◆【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

楫野秀雄:保熱板製造【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

楫野秀雄:保熱板製造【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

【人材・島根:県人名鑑】
楫野秀雄 安濃 大田 p98/263
 運送倉庫兼貿易業
 神戸市西須磨上濱田町二〇ノ一
 (電話 須磨一六五)
明治十九年十二月四日を以て生る。
小學校を了へるや商業を以て身を立てんと欲し、
學理を習得すべく滋賀縣立商業學校に入學、
明治四十一年卒業、
實地研鑽の目的より大阪に出で
株式取引所 田附政次郎商店の人となり
商業の眞諦把握に努む
生來の並々ならぬ向學心は
この現狀に甘んじることを許さず、
勇躍 神戸高等商業學校に入學
勉學の日を送る所となり、
學究數年優秀の成績を以て卒業、
其間在學中に既に商業に身を投じ
三井物産の經營せる油工場を繼承し、
工場を改造して倉庫を建設、
海陸運送並に倉庫營業を開始し
卒業と共に愈々該事業に專心するに至れり。
更に第二段に飛躍として
楫野商事部を設け
三井三菱等の大會社と連絡を取りて
歐洲大戰中に獲得せる利潤は
眞に莫大を極むるに至れり。
斯くて實業界に占むる地歩は
鞏固不動のものとなり、
傍ら山陰道産業取締、
保熱板製造、  ※①
東洋運輸各重役を兼ねるに及んで
令名燦然斯界を照破するに至れり。
蓋し縣出身の實業界にして屈指の存在と云ふべし。
昭和十三年四月 五日印刷
昭和十三年四月十五日發行
人材・島根 定價 金 五圓也
編 者 島洋之助
發行者 永富彪夫
    東京市豐島區西巣鴨四ノ二九八
印刷者 山縣精一
    東京市神田區神保町三ノ二九
印刷所 山縣製本印刷株式會社
    東京市神田區神保町三ノ二九
發行所 島根文化社
    東京市神田區淡路町二ノ七
    電話 神田(25)二〇一〇 二〇一一番
    振替 東京七七二三〇番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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※① 保熱板製造
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
<保熱板製造株式会社>【日本全国諸会社役員録】
【日本全国諸会社役員録】[第27回]大正8年8月15日発行
<保熱板製造株式会社> p408/911
神戸市尻池菅原通1丁目
設 立 大正7年10月
資本金300,000円 一株50円 払込高75,000円
取締役(代表)  太田正射 大阪、西、江戸堀北五
取締役     安宅松次郎 東京、麻布、我善坊
取締役     松村仙造  武庫郡御影町
取締役     渡部謙一郎 武庫郡須磨町
監査役     楫野秀雄  神戸、東尻池
【日本全国諸会社役員録】[第28回]大正9年9月20日発行
<保熱板製造株式会社> p495/1153
神戸市尻池菅原通1丁目
電 話 本局3512
設 立   大正7年10月
資本金300,000円 一株50円 払込高75,000円
利益配当  前期年壱割
社 長   太田正躬  大阪府西成郡玉出町
専務取締役 松村仙造  武庫郡御影町
取締役   安宅松次郎 東京、麻布、我善坊
監査役   楫野秀雄  神戸、東尻池
営業部長  葛山利雄
出張所長  三井 信
技 師   田井源次郎
東京出張所 京橋区木挽町6丁目
電 話   銀座 自910 至913
大阪出張所 西区川口町
電 話   西 325 326 1064 1609
【日本全国諸会社役員録】[第29回]大正10年10月5日発行
<保熱板製造株式会社> p403/971
神戸市尻池菅原通1丁目
設 立   大正7年10月
資本金300,000円 一株50円 払込高75,000円
社 長   太田正躬    大阪府西成郡玉出町
専務取締役 松村仙造    武庫郡御影町
取締役   安宅松次郎   東京、麻布、我善坊
監査役   楫野秀雄    神戸、東尻池
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阿部四郎:伏見病院外科部長【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

阿部四郎:伏見病院外科部長【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

【人材・島根:県人名鑑】
阿部四郎 松江 殿町 p48/263
 醫學博士
 伏見病院 外科部長 ※①伏見病院
 京都市伏見區墨染輜重隊門前
 (電話 伏見五一六)
明治廿四年一月廿八日、
阿部庄兵衞の四男として、
松江市殿町に呱々の聲を揚ぐ。
明治四十二年、
縣立松江中學(二九期)を卒業し、
進んで京都府立醫專に學び、
同校卒業後、日本赤十字社大阪支部に勤務、
大正十五年 伏見病院に轉じて、 ※①伏見病院
只管臨床的經驗の蓄積に努め、
逐年豐富なる學殖を自家藥籠中のものと爲し、
傍ら京都府立醫大に於て研究を續け、
昭和二年 努力酬はれて
同大學より醫學博士の學位を授けらるゝに至る。
現に伏見病院外科部長の要職を占め、 ※①伏見病院
又 京都府立醫大講師を兼ねて
斯界の俊鋭として自他共に許す聲望あり。
圍碁、園藝、野球を趣味として
餘暇ある毎に親しみ、
多趣味を以て聞ゆ。
宗敎は眞宗なり。
(家庭)
妻  種子 明治四四年生
      京都府 松尾卯之助 二女
昭和十三年四月 五日印刷
昭和十三年四月十五日發行
人材・島根 定價 金 五圓也
編 者 島洋之助
發行者 永富彪夫
    東京市豐島區西巣鴨四ノ二九八
印刷者 山縣精一
    東京市神田區神保町三ノ二九
印刷所 山縣製本印刷株式會社
    東京市神田區神保町三ノ二九
發行所 島根文化社
    東京市神田區淡路町二ノ七
    電話 神田(25)二〇一〇 二〇一一番
    振替 東京七七二三〇番

【京都府立医学専門学校一覧. 明治44年】
[京都府立醫學專門學校一覽 明治四十四年]p1/130
第一學年 百二十二名 p75/130
阿部四郎  島根
阿部要四郎 島根

【京都府立医学専門学校一覧. 大正2年】
第三學年 九十三名 p75/131
阿部四郎  島根  p76/131
阿部要四郎 島根  p76/131

【京都府立医学専門学校一覧. 大正5年】
 大正四年六月 第三十八回卒業生 八十四名 p76/136
阿部四郎  北海道 p77/136
阿部要四郎 島根

【日本医籍録. 昭和13年版 附録、醫學博士録、法規】
阿部四郎 醫博 p675/1524
 伏見市 下大手 市立病院内 ※①伏見病院
外科 明治廿四年一月廿八日生
島根出身
大正四年 京都醫專卒業
登録三六六〇一號
卒業後 日赤大阪支部病院勤務
大正 七年 一月 辭任
大正 七年 二月 新潟縣中頸城郡立柿崎病院 外科醫長 就任
大正 七年 四月 辭任
大正 七年 五月 日赤大阪支部病院勤務
大正十二年 一月 辭任
大正十二年 二月 日赤醫務囑托
大正十三年十一月 二ケ年間醫學研究ノ爲 留學
大正十五年 十月 現市立病院 外科部長就任 ※①伏見病院
昭和 三年 二月 醫博ノ學位受領

【官報. 1937年06月26日】昭和12年
◎内務省告示 第四百三十四號 p5/34
 京都市伏見區村上町三百九十五番地
 財團法人 伏見病院 ※①伏見病院
 附屬産婆看護婦學校 産婆科
右産婆規則竝私立産婆學校産婆講習所
指定規則ニ依リ指定ス
 但シ此ノ指定ハ
 昭和十三年三月以後ノ卒業生ニ限リ
 效力ヲ有スルモノトス
 昭和十二年六月二十六日
   内務大臣 馬場䇦鍈一
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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※①伏見病院
京都市伏見区村上町395番地 財團法人 伏見病院
現:京都府庁健康福祉部保健環境研究所
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[京都府立医科大学]
HOME 大学概要 府立医大の歴史 略年表
昭和19年4月
京都市伏見区村上町 財団法人伏見病院を
附属女子専門部の附属病院として寄附を受けた
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足立捨次郎:京都刀圭界の耆宿【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

足立捨次郎:京都刀圭界の耆宿【人材・島根:県人名鑑】昭和13年

【人材・島根:県人名鑑】
足立捨次郎 能義 安來 p49/263
 正五位勳六等
 醫學博士
 京都市上京區押小路上ル
 (電話 上一一七八)
明治十年四月 櫻井榮壽郎の弟として安來に生る。
出生後、先代健三郎の養子と成り、
大正十四年家督を嗣ぐ。
明治三十年、松江中學(第十七期)を卒業し ※①
高等學校を經て      ※②
京都帝國大學醫科に進み、 ※③
明治三十七年優等の成績を以て卒業、 ※④
後同大學の助手となり、  ※⑤
次いで福岡醫大助敎授より ※⑥
新潟醫專敎授、      ※⑦
同付屬醫院産婦人科醫長を歷任して聲望を得。
是より先、明治四十三年、
獨逸に留學して斯學の研鑽を積んで歸朝。 ※⑦
大正四年醫學博士の學位を受く。
大正十年養父健三郎の後を承け、
足立病院長として現在に至る。
けだし京都刀圭界の耆宿たり。
明朗なる紳士にして、
産婦人科の專門學術に一身を捧げ、
斯學卽ち趣味なりと云ふ主義なり。
亦近畿に於ける縣人の大先輩として
後進の爲めに盡すところ大なり。
(家庭)
妻  ハル 明治二一年生
      養父健三郎養子の縣人三島庄兵衞 長女
養子 興一 大正四年生 養父 健三郎 男
女  花子 明治四二年生
女  操  明治四三年生
養妹 アヤ 明治四二年生
養妹 フミ 明治四五年生
其母 あい 明治一二年生 鳥取縣 橋田雅人 養母
昭和十三年四月 五日印刷
昭和十三年四月十五日發行
人材・島根 定價 金 五圓也
編 者 島洋之助
發行者 永富彪夫
    東京市豐島區西巣鴨四ノ二九八
印刷者 山縣精一
    東京市神田區神保町三ノ二九
印刷所 山縣製本印刷株式會社
    東京市神田區神保町三ノ二九
發行所 島根文化社
    東京市神田區淡路町二ノ七
    電話 神田(25)二〇一〇 二〇一一番
    振替 東京七七二三〇番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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※①明治三十年、松江中學(第十七期)を卒業し
[弧舟さんの四季]
2009-04-08
卒業諸氏の動静の7
(明治)30年5月 38名
 京都医科大学生  中村 了
 京都医科大学生  足立捨次郎
 ―略―
※②高等學校を經て
[弧舟さんの四季]
2008-12-20
金沢高等学校の5
序ながら当地方にある島根県第一尋常中学校関係者御報道申上候、
尤も各人の宿処は先に西村君より御通知ありたる筈なれば
そは子茲に略す
高等学校在学中のもの、
文科 喜多川實
法科 福間千市 西村清之助 中村了
工科 篠原甚市 青戸義一 石原虎太郎 桑原郁三(休学中)
医科 足立捨次郎 舟木重次郎(志願中)
【第四高等学校一覧. 明治30-32年】
 第三部 第一年 醫科 三十八人 p68/207
足立捨次郎 島根 平民
【第四高等学校一覧. 明治34-36年】
 明治三十三年七月卒業 p156/183
 第三部 醫科     p157/183
在京醫 足立捨次郎 島根 平
※③京都帝國大學醫科に進み
【京都帝国大学一覧. 従明治33年至明治34年】
 第三 醫科大學學生及生徒 p84/104
 醫學科
明治三十三年入學
足立捨次郎 島根 p85/104
※④明治三十七年優等の成績を以て卒業
【京都帝国大学一覧. 明治37-38年】
 醫學士 醫學科 p49/163
明治三十七年十一月卒業
足立捨次郎
※⑤後 同大學の助手となり
【京都帝国大学一覧. 明治38-39年】
第四 福岡醫科大學職員  p12/175
◎附屬醫院
助手 醫學士 足立捨次郎 p14/175
※⑥福岡醫大助敎授
【京都帝国大学一覧. 明治41-42年】
 福岡醫科大學職員  p41/236
 婦人科學産科學敎室 p43/236
婦人科學産科學講座擔任
 助敎授 醫學士 足立捨次郎 島根
 助手  醫學士 大坪武之助 島根
※⑦新潟醫專敎授
【新潟医学専門学校一覧. 明治43,44年度】
[新潟醫學專門學校一覽] p1/219
 自明治四十三年四月 至明治四十四年十二月
◎職員
 敎授 p86/219
産科學婦人科學(留學中)
    從七位 醫學士 足立捨次郎 島根 平民
 講師及授業囑託
産科學婦人科學 醫學士 大坪武之助 島根 平民
[新潟醫學專門學校一覽] p107/219
 自明治四十四年 至明治四十五年
◎職員
 敎授 p195/219
産科學婦人科學(留學中)
    從七位 醫學士 足立捨次郎 島根 平民
 講師及授業囑託
産科學婦人科學 醫學士 大坪武之助 島根 平民
【新潟医学専門学校一覧. 自大正元至2年】
◎職員
 敎授 p83/102
産科學婦人科學(留學中)
    從七位 醫學士 足立捨次郎 島根 平民
 講師及授業囑託 p84/102
産科學婦人科學 醫學士 大坪武之助 島根 平民
【新潟医学専門学校一覧. 自大正2至3年】
産科學婦人科學  p82/100
    正七位 醫學士 足立捨次郎 島根 平民
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[Adachi Hospital]
◎1902年 足立病院が現在地(京都中京区)に創設
足立病院の目指すもの
足立病院の歩み
◎歴代院長
初代院長 足立健三郎
時代(明治35年~大正10年)
明治35年に、民間の産婦人科病院の必要性を感じた政府の補助を受け、
足立病院を現在地に創設。
敷地約1300mの土地に木造2階2棟の建築物を完成。
第2代目院長 足立捨次郎
時代(大正10年~昭和10年)
大正10年に父の跡を継ぎ2代目に就任。
時代は第1次世界大戦後の繁栄にかげりが生じ、
昭和10年に大陸で事変が勃発するといった状況で、
病院そのものに影響が出始め満足のいく医療生活が送れませんでした。
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