[平和の礎]瑞穂町

檜山校 山本照雄【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

檜山校 山本照雄【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

【社頭の感激:遺児の感想文集】

p3【社頭の感激:遺児の感想文集】
靖國神社門前に於ける記念撮影
〔画像〕p3【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右 頁)出發前に於ける記念撮影
(左頁上)府廳正面玄關に於ける出發式
(左頁下)府廳正面出發
〔画像〕p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】
出發前に於ける記念撮影
〔画像〕p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】

p5【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右頁上)京都驛構内に於ける解散式
(右頁下)解散式に於ける萬歳三唱
(左 頁)はしがき 昭和十七年十月 軍人援護會京都府支部
〔画像〕p5【社頭の感激:遺児の感想文集】

 檜山校 山本照雄 p49-50/102
 今日は待ちに待つた靖國の父と對面の日である。
喜び勇んで一同は宿を出た。
先づ靖國神社前で下車して行く行く見上げる大鳥居は、
一の鳥居である。
靑空に聳え立つ何十米もあらうと思ふ靑銅の大鳥居である。
やがて社殿の廻廊に入り神主さんからお話があり
其れから拜殿に昇り、
神殿の中央の御鏡を近く拜し二禮二拍手をして、
またゝきもせず御鏡をじつと見つめた。
應召された時の父の軍服姿の笑顔が僕の前に現れ
「おゝ來たか。」と言はれたやうに感じた。
其の時お父さんと聲が出さうになつた。
「お父樣、照雄が參りました。」
「お母さんも姉さんも妹も皆元氣です。
 妹も早七つになりました。
 ……家の者が元氣で暮すやうに
 日本が益々榮えて行く樣にお守り下さい。」
と心の中で祈つた。
何時までもじつとして居たかつた。
殘り惜しい氣持でふり返り、
父に「さやうなら」といひ、
ふり返りふり返り御本殿を後にした。

其の後御紋章のかをる神門で記念寫眞を取り
國防館・遊就館など見物して宿舎へ歸つた。
皇恩の忝さと今日の此の感激とは
僕にとつてどうしても忘れる事は出來ない。
きつときつと父に負けない立派な日本人になり
御國へ御奉公申上げようと誓つた。
昭和十七年十月十二日印刷
昭和十七年十月二十日發行 〔非賣品〕
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
編輯兼發行者   進藤友之
印刷所(西京七) 京都市下京區西洞院通七條南入
         内外出版印刷株式會社
         代表者 須磨勘兵衞
發行所      京都府廳内
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※『山本姓』下記書籍には、記載なし。
[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[檜山村誌]平成5年4月
  第六節 戦歿者 p635-644
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
    桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
    (非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《平尾秀吉》現在の世帯主 平尾義春[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年[檜山村誌]平成5年

《平尾秀吉》現在の世帯主 平尾義春
[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年
[檜山村誌]平成5年

[平和の礎]瑞穂町
《平尾秀吉》
位階勲等
 陸軍伍長
 勲八等
生年月日   明治三四年六月一五日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字和田
住 所    京都府船井郡字井尻
遺族と続柄  妻 貞美 子 義春
現在の世帯主 平尾義春 戦没者との続柄 長男
軍戦歴
昭和一二年八月二五日
 動員招集麦領
昭和一二年一〇月七日
 福知山聯隊出発
 北支大野部隊に所属
昭和一三年一〇月一四日
 日元安野戦予備病院に入院後
 盧済兵站病院にて戦病死

 平尾秀吉氏の戦歴は日支事変の大陸作戦に参加されていて、
広漠たる北支の地で戦死されている。
その当時小学校唱歌にも愛唱された次の歌を書き残し、
平尾氏を偲ぶ縁(よすが)にしたい。
  露営の歌
  —略―
p92-1[平和の礎]瑞穂町:平尾秀吉
〔画像〕p92[平和の礎]瑞穂町:平尾秀吉
 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[檜山村誌]平成5年4月
  第六節 戦歿者 p635-644
1[檜山村誌]p634-635
〔画像〕[檜山村誌]p634-635

 旧中国(北、中南支)之部 p637
部落名  氏 名  戦 死 年 月 日
井 尻 平尾秀吉 昭和一三年(一九三八)一〇月一四日
 戦 死(病) 場 所
元安病院退院後 廬済兵站病院にて戦病死
2[檜山村誌]p636-637
〔画像〕[檜山村誌]p636-637
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
    桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
    (非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月10日 04:53 ◆京丹波町 [平和の礎]瑞穂町
『ごあいさつ』[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月10日 10:00 ◆京丹波町 [平和の礎]瑞穂町
『編集後記』[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月02日 07:27 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
[桧山村誌の発刊をお祝いして]瑞穂町長 黒田一夫

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月22日 04:21 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
編集委員・執筆協力者 資料提供者 助言者等
[檜山村誌]平成5年4月
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

檜山校 平尾義春【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

檜山校 平尾義春【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

【社頭の感激:遺児の感想文集】

p3【社頭の感激:遺児の感想文集】
靖國神社門前に於ける記念撮影
〔画像〕p3【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右 頁)出發前に於ける記念撮影
(左頁上)府廳正面玄關に於ける出發式
(左頁下)府廳正面出發
〔画像〕p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】
出發前に於ける記念撮影
〔画像〕p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】

p5【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右頁上)京都驛構内に於ける解散式
(右頁下)解散式に於ける萬歳三唱
(左 頁)はしがき 昭和十七年十月 軍人援護會京都府支部
〔画像〕p5【社頭の感激:遺児の感想文集】

 檜山校 平尾義春 p49/102
 有難いおぼしめしにより僕たち遺兒部隊は
靖國神社へ參拜する日がきた。
二十七日はおそれおほくも天皇陛下が
埼玉の航空士官學校へ行幸遊される鹵簿を
二重橋でをがんだ時には、
もつたいなくて自然に頭が上らなかつた。
ひきつづき憲法記念館において
皇后陛下から御下賜品を賜はり又
朝香宮殿下から有難い御言葉を賜はつた時には
ありがたくて涙が出て止めようと思つても、止まらなかつた。

明けて二十八日には今日は待ちに待つた
靖國神社で父さんに對面する日だ。
一同は喜び勇んで宿をでた。
九段坂まできますと行くてに
靑銅の大鳥居がくつきりとそびえてゐる。
玉砂利をふんで行く彼方に御紋章にひかる白い幕が見える。
いよいよお父さんにあへると思ふと
身體がピントひきしまつてくる。
おはらひをうけしづしづと昇殿する。
代表上田君が玉串を捧げ一同拜禮をした。
僕は昨日鹵簿ををがんだことや
皇后陛下からお菓子をいただいて
ありがたかつたことを言ひ、
お母さんに孝行をつくし、
朝香宮殿下のお言葉を忘れずにすぐれた日本人となり、
きつと御國のため
天皇陛下の御爲めに役立つ人となります、とちかつた。
昭和十七年十月十二日印刷
昭和十七年十月二十日發行 〔非賣品〕
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
編輯兼發行者   進藤友之
印刷所(西京七) 京都市下京區西洞院通七條南入
         内外出版印刷株式會社
         代表者 須磨勘兵衞
發行所      京都府廳内
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

須知校 山内昭男【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

須知校 山内昭男【社頭の感激:遺児の感想文集】昭和17年

【社頭の感激:遺児の感想文集】

p3【社頭の感激:遺児の感想文集】
靖國神社門前に於ける記念撮影
〔画像〕p3【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右 頁)出發前に於ける記念撮影
(左頁上)府廳正面玄關に於ける出發式
(左頁下)府廳正面出發
〔画像〕p4-1【社頭の感激:遺児の感想文集】

p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】
出發前に於ける記念撮影
〔画像〕p4-2【社頭の感激:遺児の感想文集】

p5【社頭の感激:遺児の感想文集】
(右頁上)京都驛構内に於ける解散式
(右頁下)解散式に於ける萬歳三唱
(左 頁)はしがき 昭和十七年十月 軍人援護會京都府支部
〔画像〕p5【社頭の感激:遺児の感想文集】

 須知校 山内昭男 p48-49/102
 父を護國の神とした僕等靖國の遺兒は
「元氣で對面しておいで。」
との母の聲を後に京都驛を出發した。
汽車は山野をまつしぐらに走り續け、
翌朝二十六日、東京驛に着きました。
初めて見たあこがれの都
父のまつられてある東京の驛頭に降り立ちました。
僕は長い間の汽車のつかれも忘れて、
元氣の滿ちるのをおぼえるのでした。
二十七日には畏れ多くも宮城前で
天皇陛下の鹵簿を奉拜し、
神宮外苑の式典に臨みました。

 さうして 皇后陛下より御下賜の御菓子をいただき、
朝香宮殿下より有難き御言葉を賜はりました。

 其の上 陸海軍大臣よりは、
色々とおなぐさめや激勵の御言葉をいただき、
言ひしれぬ感激に胸が一ぱいでした。
あくれば二十八日、
今日こそ待ちに待つた父と對面の日です。
僕等は靖國神社へ、靖國神社へと歩を進めました。

 前方には、あの有名な靑銅の大鳥居が
大東亞戰爭の勝利を祝するやうに雄然と立つてゐます。
大村益次郎の銅像を左に見て第二の大鳥居をくぐりました。
一歩、一歩と亡き父に近づくのだと思ふと、
うれしくて うれしくて足どりも、をどるやうでした。
境内の櫻は僕等が來るのを待つて居たやうに、
今を盛りと咲いて居ます。

 淸水で手を洗ひ、口をすゝいで拜殿へと進みました。
正面本殿には宮司さんのお話の通り、大きい
立派な御鏡がありました。
じつと御鏡を見つめてゐると
父の笑顔がうつつてゐるやうに感じました。
父の勳功も此の鏡の一點に光をはなつてゐるのかと思ふと、
かたじけなさで涙が出て來るのでした。

 僕は靜かに頭を下げつゝ社頭の父に誓ひました。
「お父さん昭男です。光陰は矢の如しと申しますが
 亡くなられてから早五年目になりました。
 僕もこんなに大きくなつておそばに參りました。
 家の者も皆元氣で家業に勵んでをります。
 僕もこれから益々學業に勵み強く正しい日本國民となります。
 どうか此の立派な御社で
 僕が立派な日本人となるのをお待ち下さい」と、
まぶたに浮ぶ父の面影もさすがに嬉しさうに
ほゝゑんで居ました。

 僕は此の時の誓ひ、この時の感激を一生忘れず、
お父さんに負けない立派な人となつて
君國の爲に盡くしたいと思つて居ます。
昭和十七年十月十二日印刷
昭和十七年十月二十日發行 〔非賣品〕
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
編輯兼發行者   進藤友之
印刷所(西京七) 京都市下京區西洞院通七條南入
         内外出版印刷株式會社
         代表者 須磨勘兵衞
發行所      京都府廳内
         恩賜財團 軍人援護會京都府支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《尾田熊一》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

《尾田熊一》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《尾田熊一》
位階勲等
 陸軍伍長
 勲七等功七級
生年月日   大正六年六月一〇日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字中台
住 所    出生地に同じ
遺族と続柄  妹 ゆきゑ
現在の世帯主 尾田峯雄 戦没者との続柄 義弟(妹の夫)
軍戦歴
昭和一六年一一月末日
中部第三七部隊へ応召入隊
昭和一七年二月一一日
フイリッピン ルソン島 バターン州 カナス岬
附近にて戦死

◎兄を憶(おも)いて
   ゆきゑ(妹)
今日も瑞穂の里には、
初秋の美しい空が広がり、
虫の音とさわやかな風が流れてまいります。

最後に別れた我が家の庭に立って
はるか南のフイリッピンの地に眠る
亡き兄に想いをはせることしばらく。

女姉妹(きょうだい)の中で
唯一人の男子として生れた兄。

父母の慈愛のもとに、
心やさしく、
またたくましく成長し、
甲種合格で福知山歩兵第二〇聯隊に入隊して
支那事変に参加。

任終えて帰郷後間もなく
大東亜戦争勃発直前の十一月、
召集令状を受けて出征して行った
あわただしさを思い起します。

それは見送ることさえ許されぬ程の
秘(ひそ)かなことでした。

翌年二月には激戦の地ルソン島に上陸、
敵の銃火を浴びて、
「山ゆかば草むす屍(かばね)」
の古歌のとおりになり、
友の追悼の辞に
  星影に遠き故郷を描(えが)きつつ
     南の国に果てし ますらを
と歌われました。

残された母が八十三才の生涯を終えるその日まで、
枕辺に置かれてあった兄の写真に、
母の悲しみと苦しさ
如何ばかりであったろうことを想い起します。

幾多の青春の命を奪った戦争というもの程
残酷なものはない。

兄を失った悲しみと戦争への
にくしみは、
今尚私たちの心に鮮烈に焼きついて放れません。

生命の尊さと、
平和のありがたさをしみじみ思い、
幾多の散っていかれた青春の霊に祈るばかりです。

三十有余年の幾月を経た今、
若くして南の島に散った兄を偲び、
心から冥福を祈り、
追憶の記と致します。
[平和の礎]瑞穂町:尾田熊一p5
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:尾田熊一p5

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《伊藤秀雄》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

《伊藤秀雄》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《伊藤秀雄》
位階勲等
 陸軍上等兵
 勲八等
生年月日   大正一年八月二五日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字中台
住 所    出生地に同じ
遺 族    父 文吉 母 かね
       妻 かね 子 通夫 子 千代子
現在の世帯主 伊藤通夫 戦没者との続柄 長男
軍戦歴
昭和一六年七月一九日
中華民国和順県団壁村にて戦死

◎ある中支戦線の話 ~中国ビルマ戦記より~
伊藤秀雄氏の戦死されたのが昭和十六年とあるから、
次に記す話はそれよりずっと以前の日本軍が破竹の勢で
津浦線を南下進出した時であるから
時のずれがあるがお許し頂きたい。
 ―略―
[平和の礎]瑞穂町:伊藤秀雄p4
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:伊藤秀雄p4

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《庄林正三》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

《庄林正三》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《庄林正三》
位階勲等
 陸軍歩兵伍長
 勲七等功七級
生年月日   大正三年一〇月四日
出生地    京都府船井郡桧山村字中台
住 所    出生地に同じ
遺族と続柄  父の養子 耕作
現在の世帯主 庄林耕作 戦没者との続柄 戦死者の父の養子
軍戦歴
昭和九年一二月一日
現役兵として福知山歩兵第二〇聯隊に入隊
昭和一三年五月二五日
南京徐州作戦分隊長として出征
昭和一三年五月二五日
同地にて戦死

◎麦と兵隊  藤田まさと 作詞
 ―略―
[平和の礎]瑞穂町:庄林正三p3
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:庄林正三p3

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《伊藤 薫》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

《伊藤 薫》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《伊藤 薫》
位階勲等
 陸軍歩兵軍曹
 勲七等功六級
生年月日   大正元年一一月一九日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字中台
住 所    出生地に同じ
遺族と続柄  妹 善子 妹の長男 太 ※伊藤 太
現在の世帯主 伊藤輝雄 戦没者との続柄 妹婿
軍戦歴
昭和一二年八月二八日
 支那事変勃発により応召。
 福知山歩兵第二〇聯隊に入隊
昭和一二年九月中
 島本部隊今井隊に属し渡支する
昭和一二年九月二七日
 北支王口鎮附近の戦闘にて
 迫撃砲弾に倒れ戦死
行年 二六才

◎兄を偲ぶ
昭和十二年七月七日
支那事変勃発に伴い直ちに兄は召され、
橋爪忠魂碑の前で「お国の為頑張って参ります」
と元気に挨拶をし
村民の皆様の歓呼の声に送られ炎天下を出発し、
福知山二十連隊に入隊間もなく戦地に赴く時、
二条駅で軍事列車は二分間の停車をした。

幸い私は暁方のホームで見送る事が出来た。
その時汽車の窓から私を見つめ
「母を賴む」と言われた。
今も尚その目(まな)差はこの𥇥の裏に残っている。

兄は十三才にして父を失い、
幼くして戸主となり、
母を助け私共姉妹の父代りともなり、
時には厳しくまた優しく忠実で責任感強く、
学校の成績も優れていたと聞く。

やがて支那事変も世界大戦にと広がり
二十年八月十五日
米国の科学に敗れ遂に終戦となった。

以後三十余年の間に日本は平和な工業国として栄え、
最早今日では世界の先進国とまでなった。

兄はこのことを願って
身をお国に捧げたのだと信じている。

ただ私は、兄が今日の繁栄を見ずして
お国の為とは言い乍ら
戦場の露と消えていったことを想い起こすとき、
胸が張り裂ける思いがする。

兄さんの後を継いでいる私は
子孫にその人柄や勲功を言い伝え
末ながく御霊のお守りを致さす所存でございます。
何卒安らかにお眠り下さい。

 涙くもる 𥇥に兄のみ声して
  崩るゝ吾の心鞭打つ   伊藤善子
[平和の礎]瑞穂町:伊藤薫p2
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:伊藤薫p2

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《庄林熊次郎》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

《庄林熊次郎》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《庄林熊次郎》
位階勲等
 陸軍歩兵一等卒
 勲八等功七級
生年月日   明治一四年八月二八日
出生地    京都府船井郡桧山村字中台
住 所    京都府船井郡瑞穂町字中台
遺族と続柄  父 富之助 母 ぬい
現在の世帯主 庄林 寛  戦没者との続柄 甥の長男
軍戦歴
明治三四年一二月一日
現役兵として歩兵第二十聯隊へ入隊
明治三七年四月一六日
動員令
明治三七年一〇月一一日
清国三塊石山に於て戦死

◎伯父の手紙から  庄林 勲(甥)
日露戦争という遠い昔を偲び祖母が、
父が大切に保存して来た金鵄勲章や軍隊手帖、
そして戦いの余暇に書かれたらしい伯父が、
父を早く亡くしての出征で、
郷家に残した家族を案じる手紙、
そして又戦死した当時の
苦戦と勇戦奮闘の有様を知らせて頂いた
上官からの手紙、
又 村葬の時の沢山な弔辞を開いて
七十数年の昔を推測してみた。

戦争というものが如何に残虐非情なものか
次の伯父が戦場から送って来た手紙の一部に
次のようなことが書かれているのを読めば
痛恨きわまりない気持である。

〇月〇日より急行軍でもって前の地点を出発した。
戦争の様子は別に知らされませんが、
未だ今日になっても内地からの手紙は一通も来ません。

小生も是から大戦争に何度加わるか知りません故に、
とても無事に帰りますとは思いませんから、
も早 亡き者とおあきらめ下さい。

別に申上げ度い事もありませんが、
命のある限りは便りも出来る限りする積りです。

私の戦死した後は弟も三・四年もすれば成長しますので、
それを力にして我が家の相続をお願い申し上げます。

然しこれを決して御気にして下さいませんよう、
もしもの事が有ってからでは
手紙は書けませんから
今の内に申上げます。

次に戦死したなれば出発の前に送りました
時計は弟にやって下さい。
御依頼申し上げます。

そして伯父はやはり壮烈な戦死を遂げたのです。
この伯父の戦地からの便りが、
戦いに散っていった兵士の姿であり
心であろうと思う。
[平和の礎]瑞穂町:庄林熊次郎p1
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:庄林熊次郎p1

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

『編集後記』[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

『編集後記』[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

  『編集後記』
 英霊顕彰誌「平和の礎」発刊にご協力頂いた方々
ご遺族にとって杖柱と恃(たの)む父や兄、
愛(いと)しい子や弟を戦争で失った痛恨と哀悼の心と、
尽きせぬ思慕の情の綴られた
顕彰誌「平和の礎」の出版をみることができました。
それについて、
次に掲げるご芳名は各地域において
ご遺族の家庭や関係の方々から
ご遺影や追悼の原稿をお寄せ頂くために御尽力いただいた方々で、
こゝに深く感謝の意を表するものでございます。
   (敬称略、順不同)

岩崎三郎   加藤正男   増谷 昭   竹内文一
平田良徳   上田 肇   仲西孝二   竹内 昭
前田 正   西村 晃   奥村千代   中尾和多留
今林 茂   中 やゑ   増谷季夫   梅垣一之
吉見正義   吉田正二   松木美津治  上田利雄
里内昭三郎  軽尾 隆   井尻潤一   辻 しずゑ
中 榮太郎  畠中 茂   畠中良三   畑 寛
畑 敏夫   細谷鉄治   上田 穣   上田幹雄
上田梅子   軽尾英治   岡本 博   樋口龍一
澤田龍雄   野村 保   細見萬治   竹内 治

上林一雄   上田長九郎  山内 勲   上田栄太郎
坂本ひさ   上田ふみ   津田才二   岸野耕一
山下巳仰   森 久間   岡波よし子  坂本繁次
林 勘兵衞  山根精一   山根秋夫   森田健次郎
大西利一   大西逸二   小西養之助  澤村秋三
三好吉郎   奥本初枝   澤井康治
[平和の礎]瑞穂町:編集後記
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:編集後記

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ