(学校図書(株)協力)
この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、
しかし、この悪条件では、
ところが、蔵前橋を過ぎるころから、
それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、
しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、
ところが、岸に上がった早稲田の選手は、
心 の 力 と 学 風
成蹊大学名誉教授
旧四谷第二中学校 片山文彦名誉宮司同級生 別 府 祐 弘
一 意志の力
「心 志あれば、必ず便宜あり」
強固な意志の力さえあれば、必ずや道は拓ける。
東京帝国大学教授・女子高等師範学校初代校長・貴族院議員で
文明開化の旗手であった中村正直は、
明治4年の著書「西国立志編」
(明治時代の100万部超ベストセラー)の中で、
英国人スマイルズの言葉をこのように訳しました。
【西国立志編:仮名読改正.第1編】
明治15年12月出版 斯邁爾斯(スマイルズ)【原著】
中村正直 原訳 中村秋香 和解(有終堂 1882)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755565/6
昌平黌教授・安積艮斎門下の岩崎弥太郎
(武士的実業家/孫子の兵法をビジネスに応用)と
中村正直は同じ考え方を共有する同志故に、
岩崎は三菱財閥企業の人材の多くを小石川にあった
中村正直の私塾・同人社(~1888)に頼っていたといわれています。
しかも本書を和解した女子高等師範学校教授・
宮内省御歌所寄人・中村秋香が
成蹊学園創立者・中村春二の尊父であったことから、
成蹊の建学精神「心の力」の由来は正しくこの一文にあります。
因みに、成蹊人(成蹊小・中・高・大卒)
安倍晋三内閣総理大臣の初の施政方針演説
(第185回国会2013/10/15)で高く掲げられ強調された
「意志の力」(=成蹊の建学の精神〝心の力〟)を旗印にして、
現在の日本丸は荒海を驀進中です。
https://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement2/20131015shoshin.html
二 篤実と実学
①大事に耐えるには篤実でなければならぬ
たとえば
②基礎が堅固で家が築けるようなもの
③君は実行を重んじかくて弟子を教えた
④学風を後に伝えてきわまることはない
※篤実とは、誠実で相手の立場を考える気持が強い様子
豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛(如水)の扇城本丸(大分県中津市)には、
曽祖父の『大久保麑山先生紀念碑』が1888年、明治21年に建立され、
右記のような顕彰碑文が刻まれています。
この碑文を撰した幕府学問所以来の同志・
中村正直自身の学風でもあるといわれています。
そしてこの「中村正直文庫」が岩崎家より寄贈されて
成蹊大学図書館にあることが、
1966年以来成蹊と私を結びつけたご縁でした。
この碑文こそが、実学としての経営学を私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、研究教育活動に従事させて頂きました。
その間、経済学部経営学科・大学院経営学研究科修士課程・
博士課程及びアジア太平洋研究センターの創設に参画しました。
そして、成蹊の原点である実務学校(実科中学)・
実業専門学校(高等商業学校)の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた大久保麑山の学風
(≒岩崎弥太郎・中村正直の考え方)を重ね合わせて成蹊で展開すべく、
心の力により私なりに努めて来た次第です。
因みに大久保麑山の学風②③が
成蹊実務学校の「活きた学問の指導」であり、
大久保麑山の学風①③が
成蹊の「道徳の実践躬行」「桃李不言 下自成蹊」です。
三 成蹊大学経営学部創設
ところで成蹊は
「(1917年・大正6年)
岩崎小彌太を社長とする三菱合資会社の要請により、
実業界における人材の育成を目的として
成蹊実業専門学校を開校しました。
専門学校でありながらも鍛錬を通じた人格(心の力)教育を基調とし、
内容的には高等商業の学科目を加えた高等学校、
あるいは高度な大学課程に準ずるものでした。」
(成蹊学園案内)
江口定條(えぐち さだえ)
(1887年東京高商卒一期生、三菱合資会社入社、1920年同社総理事)が
三菱側実務の中心になって尽力したことは想像に難くありません。
折しも1919年・大正8年に東京商科大学に昇格した母校に続いて、
さぞかし成蹊にも商科大学への道を歩んでいって欲しかったことでしょう。
首席卒業後数年母校の教員をしていたところ声をかけられて
三菱に入ったのですから
(湯本憲二著【財界の名士とはこんなもの?第1巻】
大正13年 事業と人物社 58頁)、
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/38
実業教育に対する思い入れは並々ならぬものがあったはずです。
しかしその後成蹊学園は諸般の事情により、
「…実務学校と実業専門学校を廃止し、
小学校から七年制高等学校へと続く(普通教育)一貫体制に改め、
校地も市街化した池袋から、郊外の吉祥寺へ移すことを決定したのです」
(成蹊学園案内)
「…君は先年突如としてこの要職を退いて
評論子たらざる世人をアッと驚かした。
この時同王国の連中は、
ハハア両雄並び立たずかな、てなことを言って
いやに消息通がったものだが、未だにその真相は判らずに居る。」
(湯本憲二著 前掲書 59頁)
ここで両雄とされているのは、
三菱のもう一人の大番頭・木村久寿弥太総理事のことです。
彼の屋敷は吉祥寺北町筆者宅の北側向こう三軒隣にあり、
彼の義弟の鮎川義介邸となった後、
現在は竹中工務店の社宅アパート群に代わっています。
扶桑通りを挟んだその向かいの広大な岩崎農園
(成蹊のキャンパス)の中に岩崎別邸があり、
四代目の岩崎小弥太社長はここに陣取って
木村総理事に助けられながら、
三菱各社に最高司令を下すことも多かった。
江口邸は京橋(別邸は国分寺の殿ヶ谷戸庭園)に、
三菱合資会社は東京駅前にありました。
なお現在の岩崎別邸はお屋敷門を残すのみです。
「…評論子も敢えてこれが原因を追究する義務もなければ、
必要もないから先ず
『…教育事業に対する意見の相違』と言う
当時の消息子の傳えたところを其儘借用して置くこととする。
…ある人は君を評して謙譲温厚、一見長者の風があると云ったが、
蓋し当たらずとも遠からずである。
…何れにしても斯くの如き人材を失った三菱の損害は
有形無形にたいしたものであらう。
江口君たるもの、何にも三菱だけが天下ではない、
社会はもっともっと廣い、
君だけの手腕力量人望があれば、
どんな大仕事でもできるのだから、
一つ、大いにやって現三菱のボンクラ理事共をアッと云わせて下さいな。」
(前掲書60頁)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/39
江口定條は三菱を辞職し、
病床にあった成蹊創立者中村春二は
この決定で病状を悪化させ苦悩しつつ逝去しました。
翌1925年・大正14年4月池袋から吉祥寺へ移転し、
10万坪(現在は7万坪)の岩崎農園跡地に
7年制成蹊高等学校が発足しました。
同年、貴族院議員・満鉄副総裁・江口定條は、
一橋大学同窓会の依頼により、
黒田官兵衛の隠居号・如水の由来する漢詩から
渋沢栄一が命名した如水会初代理事長に就任しました。
それから実に約一世紀の時を経て、
この江口如水会理事長や中村春二成蹊学園創立者の遺志を継ぎ、
成蹊大学が経済学部創設五十周年を盛大に祝ったうえで現在、
2020年4月を目指して経営学部を新設しようとしていることは
誠に芽出度くもあり、感慨深いところであります。
四 学風
江口定條は草創期の成蹊に、
また初代・二代・四代如水会理事長・東京高商教員として
一橋大学にも大きな貢献をしました。
大分県中津市金谷の水島公園にある「水島鐵也先生生誕之地碑」に、
東京高商同期・学寮同室で生涯の親友であった江口は揮毫しています。
そこには一橋大学校章のマーキュリーの杖が
高々と掲げられ刻まれているのです。
大久保麑山門下中津藩士・水島六兵衛長男で
西南戦争南洲軍生き残りの水島鐵也は神戸商業講習所に学び、
大久保麑山隊長のもとで長州征伐・戊辰戦争生き残りの中津藩士の
初代校長・甲斐織衛に大久保麑山の学風を改めて叩き込まれました
(士魂商才=心の力と篤実・実学)。
そして東京高商生え抜きの東京高商専門部初代主任教授・
付属商業教員養成所初代所長として
草創期の東京高商の学風と基盤づくりに大きな足跡を残して、
神戸高商を開学し大学昇格決定まで約30年の長きにわたり校長を務めあげ、
大学昇格の日を待たず旅立っていきました。
神戸大学本館と愛弟子・出光佐三記念図書館の間にある
朝倉文雄作・水島鐵也先生胸像台座には、
渋沢栄一揮毫の大銅板がはめ込まれています。
さて大宰相・吉田茂が在籍していたこともある
東京商科大学に昇格した大正8年に、
水島鐵也神戸高商校長の推薦により
東京高商専門部に編入学したのが、
一橋大学初代学長中山伊知郎(水島愛庵会員)です。
草創期の東京高商に植え付けられた
水島鐵也(大久保麑山)の学風は
確実に一橋大学にも受け継がれているはずです。
渋沢栄一の「知識と道徳の密着」であり、
大久保麑山の学風②③が
渋沢栄一の「学問と実践の密着」です。
④学風を後に伝えてきわまることはない。
(成蹊大学名誉教授)
追記①=P・F・ドラッカーが
岩崎弥太郎と渋沢栄一を取り上げて
大いに賞賛していたことは比較的よく知られている。
「この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ
3分の2を作り上げたのである。
たった2人の人間が、
一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例は
どこにも見当たらない」
岩崎・渋沢共に人材育成重視。
行政府のエリート官僚養成の東京帝国大学と同格の、
ビジネス・エリート人材を育成する必要性痛感。
追記②=ヤフー・グーグル等で以下の言葉の幾つかを検索すると
ユーチューブが出てきます。
別府祐弘は前列左から二人目です。
「如水会 佐野書院 歌の会 宇宙戦艦ヤマト」
https://www.youtube.com/watch?v=ptGCM6Ola7s
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別府祐弘氏寄稿文
今回「心の力と学風」をご寄稿頂いた別府祐弘氏は片山文彦
名誉宮司の旧新宿区立四谷第二中学校三年C組時代の同級生であり、
先月ご夫妻で金婚式奉告祭の為、当社に来社された。
これからも亡き名誉宮司に代わり末永くご指導ご鞭撻を賜りたく思う。
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