坂本恭啓(公文牛松:坂本牛松)

《兵頭直明》国際観光会館常務、ホテル東園支配人【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】昭和36年(1961)

《兵頭直明》国際観光会館常務、ホテル東園支配人
【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】昭和36年(1961)

【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】昭和36年(1961)
出版者   日本ホテル協会
出版年月日 1961-09
   業界人 消息  p24/26
兵頭 直明氏(元箱根ホテル支配人)
株式会社国際観光会館 常務取締役、
ホテル東園支配人として活動中、
京都市東山区下河原町四六三の九
(電話(6)三六五四)居住
p24-1【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】
〔画像〕p24-1【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】

[HOTEL REVIEW]
九月号(第百三十七号)
昭和三十六年九月 十日印刷
昭和三十六年九月十五日発行
  頒布実費 五十円(送料十円)
  東京都千代田区丸ノ内一ノ一
   交通公社ビル内
    日本ホテル協会
編輯兼発行人 河西静夫
  東京都千代田区丸ノ内一ノ一
   交通公社ビル内
発行所 社団法人 日本ホテル協会
 電話 東京(211)四八三七番 一五二九番
 振替口座 東京参〇五七弐番
印刷所 東京都文京区雑司谷町六四
    福音印刷株式会社
p24-2【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】
〔画像〕p24-2【Hotel review = ホテルレビュー 12(137)】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2630195/1/24
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《坂本恭啓》京都国際観光会館【京都年鑑 1963年版】昭和37年(1962)

《坂本恭啓》京都国際観光会館【京都年鑑 1963年版】昭和37年(1962)

【京都年鑑 1963年版】昭和37年(1962)
 著者    夕刊京都新聞社 編
 出版者   夕刊京都新聞社
 出版年月日 1962
株式会社 京都国際観光会館  p316/477
[所]東山区清水五丁目
[電](56)七一九一~五
[設]昭和三十二年三月
[資]一億一千九百五十万円
[営]ホテル飲食喫茶店・理容院・
  娯楽運動施設・駐車場経営、
  美術・工芸品・国内重要物産紹介展示・販売、
  観光向刊行物発行
[役](会)坂本恭啓  (社)吉田逸郎  (副社)大川正雄
  (常)向井健次郎 (常)兵頭直明=支配人※別稿に記載
  (取)押鴨丈夫
[幹](課)鳥越 浩=営業、吉川和夫=経理、
    横山 猛=食堂、田口芳雄(課代理)
[銀]三和、勧銀、第一、富士、住友、東洋信託、大和
[決]三月・九月
[従]六四名
p316【京都年鑑 1963年版】
〔画像〕p316【京都年鑑 1963年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2987515/1/316
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《坂本恭啓》ホテル東園は日通の手に【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)

《坂本恭啓》ホテル東園は日通の手に
【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)

【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
 出版者   交通出版社
 出版年月日 1962-07
  近畿管見
 ホテル東園は日通の手に  p21-22/51
  ―社長追出しから社長製造の工程—
▼建物の一寸見は豪華な感じ
食堂でウエートレスが差出すメニューを開いてみると、
なる程値段は一流並、
これで従業員の客扱サービスも至れりつくせりなら、
良いところだと大いに宣伝もしたいところ。
実は左に非ずと書かねばならないのが気毒でもある。
うちは一流並だから―と、
ボーイもウエートレスも、
それでツンと澄ましているのなら、
も一度出直して来いと言いたい。
兎に角、『値は一流サービス二流』と
悪口を言われたらサービス稼業はお仕舞だ。
残念ながらホテル東園がそういうことになりかねない。
 読者先刻御承知の通り、
日通が胸ふくらませて観光事業に手を染めてから
何番目かに投資したのがこの東園。
良い儲け口だと飛びついて一億円以上の金を注ぎ込んだ、
夫れは株式発行総数の五五%に当るそうだが、
どうも会社内部がごたごたしていて
夫れが商売をお留守にさせているとの噂も聞く。
▼尤も開業して未だ半年やそこらで
日通本社がお望み通りの黒字が出ないのは当然だし、
ホテル稼業に素人ばかりの日通派遣重役に、
これを叱るのは酷である。
何とか経営がよくなるように―と暗中模索の形で、
時にもたつきが見えるのも無理からぬところだ―と
同情的に言う人もある。
人の和があれば素人は素人なりのサービスの良さもある、
それが出て来ないのは
矢張り重役間の和が欠けているからだろう。
それは坂本恭啓という、
これまでに日通とは何ら縁故もない人が社長で、
その事業家らしい筋の濃いワンマン振りが、
日通の如き序列と役職、
先任後任の明瞭りした枠内で育つたものと、
うまく調和がとれないのも当り前のこと。
だから日通派が坂本社長に手を焼いて
商売そつちのけにして
善後策ばかり考え込んで、
何とか社長を追出し経営を日通の手に収めたいと
気をもんでいる恰好に見える。
 もともと日通の狙いはそこにある。
副社長に朝鮮帰りの筋金一本通した大川正雄と
常務として経理に明るい向井健次郎を入れている。
対手がごねれば此方も考えがあるぞ―と
押す度胸充分な駒の進め方だ。
然し坂本社長にしてみれば、
元はこの土地で電機器具の工場をやつていた、
戦後それが思わしく行かないので
観光京都で成功を夢見てホテル建設を思い立ち、
財産を注ぎ込んで建設にかゝつたのが五年前、
だが資金的に行き詰り、
八方資本家を物色していたところ
旧友で日東金属鉱山の社長たる松本万里氏が、
日通に話してやろうと持込んだわけ、
松本氏は藤山愛一郎氏の系列下にあり、
元日通にも居たことがあるという人。
これで日通との話ができて昨年一月着工、
十二月に竣工して
本年一月下旬に開業した東園である。
※昭和37年(1962)1月下旬

坂本恭啓社長 小野又一[東園] 昭和37年1月下旬
坂本恭啓社長 小野又一[東園] 昭和37年1月下旬

松村一造 小野又一[東園] 昭和37年1月下旬
松村一造 小野又一[東園] 昭和37年1月下旬

松村一造 正子[東園] 昭和37年1月下旬
松村一造 正子[東園] 昭和37年1月下旬

▼日通と松本氏との話合いがどうなつていたか、
坂本氏と松本氏との話が
どういうことになつていたかは知る由もない。
一方は、金を出したから経営をまかせろ―という気だし、
一方は、金を出して貰つたが経営は飽く迄
此方がやるのだ―と言う気だろう。
 斯うなると話も追々きたなくなつてくる、
ホテルの什器類が世間の相場より帳簿価格が高いとか、
おんぼろ外車のライトバンを、
社長の紹介で高買したとか、
等々そうした声が表面に現れてくるのも
内容がしつくり行かないからだ。
こんな話は開業を前に昨年のクリスマスパーテイの時に、
既に日通人がレセプシヨンホールで
囁き合つていたのを耳にしたものだ。
 投資したからには経営を
自己の手に掌握しようとするのは資本家の常である、
その点日通も例外ではないが、
日通はえてして焦り気味で、
会社乗取り手段は下手糞だ。
 某電鉄の如きは、
あの会社を、あの事業を―
目ツこを入れたら先づ系列会社の名で融資にかゝる、
更に金を欲しがれば気前よく出してやる、
この時から役員を派遣して経理だけは見るようにする、
そして一年二年はぢつと様子を視ていて、
ぢわぢわ会社内部に足を入れ、手を入れして
実権を奪うような戦法である。
あせらず、騒がず、ものにして仕舞うところ、
あざやかなものだと感心させられる。
然し日通は焦り気味で事をかゝるから
手口を見すかされ、時に逃げられもする。
その実例は又後ほど別項にゆづるとしておく。
▼さて坂本社長に東園から手を退いて貰おうという
重役会が五月下旬に開かれることになつた、
そして後任社長には大阪トヨペツトの専務吉田逸郎という
異色ある人物を据える用意もして、
坂本社長が非常勤の取締役会長になることを承知すれば、
その席で吉田新社長の就任挨拶ができるようにと、
吉田はその日京都支店で待機していた。
然しこの日、
取締役会長の松本万里氏が出席しなかつたので流会となり、
改めて六月に入つて役員会が開かれ、
遂に坂本社長の退陣が決定、
会長は依然松本氏。
社長に吉田逸郎も予定通り決定。
またおまけに日通関西地方駐在専務
保志平内氏も取締役に入つたとか。
 さて坂本社長を追放するかのような仕打が
妥当であるか何うかは茲には述べない。
日通としては最初から目論見ていたことが、
算盤通りにいつたと一
p21【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
〔画像〕p21【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3555001/1/21

応万歳ものである。
 だが、重役の人事である、
副社長の大川正雄は本社で総務部長、
秘書役を経て中部地方事務所長で定年、
引つづき常勤参与で現職に在つたが、
東園の開業を前にして入つた、
また向井健次郎常務は地方監査部長、
総括主管支店次長などして
大阪では近来の名総務担当次長と讃えられ、
東園入りで惜しまれた人物。
その上へ今度は吉田逸郎を社長に据えたのである、
吉田は大阪では堺、淀川支店長から
総括主管店次長、奈良主管支店長を経て
この春の人事異動で大阪トヨペツトへ転出、
まだ三月にもならない。
 人目には栄転のように見えるが
本人は余り気乗りがしないようだ。
吉田は運送屋の子
(旧高田倉庫運送、大和通運社長吉田辰蔵氏の長男)で
中学を卒業すると名古屋の牧野運送で見習奉公を二年、
仕事を身につけて帰郷し、
家業に携つたという生れつきの運送営業マンである。
▼なるほど吉田は商売人だ、
対手次第で腰も低くする、
ものゝ言い方は上の人に対しては実に上手である、
だが、黒いタキシードを着て蝶ネクタイをむすび
『いらつしやいませ』とお辞儀をする
ホテルのマネーヂヤーには、ちと何うかと思う。
東園が素人揃いのサービスを売物にしてゆくのなら、
これも又異色あつてよかろう。
 東山の一角にそびえ立つ東園、
この半年間は灰色のそれも沈んだ色で映えなかつた。
だが内部のごたごたも漸くおさまりついたのは結構である。
蛇足を加えるが―これで吉田逸郎という、
凡そ場違いの人物を社長に御指定したのが、
福島敏行社長だというのだから
又何かそこに魂胆があるのだろう。
思いつき、出たら目、場当り主義、
無定見、出たとこ勝負、
この何づれもが当るような世にも不思議な人事である。
(六・一三シの字)
p22【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
〔画像〕p22【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
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旬刊通運 第十五巻 第二十号
昭和卅七年七月一日印刷
昭和卅七年七月十日発行
編集兼発行人 清水啓次郎
印刷人    鍋田 久吉
       東京都文京区大塚坂下町一九四
印刷所    雄文社
発行所    株式会社 交通出版社
       東京都日本橋局区内
       中央区日本橋芳町一ノ六
       愛国ビル内
       電話 兜町(671)三四四七
       振替 東京一四八九三九
p50【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
〔画像〕p50【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
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《坂本恭啓》大豊工業(株) [大阪]【中部要覧:愛知・岐阜・三重県 1965年版】

《坂本恭啓》大豊工業(株) [大阪]
【中部要覧:愛知・岐阜・三重県 1965年版】

【中部要覧 : 愛知・岐阜・三重県 1965年版】
 著者    中部経済新聞社 編
 出版者   中部経済新聞社
 出版年月日 1965
大豊工業(株)  p381/520
愛知県豊田市緑ヶ丘3-65 (②2225)
①2億 ②昭和14・12 ③953
[社 長]柴田千里
[専 務]渡辺末次郎
[常 務]野々山勇 平林貞治
[取締役]朝倉昇 芳垣末之助 柴田章 梅原半二
    木下隆平 柴田いわ
[監査役]渡辺清 野々山鏈治
連絡所=[東京]東京都調布市佐須町1172(調布7137)
       近藤武嗣
    [大阪]大阪市福島区福島中1-7(458-0830)※下記
       坂本恭啓
p381【中部要覧:愛知・岐阜・三重県 1965年版】
〔画像〕p381【中部要覧:愛知・岐阜・三重県 1965年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032432/1/381
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大豊工業(株)営業部事務所前
前列左から四人目:大豊工業(株) 渡辺末次郎専務
後列左から三人目:小野一雄
大豊工業(株)営業部 内藤部長 渡辺省二課長 中村係長
大同自興(株)の人達
撮影場所:大豊工業(株)営業部事務所前
撮影時期:昭和42年(1967)春
大同自興(株)社員と研修に行った際に撮影
※当時、大豊工業(株)大阪出張所=坂本工業(株)の事務所
 大同自興(株)の5F 大阪市福島区福島中1-7
 現在の表記:大阪市福島区福島5丁目5-4

SPK株式会社 本社
〒553-0003
大阪市福島区福島5丁目5-4
1950 社名を「大同自動車興業株式会社」に変更

大豊工業(株)
1944 愛知県豊田市緑ケ丘(現本社地)にて操業を開始
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《兵頭直明》帝國ホテル経理課長 東京會館(株)事務長【伊予の事業と人物】昭和9年

《兵頭直明》帝國ホテル経理課長 東京會館(株)事務長
【伊予の事業と人物】昭和9年

【伊予の事業と人物】昭和9年
著者    愛媛通信社 編
出版者   愛媛通信社
出版年月日 昭和9
兵頭直明  p318/356
 元東京會館(株)事務長
 東京市麻布區笄町一七五
君は本縣人兵頭信一郎の五男
明治二十年一月八日宇和島に生れ
明治四十四年分家す
明治四十二年早稻田大學商科を卒業し
直ちに帝國ホテルに入り累進して
經理課長となり
昭和二年四月
東京會館事務長に轉じ今日に至る
宗敎 基督宗
趣味 相撲・運動・圍碁
[家庭]
妻  みさを(明治二五年)
       宮城縣人 吉田爲太郎 三女
       共立女子職業卒
嗣子 信明 (大正二年) 靑山學院在
三男 謙三 (大正六年)
四男 豐明 (大正一二年)
五男 正義 (大正一五年)
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《兵頭直明 早稲田大学商科 明治42年得業》
【早稲田大学校友会会員名簿  大正4年11月調】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 大正4-14
大學部商科 明治四十二年得業 p96/189
兵頭直明 愛媛
麴町區有樂町 帝國ホテル 同社員
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《坂本恭啓》(株)京都国際観光会館[旧称 京都国際ホテル] 【日本職員録 第8版】昭和35年

《坂本恭啓》(株)京都国際観光会館[旧称 京都国際ホテル] 
【日本職員録 第8版】昭和35年

【日本職員録 第8版】昭和35年
 著者    人事興信所 編
 出版者   人事興信所
 出版年月日 昭和35年
(株)京都国際観光会館
[旧称 京都国際ホテル]
京都市東山区清水町5-130
(電)6局7191
設 立 昭和32年3月
事 業 ホテル業、美術工芸品・国内重要産物の展示販売、
    観光向刊行物の発行
資本金 7,000万円(33・12)
    (前資本 4,000万円)
    授権 3万株
    発行 (5,000)1万4,000株
株 主 (総数260)
    坂本工業3,520 坂本恭啓1,540
    志垣栄助885  京阪自動車600
    岡田実500
銀 行 京都信用金庫・三和
従業員 4
決算期 3月
   貸借対照表(34・3末)
   資産   千円
流動資産    3,108
固定資産   66,892
合  計   70,000
   負債・資本
資本勘定   70,000
合  計   70,000
 ――・――
(代表)社長  坂本 恭啓
専  務   兵頭 直明 ※別稿に記載
常  務   野村  卓
取締役    林  譲治
〃      岩村 一木
〃      竹腰 健造
〃      渡辺末次郎 ※別稿に記載
〃      宮尾 菊吾
〃      角田 克明
〃      志垣 栄助
〃      伊藤 英二
〃      奈良 馬次
〃      岡田  実
監査役    岩村 通世
〃      公文喜久馬
〃      山野 良雄
p456-1【日本職員録 第8版】昭和35年
〔画像〕p456-1【日本職員録 第8版】昭和35年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8797894/1/456

【日本職員録 第9版】昭和37年
 著者    人事興信所 編
 出版者   人事興信所
 出版年月日 昭和37年
(株)京都国際観光会館
[旧称 京都国際ホテル]
京都市東山区清水町5-130
(電)6局7191
設 立 昭和32年3月
事 業 ホテル業、美術工芸品・国内重要産物の展示販売、
    観光向刊行物の発行
資本金 7,000万円(33・12)
    (前資本 4,000万円)
    授権 3万株
    発行 (5,000)1万4,000株
株 主 坂本工業・坂本恭啓
    志垣栄助・京阪自動車
    岡田実
銀 行 京都信用金庫・三和
決算期 3月
(代表)社長  坂本 恭啓
専  務   兵頭 直明
常  務   野村  卓
取締役    林  譲治
〃      岩村 一木
〃      竹腰 健造
〃      渡辺末次郎
〃      宮尾 菊吾
〃      角田 克明
〃      志垣 栄助
〃      伊藤 英二
〃      奈良 馬次
〃      岡田  実
監査役    岩村 通世
〃      公文喜久馬
〃      山野 良雄
https://dl.ndl.go.jp/pid/8797895/1/230
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《坂本佳記》早稲田大学 第一学部 経済学科:昭和35年卒業【会員名簿 昭和36年度版】

《坂本佳記》
早稲田大学 第一学部 経済学科:昭和35年卒業
【会員名簿 昭和36年度版】

【会員名簿 別冊(学科年度別)】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1963
 昭和三五年 第一学部  p42/197
経済学科
坂本 佳記
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/42
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【会員名簿 昭和36年度版】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1962
坂本 佳記 昭和35年 経済1  p342/811
日野自動車工業
東京都 新宿区戸山町二三 稲村方
p342【会員名簿 昭和36年度版】早稲田大学校友会
〔画像〕p342【会員名簿 昭和36年度版】早稲田大学校友会
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/342

河野 洋平 昭和34年 経済1  p312/811
丸紅飯田
東京都 目黒区中目黒三の九三五
(電話七一二の八〇一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/312
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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坂本佳記・小野一雄
坂本佳記・小野一雄
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《坂本恭啓》坂本工業(株)社長:(株)京都国際観光会館社長【大衆人事録 第19-20版 西日本篇】昭和32-33年

《坂本恭啓》坂本工業(株)社長:(株)京都国際観光会館社長
【大衆人事録 第19-20版 西日本篇】昭和32-33年

【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
 著者    帝国秘密探偵社 編
 出版者   帝国秘密探偵社
 出版年月日 1957
《坂本恭啓》 坂本工業(株)社長  p223/524
京都市北區出雲路俵町四
[電](3)一五七〇
[歷]明治三一年一月六日生
高知県宿毛市出身
大正八年 高知凌明学館卒
沖電気大阪支店に入り
大正一一年独立 大阪精鍛 創立 四年後閉鎖
藤井清太郎商店に入り京都支店長を経て退職後
三栄商会創立 社長に就任
昭和一七年 上野製作所を創立し
昭和二〇年 坂本電機を創立 ※坂本電器
尚 現在休業中
昭和二九年 坂本工業を創立し 社長に就任
[宗]日蓮宗
[趣]登山
[家]
妻  マサ(大正三年)  桑名高女卒
長男 善春(大正一四年) 立命館大中退
[親]
兄  公文喜久馬(坂本工業 重役)
義兄 渡辺末次郎(大豊工業 重役)
 p223【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
〔画像〕p223【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/223

【大衆人事録 第20版 西日本篇】昭和33年(1958)
 著者    帝国秘密探偵社 編
 出版者   帝国秘密探偵社
 出版年月日 1958
《坂本恭啓・やすひろ》 p242/579
 坂本工業(株) 社長
 (株)京都国際観光会館 社長
京都市北區出雲路俵町四
[電](3)一五七〇
[歷]明治三一年一月六日生
高知県宿毛市出身
大正八年 高知凌明学館卒
沖電気大阪支店に入り
大正一一年独立 大阪精鍛 創立 四年後閉鎖
藤井清太郎商店に入り京都支店長にて退職
三栄商会創立 社長に就任
昭和一六年 大阪計器 代表取締役
昭和一七年 上野製作所を創立
昭和二〇年 坂本電機を創立 現在休業中 ※坂本電器
昭和二九年 坂本工業を創立 社長に就任後
京都国際観光会館 創立 社長
[宗]日蓮宗
[趣]登山
[家]
妻  マサ(大正三年)  桑名高女卒
長男 善春(大正一四年) 立命館大中退
            坂本工業 取締役
二男 佳記(昭和一〇年) 早大政経学部在
[親]
兄  公文喜久馬(坂本工業 専務)
義兄 渡辺末次郎(大豊工業 専務)
        (京都国際観光会館 取締役)
義弟 小野 又一(東洋ミネチュアベアリング 社長)
 p242【大衆人事録 第20版 西日本篇】昭和33年(1958)
〔画像〕p242【大衆人事録 第20版 西日本篇】昭和33年(1958)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025814/1/242
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《坂本牛松》坂本電器株式會社【京都会社名鑑 1951年版】昭和25年発行

《坂本牛松》坂本電器株式會社【京都会社名鑑 1951年版】昭和25年発行

【京都会社名鑑 1951年版】昭和25年発行
著者    京都商工会議所 編
出版者   夕刊京都新聞社
出版年月日 1950
坂本電器株式會社  p178/277
所在地  東山區淸水五丁目一二七
     (電話 祇園一一三六~一一三九)
設 立  大正五年四月
主要事業 琺瑯鐵器、X線装置、理化器械、醫科器械製作
資本金額 二、五〇〇千圓
役  員 (社 長)   坂本 牛松
     (取締役)   伊藤傳三郎
             吉川 正男
     (取締役工場長)藻川 四郎
従業員  七〇名
p178【京都会社名鑑 1951年版】昭和25年発行
〔画像〕p178【京都会社名鑑 1951年版】昭和25年発行
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林譲治 (坂本電器)-01
前列左から三人目:坂本恭啓社長
四人目:林譲治 林譲治の右後:小野又一
撮影場所:坂本電器(株)事務所

坂本電器(株)事務所:小野一雄 雄二
坂本電器(株)事務所:小野一雄 雄二
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【京都年鑑 昭和25年版】
著者    都新聞社 編
出版者   都新聞社
出版年月日 1949
坂本電器株式會社  p241/357
東山區清水五丁目
祇園一八八
社長 坂本牛松
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988157/1/241
坂本牛松  p282/357
坂本電器社長、
上京區出雲路俵町四
(上一五七〇)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988157/1/282
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《坂本牛松》坂本電器株式会社[第2次推薦業者]【道路25(7)】昭和25年7月

《坂本牛松》坂本電器株式会社[第2次推薦業者]
【道路25(7)】昭和25年7月

【道路 : road engineering & management review 25(7)】昭和25年
出版者   日本道路協会
出版年月日 1950-07
 第2次道路標識板製作業者の推薦  p18/21
    道路標識審査委員会
第1次の道路標識板製作業者の推薦に次いで
第2次の推薦は各社より提出された所定の書類
並に製作見本に付
工場の調査並に製品の審査の結果
下記の通り決定したのを以て
此段広告で誌上致します。
  第2次推薦業者(順不同)
坂本電器株式会社
 代表者    坂本牛松
 本社並に工場 京都市東山区清水5の127
 製品種類   ホーロー製標識板
 生産能力   月産25,000枚
p18【道路25(7)】昭和25年7月
〔画像〕p18【道路25(7)】昭和25年7月
https://dl.ndl.go.jp/pid/3308786/1/18
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