坂本 鼎

《坂本 陽》【東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年】

東京帝国大学 医学部 医学科
入学:大正7年9月
卒業:大正11年3月

【東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年】
 醫科大學 醫學科
  第一年
坂本 陽 高知平

【東京帝国大学一覧 從大正9年 至大正10年】
著者    東京帝国大学 編
出版者   東京帝国大学
出版年月日 大正10
 大正七年醫學科入學
坂本 陽 高知平

【東京帝国大学要覧 従大正11年 至大正12年】
著者    東京帝国大学 編
出版者   東京帝国大学
出版年月日 大正12
 醫學部 醫學士 醫學科
大正十一年三月卒業
坂本 陽 高知
 p132【東京帝国大学要覧 従大正11年】
〔画像〕p132【東京帝国大学要覧 従大正11年】

【名古屋帝国大学一覧 昭和17年】
著者    名古屋帝国大学 編
出版者   名古屋帝国大学
出版年月日 昭和18
 醫學部職員
  小兒科學敎室
敎授 醫學博士 醫學士 坂本 陽(高知)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《坂本 陽》墓所跡の碑2024-03-03

坂本陽家墓所跡の碑
陽は高知県三里村に生れ
坂本進の養子となり
長女恒子と婚姻する。
高知一中、三高、東大を卒業し
独乙国に留学し帰国後
東大を経て
名古屋帝大の小児科教室教授となる。
日本小児学会会頭、
日本アレルギー学会理事、
名大東分院院長等を歴任し
勲三等瑞宝章に叙せられ
  ※瑞宝償⇒瑞宝章
昭和四十七年病没
行年七十六才
ここ宿毛市宿毛町の城山墓地より移葬して
現在名古屋市八事山霊園にて永眠す。
平成二十三年十二月吉日
信 建立し顕彰する。
 坂本陽家墓所跡の碑
〔画像〕坂本陽家墓所跡の碑
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[第三高等学校]
入学:大正4年9月
卒業:大正7年7月
【第三高等学校一覧 大正4年9月起大正5年8月止
著者    第三高等学校 編
出版者   第三高等学校
出版年月日 大正1-15
 〇第三部一年 四十二人
高知一中 坂本 陽 高知

【第三高等学校一覧 大正7年9月起大正8年8月止】
著者    第三高等学校 編
出版者   第三高等学校
出版年月日 大正1-15
大正七年卒業生
 〇第三部醫科卒業生 三十六人
東大醫 坂本 陽 高知
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《坂本太郎:坂本進の長男》東大医学部薬学科・昭和2年卒業

【東京帝国大学一覧 大正15至昭和2年】
著者    東京帝国大学 編
出版者   東京帝国大学
出版年月日 昭和2
 醫學部
  藥學士
   藥學科
〇昭和二年三月卒業
坂本太郎 高知
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 坂本家の墓碑-2
〔画像〕坂本家の墓碑-2
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《坂本 進・坂本 信》【日本薬剤師録 昭和30年版】

【日本薬剤師録 昭和30年版】
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 1955
高知県
https://dl.ndl.go.jp/pid/2425426/1/375
宿毛市
大井田 健
大井田薬局 宿毛町
高知出身 大正七年五月一日生
昭和一五年 名古屋薬専卒
登録 三八六七八号

坂本 進
坂本薬局 宿毛町
高知出身 明治八年生
明治二八年 試験合格
登録 七四三号

坂本 信
坂本薬局 宿毛町
高知出身 昭和五年生
登録 昭和二五年一二月 第六二七九八号
 p377【日本薬剤師録 昭和30年版】
〔画像〕p377【日本薬剤師録 昭和30年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2425426/1/377
京都府
https://dl.ndl.go.jp/pid/2425426/1/264
昭和三十年八月五日印刷 日本藥劑師録
昭和三十年八月十日発行 定價金参千圓
編集発行人 楠本 益弘
発行所 株式會社 醫學公論社
    東京都中央区宝町三丁目一番地
    電話 京橋(56)二五五〇番
印刷人 永井佐波太郎
印刷所 三報社印刷株式会社
    東京都江東區龜戸町五丁目七番地
    電話 城東(68)3131・3132・3133・320番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2425426/1/426
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

開明堂藥舗 藥劑師 坂本 進 幡多郡宿毛町【大日本薬業家名鑑】明治43年

【大日本薬業家名鑑】明治43年
著者    川口恒次郎 編
出版者   大日本薬学協会
出版年月日 明43.3
京都府名鑑
https://dl.ndl.go.jp/pid/779872/1/388
兵庫縣名鑑
https://dl.ndl.go.jp/pid/779872/1/415
高知縣
幡多郡宿毛町    坂本日進堂
高岡郡川内村波川  坂本 熊吉
高岡郡日下村本郷  坂本 駒吉
高岡郡高岡町    坂本 鐵馬
高岡郡北原村北地  坂本 愛吉

開明堂藥舗
 藥劑師 坂本 進
 幡多郡 宿毛町
處方調劑
内外藥種
有効賣藥
繪具洋酒
 p523【大日本薬業家名鑑】明治43年
〔画像〕p523【大日本薬業家名鑑】明治43年
明治四十三年二月廿五日印刷
明治四十三年三月 七日發行
編纂兼 川口恒次郎
發行者 東京市京橋區新湊町五丁目一番地
印刷者 池田勝四郎
    東京市神田區美土代町二丁目一番地
發行所 大日本藥業協會
    東京市京橋區新湊町五丁目一番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

宿毛市 坂本家の墓碑より:小野雄二2024-03-03

坂本進は明治八年
谷本弥八の四男に生まれた。
若くして坂本与三郎に見込まれ養子となる。
与三郎は、明治初年、
士族をはなれ町民となった小野梓の業跡を継承し、
進はその請託をうけて東京に出て東京薬学校に学び
明治二十八年
薬剤師免許
登録番号第七四三号を取得して故郷に帰り
坂本薬局を開設した。
進は与三郎の一人娘「みよの」と婚姻し
三子を得て家業に勤しむ、
店は薬品の卸、小売り、家庭薬の製造販売配置、
売薬等を営業し、
従業員十数名を抱え繁昌する。
 坂本家の墓碑-1
〔画像〕坂本家の墓碑-1

一方 進はその人格、識見によって宿毛町長、
宿毛信用組合長等の公職をも歴任し
行財政にも貢献する。
更に子女の教育にも熱心で
長男 太郎は東大医学部を
長女の養子 陽も東大医学部を出て
独乙に私費留学をし、
名大教授に、
二女 緑の女婿の清三は京大法科をでて
神戸高等商船大教授と
夫々の分野で活躍する。
このように進の六十一才までの半生は
誠に順風満帆であった。
しかし、昭和十一年跡継ぎの
長男 太郎が不慮の急逝をとげ
その後、
年を次いで糟糠の妻 徳恵、
女婿 清三と
三つの逆順の柩を見送らねばならなかった。
 坂本家の墓碑-2
〔画像〕坂本家の墓碑-2

※追記:2024-03-21
更に不幸の追討ちは
次第に戦時色となり
大東亜戦に突入し、
敗戦、戦後の南海大震災に見舞れて
相つぐ経済の大変動や社会情勢の激変に
農地買収や預金封鎖など
未曽有のインフラに遭遇し
一徹一途の明治男にとって
誠に不遇の老境であった。
ただ最後の一年は次女綠の手厚い介護の元で
おだやかな日々を送り
安らかに往生されたのは、
せめてものはなむけであった。
正厳院釈心徹居士 進
昭和三十二年五月二十日没
行年八十四才
 無量院釈妙慧大姉 妻 御代野
 明治三十六年七月十四日没
 行年二十七才
   信 碑を建て之を誌す
坂本家の墓碑-3
〔画像〕坂本家の墓碑-3 ※追記:2024-03-21
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《薬局、薬種商》小野梓の父小野節吉:坂本鼎《坂本薬局》坂本与三郎《坂本開明堂》坂本進・太郎・信【宿毛市史】

【宿毛市史】昭和52年(1977.3)
著者    宿毛市史編纂委員会 編
出版者   宿毛市教育委員会
出版年月日 1977.3
薬局、薬種商
藩政時代宿毛にも薬屋があったが、
小野梓の父 小野節吉もその一人であった。
節吉は後に士分にとりたてられたが、
その小野の店に坂本鼎が勤めていた関係から
後に坂本家が小野家の後をついで
宿毛で薬局を経営するようになるのである。

坂本薬局
坂本林爾の長男 与三郎
金融業、酒屋、薬屋などを行なっていたが、
その養子、が明治二十六年薬剤師の免許を得て
坂本開明堂を開業、
その長男 太郎も昭和二年薬剤師となり、
その長男 も昭和二十五年薬剤師となり
昭和二十八年より家業を継いでいる。
現店主 坂本信氏。
p659【宿毛市史】1977.3
〔画像〕p659【宿毛市史】1977.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573993/1/659
印刷 昭和五十二年三月二十日
発行 昭和五十二年三月三十一日
編纂 宿毛市史編纂委員会
発行 宿毛市教育委員会
印刷 アイニチ株式会社
   香川県高松市林町一三一八の一
   電話(0878)61-1411(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573993/1/703
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《坂本鼎所有》國千保丸遭難ノ件:全ク天災ニ起因シタルモノトス【官報 1894年01月15日】明治27年

《坂本鼎所有》國千保丸遭難ノ件:
全ク天災ニ起因シタルモノトス
【官報 1894年01月15日】明治27年

【官報 1894年01月15日】明治27年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治27年
  判決  p2/9
◎船舶司檢所判定
 汽船國千保丸遭難ノ件ニ關シ
 大阪船舶司檢所ニ於テ該船長審問ノ末
 左ノ如ク言渡セリ
   判定
   汽船 國千保丸 元船長 兵庫縣 平民
      山崎 初太郎
右ハ高知縣幡多郡宿毛村 坂本鼎所有
木製汽船 登簿 噸數百二十四噸五一
公稱馬力十五ヲ有スル國千保丸ニ乘組
船長トシテ執職中
明治二十六年十月十四日
土佐國幡多郡佐賀港内ニ於テ
本船難破ノ顚末審問ヲ遂クル處

本船ハ明治二十六年十月七日午前八時
土佐國浦門港ヲ發シ久禮須崎ノ兩地ニ寄港シ
同日午後二時四十五分
佐賀港ニ著ス
同三時下田港ヘ向ケ同港ヲ發シ
凡ソ一分時間航行シタル頃
船體ニ異響ヲ感シ乍ラ
機關ノ運轉止マリタルヲ以テ
之ヲ調査セシニ
本船ノ副龍骨十餘尺脱却シタル爲メ
螺旋翅ヲ破損シ
運航ヲ爲ス能ハサルニ至レルヲ發見セリ
此時天候ハ半晴
東ノ軟風ナリ
茲ニ於テ再ヒ佐賀港ニ回航シ
乘客三十餘名ヲ上陸セシメ
豫備ノ螺旋ヲ取付ケン爲メ
同港ノ川内ニ入船セントセシモ
川口ノ水底本船ノ喫水ニ對シ
一尺程淺キヲ以テ
之ヲ掘鑿センカ爲メ
人夫百餘名ヲ使役シ

翌八日午後三時頃
浚工畢リ
本船ヲ川口ニ引寄セ滿潮ヲ待チ居タルニ
同日ハ天候曇天
風位北東ニシテ
漸次風力增加シ
波浪モ亦タ高ク
遂ニ入船スルヲ得ス
近傍適當ノ場所ニ兩舷錨
竝ニ豫備ノ大錨ヲ投シ
嚴重ニ繫泊シタリ
爾後連日天候不穏ニシテ

十一日午前九時頃ニ至リ
汽船中村丸ノ入港スルニ會シ
曳船ヲ依頼シタルモ
天候險惡ナルヲ以テ謝絶セラレ

翌十二日午前四時頃
大風雨ト爲リ
晴雨計ハ漸次低降シ
暴風雨ノ襲來スヘキ徴候ナルニ由リ
錨鎖ノ注意ハ勿論
前ニ投シタル三錨ノ外
尚ホ片爪ノ大小錨二箇ヲ加ヘ
防禦ノ方法ヲ盡セシニ

同十三日夜半ニ至リ風位
東ニ變シ風雨彌々猛烈ヲ極メ

翌十四日午前二時頃
諸錨索ノ堪難キコトヲ思料シ
船橋ノ風除及兩檣ヲ切倒サント準備中
同二時半頃
左舷ノ錨鎖切レタルヲ以テ
直チニ船橋ノ風除竝ニ兩檣ヲ切捨テ
尋テ端艇二艘ヲ甲板ニ卸シ
本船破壊ニ至ラハ
兩艇ノ綱ヲ切リ使用スヘキ用意ヲ爲シ
又紅燈二箇ヲ旗竿ニ掲ケ陸地ノ注意ヲ促シ
防禦ニ盡力セシニ
同四時半頃
片爪錨ニ付シタル梭梠繩二筋同時ニ切レ
殘ル二錨ヲ曳キナカラ
船體ハ陸地ニ近寄リ
同五時半頃
字横濱沖ノ磯ニ撞觸シ
船底破損シ
海岸ノ砂地ニ打揚ケラレ遂ニ全船
悉ク破壊シタル旨
本人ヨリ陳述セリ

依テ乘組參考人ノ陳述竝
ニ海難取調調書等ヲ參照シ
判定スルコト左ノ如シ

船長山崎初太郎ハ
本船ノ螺旋翅破損セシニ由リ
佐賀港ニ回船シ同地碇泊中
暴風雨ニ遭ヒタルモノニシテ
當時風雨ノ激烈ナリシ
中央氣象臺ノ報告ニ依リ確實ナリ
右遭難ノ際
適當ノ所置ヲ施シ
職務上
過失ノ廉ナク本船ノ破壊ハ
全ク天災ニ起因シタルモノトス

右ノ理由ナルヲ以テ
船長山崎初太郎受有ノ第三則船長免狀ハ直ニ還付ス
    審問主任船舶司檢所司檢官  森本 弘策
    審問參坐船舶司檢所司檢官補 堀  禎吉
右ノ判定承認候條直ニ執行スヘシ
  明治二十七年一月六日  遞信大臣 伯爵黑田淸隆
 p2【官報 1894年01月15日】明治27年
〔画像〕p2【官報 1894年01月15日】明治27年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【官報 1894年03月07日】明治27年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治27年
   登簿船除籍數  p6/7
免狀番號  三八
船  名  國千保丸
信號符字  HBQK
登簿噸數  一二四
公稱馬力   一五
定繋場   土佐國 宿毛 大島
船主氏名  坂本 鼎
事  由  難破
 p6【官報 1894年03月07日】明治27年
〔画像〕p6【官報 1894年03月07日】明治27年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月07日 05:00
《船主・阪本 鼎:船名・國千保》[明治廿五年 船名錄]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《坂本 鼎》銃砲販賣兼甲種火藥類販賣業者【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】

《坂本 鼎》銃砲販賣兼甲種火藥類販賣業者
【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】

【大日本銃砲火薬商名鑑 : 附・営業法規. 大正3年4月現在】
図書 伊藤伊七 編 (川口屋林銃砲火薬店, 1914)  

大正三年四月現在  第壹版
大日本銃砲火藥商名鑑
  東京 川口屋林銃砲藥店藏版
【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p7
〔画像〕【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p7
高知縣 p54/176
  銃砲販賣 兼 甲種火藥類販賣業者
中岡 菊松  高知市本町筋四十五番屋敷
畑山源兵衞  高知市本町三十一番屋敷
竹村 三郎  高知縣幡多郡中村町二番屋敷
田岡久萬於  高知縣長岡郡大津村一番屋敷
松尾 造酒  高知縣香美郡山田町百九十四番屋敷
坂本  鼎  高知縣幡多郡宿毛區五十番屋敷
野町 儀助  高知縣安藝郡安藝町貳百三十五番屋敷
政岡壯太郎  高知縣幡多郡中村町二十四番邸
  甲種火藥類販賣業者
藤倉 忠吉  高知縣幡多郡中村町百四番屋敷
池知兵次郎  高知縣安藝郡田野村四百四十二番屋敷
【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p54
〔画像〕【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p54
大正三年八月廿五日印刷
大正三年八月廿八日發行
發行所 川口屋林銃砲火藥店
    東京市日本橋區本銀町二丁目十二番地
店 主 林  國藏
    東京市日本橋區本銀町二丁目十二番地
支配人 伊藤 伊七
編纂者 伊藤 伊七
發行者 兩角今朝治
印刷所 川口屋林銃砲店出版部印刷所
    東京市日本橋區本銀町二丁目七番地
印刷者 笠井 宗重
    東京市日本橋區本銀町二丁目七番地
【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p169
〔画像〕【大日本銃砲火薬商名鑑:大正3年4月現在】p169
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《小野 利遠》 小野 梓 明治19年(1886)1月11日 歿
《坂本 利遠》 坂本 鼎 明治24年(1891)1月26日入籍
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月07日
《船主・阪本 鼎:船名・國千保》[明治廿五年 船名錄]

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月03日
[除籍謄本]《戸主:松村仙造・島根縣簸川郡直江村》1/4
戸 主 松村仙造
    前戸主トノ續柄 亡 松村康重 二男
    出生 明治拾参年七月拾九日 ※1880年7月19日
    父  亡 松村康重 二男
    母  亡   トク
    戸主ト爲タル原因及年月日
    父康重死亡ニ因リ明治四拾四年壱月拾九日戸主トナル
    同年貮月拾八日届出 同日受附〔土江〕
妻   墨(スミ) ※小野一雄・雄二の実祖母
    出生 明治拾壹年拾月拾八日 ※1878年10月8日
    父  亡 小野梓 二女
    母  坂本利遠
    明治四拾年壹月貮拾参日
    高知縣幡多郡宿毛町五拾番屋敷
    坂本鼎 養女
    婚姻 届出 同日受附 入籍
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

阪本 鼎:神戸市山本通四丁目六七【土佐名鑑大全】明治42年

阪本 鼎:神戸市山本通四丁目六七【土佐名鑑大全】明治42年

【土佐名鑑大全】明治42年
阪本 鼎  p447/478
神戸市山本通四丁目六七

佐田家年  p447/478
臺灣銀行 支配人 法學士
神戸市中山手通六丁目四〇

坂本嘉治馬 p447/478
冨山房 社長
東京市神田區裏神保町九

酒井佐保  p447/478
第六高等學校長 理學士
岡山市門田屋敷六一

澤田牛麿  p447/478
法學士 韓國京城統監府警視

澤田一龜  p447/478
文學士 陸奥弘前中學東奥義塾

澤田龜良  p447/478
歩兵中尉
東京市牛込區 陸軍士官學校

澤田美穗  p447/478
早稲田 商學士
神戸市 三菱造船所 在勤
明治四十二年八月廿五日印刷
明治四十二年八月廿九日發行
定 價 金參圓
發行者 泉 恭次郎
    高知縣高岡郡須崎町中町一一一二番邸
編纂者 東村傳之助
    高知市弘岡町十七番地
編纂者 十万達吉
    高知縣高岡郡須崎町中町一一一二番邸
印刷所 矢尾弘文堂
    大阪市西區江戸堀上通二丁目
發行所 土佐名鑑編纂部
    高知市弘岡町十七番屋敷
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ