学の奥島孝康・元総長(寺河内美奈撮影)
【さらば革命的世代】第4部キャンパスはいま(3)
2009.5.30 13:00
 このニュースのトピックス:さらば革命的世代
 早稲田大学の奥島孝康・元総長(寺河内美奈撮影)

◇合鍵までつくられた
 「早稲田は自由の大学といわれていますが、
実際にあったのは、革マル派にとっての自由だったのです」

 早大の元総長で、
現在は学事顧問を務める奥島孝康さん(70)は振り返る。
革マル派に大学の実権が握られているという
危機感を強くした奥島さんは平成6~14年の任期中、
彼らをキャンパスから追い出すことを
最大の任務と位置づけていた。

 早大では昭和40年代後半から、
革マル派が各セクトとの抗争を制し、勢力を強めていた。
自治会の主導権を握り、
サークルの部屋が学外者も含めた活動家の拠点に使われるなど、
約30年間にわたり大学が利用されていたとされる。

 15万人以上の来場者を呼び「日本一の学園祭」といわれた
早稲田祭の収入が革マル派の資金源になっている
という疑惑もあった。
公安関係者によると、
サークル補助金の流用なども含めると、
早大から革マル派に流れる資金の総額は
年間2億円を超えていたという。

 奥島さんは、革マル派の主導で行われていた学生大会で
ストライキ決議が可決されると、
期末試験が中止になるという慣例を特に問題視していた。

 「値上げもしていないのに
値上げ反対のスト決議が可決されたこともあった。
こんなことが長年続けば、教育は荒廃する。
だが、以前の大学執行部は
『学生を追い詰める必要はない』と及び腰だった」

 革マル派は、
中核派などとの激しい内ゲバで知られる過激派の一つ。
警察無線すら傍受できる盗聴技術を持っているといわれる。
その技術を駆使したのか、
革マル派に批判的な姿勢を見せた早大関係者は次々と、
金銭問題や女性問題などのスキャンダルを暴露された。
アジトを捜索した警視庁が大量の合鍵を見つけたこともある。
その中には、奥島さん宅の玄関ドアの鍵も含まれていたという。

【さらば革命的世代】第4部キャンパスはいま(3)
2009.5.30 13:00
 このニュースのトピックス:さらば革命的世代
 早稲田大学の奥島孝康・元総長(寺河内美奈撮影)
◇「合図したら逃げて」
 約40年前の全共闘運動の特徴は、
ノンセクトラジカルと呼ばれる
セクトに属さない活動家が多かった点だ。
組織に拘束されず、誰もが参加できる。
ただ、そのスタイルは共感を集めると同時に、
沈静化するのも早かった。
セクト回帰の動きは次第に加速し、
全共闘以降も生き残った各セクトは
労組や大学を拠点としながら命脈をつないだ。

 こうした動きを「大学側にもメリットがあった」
と指摘する関係者もいる。
「彼らは不審な新興宗教や悪質商法を
学内から追い出す役目も果たしてくれた。
セクトをうまく使えば、
学生管理がしやすいという面もあったことは否定できない」。
早大では、反共産党の教授が
「民青がはびこるぐらいなら、革マル派の方がまし」
と支援に回ったこともあったという。

 首都圏のある大学を拠点としたセクトは
大学当局と表面上は衝突しながらも、
背後で「一線を越えない」
と取り決めをしていたという逸話も残る。
この大学の学長経験者は
「団体交渉の際、学生側から
『追及はするが合図したら途中で逃げてください』
と事前に持ちかけられたこともあった」と打ち明ける。

 だが、平成に入ったころから、
新左翼セクトとの決別を進める大学が増加。
早大の場合、奥島さんが法学部長に就任した平成2年ごろから、
革マル派との対決姿勢が鮮明になった。
奥島さんはまず、慣例を振り切り期末試験を強行する。

 平成5年1月23日の法学部の期末試験初日。
試験強行の方針を知った革マル派側は全国動員で活動家を集め、
教室前でピケをはった。
ただ多かったのは学生ではなく40、50代の活動家。
教職員ともみあいになり、けが人も出たが、
教員が拡声器で「試験は予定通り行う」と連呼すると、
一般学生が教室になだれ込んだ。
「革マル支配に風穴が開いた」
と奥島さんが思った瞬間でもあった。

【さらば革命的世代】第4部キャンパスはいま(3)
2009.5.30 13:00
 このニュースのトピックス:さらば革命的世代
 早稲田大学の奥島孝康・元総長(寺河内美奈撮影)
◇保守派も結託
 奥島さんは、思想的には「左」だ。
学生運動経験もある。
全共闘運動の約10年前に盛り上がった
昭和35年の60年安保闘争のときは、早大2年生。
クラス委員として赤い腕章をつけて全学連デモの先頭に立った。

 同年6月15日の国会突入デモでは、
機動隊とのもみあいで亡くなった
東大生の樺美智子さんのすぐそばにいた。
「学生のころから、社会主義に共感は持っていたし、
そうした気持ちは今でも残っている」と話す。

 革マル派の勢いを止めるためにさらに必要なことは、
資金源を絶つことだった。
大学側は平成7年には商学部自治会の公認を取り消し、
自治会費の代理徴収もやめた。
経理の不透明な学園祭の実行委員会をめぐっては9年、
事態の正常化を一気に進めるため早稲田祭そのものを中止した。

 法学部長として4年、
総長として8年の計12年間にわたった「12年戦争」。
奥島さんは「大学の歴代執行部は、
あえて対決を避ける事なかれ主義に陥っていた」と振り返り、
さらにこう指摘した。

 「革マル派との対決は、
いろんな人の協力があってこそできたこと。
ただ、革マル派と手を組む人が
学内に大勢いたことは我慢できなかった」

 例えば、教授の中にも、清廉潔白を売り物にして常々
「不正は良くない」という割に、
革マル派の不正は容認するという人、
保守的な主張を繰り返す一方で、
裏では革マル派と結託していた人もいたという。

 「彼らとの対決を通じて思想的な立場よりも、
その組織や個人が実際にどんな行動を取っているのかを、
見極めることができた。
『世の中を変える』と口先では言いながら、
実際には『変わらないほうがいい』
と内心では思っている人が大勢いることも知りました」

【さらば革命的世代】第4部キャンパスはいま(3)
◎皆さんの体験や意見をお聞かせください。
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東京専門学校(「開校を祝す」)『小野梓-独立自主の精神』吉井蒼生夫 編

東京専門学校(「開校を祝す」)『小野梓-独立自主の精神』吉井蒼生夫 編

小野梓-独立自主の精神』吉井蒼生夫 編
1[小野 梓]吉井蒼生夫-表紙
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫-表紙

《写真》東京専門学校第1回得業記念 全校生徒と教職員
   (明治17年(1884)7月26日、12名が卒業)
《写真》『国憲汎論』上下巻 明治15年(1882)~明治18年(1885)
   (題字は小野自身の筆による)
2[小野 梓]吉井蒼生夫p1-0
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫p1-0

東京専門学校(「開校を祝す」)(*) p59-69

 明治十五年十月廿一日
 新たに東京専門学校を開きその式を行う。
 余その議員たるをもってこれに臨みこの演説をなす。

 当時専門学校の起るや、
 人々その政党の用に供するを疑う。

 しかれどもその実はしからず。
 大隈氏実に我が邦(くに)の学問を勧むるの
 微意をもってこれを創し、
 すこしも他意を挟まず。

 しこうして余の熱心これを賛同するも
 また一に我が邦学問の独立を謀(はか)らんと欲するに在り。

 ゆえにこの機に乗じてこれを弁ず。

本校の恩人大隈公、
敬賓及び本校諸君、
余の不学短識をもって職(つかさどる)に本校の議員に列し
その員(かず)に加わるは甚だ僭越(せんえつ)の事のごとし。

しかりといえども本校の恩人大隈公は余を許して
その末に加わらしめ、
校長・議員・幹事・講師諸君もまた
甚だ余を擯斥(ひんせき)せざるもののごとし。

これをもって余は自から吾(わ)が不学短識を忘れ
みだりにその員に具(そな)われり。

ただ余や不学短識、
本校に補う所なかるべし。

しかれども既に隈公の知を蒙(こうむ)り
また諸君の許す所となる。

余はただ我が勉強と熱心とをもって
力をこの校に竭(つく)し、
微力の及ばん限りは隈公の知に酬(むく)い
諸君の望みに対(こた)うべし。

願くは、本校の恩人及び諸君は余の…
 ―略― p60-67
6東京専門学校(「開校を祝す」)p59
〔画像〕東京専門学校(「開校を祝す」)p59

最後に余は一の冀望を表し、 p68-69
これを本校の諸君に求め、
天下の人衆をして
本校の公明正大なるを知らしめんと欲するものあり。

これ他なし、
本校をして本校の本校たらしめんと欲する、
これなり。

いまこれを再言すれば、
東京専門学校をして政党以外に在って
独立せしめんと欲する、これなり。

余は本校の議員にして政党員なり。

いま政党員たるの位置よりしてこれを言えば、
本校の学生をしてことごとく
我が主義に遵(したが)わしめ、
みなその旗下に属せしめんと欲するは、
もとよりその所なり。

しかれども余が議員たるの位置よりしてこれを言えば、
暗々裏に我が学生を誘導して
これを我が党に入るるがごとき卑怯の挙動あるを恥ず。

おもうに、本校の目的たる、
この学生をして速やかに真正の学力を得せしめ、
早くこれを実際に応用せしめんと欲するに在るのみ。

ゆえに我が学生にして真正の学識を積むあらんや、
本校の望み足れり。

本校また別に求むる所あらざるべし。

しこうして我が学生にして
異日卒業ののち政党に加入せんと欲せば、
一にみな諸子が本校に得たる真正の学識によって
自からこれを決すべし。

本校は決して諸子の
改進党に入ると
自由党に入ると
ないし
帝政党に入るとを問いて
その親疎を別(わ)かたざるなり。

おもうに、
これ余一人の冀望なるに止まらず、
恩人隈公・校長・議員・幹事及び
講師諸君もまた均しくこの冀望を抱き、
共に本校の独立を希(ねが)い、
共に他の干渉を受けざるを望むならん。

しかるを世の通ぜざるものまま
これを疑うあり。

けだしまた陋(せま)しといいつべし。

しこうして余がこの冀望たるや、
独りこれを我が東京専門学校に求むるのみならず、
また広くこれを官私の学校に求め、
これをして各々(おのおの)政党の以外に独立せしめ、
もって学校の学校たる本質を全うせしめんことを望めり。

今やこの開校の期に遇(あ)い、
親しくその式に与(あず)かる。

ゆえにいささか余が心情と冀望とを述べ、
もってこの開校を祝するの詞(ことば)となす。

おもうに、
恩人隈公及びその他の諸君は
余が説を容(い)るるや否(いなや)。

  一八八二年一〇月二一日演説
  『小野梓全集』第四巻所収。
  (東京専門学校は早稲田大学の前身)
7東京専門学校(「開校を祝す」)p68-69
〔画像〕東京専門学校(「開校を祝す」)p68-69

編者紹介
吉井蒼生夫(よしい たみお)
1947年 埼玉県所沢市に生まれる
1970年 早稲田大学法学部卒業
1972年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了
1977年 同 博士課程単位取得満期退学
 専攻  日本近代史
 現在  神奈川大学法学部教授 博士(法学)
 著書  『近代日本の国家形成と法』(日本評論社)
     『法における近代と現代』(日本評論社、共著)ほか

小野梓-独立自主の精神
     二〇〇三年一月一一日 第一刷発行
編 者 吉井蒼生夫
発行者 早稲田大学
    〒189-8060
    東京都新宿区戸塚町一ノ一〇四
    電 話03-3203-4141
    FAX 03-3203-7051
発行所 合資会社 冨山房
    〒101-0051
    東京都千代田区神田神保町一ノ三
    電 話03-3291-2171(代)
    FAX 03-3291-2179
印刷・製本 内外印刷株式会社
5[小野 梓]吉井蒼生夫-奥付
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫-奥付
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年11月03日 05:10 
◆小野梓 早稲田大学創立125周年記念:平成19年10月
『小野梓-独立自主の精神』の発刊に寄せて
 総長 奥島孝康
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『小野梓-独立自主の精神』の発刊に寄せて 総長 奥島孝康

『小野梓-独立自主の精神』の発刊に寄せて 総長 奥島孝康

『小野梓-独立自主の精神』吉井蒼生夫 編
1[小野 梓]吉井蒼生夫-表紙
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫-表紙

《写真》東京専門学校第1回得業記念 全校生徒と教職員
   (明治17年(1884)7月26日、12名が卒業)
   ※邦語政治科 4名  邦語法律科 8名
《写真》『国憲汎論』上・中・下巻 明治15年(1882)~明治18年(1885)
   (題字は小野自身の筆による)
2[小野 梓]吉井蒼生夫p1-0
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫p1-0

小野梓-独立自主の精神』の発刊に寄せて
 総長 奥島孝康

 総長就任以来八年間、
 私は渾身の力を振るって早稲田大学の改革に取り組んできた。
 それは、まず、出発点である
「私立大学」としての早稲田の実現であり、
 次いで、本来の
「志立大学」としての早稲田の実現であり、
 そして、到達点である
「梓立大学」早稲田の実現である。

この八年間、
私はたえず小野梓先生を念頭において改革に取り組んできた。

「私立大学」であるということは、
なによりもまず
「学生のための大学づくり」に取り組まねばならないことを意味する。

建学の母である小野先生をはじめとする
「四尊」と称される
高田早苗天野為之坪内逍遥および市島謙吉先生等々は、
大隈さんや小野先生の思想に共鳴し、
立身出世の途をあえて捨て、
早稲田大学の前身である東京専門学校の創設にはせ参じたのである。

決して、「教員の生活のための大学づくり」をめざしたわけではない。

また、「志立大学」であるということは、
なによりもまず、
「志は高く、頭(ず)は低い」
若者の養成に取り組まねばならないことを意味する。
大隈さんや小野先生が早稲田大学に託した夢は、
3[小野 梓]吉井蒼生夫p1-1
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫p1-1

わが国の近代化と民主主義の確立のために汗を流す
「志」をもつ人材を養成することであった。

そして、それは本学の創立三〇周年を記念して、
本学の憲法ともいうべき
「三大教旨」(学問の独立、学問の活用、模範国民の造就)に結実した。
この建学の理念を示す「三ヵ条の憲法」は、
まさしく法三章ともいうべき本学の根本規範である。

「進取の精神」はもとより、
「在野精神」、「反骨精神」など、
本学がめざす姿勢は、すべてこの教旨から発する。

そして、「梓立大学」であるということは、
なによりもまず、
建学の母のDNAを受け継いで
「グローカル・ユニバーシティの実現」を
めざさなければならないことを意味する。

このDNAとは、一方では、
「東洋小野梓」と号された
小野先生のグローバルな視野を受け継ぎ、
教育と研究についても
「東洋(アジア)」という視点を入れる必要があり、
他方では、「責任当事」の人といわれた
小野先生のローカルな視点と生き方を受け継ぎ、
すべてのことに誠実に根気よく対応される頭の低い、
そして、責任感の強い人格を養成する必要がある。

つまり、本学は、グローバルな「大局観」を身につけ、
世のため人のために生き抜く「総合力」を身につけ、
土の匂いのするローカルな魂をもつ
ワセダパーソンを育成しなければならないのである。

その生涯は文字通り完全燃焼というべきであり、
その魂は早稲田大学の建学の精神としていまなお脈々と
卒業生たちによって受け継がれている。

本年、小野先生の生誕一五〇周年を記念して、
生誕の地高知県宿毛市に先生の生家跡地を買収・寄贈し、
そこに設けられた「小野梓先生生誕記念公園」に
「若き日の小野梓胸像」を設置した。 ※下記

本書の出版は、先生の生誕一五〇周年記念事業の一環であるが、
小野梓研究の第一人者である吉井蒼生夫先生の編集であり、
小野先生の著述のいわばエッセンスを伝えるものである。
一人でも多くの学生が本書を手に取り、
小野先生の志と本学に対する夢とを知る手がかりとすることを願ってやまない。

  二〇〇二年九月二九日  パリにて
4[小野 梓]吉井蒼生夫p2
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫p2

編者紹介
吉井蒼生夫(よしい たみお)
1947年 埼玉県所沢市に生まれる
1970年 早稲田大学法学部卒業
1972年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了
1977年 同 博士課程単位取得満期退学
 専攻  日本近代史
 現在  神奈川大学法学部教授 博士(法学)
 著書  『近代日本の国家形成と法』(日本評論社)
     『法における近代と現代』(日本評論社、共著)ほか

小野梓-独立自主の精神
     二〇〇三年一月一一日 第一刷発行
編 者 吉井蒼生夫
発行者 早稲田大学
    〒189-8060
    東京都新宿区戸塚町一ノ一〇四
    電  話 03-3203-4141
    FAX 03-3203-7051
発行所 合資会社 冨山房
    〒101-0051
    東京都千代田区神田神保町一ノ三
    電 話  03-3291-2171(代)
    FAX 03-3291-2179
印刷・製本 内外印刷株式会社
5[小野 梓]吉井蒼生夫-奥付
〔画像〕[小野 梓]吉井蒼生夫-奥付
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月25日 05:12
◆小野梓 小野梓先生122回忌法要:平成19年3月10日
[思い出の写真帖]073-3
〔小野梓 122回忌法要:宿毛市:平成19年〕
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年11月04日 04:25 
◆小野梓 早稲田大学創立125周年記念:平成19年10月
東京専門学校(「開校を祝す」)
『小野梓-独立自主の精神』吉井蒼生夫 編
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[思い出の写真帖]W125-50完〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕

[思い出の写真帖]W125-50完〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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小野喜代子
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小野喜代子
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小野喜代子
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小野一雄 小野喜代子
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小野一雄 小野喜代子
場所:リーガロイヤルホテル東京
撮影:平成19年(2007)10月21日(土)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[早稲田大学創立125周年記念式典]
平成19(2007)1021
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200284.html
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[思い出の写真帖]W125-49〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕

[思い出の写真帖]W125-49〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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小野喜代子
場所:リーガロイヤルホテル東京
撮影:平成19年(2007)10月21日(土)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[早稲田大学創立125周年記念式典]
平成19(2007)1021
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[思い出の写真帖]W125-48〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕

[思い出の写真帖]W125-48〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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小野喜代子
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場所:リーガロイヤルホテル東京
撮影:平成19年(2007)10月21日(土)
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[早稲田大学創立125周年記念式典]
平成19(2007)1021
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[思い出の写真帖]W125-47〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕

[思い出の写真帖]W125-47〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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小野喜代子
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場所:リーガロイヤルホテル東京
撮影:平成19年(2007)10月21日(土)
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[早稲田大学創立125周年記念式典]
平成19(2007)1021
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[思い出の写真帖]W125-46〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕

[思い出の写真帖]W125-46〔早稲田大学創立125周年記念式典:平成19年〕
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小野喜代子
場所:リーガロイヤルホテル東京
撮影:平成19年(2007)10月21日(土)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[早稲田大学創立125周年記念式典]
平成19(2007)1021
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