《大隈さんに煙にまかれた思い出:丹尾磯之助》
[巨人の面影]丹尾磯之助編
[巨人の面影]丹尾磯之助編
[巨人の面影]
大隈重信生誕百二十五年記念
大隈さんについて、私には、
青年時代の一笑話といってよい思い出がある。
それは、大正六年の七月のこと、
都下幾つかの新聞に、
早稲田大学学長問題につき、
高田、天野両派にわかれてごたついていることが報道され、
一種の暗雲が早稲田の空にただようという感を与え、
即ち有名な早稲田騒動の序幕が展開されようとする時であった。
後に衆議院議員となり、
戦後郷里長崎県の知事となって在任中に亡くなった
(前年卒業して《青年雄弁》という雑誌を経営していた)
と私
(この夏卒業して古河鉱業会社へ入社した許り。
在学中に西岡君に頼まれて
《青年雄弁》の編集を手伝ったことがあった)
と、
今一人の友人とが、
新聞に出る学長問題に刺激されて話し合った結果、
三人で大隈さんの処に行って一つ
その意見を聞いてみようではないか
ということになったのである。
その日は、
暑い日曜日の午前十時頃であった。
三人は打ち揃って大隈邸に行き、
是非侯爵にお目にかかりたいと
玄関子に取次をたのんだ。
西岡君も私も、
在学中雄弁会の幹事をやっており、
大隈内閣の総選挙の時の
大隈伯後援会に関係があったりしたので
玄関子は知っている間だったから、
その取次ぎよろしきを得たらしく
面会を聞き入れられた。
案内されたのは、
玄関を入り、すぐ右に折れ、
薄暗い廊下を通って突当りの洋館の応接間であった。
窓から硝子越しに温室が見えていた。
待つこと十分程して、
白の単衣に袴を着けた大隈さんが、
久松家令の腕にささえられ乍ら入って来られたので、
吾々は恭しく一礼して椅子に腰をかけた。
そして早速、
「この頃どの新聞にも大学の学長問題について
色々と報道されているので
吾々は大学の為めに心配しております。
この際総長閣下のご意見を承りたいと思いまして
お伺いしたのであります……」
と訪問の目的を述べた。
への字に口を結んで開いていた大隈さんは、
「ウン、君等は雄弁会の者だったな。
雄弁というと、小野梓君は大雄弁家であったなア。
小野君は吾輩の同志で、
明治十五年に専門学校を創立
〔画像〕大隈さんに煙にまかれた思い出p134-135
することに最も力をつくして呉れ、
高田君等の兄分として一生懸命つくして呉れたよ。
余り働いたので無理をして
僅に三十五歳で明治十九年に薨れた。
彼の演説は高邁な識見と熱情が溢れていて
人を感動させたものだ。
実に惜しい人物であったよ……」
と滔々と専門学校創立当時のことや
小野梓のことを語りつづけるので、
吾々は只々謹聴しているだけ。
彼此二十分近くも経った頃、
取次がやって来て、
久松家令に何か耳打ちしたら、
久松氏は大隈さんを促して、
「ではこれで……」
と大隈さんをつれていってしまった。
学長問題という大問題を引提げて訪問した吾々には、
全然発言の機会がなく、
只、出されたお茶を一杯飲んで退きさがるのみ。
三人は顔見合せて、
狐につまされたような思いで
何の要領も得ずに帰った。
然し、学校の騒動は、
その後段々と大きくなって、
西岡君は石橋さんなどと共に
天野派の花形として大活動をした。
私は会社へ入った許りの身なので
運動がましいことはしなかった。
私は、大隈さんに身近に接したのは
この時只一回であるが、
この時のことを思い出すと、
いまだに私はわからないのである。
大隈さんは、こんな青二才共に、
学校の大問題について話しても
仕方がないと思ったのか、
それとも、
雄弁会関係の者と取りつがれたので、
それをきっかけに
小野梓の雄弁のことなどを
思い出して話したのか、
或は大隈さんは、
いわゆる他を語って、
吾々を煙にまいたのか。
どちらにしても大隈さんらしい一面であって、
私には忘れ得ぬ思い出の一つである。
〔画像〕大隈さんに煙にまかれた思い出p136-137
定価 四〇〇円
昭和三十八年十月十日發行
編 者 丹尾磯之助
発行者 石田 亘
発行所 校倉書房
東京都文京区関口水道町四十六
振替口座 東京 七六四四八
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月08日 ◆小野安子
《大隈侯の思い出:小野安》
[巨人の面影]丹尾磯之助/大隈重信生誕百二十五年記念
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