雲原村:尾上良一

《尾上良一:農業委員》雲原村長 西原亀三【京都年鑑 昭和29年版】

【京都年鑑 昭和29年版】1953
著者    都新聞社 編
出版者   都新聞社
出版年月日 1953
 雲原村
 役場 大字雲原
 電話 雲原一
大字名 雲原
面 積 一四・二〇平方粁
世帯数 一七二
人 口 八八四
主要職員
(村 長)西原 亀三
(助 役)今井鷹之助
(収入役)曽根善治
村会議員
(議 長)川戸 米蔵
(副議長)井上六太郎
(議 員)木村 石松、鎌田 留治、
     水巻 元三、松本岩之助、
     津根 積蔵、
p93-1【京都年鑑 昭和29年版】1953
p93-1【京都年鑑 昭和29年版】1953
各種委員
(農 業)木村重太郎、清水 正作、
     今井鷹之助、鎌田 喜蔵、
     水巻不二夫、渡辺 仁郎、
     曽根良太郎、川戸 頼蔵、
     浅井 光好、糸井 武一、
     糸井貞治郎、松本岩之助、
     足立  弘、尾上 良一
     井上 延蔵、西原 亀三、
     川戸 米蔵、岸本 善蔵、
(選 管)曽根 儀蔵、荒砂 徳松、
     鎌田市之助、
(民生常任)岸本善蔵、
主要団体
(消防団長)木村重太郎
(農協組合長)川戸米蔵
(婦人会長)杉山かね
(公民館長)井上 稔
学 校
公誠小学校     (校長)黒瀬喜太郎
川口中学校公誠分校 (主任)竹下信雄
河守高等学校公誠分校(主任)桐村茂美
郵便局
雲原(局長)糸井七右衞門
特産物
柿渋、干柿、そば、犢牛、
会社工場
農協醬油醸造工場
福知山土木工営所雲原砂防工事出張所
p93-2【京都年鑑 昭和29年版】1953
p93-2【京都年鑑 昭和29年版】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988159/1/93
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[厚生省傷痍軍人伊東温泉療養所]昭和14年(1939)12月2日開所式【醫海時報 (2362)】昭和14年(1939)

【醫海時報 (2362)】昭和14年(1939)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1939-12-09
 伊東療養所の開所式
 十二月二日盛大に擧行
靜岡縣伊東町鎌田區の高臺に建設中であつた
厚生省傷痍軍人伊東温泉療養所
(昭和14年)十二月二日午前十一時から
軍事保護院總裁本庄大將、
同院櫻井業務局長、
内閣側から秋田厚生大臣(代理)、
近縣下陸海軍病院當局者、
小濱縣知事、
各種團體關係者等
六百餘名の來賓を迎へ
晴れの開所式を擧行。
同所は伊東温泉を眼下に収める風光明媚の
高燥地帶五千百坪を選び、
工費約三十萬圓で
去る(昭和14年)一月二十八日着工
完成したもので
病棟治療室、大浴場等
實に二十三棟、
建坪千二百四十八坪、
宛然豪華な山のホテルを思はせる造りで
聖戰に傷ついた
「勇士の憩の家」に相應しいものである。
所長酒井由夫博士以下
職員一同今日の歡びに浸つてをり
既に關係地域東京外十二縣から
収容されてゐる傷痍軍人二十五名も
當局の暖い披護に再起奉公を誓つてゐる。
 p16【醫海時報 (2362)】昭和14年(1939)
p16【醫海時報 (2362)】昭和14年(1939)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11184952/1/16
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【黒船 18(1)】昭和16年(1941)
出版者   黒船社
出版年月日 1941-01
 伊東療養所創立記念式
傷痍軍人伊東温泉療養所
創立一周年記念式は(昭和15年)十二月二日擧行、
既往の模範入所者左記六名に對し感謝狀を贈り、
午後から入所者の記念杉苗の移植後
地元有志の演藝並びに白衣勇士と傷痍軍人の
演藝が行はれた。
 賀茂郡南 中村伍長・山本長惠、
 岐阜市  軍曹 中川 要、
 名古屋市 上等兵 吉川淸彦、
 東京   海軍中佐 岩本喜一、
 群馬縣  曹長 板橋嘉吉、
 東京市  伍長 渡邊初雄
 p37【黒船 18(1)】昭和16年(1941)
p37【黒船 18(1)】昭和16年(1941)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473104/1/37
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【軍人援護 2(6)】昭和15年(1940)
出版者   軍人援護会
出版年月日 1940-06
 傷痍軍人 伊藤温泉療養所訪問記 p30-31/47
      本誌記者
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473169/1/30
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【黒船 17(1)】昭和15年(1940)
出版者   黒船社
出版年月日 1940-01
 黑船美談錄
其ノ(一)
 本城保護院總裁より
 岩崎菊次郎氏表彰
  伊東療養所請負の功績
國家が傷兵軍人への感謝の徵衷として
傷兵保護院を成立なし
全國二十五ケ所の療養所と
十ケ所の温泉療養所を設けて
銃後の再起する傷兵軍人に
温い療養を施行する事となり
本縣伊豆伊東町に工費二十數萬圓を投じ
富士郡大宮町 岩崎菊次郎氏
建築工事請負のもとに
(昭和)十四年一月廿八日着工
同(昭和14年)八月三十一日竣工
(昭和14年)十二月二日
盛大なる開所式が擧行されたが
同療養所の建築は岩崎菊次郎氏が
多大の犠牲を拂つて完成されたものであり
規模構造においては現代的の粹を集め
正に療養所中のヒツトと稱され
患者収容數一五〇名
敷地面積五〇六九坪
建築棟數二三棟
建築延坪數一二四八・七九一坪
といふ擴大なものである、
右建築工事請負者 岩崎菊次郎氏は
二日開所式において
本庄傷兵保護院總裁より
名譽ある感謝狀を授與された。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473093/1/46
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【報道寫眞 3(10)】昭和18年(1943-10)
出版者   寫眞協會
出版年月日 1943-10
再起は近し 傷痍の勇士 p6-7/44
撮影 伊東正治
洋々たる太平洋を眼下に、
遥かに敵米國を睥睨しつゝ
療養に專心する勇士を訪ねて、
伊東温泉療養所の門をくぐる。
嘗て銃を執り、
刀を握つて敵陣に殺到して時の、
あの鋭い氣迫がこの闘病する勇士の眉宇にも窺はれる。
加ふるに一億の感謝がある。
かくてこそ再起の日も近いのだ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1554351/1/6
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《西原亀三が尾上良一を見舞った伊東の療養所》昭和13年(1938)5月13日

【西原亀三日記 (京都女子大学研究叢刊 ; 8)】昭和58年
(昭和13年)五月十三日
峰温泉を辞し、
稲田町役場を訪ひ、
故田村翁時代の現状を聴取し、
呆然たるものあり。
更に岡崎氏経営の光村を視察せるも
亦た甚た振はさるものあり。
伊東に於て尾上良一を療養所に見舞ひ皈東す
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/325
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東京第一陸軍病院伊東轉地療養所第六分室
伊東には陸軍療養所がなく旅館を軍で借り受け
【陸軍病院】昭和16年(1941)

臨時東京第一陸軍病院伊東臨時転地療養所
【将校患者:敗戦前後の日記から】昭和40年(1965)

第一陸軍病院伊東轉地療養所
【茶業界 32(12)】昭和12年(1937)

東京第一陸軍臨時伊東轉地療養所
【銃後の横浜 : 皇軍慰問号】昭和13年(1938)

伊東轉地療養所
【吉川中佐偲草】昭和13年(1938)
【財團法人偕行社社員:
 昭和十三年十一月改刷(十月上旬調)】

東京第一陸軍病院臨時伊東轉地療養所
【黒船 17(12)】昭和15年(1940)
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【交通と電気 8(9)】昭和4年(1929)
出版者   電通社
出版年月日 1929-09
◎鐵道改良工事繰延べ個所
鐵道省に於ては
昭和四年度工務關係改良工事指定豫算の
各局所に割當たが
改良費減額のため
工事繰延べの余儀なきに至つたものは
左の如くである
東鐵局
稻毛本千葉間直通線新設
古河間々田間信號所新設
間々田小山間信號所新設
伊東療養所新設
https://dl.ndl.go.jp/pid/1505861/1/56
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【陸軍病院】昭和16年(1941)
著者    緒方文雄 著
出版者   講談社
出版年月日 昭和16
熱海療養所への患者は熱海で下車し、
私達はそのまゝ伊東に直行した。
伊豆半島東海岸に沿つて、
東京より三時間近くにして、
轉送列車は伊東驛に滑り込んだ。
驛頭に立つと屋根を越えて波頭が白く見え、
天城の連山が伊豆半島一杯に廣がり、
裾長く尾を引いて靜かだつた。
病院自動車で街を通ると、
既に白衣患者の姿が見受けられる中を、
私達六名は、
先ず本部に寄つて療養所長に申告をなし、
それよりいよいよ伊東館に向つた。
橋を渡つて伊東館につく。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1134824/1/126
古風な門を入ると先づ、
東京第一陸軍病院伊東轉地療養所第六分室
と記されてあつた。
伊東には陸軍療養所がなく旅館を軍で借り受け、
療養に專念させてゐるのである。
指定された三階の部屋にはいる。
三號室と書かれた定員二人らしい。
・・・
私の部屋は新館らしく、
山内中尉の入つた棟は舊館らしい。
・・・
こゝは將校患者のみであり、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1134824/1/127
この療養所は大體三箇月を限度として
患者は退所病院に歸るやうになつてゐた。
・・・
伊東温泉町には
軍事保護院の醫療保護施設として、
傷痍軍人伊東温泉療養所があつた。
※昭和14年(1939)12月2日開所式
こゝは一等症で兵役免除になつた者が、
温泉療養によつて、
傷病を癒(なお)す爲のものであり、
無料で治療出來るばかりか、
入所退所には必ず旅費を支給するのだつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1134824/1/135
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【将校患者:敗戦前後の日記から】昭和40年(1965)
著者    田辺重信 著
出版者   金剛出版
出版年月日 1965
前の応召の時、
臨時東京第一陸軍病院伊東臨時転地療養所
で勤務したことがあるが、
その時は旅館八軒を借りて療養所に仕立て、
白衣の患者を扱っていたのだったが、
ここの吉奈療養所の構成は、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1672498/1/131
「豆腐屋旅館」と、私の入った
「さかや旅館」の二軒だった。
もっともここにはこの二軒きり旅館はないのだった・
https://dl.ndl.go.jp/pid/1672498/1/132
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【ソ満国境近し】昭和15年(1940)
著者    田辺重信 著
出版者   博愛発行所
出版年月日 昭和15年12月
(昭和15年)二月十七日(土)、
前任の思出深い
臨時東京第一陸軍病院を訪ねた。
伊東療養所で一緒だつた面々、
今では本院へ復歸して居る
經理の佐藤さんや長曹長、
庶務の笠松准尉や西山曹長などに
會ふ事が出來た。
夏目大尉殿にも御目にかゝた。
高知陸軍病院へ應召された敎室の
岩原寅猪先生がこちらへ轉任され、
益々靈妙の手腕を振はれ
白衣勇士の絶大なる賴りとなつて居られた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1130873/1/115
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【伊東案内記】大正11年
著者    竹下浦吉 編
出版者   文泉堂書店
出版年月日 大正11
 玖須美温泉
暖香園(電話 十八番)
伊東館(電話 十七番)※将校専用
大坂屋(電話二十二番)
櫻 屋(電話 二十番)
松林館(電話四十五番)
港 屋(電話  八番)
扇 屋(電話 百六番)
東 屋(電話百十五番)
 p21【伊東案内記】大正11年
p21【伊東案内記】大正11年
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【温泉の伊豆 第2号】昭和3年
著者    静岡県温泉組合聯合会 編
出版者   静岡県温泉組合聯合会
出版年月日 昭和3
暖香園(電話 十八番)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/55
大阪屋
猪戸館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/56
伊東館
伊東温泉 温泉プール
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/57
大東館
東京館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/58
カタナヤ飯田 舊朝鮮總理大臣 別邸跡
山藤・松川館・東海館・枡屋・辰太
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/59
伊豆伊東温泉旅館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688165/1/60
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【伊豆半島めぐり:丹那隧道開通記念】昭和9年
著者    東京鉄道局 編
出版者   東京鉄道局
出版年月日 昭和9
地図:左 松島館 右 大阪屋
 p24【伊豆半島めぐり:丹那隧道開通記念】昭和9年
p24【伊豆半島めぐり:丹那隧道開通記念】昭和9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1232274/1/24
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【茶業界 32(12)】昭和12年(1937-12)
出版者   静岡県茶業組合連合会議所
出版年月日 1937-12
 ◎献納寄送先
第一陸軍病院伊東轉地療養所
傷病兵見舞品として三十貫
https://dl.ndl.go.jp/pid/1589942/1/11
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【銃後の横浜 : 皇軍慰問号】昭和13年(1938)
著者    横浜市出動軍人後援会 編
出版者   横浜市出動軍人後援会
出版年月日 昭和13
東京第一陸軍臨時伊東轉地療養所
https://dl.ndl.go.jp/pid/1026584/1/82
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【吉川中佐偲草】昭和13年
著者    吉川洋中佐記念会 編
出版者   吉川洋中佐記念会
出版年月日 昭13
英姿を胸に描きつゝ、
伊東轉地療養所にて靜養中、
遇然にも吉澤隊長殿に逢ひ、吉川部隊長殿の追
https://dl.ndl.go.jp/pid/1258347/1/134
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【財團法人偕行社社員(東京衞戍地及其ノ附近在住者)名簿:
 昭和十三年十一月改刷(十月上旬調)】
出版者   偕行社
出版年月日 1938.11
夏目英雄  靜岡、伊東町、伊東療養所
https://dl.ndl.go.jp/pid/3461803/1/73
田邊重信  靜岡、伊東町、伊東轉地療養所
https://dl.ndl.go.jp/pid/3461803/1/89
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【黒船 17(12)】昭和15年(1940-12)
出版者   黒船社
出版年月日 1940-12
  將校療養所燒く
  伊東の火事、六戸六棟を燒く
伊東町玖須美
東京第一陸軍病院臨時伊東轉地療養所
第六分室伊東館(將校專用)
裏手民家から
去月(11月)十九日午前零時頃出火、
漁業 峯田兼吉、按摩業 平岡宇太郎、
無職 土屋いと、德永貢、
土木業 星野きわ、
電氣療院 本間武次方
各二階建居宅六戸、六棟を全燒、
伊東館三階に燃え移り
三階建一棟を殆んど全燒
一時過ぎ漸く鎭火した
傷病將校は傷痍の我身を顧みず
必死となつて防火に活躍したので各方面から
勇敢な行爲を賞賛されてゐる、
尚ほ將校連は重症患者なき爲
幸ひ五十名全部無事に大阪屋旅館に避難した。
 原因伊東署で取調中であるが
 温泉街目抜の銀座通りとて
 一時は非常な騒ぎであつた
 損害五万圓
 p32【黒船 17(12)】昭和15年(1940)
p32【黒船 17(12)】昭和15年(1940)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473103/1/32
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【黒船 18(6)】昭和16年(1941)
出版者   黒船社
出版年月日 1941-06
 年内に姿を消す
 伊東療養所移轉確定的
陸軍の箱根湯元に出來る温泉療養所は
いよいよ本極りとなり、
これが完成後の
伊東東一轉地療養所
の存置問題は
地元伊東温泉の發展上重要な關係をもつものとして
注目されてゐるが、
山本療養所長はこのほど關係旅館を招致し
 明言は出來ないが伊東が廢止されても
 皆さんがその對策に困らぬやう
 今からそのつもりでゐてもらいひたい
と暗に廢止移轉をほのめかした、
從つて移轉は確定的で事變以來
療養温泉として報國した伊東療養所
年内には姿を消す譯である、
なほ地元としても箱根に代るべきものを
提供したい肚ではあるが
その資力はない狀態にある。
 p36【黒船 18(6)】昭和16年(1941)
p36【黒船 18(6)】昭和16年(1941)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473109/1/36
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【日本伝染病学会雑誌 16(5)】昭和17年(1942)
出版者   日本伝染病学会
出版年月日 1942-02
  雜報及會報
 〇入 會
平山四十三君 靜岡縣伊東町 伊東轉地療養所
 〇轉 居
窪田精四郎君 靜岡縣 熱海陸軍病院 將校病室
https://dl.ndl.go.jp/pid/1726691/1/43
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<牛込陸軍病院:東京第一衞戍病院>牛込區若松町に新設【醫海時報 (1854)】昭和5年(1930)

農耕と園藝 カルチベ
園藝探偵の本棚
第141回 戦前にあった病院附属の温室について(後編)
公開日:2021.10.22
もうひとつの陸軍
「東京第一衛戍(えいじゅ)病院」は、
1929(昭和4)年、
麹町から「陸軍戸山学校」の敷地の一部だった場所
(当時は牛込区の若松町)に移転してきた。
この記事の書かれた1936(昭和11)年に
「東京第一陸軍病院」と改称、
終戦後の1945(昭和20)年に
「国立東京第一病院」となった。
その後、
1974(昭和49)年に「国立病院医療センター」、
1993(平成5)年に「国立国際医療センター」、
2010(平成22)年に「国立国際医療研究センター病院」
と改称し現在に至る。
図2、3 陸軍衛戍病院の温室と盆栽棚
および温室の内部の様子。
著者プロフィール
松山誠(まつやま・まこと)
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【醫海時報 (1854)】昭和5年(1930)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1930-03-01
東京第一衞戍病院落成
工費百八十餘萬圓、
設備費數萬圓を以て
牛込區若松町に新設中の
東京第一衞戍病院は昨年末、
略竣工し舊地麴町區三宅坂より移轉し
内部の設備を急ぎつゝありて、
既に第一期工事は終り第二期も殆ど落成せるを以て
來四月十日頃附近の櫻花滿開の候を期し、
朝野の名士を聘し盛大なる落成式を擧行する豫定にて
目下準備を進めつゝありと。
 p18【醫海時報 (1854)】昭和5年(1930)
p18【醫海時報 (1854)】昭和5年(1930)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11184439/1/18
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【陸軍軍医学校牛込恩賜財団済生会病院新築工事概要】昭和4年
著者    三桂会 編
出版者   洪洋社
出版年月日 昭和4
  工事概要
敷地 東京市牛込區戸山町一番地
陸軍省用地ニシテ
其昔尾州侯ノ戸山莊ト稱シタル所ニシテ
西南ニ
東京第一衞戍病院並ニ陸軍戸山學校アリ。
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《尾上良一》見舞(昭和13年)牛込陸軍病院(西原小まつ)伊東療養所(西原亀三)【西原亀三日記 】昭和58年

※西原小まつ=今井小まつ・雲井龍子
 尾上良一:小野(尾上)喜代子の父

【西原亀三日記 (京都女子大学研究叢刊 ; 8)】昭和58年
著者    山本四郎 編
出版者   京都女子大学
出版年月日 1983.2
一九三八年(昭和十三)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/323
(昭和13年)三月三日
本日午前九時 中外商業新報記者来邸、
時局に関する談話を速記せしめ、
適ま[?]十二時となり匆々にて談話を打切り

午后一時発かもめ號にて出発
京都西竹一泊

今朝 小松は ※今井小まつ
牛込陸軍病院に尾上良一を見舞ふ。
※牛込陸軍病院::別稿に記載
健全にて戦傷の経過良好なり
 p325【西原亀三日記 】昭和58年
p325【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/325
(昭和13年)五月七日(土)
天城山を越へ峰温泉に投宿す。王峰館

(昭和13年)五月十一日
開港の先駆下田港を巡視す

(昭和13年)五月十三日
峰温泉を辞し、
稲田町役場を訪ひ、
故田村翁時代の現状を聴取し、
呆然たるものあり。
更に岡崎氏経営の光村を視察せるも
亦た甚た振はさるものあり。

伊東に於て尾上良一を療養所に見舞ひ皈東す
※伊東療養所:別稿に記載
 p327【西原亀三日記 】昭和58年
p327【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/327
京都女子大学研究叢刊8
『西原亀三日記』
昭和五十八年一月三十日印刷
昭和五十八年二月 十日発行
編 者 山本 四郎
発 行 京都女子大学
    京都市東山区今熊野北日吉町三五
    電話〇七五(京都)531-7066
    郵便番号 六〇五
印刷所 株式会社 図書印刷 同朋舎
    京都市下京区中堂寺鍵田町二
    電話京都(〇七五)361-9121番(代表)
    郵便番号 六〇〇
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《尾上惣吉》雲原村西石:集團耕地造成計画・日蔭林伐採協議【西原亀三日記 】昭和58年

※尾上惣吉:尾上良一の父
 小野(尾上)喜代子の祖父

【西原亀三日記 (京都女子大学研究叢刊 ; 8)】昭和58年
著者    山本四郎 編
出版者   京都女子大学
出版年月日 1983.2
一九三八年(昭和十三)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/323
(昭和13年)一月十九日
柿澁工業拡張計画を樹て、
岡田技師と協議し岡田氏は午后皈府せり

西石の集團に関し
尾上惣吉・
井上貞二郎・糸井長吉並に
尾上吉蔵を招き、
櫂作助役と共に協議せり
p324【西原亀三日記 】昭和58年
p324【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/324

(昭和13年)七月八日
西石部落一部集團耕地造成計画を決定し、
高山元治・尾上弥蔵・糸井丑之助・糸井安蔵・
尾上由蔵・尾上吉蔵・高山八百蔵の
関係者に承諾を求む。
p328【西原亀三日記 】昭和58年
p328【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/328
(昭和13年)八月十八日
午前拾時より櫂作助役と同行、
西石部落に赴き、
部落の一同を會合せしめ、
日蔭林伐採に関し協議し、
左の趣旨の決定をなせり
一、慣例に基く日蔭林伐採を本秋實行のこと
一、西石部落の周囲に突出する
  日蔭となる樹林を伐採すること
  (1)冠ケ鼻より櫂作古屋敷下側に至る区間
p329【西原亀三日記 】昭和58年
p329【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/329
  (2)薬師堂山の下谷側は赤道迄、
   上谷側は尾上惣吉裏畑の尾根迄
  (3)井上亀蔵古屋敷上
  (4)井上元吉向よりカツサウ迄
  (5)高山入口下側出鼻
伐採地の交換地配當に
西石の選任する二名の委員と
村長に全然一任のこと
p330 【西原亀三日記 】昭和58年
p330 【西原亀三日記 】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12189811/1/330
京都女子大学研究叢刊8
『西原亀三日記』
昭和五十八年一月三十日印刷
昭和五十八年二月 十日発行
編 者 山本 四郎
発 行 京都女子大学
    京都市東山区今熊野北日吉町三五
    電話〇七五(京都)531-7066
    郵便番号 六〇五
印刷所 株式会社 図書印刷 同朋舎
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年09月09日 06:50
[雲原村集団耕地造成計画]《尾上良一》昭和16年(1941)
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《西原小まつ・今井小まつ》(元女流飛行家、別名・雲井竜子) 85歳歿【芸能 26(4)(302)】昭和59年

【芸能 26(4)(302)】昭和59年(1984-04)
著者    芸能学会 編
出版者   芸能発行所
出版年月日 1984-04
《西原小まつ》さん ※今井小まつ
 (元女流飛行家、別名・雲井竜子)
(昭和59年)三月十九日老衰のため死去。
八十五歳。京都府出身。
※(昭和59年)1984-85=1899(明治32年)
子供のころから飛行機にあこがれ
昭和二年(1927)十二月
二等飛行機操縦士の免許を取得。
航空雑誌「翼」に航空ものの短編を発表し続け、
(昭和)二十七年(1952)日本婦人航空協会設立に参加、
(昭和)三十二年(1957)まで初代理事を務めた。
NHK朝のテレビ小説「雲のじゅうたん」の
モデルの一人になった。
p30【芸能 26(4)(302)】昭和59年(1984-04)
p30【芸能 26(4)(302)】昭和59年(1984-04)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2276497/1/30
芸能 四月号 第二十六巻第四号(通巻三〇二)
昭和五十九年四月一日印刷 (定価四〇〇円)
昭和五十九年四月十日発行 (送料 五〇円)
          一カ年分四八〇〇円
編集人 芸能学会
発行人 石井順三
印刷所 三美印刷株式会社
発行所 芸能発行所
    〒156
    東京都世田谷区羽根木一丁目二四ノ八
    芸能学会内
    電話(321)四四三八番
    振替東京 〇-四七〇〇三番(芸能学会)
    振替東京 五-三三二三二番(芸能発行所)
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》銀狐を巻く夫人となつて幸福に翼を放れた雲井孃【空の怪奇】昭和8年

【空の怪奇】昭和8年
著者    阿緒木浄 著
出版者   日本空の旅社
出版年月日 昭和8
 銀狐を巻く夫人となつて
 幸福に翼を放れた雲井孃
――そのかみは鯨ほうりし若き手に
  孫を抱きて舟唄をうたふ
潮風にやけた顔、
濱邊に立つ漁師の娘かと思はるその歌主は
――わが國最初の女流飛行家として――
女性の最前線に働いた雲井龍子――
《今井小まつ》さんが
ものにしたのである。

髪を無雜作に束ね、飛行服に、半ズボン長靴、
マルデ男だつた姿の彼女は、
飛行家を志すとすぐ新進の根岸錦藏君の許へゆき、
油と汗にしみ乍らセツセと働いてゐた。
濱松、靜岡、三保、物珍しい時代だけに、
あちらからこちらから、
航空知識普及のため飛んでくれといふ
申込みを待ちながら――

地方巡回興行?
これが唯一の収入であつたから、
この頃の二人は經濟的にあまり惠まれなかつた。

人生は限りない 轉の連鎖だ、
彼女もまた波瀾に揉(もま)れ通しだつた。

京都府下に生れ、
女學校卒業後二年目の廿歳のとき結婚した。
旦那さまと共に奉天に渡つた。
こゝで藥屋が營まれた。
p86【空の怪奇】昭和8年
p86【空の怪奇】昭和8年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214938/1/86
商賣向きでない彼女は、
よく筆をとつて土地の新聞に
「覆面の女」のペンネームで評論ものや、
小説やらを書いてゐた。
そのうち男の子が生れた、
家庭生活三年、
漸く店に坐つてゐる生活が嫌になつた彼女は、
夫と子を殘して單身内地へ歸つてしまつた。
夫や親戚から復縁話が出てもガンとして聞きいれずに、
身を空界に投ずることを決意して
根岸君の所へころげ込んだのだつた。
雲井龍子――と名のりをあげて、
(昭和)十三年十一月に三等飛行士がパスした。

そのころ奉天の彼氏は、
藥屋をやめて岡山縣へ歸つてゐた。
子供は「ママが飛行機で歸る」
と近くの丘に立つて、
毎日々々東の空を眺め、
ママよ歸れと念じてゐたさうである。

翌(昭和)十四年七月十二日に
二等の試驗が合格して、
今度こそ郷土訪問飛行をするだらうと、
見知らぬ母を子供は待ち續けてゐた――
事實運命とは計り知られないものである。
それから幾年、
子供はもう中學の三年か四年であり、
彼氏はいま京濱間の某會社に
相當重要な地位を占めてゐる。
考へれば不思議な世の中である。

サテ空界に志してからの彼女、
男のやうな豪膽な性格は
より赤裸々となつて行つた。
二等飛行士になり、
根岸さんが
淸水港の三保に飛行場をつくつたものの、
よい収入は圖れない。
靜岡の御用邸裏に「つばさ」といふバーを開いて、
飛行服の彼女自身がカクテルをつくり、
サーヴィスにつとめ、
客うけもよかつたのだつたが――
今は淋しい思ひ出の一つに違ひない。
根岸さんにそのころ、
新らしい愛人が出來たとか噂されてから、
交渉は必然的に すくなくなり、
またいつか「つばさ」にその姿をみせなくなつた。

そして再び彼女をみいだした――
ときは廣大なお邸、
銀狐の襟巻あでやかな
令夫人としての龍子さんだつた。――
西原借款で有名な
西原龜藏氏の夫人だつたのである。
といふのも姉さんが西原夫人だつたが、
他界されたその後釜に入つただけのこと…。

かうして空界をさよならした彼女は、――
もうキツト落着いた生活が出來るでせう
と語つたと、サウです、半生をみればですネ。
今は、ただ幸福に醉つてゐるんだ、
話もそれでザ・エンドである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214938/1/87
航空寫眞と隨筆集 空の奇怪
昭和八年十月廿一日印刷 定價一圓五十錢
昭和八年十月卅一日發行 送料  十二錢
著 者 阿緒木 淨
編輯兼 靑木  潔
發行人 東京市京橋區西銀座八ノ九
    新聞聯合社内
印刷人 小澤仙太郎
    東京市深川區門前仲町一ノ二三
印刷所 永進社印刷所
    東京市深川區門前仲町一ノ二三
發行所 日本空の旅社
    東京・深川・門前仲町一ノ二三
    電話 本所四二八二番
    支社 東京・八王子・萬町一〇
    電話 八王子五五六番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214938/1/150
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《西原四良》西原病院長(宮津市)【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)

【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1966
《西原四良》にしはら しろう
 医学博士 西原病院長
 宮津バスケットボール協会会長
 宮津囲碁連盟会長
 京都府福知山市在籍
大正4年10月18日生る
昭和15年 慈恵医大卒業
東大附属病院小石川分院 外科勤務の後
昭和18年 藤原外科病院長代理となり
昭和19年 太田病院 外科主任に転じ
昭和20年 開業
昭和26年 西原病院と改称
昭和29年 学位を受く
趣味 スポーツ・囲碁・麻雀
住所 京都府宮津市字街道二二
電話 宮津二五八一
p469【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)
p469【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044976/1/469

【日本医籍録 昭和29年版 近畿・中国・四国・九州】1954
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 1954
《西原四良》 外泌科 西原醫院 宮津町宮本
本府出身
大正4年10月18日生
昭和15年慈恵医大卒
登94653號
卒後 東大分院外科研究
次デ千葉市 藤原外科病院
大田病院等歷任
昭和20年11月 現地開業
郡醫副議長 趣味 圍碁
p34【日本医籍録 昭和29年版】
p34【日本医籍録 昭和29年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2930240/1/34
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【大衆人事録 第19版 西日本篇】1957
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1957
《西原四良》 西原病院院長 医学博士
 京都府宮津市宮本町
 電話宮津三一二
[歷]
大正四年一〇月一八日生
京都府出身
昭和一五年 慈恵医大卒
東大小石川分院 外科勤務
昭和一八年
千葉私立 藤原外科病院 院長代理
昭和一九年
宮津町 太田病院 外科主任
昭和二〇年
現住所にて開業
昭和二八年
学位を受く
尚京都府医師会代議員
宮津市人権擁護委員
宮津育友会長を兼ねる
[宗]曹洞宗
[趣]囲碁・スポーツ
[家]
妻  津枝子(大正九)
   新京敷島高女卒
長女 紀子 (昭和一八)
二女 素子 (昭和二〇)
長男 康重 (昭和二二)
四女 純子 (昭和二四)
二男  寛 (昭和二六)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/346

【大衆人事録 第20版 西日本篇】1958
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1958
《西原四良》 西原病院院長 医学博士
 京都府宮津市宮本町
 電話宮津三一二
※上記と同一
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025814/1/379
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《西原四良》昭和11年入学-15年卒業【東京慈恵会医科大学一覧 昭和14年】

【東京慈恵会医科大学一覧 昭和11年】
著者    東京慈恵会医科大学 編
出版者   東京慈恵会医科大学
出版年月日 昭11至14
 二六 在學生氏名
學部一學年生
西原四良 京都

【東京慈恵会医科大学一覧 昭和13年】
著者    東京慈恵会医科大学 編
出版者   東京慈恵会医科大学
出版年月日 昭11至14
 二六 在學生氏名
學部三學年生
西原四良 京都

【東京慈恵会医科大学一覧 昭和14年】
著者    東京慈恵会医科大学 編
出版者   東京慈恵会医科大学
出版年月日 昭11至14
 二六 在學生氏名
學部四學年生
西原四良 京都
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【日本医籍録 昭和29年版 近畿・中国・四国・九州】1954
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 1954
《西原四良》 外泌科 西原醫院 宮津町宮本
本府出身
大正4年10月18日生
昭和15年慈恵医大卒
登94653號
卒後 東大分院外科研究
次デ千葉市 藤原外科病院
大田病院等歷任
昭和20年11月 現地開業
郡醫副議長 趣味 圍碁
p34【日本医籍録 昭和29年版】
p34【日本医籍録 昭和29年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2930240/1/34
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