小野梓君碑:中村正直譔

(29)中村敬宇先生 (30)一日福澤諭吉と語る【大倉物語】矢野政二著 昭和3年

(29)中村敬宇先生 (30)一日福澤諭吉と語る
【大倉物語】矢野政二著 昭和3年

【大倉物語】昭和3年
 大倉喜八郎之肖像      p8/141
   二十九 中村敬宇先生  p66-67/141
一日の事であつた、彼は我等に
 「かういふ話がある」
  かく言つて、岸田吟香といふ人の事を少しく語つてさて後、
 「岸田が來て、君が自力自我で奮闘してをる事は、
 どうも中村の此間書いた西國立志篇の中にある事と
 符節を合はする樣によく似てをるから、
 此間君の話を中村にすると、
 中村は手を拍つて、それこそ眞の知己、さういふ人に、
 一度會つて見たいとかういつてをるが、
 如何だ、君會ふか、」
 「それは、此方でも、望む所だ、いつでも會はう、」
  乃ち、彼等三人は一夕、
 彼が向島の別莊で會飲したのであつたが、
 此時又大倉は、折柄席に在つた白檀火爐を、
 同先生に贈つたといはれてをる。
 而して、これに關し、中村先生の返禮詩の中に
  一編洋籍邦語描。英雄立志見風標。洛陽貴傳喧囂。
  頻見處處芸良苗。大倉巨商名高翅-謂昔時意氣消。
  賴子立志凌雲霄。

   三十 一日福澤諭吉と語る  p67-68/141
彼又一日我等に、
福澤、中村兩先生の事を比較的に語つて、
さて曰く
 「一日三田の先生、福澤諭吉と逢つて、
 書物を書くといふ話になつて、
 アナタの書いたものは能く賣れるが、
 中村先生の物は如何も賣れないが、
 如何いふ譯でせう」
かくいふと、先生いつもの其冷たい皮肉で
 「それは、當然だ」
 「如何いふ譯で」
 「中村は、正直者だから、自分を讀者本人の氣で書くから、
  普通のものには、むづかしくて解らない。
  それで賣れない」
 「成る程」
 「自分のは人に讀ませるとは思つては書かぬ、
  人間ではなく猿に讀ませると思つて書く。
  それで面白いから賣れる」
かういふのであつたが、
書物の販れる販れないといふは、
かういふところからくることも多からう」 p68/141
昭和三年十二月十八日印刷 大倉物語奥付
昭和三年十二月二十日發行 定價金壹圓
著作兼 矢野 政二
發行者 東京府下中野町百九十番地
印刷者 岩村 方福
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
印刷所 東京國文社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
發行所 時事評論社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
    電話銀座四一二八
    振替口座東京二九一五五
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月31日
《酒井南嶺君墓表:中村敬宇・明治17年4月》
『小野梓全集 第五巻』昭和57年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年06月01日
[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」
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[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」

[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」

従五位 小野梓君碑
    元老院議官従四位 中村正直譔

君諱を梓といい 小野を氏となす  諱=死者の本名
二月廿日 嘉永壬子(五年) ※1852年3月10日
土佐宿毛の里に生まる 
節吉これ考  考=亡父
助野これ妣  妣=亡母

幼時軟弱にして 就学怠り多し 
十三才に迨び 翻然として慙悔す
酒井南嶺の塾を望美という 
詩文を目課とし 経を研め史を讎す

日新館に遷るや 学進み人駭く 
第一の書生となり 高楼机に憑る

固く従軍を請う 
戊辰(明治元年)の載 ※1868年
越後に至るに及びて 
賊徒罪に伏す

岩村通俊 君を愛すること無比 
携えて京洛に遊び 
心耳を開達す   心耳を開達=世事に眼をひらく
一日扇を以て 君のほほを撃つ 
汝節吉の子 豚犬を恨むのみ
恩人の一言 深く骨髄に徹す 
自ら事業を期して 成らざれば止まず
誓って女色を避け 曾て浼されず 
真正の英雄 力を用いるは此に在り

鴻鵠の志有り   鴻鵠=大きな
燕雀の詆に任す  燕雀=小人物
士格を解き去り 欧米に航す
小野義真 資給して助け済う 
専ら法律を学び 深く根底を究む

明治丙子(九年)  文字訂正(甲戌⇒丙子) ※1876年
君始めて出仕 
司法太政と 次第にうつる  文字訂正(大政⇒太政)
十三年に迨び 官革政を行ない 
会計検査院始めて置かる
一等検査となり 
君僚衆に先んず 夙夜懈らず  夙夜=朝早くから夜おそくまで
剛直自ら矢うも
その志行われず 力めて職解を請う 
立憲改進党将に 企 発るや
君其間に在りて 拮据整理  拮据=忙しく働く
一時にこれ盛え 彰に遠邇に聞ゆ

専門学校にては 子弟を教育し ※現:早稲田大学
君議員となり 言肯綮に中る  肯繁に中る=要点をつく

暇余書を著し 燭を以て晷を継ぐ 
「国憲汎論」弁ずること江海の如く  江海=豊かに満つるさま
「民法之骨」筆に光彩あり 
不朽の業 期待に負かず

甲申(明治十七年)九月 血を咯て病起り ※1884年9月
丙戊(明治十九年)一月 危殆に逼る   ※1886年1月11日
十有一日 溘然として死す  濫然=にわかに
願入院東洋居士と謚す

僅に三十五 年歯を永らえずとも 
其の所為を顧るに 載紀すべきこと多し

学を為しては博く通じ 漢洋を具に躰す
 官に在りては 
剛正にして柔靡を肯わず  柔靡を肯わず=妥協をゆるさぬ

政治家となりては 能く国是を審かにし 
盛年之を備う 英偉と称すべし

君良友多し 
吾が鄙をいわず 辞を合せて銘を請う 
我豈己むべけんや

明治二十年丁亥五月 ※1887年5月
 従三位勲一等伯爵 大隈重信篆額
 大内青巒書  宮亀年刻
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[小野梓没後百年 案内碑の設置を記念し
 早稲田大学作製 清宝寺に納む
 昭和61年10月19日]
表紙拓刷は彩雲堂版による
印刷・シンソー印刷
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[小野梓君碑]「読み下し文」
〔画像〕[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」
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※原本:振り仮名(ふりがな)あり
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
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[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」

[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」

[小野梓君碑]表題
〔画像〕[小野梓君碑]表題

[小野梓君碑]
從五位 小野梓君碑 元老院議官從四位 中村正直譔
[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
〔画像〕[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
明治二十年丁亥五月
 從三位勳一等伯爵 大隈重信篆額 大内靑巒書 宮龜年刻
●「小野梓君碑」は 高知県宿毛市内
 法林山 清宝寺の境内にございます
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[清宝寺]
本堂は小野義真が建立し、境内には小野梓君碑が建つ。
住所 高知県宿毛市中央1丁目1−24
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【敬宇文集. 巻6】明治36年
[小野梓君墓銘] p4-5/66
明治三十六年四月二十日印刷
明治三十六年四月三十日發行
著 者 故 中村敬宇
相續者   中村正修 ※下記
發行兼   吉川半七
印刷者   東京市京橋區南傳馬町一丁目十二番地
印刷所   吉川印刷工場
      東京市京橋區柳町五番地
發行所   吉川弘文館
      東京市京橋區南傳馬町一丁目十二番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ふみくら 早稲田大学図書館報No.06(1985.10.25)p.17
 新収資料紹介
中村敬宇(正直)書・小野梓碑銘稿
  付・前島密宛中村敬宇書簡(二通)
  1軸(前島密旧蔵)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《中村正修:養父 中村正直》
【人事興信録. 初版(明36.4刊)】
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[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」
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