[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説

[村八分ライブ(柴田和志)]《あッ!》《んッ!》≠南丹市道 減速促す 「あっ!」

[村八分ライブ(柴田和志)]《あッ!》《んッ!》
≠南丹市道 減速促す 「あっ!」

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[村八分:あッ!]昭和46年(1971):昭和48年(1973)
2014年6月3日02:06:57
《あッ!》
 チャー坊が幼年期に小児麻痺により
 斜視になったことが
 原体験となり書かれた詩。
 「村八分」の代表的ナンバー
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]歌詞
2017年4月30日05:15:23
〔村八分/ライブ(Bの二)〕
十二 《んッ!》
      それ見た事と  どぶねずみ 
      助けて欲しい  どろだらけ

      助けておくれ俺の事
      それ見た事と  どぶ  どぶねずみ

      どうしたら  犬のくそ
      豚の鼻 
      それみた  それみた  見た事か
      それみた事か  どぶ  どぶねずみ

      やめてやめて  こわいからやめて欲しい
      お  燃えるから  やめて  ああやめて 

      それ見た事と  どぶねずみ  どぶねずみ 

      やめて  やめて
      それ見た 

      それ見た事かよ  それを見た
      見た事か  どろだらけ
      池の下  どろだらけ  どろだらけ
      どぶねずみ  それ見た事か
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京丹波町議会議員 山崎裕二 活動誌 ブログ版
2022-11-06 07:00:00 | 近隣自治体の事例
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]歌詞

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]歌詞
CD-両面


A面
〔村八分/ライブ(Aの一)〕
一  あッ!

二  夢うつつ

三  どうしようかな

四  あくびして
村八分歌詞Aの一

〔村八分/ライブ(Aの二)〕
五  鼻からちょうちん

六  水たまり

七  のうみそ半分
   演奏のみ

八  馬の骨
村八分歌詞Aの二
B面
〔村八分/ライブ(Bの一)〕
九  ねたのよい

十  ぐにゃぐにゃ

十一 のびてぶぎ
   演奏のみ
村八分歌詞Bの一

〔村八分/ライブ(Bの二)〕
十二 んッ!

十三 どこへ行く

十四 にげろ

十五 どうしようかな
   CDに記載なし

十六 序曲
   演奏のみ
村八分歌詞Bの二

作詞・作曲 柴田和志/山口冨士夫

昭和四十八年五月五日
京都大学西部講堂にて収録

村八分/ライブ 完全盤 (二枚組)
CHOP D-023~4
税抜価格 ¥4,000

発売中
村八分[草臥れて]
GWCD-9105
山口冨士夫[ひまつぶし]
CHOP D-03
(株)ヴィヴィド・サウンド・コーポレーション
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5
浅沼 勇 インタビュー②
14[村八分:ライブ]ジャケット
16.序曲 ※4

村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー②

――このアルバムのライブレコーディングの日は
前もって宣伝とかはあったんですか?

浅沼
 全然ないです。変な噂がとんじゃって
ライブの日に全学連がなだれこむなんて
さんざん言われたんです。
僕は全学連にすごく強い立場にいたので、
絶対大丈夫だと、
ただそんな噂を広げて騒ぎになって、
何千万もする機材やられちゃうと大変だからね。
けっこう秘密でしたね。
この時、チャーボーがひとつ不満に思っていたのは。
控室が教室なワケ。
そこから西部講堂まで約100mあるんだけど、
そこをロールスロイスで走りたいって言ったんだ、
アイツは(笑)。
僕は加藤(和彦)君に
「かまわないから買って来い」って言ったんですよ。
でも間に合わなかったんですよ(笑)。

――どんなファン層が集まったんですか?

浅沼
 客は凄かった。
例えば5月でも毛皮巻いて、みたいな女とかね。
それもイイとこの年令高い。
当時の加藤の女房のミカのグループとか、 ※6:ミカ
ああいう連中ですよ。
スターへは一直線だったよね。
惜しかったなあ。

――アルバムの歌詞カードは実際に歌っている詞と違う部分が
いくつかありますよね?

浅沼
 あれは彼らの友だちが書いたんです。
私は村八分をずっと聴いててよく知っているからとか言って…。

――ライナーノーツで浅沼さんが書いておられる
ヨーロッパツアーとは?

浅沼
 オランダに行きたいって言いだしたんです。
僕がアムステルダムでのストーンズの話をしたのと、
あと(マリファナが)フリーでしょ。
たまたま僕の子分が3人くらい向こうにいたんで、
そんな話をしてたらすぐ行くって(笑)。
じゃあ、アムスじゃしょうないがないから
そこからロンドンに入れと。
キース(リチャーズ)の仲間たちも紹介するから、
そこにこちらから加藤君を送り込むから
ロンドンでレコーディングしろと。
当時の日本では初めてだから、
そういう形でやっちゃったらどうだということで。
だからあのライナーの段階ではそういう話だったんですね。
それでその後冨士夫が、
村八分はとりあえず一度解散すると言って来たから、
どういうことだって聞いたら、
チャーボーは行っちゃうと、
冨士夫は日本に残ると。
村八分みたいのは外国にもいなかったから、
似てるといえばストーンズだけど、
あれくらいトンでると
当時のロンドンだったら必ず当たったと思います。
だけど、グループサウンズが一人で行ったってしょうがないし。
まとまって行かなきゃ。

――当時、セールス的にはこのLPは売れたんですか?

浅沼
 売れてますよ。
初版は2万セットくらいからスタートしています。
バックオーダーがあったくらいですから。
僕が作った中では多い方じゃないですけど
ロックのレコードだったらイイところ行ってるでしょう。

――評価の方はどうだったんですか?

浅沼
 誰も評価しないですよ(笑)。
村八分自体コワモテだったし、
自分自身も業界では物凄いコワモテだったから、
「何か書いてみろ!この野郎」ってのがあったんでしょう。
プロモートしないことがプロモート。
今でもそうでしょ。
伝説になっちゃって、なんにも出てないから
逆にこんなに話題になる。
でも、彼らとの付合いは楽しかったですよ。
他のアーティストみたいに長い付合いになりませんでしたけど。
(1992年10月20日)
※2 ビートルズ、T・レックス等のディレクターでもあった。
   現在 東芝EMI
   エレックURCと並ぶ先鋭レーベルのひとつであった。
※4 本CDに収録されている「序曲」のこと。
※5 浅沼氏は1960年代からローリング・ストーンズと交流がある。
※6 元サディスティック・ミカ・バンドのヴォーカル。
   現クリス・トーマス夫人
●あさぬま・いさむ
1950年代よりギタリストとして活躍。
日本音楽院の社長を経て、
1969年エレックレコードの設立と同時に
専務兼プロデューサーになる。
現在もプロデューサーとして
数多くのヒットを生んでいる。
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2008年11月27日
元エレックレコードプロデューサー、浅沼勇さんとの再会
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5
浅沼 勇 インタビュー①
13[村八分:ライブ]ジャケット
CHABO:Vocal
FUJIO:Guitar
YOCCHAYN:Guitar
EIICHI:Bass
SHIGETO:Drums

村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー①

――村八分との出会いはいつ頃だったんですか?
また、その時の印象は?

浅沼
 最初に加藤和彦君の紹介で ※1:加藤和彦
おもしろいグループなんで検討してくれという話だったんです。
ライブレコーディング(1973年5月5日)の半年くらい前ですね。
2度ほど円山公園でのライブとかリハーサルを見て、
非常に興味を引かれたし、
ステージとリハーサルとのギャップがあったので。
当時の自分とこのアーティストも皆そうでしたけど、
例えば喫茶店で一緒に話していて誰も気付かない、
しかしステージに出たとたん巨人になるような…
そんな存在感を村八分にも強く感じました。
普通の時はやんちゃな少年という感じでしたね。

――加藤さんは初めに東芝の石坂敬一さんに ※2:石坂敬一
村八分を紹介したという話もありますよね。

浅沼
 レコード会社が手を出せなかったんですよ。
加藤君としては何処でもよかったわけで、
それで相談に来たんですよ。
で、ウチならやれるからやろうか
という話になっただけで。
僕自身もエレックやってましたけど、
フリーの部分が強かったから各社と仕事をしてたわけです。
だから石坂の所でもいいし、
三浦(光紀)君のところでもよかった。 ※3:三浦光紀
しかし何処って問題じゃなかった。
やっぱり皆怖がったんですね。
コントロールする人がいないと誰も手を出せない。
石坂もすごく苦しんだとおもうんですよ。
一生懸命いろいろ話はしたみたいですけどね。
ビートルズとかストーンズの映画見せたりとかね。
でも、やっぱりまだ少年たちだったから言うこときかないし、
ちゃんとした契約書を交してやる仕事は怖かったんでしょうね。

――結局エレックで、というのは?

浅沼
 当然若い人が聴いてしかるべき音楽をね、
世に出せないレコード会社とか出版社に対しては、
じゃあ全部自分が引き受けようということだったんです。
(吉田)拓郎とか泉谷(しげる)、佐渡山(豊)もそうだし、
当時はレコ倫に引っかかっちゃう部分がたくさんあったし。
ようするに全部引き受けてたんですよ(笑)。
村八分の音楽は当時の京都の一部だったんだけども、
ひとつの歴史の中に残しておいていい音楽だと思った。
だけど誰もやらない、ならウチがやる、と。

――ライブレコーディングの前に、
東京のエレックのスタジオで録りましたね。
それは出来がよくなくてボツになったんですか?

浅沼
 よくないですね。
その時2週間スタジオに入って
結果的にいいトラックが録れてなかったということです。
当時としては本当に破格で彼らのために、
イギリスから第一線級のミキサー呼んだり、
新しく16チャンを入れたり、
ドルビーとか買ってきたりしたんです。
だから機械面の拡がりとしては
その後の日本の音楽に貢献してますよ。
プロデューサーとしての判断で
最初の4日間の時点でやめとうと、
君たちの音楽は地元でやるべきだ、と言ったんです。
そこで一番いい機材を持ちこむからそれをナマで録ろうと。
やっぱり不良少年なんですよ。
彼らもスタジオにいる時、
「やっぱりナマじゃなきゃできない」っ何回か来たんです。
冨士夫だけはなんとかがんばってくれたんだけど、
他のメンバーがね「熱が来ないから出来ない」って…。
だから、逆にマルチじゃなくて、
そんな新しい機材入れないで一発録りだったら
けっこううまく録れたかもっていう部分もありますね、
もっと気楽に出来るコンディションであれば、
スタジオレコーディングも出来たとも思います。
あの曲の中から1曲ブルースを ※4:ブルース〔序曲〕
ライブ盤に入れてあるけど、
あれが一番いい。

――チャーボーと冨士夫以外のメンバーチェンジが頻繁でしたけど、
各メンバーの役割というか位置付けはどんな感じでしたか?

浅沼
 はっきりいってあの2人は飛び抜けてるよね。
だから、あの2人が何か作っていくため必要な人間が
必要な時に揃っていくのが村八分だったという気がする。
当時は、チャーボーのリズムの間をぬって来る声がすごく好きで、
何歌ってるかわからないんだけど、
とにかくイイんだよね。
例えば、ポップス歌ったらすごく売れただろうと思うもの、
はっきり言って。
村八分ってえらいハシリぐせがあったんだけど、
スネアがパシッて終った時にピタッて語尾が来てるとか、
ああいうことって今のロックバンドに出来ないよね。
ロックンロールって音楽的には非常に簡単でしょ。
3コードで、リズムも2つか3つしかないワケだから。
それをあそこまで高められていたからね。

――本当はどんなレコードにしようと考えていたのですか?

浅沼
 正直言って伝説以外にも
充分聴き応えのあるレコードを作りたかった。
ストーンズがいくらワイルドであっても、 ※5:ストーンズ
キースがずうっと1人でスタジオひ入って3日も4日もかけて
1曲練り上げていく姿を見てたから、
ああいうの出来ないかなって。
それを冨士夫に話して出来たのが『ひまつぶし』なんだけどね。
村八分全体としてのグループサウンドと同時に、
冨士夫のギターとチャーボーの歌だけでやってみたかった。
当時、いろんな可能性があったと思う。
だから、しっかりとしたマネージャー欲しかったなあ、本当に。
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22[村八分ライブ]解説
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5
(1992年11月 川村 聖)②

 1971年も終わらないうちに、青木と上原が脱退。
その後の青木は1976年頃から、スピード、フールズなどの
ギタリストとしてバンド活動を再開している。
上原は一流のセッションマンとして
シュガーベイブや沢田研二のエキゾチックスなどにも参加している。
青木に代りベースにはヨッチャンこと加藤義明が参加。
上原に代わりドラムにはカント、
そして間もなく村瀬シゲトに代わった。
しばらく表立った活動がなかったが、
1972年8月の円山公園音楽堂のワンマンコンサートを
皮切りに再び活動を開始。
いくつかのレコード会社が村八分に接近し、
ロンドン録音のアルバムが
東芝から発売予定というニュースが流れた。

 1973年、村八分はエレックレコードと契約し、
東京に来てレコーディングセッションを行ったが
その時の演奏はボツになった。
このセッションが終わった時期に山口は、
村八分を脱退する意思をメンバーに伝えたという。
結局、チャーボーの誕生日でもある
5月5日の西部講堂におけるステージを
レコーディングすることになったが、
浅田が脱退してしまったので、
ヨッチャンがベースからギターにコンバート、
ベースにはエーイチという人物が参加し、
ライブは決行された。
この日の演奏は6月25日に2枚組LP『ライブ』
としてリリースされたが、
山口以外のメンバーはヨーロッパに渡ってしまい、
以後の村八分は何の音沙汰もなく実質的に解散していた。
1974年4月10日には、山口のソロ『ひまつぶし』が
エレックからリリースされた。

 1979年7月15日、西部講堂にて
村八分は6年ぶりに姿を現わした。
メンバーは、チャーボー、山口の他、
浅田がベースを担当し、
元スラッシュのミッキーこと松田幹夫のギターに、
ドラマー、キーボードプレイヤーという6人編成であった。
頂度、パンク~ニューウェイブのムーブメントが
日本でも盛り上がりつつあった時期だったので
“元祖パンクが復活”と話題になり、
テレビ番組「11PM」にも出演し
「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」と
「ロール・オーバー・ベートーベン」のカバー2曲を演奏した。
しかし、村八分の再結成はこの時限りで終わった。

 以後、山口は1980年に裸のラリーズに加入、
1983年からは本格的にソロ活動を開始。
青木真一と共にタンブリングスを経て、
1987年にティアドロップスを結成し、
1989年には東芝EMIよりデビューしている。
チャーボーは、1990年秋よりバンドを結成、
『村八分』としてマイペースながら音楽活動を再開している。
(1992年11月 川村 聖)
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21[村八分ライブ]解説
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5
(1992年11月 川村 聖)①
12[村八分:ライブ]ジャケット
 1970年初頭、山口冨士夫はアメリカ帰りの
チャーボーこと柴田和志と出会う。
山口は東京杉並区出身の実力派グループサウンズ、
ザ・ダイナマイツのギタリストとして活動していたが、
グループ解散直後であり
セッションなどに明け暮れていた時期だった。
アメリカでローリング・ストーンズを観て来たチャーボーは、
出身地である京都に戻る前にしばらく東京に滞在し、
山口とバンド結成の構想を話したりした。
1970年4月には、山口(g)、成毛滋(key元フィンガーズ)、
つのだひろ(ds元ジャックス)、石川恵(b後にファーラウト)
から成るセッション「山口冨士夫グループ」が、
日比谷野音で行われた「日本ロックフェス」に出演。
チャーボーは出演者でないのにもかかわらず、
演奏中ステージ上で踊っていた。
チャーボーが日本のロックファンの前に初めて姿をみせたのが、
この時である。

 その後、山口は友人の青木真一と共に
チャーボーの住む京都に向った。
当時の京都は日本のカウンターカルチャーの拠点として、
外国からもヒッピーがたくさん流れてきた街である。
バンド名は未だ決まっていなかったが、
京都で新しいバンドが結成された。
メンバーは、チャーボー(vo)、山口(g)、染谷青(g)、
青木真一(b)、恒田義見(ds)の5人で。
チャーボーを除く4人は東京から移住して来た。
バンドのデビューステージは、
このメンバーに水谷孝(vo・g)を加えた6人で
「裸のラリーズ」として、
1970年7月26日に富士急ハイランドでのイベント
「ロック・イン・ハイランド」に出演して時である。
「裸のラリーズ」は水谷孝の流動的なワンマン・グループで、
チャーボーと水谷は旧知の中にあり、
チャーボーは水谷とバンドを組もうと思ったこともあったという。
以後、バンド名は決まらないままイベントやディスコで演奏、
オリジナル曲を作るなどの活動を続けていたが、
恒田と染谷が脱退。恒田は東京に戻り、
近田春夫のハルヲフォンに参加した。

 新メンバーとして、浅田哲(g)、上原裕(ds)が参加し、
バンド名も「村八分」と決まり本格的な活動がスタート。
村八分としてのデビューステージは、
1971年3月20日の京都大学西部講堂における
「モージョ・ウェスト・コンサート」で、
共演は沢田研二や萩原健一など
元GSのスターが集まったPYGだった。
チャーボー、山口、浅田、青木、上原の5人
メンバーで平均年令19~20歳というこの時期、
6曲入のデモテープを録音しており、
この音源は1991年5月にアルバム『草臥れて』として
京都のインディー・レーベルよりCDでリリースされている。
オリジナルの日本語のロックバンドが
まだ珍しかった時代でもあり、
グラムロックが出現する以前からメイクをしていた村八分の存在は、
あっという間に全国的に噂として広まった。
活動は、西部講堂を拠点として、
京都円山公園。日比谷野音などのイベント、
大学祭にも出演。
九州、北海道ツアーも行っている。
チャーボーの挑発的かつ攻撃的なアクションとヴォーカル、
ステージ後方でプレイする山口のギターは、
マスコミでも取り上げられるようになった。
ステージに登場したとたんにアンプをひっくり返してしまい。
今日の客は気に喰わないから1曲で終わったとか、
かぶりつきのカメラマンを蹴っとばしたとか、
話題性にも事欠かなかったが、
村八分自体はほとんど取材を拒否し、
写真を撮られることも拒んでいた。
村八分は、反体制文化を象徴するグループとして
一部から圧倒的な支持を受けるようになる。
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5
11[村八分:ライブ]ジャケット
(昭和)48年5月5日 京都 京大西部講堂にて収録

村八分は、日本のロック黎明期に登場した
最もラディカルでヒップなグループだ。
日本古来の文化と斬新な創造力に溢れていた
当時の京都という風土が生んだ異端、
日本では成立しないとさえいわれていた
ドラッグカルチャーの落とし子である。
その激烈なオリジナリティーは、
日本語のロックの可能性を大きく広げ、
多くのアーティスト達に強い影響を与えている。
20年以上の時空を超越して今もなお燦然と脈打つ
妖しくも艶やかなロックンロール・サウンド。
このCDは、村八分がリリースした唯一の作品を
完全収録したものである。
(オリジナル盤/エレックレコード
No.ELW-3003 1973年6月25日発売)※昭和48年(1973)
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20[村八分ライブ]解説
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]歌詞
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/15076230.html
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