随想集『乃き志のぶ』杉村 伸

[江田三郎君の一面]随想集『乃き志のぶ』杉村 伸:平成元年

[江田三郎君の一面]随想集『乃き志のぶ』杉村 伸:平成元年

 [江田三郎君の一面] p130-135

 社会党がどう進んだらよいか、 p130
階級政党として未来の社会を考えて、
もっと突き進めるべきか、
国民政党として時代と共に生きながら、
現実に大衆の生活を豊かにしていくか。
後者のリーダーが江田君である。
その江田君は、神戸高商で私の数年後輩である。
岡山商業から、当時、
関西では三高へ入学するより難しかった神戸高商に、
悠悠と入学した秀才であった。

 同じ高商の入学者でも、中学から入学するのと、
商業学校から入学するのでは、後者のほうがはるかに難しかった。
中学では大体進学を考えて、四年生、五年生では生徒も先生も、
その線に沿って勉強をするが、
商業学校は卒業すれば実社会ですぐ働くことを目標とするから、
進学は考えられない。
すなわち受験準備は殆どなされない。
希望者は自分一人で特別の努力をしなければならなかった。

 そんな条件の中で、専門学校へ進もうとするものは、 p131
よほど優れた青年であった。

 当時、神戸高商では、中学よりの入学者を予科一部、
商業よりを予科二部と分け、
一年間に一部の学生は商業学校上級課程を、
二部の学生は中学上級課程を修め、
その上で共々に本科三年間の高等商業課目を研修させたのである。

 本学生の優秀な人物は商業学校出身者に多かった。
また学校に残り教授となった人達にも、
商業学校出身者がおおかった。

 私の前後でも学長になった小林喜楽君や ※古林喜楽
金融論の権威者新庄博君もそうであった。

 そして江田君も優秀な一人であった。

 冷静な理性の上に激しい情熱を持った江田君は、
当時最も悲惨な国民層であった農民のために、
農民組合運動に投じた。

 今日、日本の経済を語るとき、
「農協」の強力な経済力を大きく意識しなければならぬ。
流通革命の寵児「スーパー」の発展は
「農協」との取り引きによる生産者から
消費者との直結によることが多い。

 観光事業の最大の顧客は、
農協を通じての農村のおじさん、おばさんである。
すでに外国でも日本のNOKYOは知られてきた。 p132
農繁期を除けば、万博などでも、
最も目に付くのは農協のタスキや大きなリボンをつけた団体である。

 しかし戦前の農民生活はひどかった。
 二・二六事件はじめ、当時の改革運動が行われたのは、
徴兵で集まった兵士の家庭事情を知った、
純真な若手将校の憤激からであった。
思えば感無量である。

 江田君は経理の才にも富んでいた。
彼が農民運動で信望を得ていた大きなものは、
その純潔と経理を確実にしていたことである。
社会運動家の多くは、維新の志士達以来そうであったように、
この二点においてルーズであった。

 しかし当時の社会は、この清純な農民運動家をも許さなかった。
彼は、当時為政者の意志に反する
すべての社会運動家を弾圧する治安維持法により捕らえられ、
社会復帰しても、働く道を閉ざされた。

 この彼を最も知るものが、彼の同郷の実業家で、
大阪、神戸において三品で活躍していた畦平孫市氏であった。
奇しくも一燈園の光友として、私と交誼を深くすることとなった。

 畦平氏は当時すでに、 p133
目を自動車業界に向け、日産の代理店を開いていた。

 江田君のために何か仕事を起こそうと、
花隈のお茶屋で飲みながら語り合ったとき、
たまたま、自動車のハイヤーを兼業していた
葬儀屋の井奥千代松氏から、
葬儀業界の刷新の意見があり、
神戸で神職として神葬祭を多く奉仕していた私も、
葬儀の都度、
葬儀屋の在り方について遺憾に思っていたこととて、
葬儀社の設立に賛成したのであった。

 経営を成り立たせながら世の中に奉仕するという、
楽しい生活の在り方を考えられたのが、
一燈園の天香さんの「宣光社」の在り方である。
生きた社会での下座の行こそ最も徹底した修業であるとして、
便所掃除という在り方を示されたのが天香さんである。
当時、低い職業と考えられてきた葬儀屋こそ、
残された下座行の宣光社であった。

 葬儀屋の実務の適任者は、
正しい経理の上に立って農民運動を進めてきた江田君であった。
資本金を十万円として全額払込み、
花隈下の国鉄の高架下五枠を買取り、
公詢社と称し開業した。
私も一万円出して株主となり、重役となった。

 一、人生の不幸につけ込んで暴利をむさぼらぬこと。
 一、従業員の訓練を励行して、 p134
   人生の最終であり、最高の儀礼に奉仕する心掛けと
   態度を養成すること。
を目標として、
重役以下、全社員従業員揃いの制服で、
毎日七時に出勤、礼堂で一燈園の行事による礼拝の後、
街頭の清掃を行い業務を始めた。

 一燈園から天香さんが、わざわざ来神され、
公詢社こそは「火中に蓮花を生ずる」(維摩経の一句)
ものと推奨された。

 私の中学の級友で、この計画に、
共に賛同された伊藤光信君の永福寺の観音堂に、
江田君は、共に苦労してきた奥さんと寝起きしながら、
この葬儀会社「公詢社」の取締役兼営業部長として活躍し、
大いに業績を上げた。

 永福寺は、神戸事件の責任者滝善三郎の切腹の場所として有名。
畦平氏は滝氏の仕えた備前金川藩の出身であったことも奇縁である。

 この当時としては特異な葬儀会社の出現は、
神戸の人々を驚かせたものである。

 その後、公詢社にも内部的に色々と問題があり、
また戦局の発展に伴い、
江田君は遂に北支の治安宣撫の仕事を命ぜられて、
一年にして去らねばならなくなった。

 戦後、彼が一躍政界の花形となったとき、 p135
機会ある度に彼が語る半世の生活の中で
「一番心に楽しかったのは神戸で葬儀屋をやったことであり、
 特に貧しい人の葬儀に心から奉仕して、
 涙流して喜ばれたのが今だに印象が深い」
と語っている。

 昭和十七年、大政翼賛会から推されて、
私が市会議員に立候補した時、
江田君は事務長を引受けてくれた。
そのおかけで最高点て当選したのであった。
(江田三郎と公詢社については
 私が詳しく記しています)

  第六章 生い立ち p159-178
 [生い立ち] 杉村 伸(ノブ) p161
  {シンと通称するようになったのは、
   戦前市会議員立候補の時覚え易いので
   「シン」とフリガナしてから通称となった}
 ―略―
 十七年、翼賛選挙で神戸市会議員に推薦され、 p169
辞退したのだが聞き入れられず、立候補した。
神戸市で最高点て当選したのには我ながら驚いた。

 尤も選挙事務長は江田三郎氏に頼んだ。
当時、神戸で逆境で暮らしていた彼は、
神戸高商の後輩であって特に親しくしていたのであった。

 応援弁士は神戸大学の先輩、同輩の教授連で、
まるで国会議員並の選挙だと評された。
江田三郎氏については、治安維持法にふれ、
失業して困っていた彼のために、
友人と相談して作ったのが公詢社という新葬儀会社だった。
これは彼のその後の思い出の中の一番懐かしいものだったそうだ。
令息の五月君はそのとき生まれた。※江田五月
産衣は私の伜のものを譲った。
 ―略―

 [あとがき] p179-181
 著者杉村伸さんは、明治三十七年三月生まれである。
八十五歳になるが、今もかくしゃくとしている。
 ―略―
 平成元年八月  編集者一同
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〔奥付〕
杉村伸随想集 のきしのぶ
平成元年十月一日発行
著者 杉村 伸
   兵庫県神戸市中央区熊内町九の二の一八
   電話 〇七八(二二一)四四一九
   〒六五一
製作 講談社出版サービスセンター
   東京都文京区音羽一の二の二
   電話 〇三(九四一)五五七二
   〒一一二
印刷 信毎書籍印刷株式会社
製本 株式会社 松栄堂
©Shin Sugimura 1989 Printed in japan
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
松村一造(伯父)の蔵書より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[のきしのぶ]随想集『乃き志のぶ』杉村 伸:平成元年

[のきしのぶ]随想集『乃き志のぶ』杉村 伸:平成元年
1-のきしのぶ-表紙

[のきしのぶ]] p1-4
 落語に――
熊さんが、縁あって京都の公卿さんのお嬢さんを、お嫁にもらった。
三つ指ついての礼儀正しい挨拶から、何から何まで面食らうことばかり。
その中で、
「おい、今夜のおかずは何だ」と聞くと、
「はい、ややととにござります」というので見ると、
いりじやこが三四尾のっていた。
「オイ、今朝のおかずは」と聞くと、
「はい、のきしのぶにござります」というので見ると、
たくあん漬けの押しにした大根の菜っ葉であって、
びっくりする――
という話がある。

 これは、幕末時代の江戸下町の庶民は、裏長屋に住んで、
着るものは仕事着のはんてんと、
寒くてもゆかた一枚位しか持たなくても、
食うものは、生きの良い魚河岸からの鯛の刺身を食っていたのに、
京都の公卿は、気位のみ高く、
起居動作も典礼があり見栄をはるが、 p2
食事の方はまことに粗末であったことを、
落語で笑い話にしたものであった。

 山に囲まれ平野に乏しく、海に遠い京都では、食物は乏しかった。
それを色々に工夫したのが、あの風味豊かな京料理である。
したがって同じ干物でも、京都で味わう干物はうまい。
若狭がれいでも京都のものは塩加減といい、やおらかさといい、
なんとも言えぬ味があるが、
それが神戸へ来ると塩からく味が落ちてしまう。
戦前、京都駅前の丸物百貨店に、
親戚の『アトベ』が神戸から店を出していたので、
いつも買って来て貰ったものである。

 それで、江戸では煮だしに使ういりじゃこを、
京都ではお膳の魚に用いるのであるが、仲々おいしいものである。
小さいので幼魚として、
京の公卿言葉で「ややとと」と申したのである。
ややとは幼児ということである。

 一方、「のきしのぶ」というのは、
「たくあん」を漬ける時に上と下に敷いたり、
かぶせたりする干した大根の葉のことである。
普通、これは捨ててしまうものである。
ところが、これを水洗いして塩気をとり、
若干の味の素に「うす口」の醤油をかけたのを、
暖かいご飯、 p3
―それもなるべく「こしひかり」がよく合うようだ―
の上にのせて食べると、これほどうまいものはない。
ことに前夜、
宴会などで味のきつい料理で飲み食いしてきた翌朝には、
これ程さわやかな食事はないであろうと思われる。

 私がこれを知ったのは、
結婚した五十年前、
私の家内の生家である
京都府船井郡高原村下山という
丹波丹後の国境の雪の多い山地の旧家でのことであった。

 両国への分水嶺で、
水は北へ流れては由良川として日本海に入り、
南へ流れては保津川として嵐山の名流となる。
一村、本家を中心にした同姓の村での代々の豪族であった。
そこで初めてこの味を知った。

 落語を聞いたのが先か、里で食べたのが先か、
五十年後の今日、記憶にないが、
田舎ではもちろん、
牛か豚かの食料にでもしていたであろう
この大根の葉っぱが、
神戸のハイカラなお兄さんからの宣伝で次第に評判になり、
今では村のかいわいで、食べもしないのに、
「神戸のお兄さん」の「のきしのぶ」と、
持てはやされるようになった。

 漬物の好きな私は、
町内の懇意な漬物屋さんにも時々この落語を聞かせて、
これを頼むのであるが、 p4
なかなか思わしいものが手に入らぬ。
もっとも市販の漬物では、
あの自然な味が出て来ないのでもある。

 最近、末娘の相手が越後生まれで、
生家が農家であるので、
正月前になると、
母堂の心のこもった漬物とともに
「のきしのぶ」が送られてくる。
相当に塩がきいているので、塩抜きをして戴くと、
昔の自然の懐かしい風味が出てくる。

 よく考えて見ると、葉っぱは本来、葉緑素を含んでいる。
これが糠でしっかり漬けられ糠を吸収する。
白米は、一字にすると粕であり、糠は健康な米である。
そしてこれを晩秋の強い日光で干すから、
紫外線をたっぷり吸収する。
こう考えてくると「のきしのぶ」は、
決して枯れた葉っぱではなく、
大した健康食であるとも思われる。

 大正の初め、母校神戸二中で、
沢庵漬亡国論を説いた博士先生に、
「日の丸弁当」の日本兵が勝ちましたよと
反論したことを思い出した。
「のきしのぶ」礼賛の弁仍如件。
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〔奥付〕
杉村伸随想集 のきしのぶ
平成元年十月一日発行
著者 杉村 伸
   兵庫県神戸市中央区熊内町九の二の一八
   電話 〇七八(二二一)四四一九
   〒六五一
製作 講談社出版サービスセンター
   東京都文京区音羽一の二の二
   電話 〇三(九四一)五五七二
   〒一一二
印刷 信毎書籍印刷株式会社
製本 株式会社 松栄堂
©Shin Sugimura 1989 Printed in japan
2-のきしのぶ-奥付
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松村一造(伯父)の蔵書より
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