心の力と学風:成蹊大学・別府祐弘名誉教授

「あらしのボートレース」 別府祐弘

「あらしのボートレース」 別府祐弘

早稻田大學総長・田中愛治様;

「総長招待(春秋叙勲者)祝賀会」記念品として
「稲穂カットのワイングラス一対」を本日有り難く拝受いたしました。
令和二年春の叙勲に際して拝領いたしました
「”早稻田の誇り”紅白ワインボトルセット」と併せて、
重ねて厚く御礼申し上げます。
拙宅仏間に大切に飾らせて頂いております。
また6/30「早稻田 狂言の夕べ」
校友 人間国宝・野村万作・野村萬斎 於大隈講堂
一階H列27番のチケットもご恵贈下さいまして、
温かいお心づくし身にしみました。
6/20に二次ワクチン接種を済ませた上で、
一昨年花園神社で金婚式を済ませた糟糠の妻・迪子と、
当日はリーガロイヤルホテル東京に投宿し、
久しぶりのキャンバスを散策して
“精悍青き眉あげて”の日々の追憶に浸りたいと存じます。
有り難うございました。
田中総長の下、早稻田大學の益々の発展と躍進をお祈りします。
       令和三年六月十七日

「瑞宝中綬章」

令和6年(2024年)1月1日
新会員自己紹介
光陰矢の如し
塚川 利雄(1974・理工院)
楽しい時間が過ごせましたら。
高橋 智香(2020・政経)
武蔵野市在住半世紀・米寿記念入会
別府 祐弘(1960・政経)
「ようやく武蔵野市に戻ってきました」
山中 賢一(1975・政経)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(アルミのお椀三個で、史上初メルボルン・オリンピック7位入賞
慶大エイト凱旋帰国第一戦:第26回早慶レガッタ#に勝利した時の
早大漕艇部員)別府祐弘

追伸;「朝陽」70号に表紙写真及び
拙稿「成蹊と私」が掲載されました。
更にその文末のQRコードも開いてご照覧願えれば幸せです。
「朝陽」No.70 2021 Jun(創立100周年記念特集号)

 #ご参考;昭和32年(1957年)の第26回早慶レガッタ
この「事件」こそが早慶レガッタ100年の歴史の中では恐らく、
最も世の関心を集めるエピソードとなる。
新聞に大きく報道されたばかりか、
小学校6年の国語の教科書に
「あらしのボートレース」として
昭和36年から昭和45年まで掲載され、
およそ300万人の小学生が読むことになる。
そのレースでは何が起こったのか。
教科書の簡明平易な記述で追うことにする(以下引用)。
小学校6年の国語の教科書-1 小学校6年の国語の教科書-2
       (学校図書(株)協力)

「あらしのボートレース」
昭和32年5月12日、伝統の第26回早慶ボートレースが行われました。
前夜からの雨は、まだやまず、さらに、春特有の強風に加えて、
隅田川の水面には、かなり大きい波が立っていました。

この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、
長い間、はげしい練習を重ねてきましたが、
試合前の予想では、
慶応の勝利がほとんど確実であると見られていました。
というのは、慶応のボート部は、
その前年のメルボルン・オリンピック大会にも参加しており、
その時の選手の一部が、まだ残っていたからです。

しかし、この悪条件では、
勝敗は、はたしてどうなるかわかりません。

慶応のかんとくは、レースに先だって、選手たちに言いました。
「みんな、全力をふりしぼってこいでくれ。
この波では、ボートの中に、水がはいってくるかもしれない。
しかし、ボートレースというものは、あくまでも、
みんなが力をあわせてこぎぬく競争だ。
もし、はいってくる水に心をうばわれて、
ふだんの練習の力を出せなかったら、
相手の選手に対して失礼なことだ。
どんなに苦しいことがあっても、
力いっぱい戦うことが、
スポーツマンにとってたいせつなことなのだ」

一方、早稲田のかんとくは
「たとえ、試合には負けても、
けっして、ボートをしずめてはならない。
ボートをしずめることは、ボートマンにとって、
もっともはずかしいことだ。
きょうは、波がたいへん高い。
もし、ボートに水がはいってきたら、
4人でこいで、残りの4人は水を出してもいい。
みんな、最後までがんばって、ボートをしずめないでくれ」
と言って、各選手に、水をくみ出す器をわたしました。

スタート直後、両国橋付近までは、予想通り、
慶応が、だんぜんリードしていました。
かさをさして試合を見ていた観衆も、
ほとんど、その勝利を信じていました。

ところが、蔵前橋を過ぎるころから、
慶応のボートは、しだいにおくれ、
早稲田が、じりじりと、差をつめ始めました。
慶応のボートには、だんだん、水がはいって、
ついには、選手のこしをぬらすほどになってしまったのです。

それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、
力いっぱいこぎ続けました。
しかし、ついにゴールにははいれず、
ボートはしずんでしまいました。
 先行する慶應クルー 沈没した慶應クルー
 先行する慶應クルー         沈没した慶應クルー

早稲田のボートでは、水がはいってくると、
何人かの選手がくみ出し係になって、
はるか前方を行く慶応のボートの速さに、
くちびるをかみながらも、少ない人数でこいでいました。

しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、
駒形橋の近くで追いぬき、勝敗は逆転したのです。

ところが、岸に上がった早稲田の選手は、
しんぱん長に、試合のやり直しを申し出ました。

「これは真の勝利ではない。
この悪天候では、ほんとうの力は出せない」
というのです。

しかし、しんぱん員の相談の結果、申し出は採用されず、
早稲田の勝利と認められました。

慶応の選手たちは
「試合に対する準備が足りなかったのだから、
早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って、
早稲田の勝利に、心からの拍手を送りました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ卒業生(55名)第一回卒業證書授与(明治22年3月)【東京高等商業学校一覧】

銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ卒業生(55名)
第一回卒業證書授与(明治22年(1889)3月)
【東京高等商業学校一覧】

高等商業学校 第一回卒業證書授与
 明治22年(1889)3月
 商法講習所創立以來今日ニ至ル本校卒業生
 卒業證書授与 118名 ※内訳・下記
 銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ卒業生
 卒業證書授与  55名

商法講習所  卒業生  30名
 明治10年(1877)3月~明治17年(1844)2月
東京商業学校 卒業生  88名
 明治17年(1844)7月~明治21年(1888)7月

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
高等商業学校 第一回卒業證書授与(明治22年(1889)3月)
商法講習所・東京商業学校『卒業者名簿』
【東京高等商業学校一覧】

【東京高等商業学校一覧. 明治23-24年】
 高等商業學校沿革概略   p3/66
本校ハ明治十八年(1885)九月今ノ地ニ開設スト雖モ
其之ヲ創立セシハ實ニ明治八年(1875)ニ在リ
而シテ其間興癈沿革記スヘキ者甚タ多シ
今其要ヲ摘ミ之ヲ左ニ擧グ
 明治八年(1875)八月森有禮創メテ商法講習所ヲ
 東京尾張町ニ假設ス是則チ本校ノ濫觴ナリ
 -略-
十七年(1884)三月
本校ヲ農商務省ノ直轄官立學校ト爲シ
東京商業學校ト改稱
 -略-
(明治20年1887)十月本校ヲ高等商業學校ト改稱セリ
 -略-
廿二年(1889)三月本校及ヒ附屬科ノ規則ヲ改正シ
本科ノ修業年限ヲ三年トナシ
附屬主計專修科ヲ主計學校ト改稱ス
同月
商法講習所創立以來今日ニ至ル
本校卒業生百拾八名及
銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ
卒業生五十五名ニ
卒業證書授與ノ正式ヲ執行ス
 -略-

【東京高等商業学校一覧. 明治25-26年】
廿五年(1892)一月敎務委員規程ヲ定メ委員三名ヲ置キ
四月本校官制ニ據リ更ニ商議委員七名ヲ置ク
十一月第二回卒業證書授與式ヲ擧ケ
明治廿三年(1890)以後ノ本科卒業生百五十六名及
廿二年(1889)以後ノ附屬主計學校卒業生百二十五名ニ
卒業證書ヲ授與ス
    附屬主計學校卒業生    p68-70/150
   卒業年月       就職場所        姓  名
001 明治十九年(1886)七月 日本銀行        永井幸次郎
002 仝          自家營業        淸水靜太郎
003 仝          書肆          和田 貞吉
004 仝          死亡          内藤 滿一
005 仝          第九拾五國立銀行    大辻連太郎
006 仝          大藏省         猪狩 勉三
007 仝          仝           山本銈十郎
008 仝          死亡          和田銈之助
009 仝          不詳          井上  寛
010 仝          日本銀行        田中彦兵衞
011 仝          不詳          中野 音熊
012 仝          遞信省         杉原 由藏
013 仝          日本製鐵會社      堀田 芳雄
014 仝          不詳          蒲池德一郎
015 仝          横濱正金銀行      田中 金彦
016 仝          不詳          小林 小市
017 明治廿年(1887)七月  文部省         石川豐太郎
018 仝          第一國立銀行      仲 又七郎
019 仝          文部省         秋山 行藏
020 仝          第二國立銀行      笠間  淸
021 仝          會計撿査院       秋田宗四郎
022 仝          筑豐興業鐵道會社    田中 哲夫
023 仝          第四十國立銀行     二見幸之助
024 仝          筑豐興業鐵道會社    小野久左衞門
025 仝          東京機械製造會社    石川 信剛
026 仝          自家營業        目角勘太郎
027 仝          死亡          粟野金次郎
028 仝          吉佐移民會社      堀内  實
029 仝          日本銀行        田中 淸方
030 仝          深川電燈會社      牧野豹三郎
031 仝          日本銀行        柏木  忠
032 仝          不詳          畑  農實
033 仝          鐵道廰         小林 盛枝
034 仝          新潟第四國立銀行    髙橋 直行
035 仝          不詳          杉崎 林直
036 仝          第壹國立銀行      廣瀬市三郎
037 明治廿一年(1888)七月 死亡          木村 準太
038 仝          第一國立銀行      横田嘉兵衞
039 仝          第百十九國立銀行    大谷登喜雄
040 仝          死亡          茨木 賀眞
041 仝          不詳          池上 齋吉
042 仝          文部省         島谷 孝信
043 仝          海軍大學校       武藤松太郎
044 仝          日本郵船會社      吉田 武延
045 仝          不詳          三浦 正智
046 仝          自家營業        小林呈八郎
047 仝          死亡          四本 助七
048 仝          帝國大學        小磯久次郎
049 仝          仝           尾關德太郎
050 仝          不詳          野々口勝太郎
051 仝          三井銀行        大坪 三郎
052 仝          日本鐵道會社      古津 魚足
053 仝          鐵道廰         戸谷賢次郎
054 仝          日本鐵道會社      山下勝三郎
055 仝          板紙會社        宮島萬喜多
※以降、明治廿二年(1889)七月卒業
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

高等商業学校 第一回卒業證書授与(明治22年3月)商法講習所・東京商業学校『卒業者名簿』【東京高等商業学校一覧】

高等商業学校 第一回卒業證書授与(明治22年(1889)3月)
商法講習所・東京商業学校『卒業者名簿』
【東京高等商業学校一覧】

高等商業学校 第一回卒業證書授与
 明治22年(1889)3月
 商法講習所創立以來今日ニ至ル本校卒業生
 卒業證書授与 118名 ※内訳・下記
 銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ卒業生
 卒業證書授与  55名 ※別稿に記載

商法講習所  卒業生  30名
 明治10年(1877)3月~明治17年(1844)2月
東京商業学校 卒業生  88名
 明治17年(1844)7月~明治21年(1888)7月

【東京高等商業学校一覧. 明治23-24年】
 高等商業學校沿革概略   p3/66
本校ハ明治十八年(1885)九月今ノ地ニ開設スト雖モ
其之ヲ創立セシハ實ニ明治八年(1875)ニ在リ
而シテ其間興癈沿革記スヘキ者甚タ多シ
今其要ヲ摘ミ之ヲ左ニ擧グ
 明治八年(1875)八月森有禮創メテ商法講習所ヲ
 東京尾張町ニ假設ス是則チ本校ノ濫觴ナリ
 -略-
十七年(1884)三月
本校ヲ農商務省ノ直轄官立學校ト爲シ
東京商業學校ト改稱
 -略-

(明治20年1887)十月本校ヲ高等商業學校ト改稱セリ
 -略-
廿二年(1889)三月本校及ヒ附屬科ノ規則ヲ改正シ
本科ノ修業年限ヲ三年トナシ
附屬主計專修科ヲ主計學校ト改稱ス
同月
商法講習所創立以來今日ニ至ル
本校卒業生百拾八名及
銀行事務講習所引繼以降主計專修科ニ至ル迄ノ
卒業生五十五名ニ
卒業證書授與ノ正式ヲ執行ス
 -略-

【東京高等商業学校一覧. 明治25-26年】
廿五年一月敎務委員規程ヲ定メ委員三名ヲ置キ
四月本校官制ニ據リ更ニ商議委員七名ヲ置ク
十一月第二回卒業證書授與式ヲ擧ケ
明治廿三年以後ノ本科卒業生百五十六名及
廿二年以後ノ附屬主計學校卒業生百二十五名ニ
卒業證書ヲ授與ス
    卒業生    p52/150
   卒業年月       就職場所        姓  名
※商法講習所
001 明治十年(1877)三月  自家營業        森島修太郎
002 仝          大坂商業學校      成瀬 隆藏
003 明治十年(1877)四月  長崎外國商舘      隈本榮一郎
004 明治十年(1877)七月  不詳          内村 恒之
005 仝       米國陸軍軍吏 ヂヨージ・エ・パアチヤルド
006 仝          雜貨營業        中川 榮吉
007 仝          死亡          山口 甫吉
008 明治十一年(1878)四月 日本郵船會社      松下 道久
009 仝          日本鐵道會社      倉西松次郎
010 明治十四年(1881)二月 自家營業        鈴木熊太郎
011 明治十四年(1881)二月 三井物産會社横濱支店  坂本 良五
012 明治十四年(1881)二月 死亡          鈴木 久孝
013 仝          三井物産會社上海支店  間島 興喜
014 明治十五年(1882)三月 死亡          田邊太郎一
015 仝          北海時論社       邨上 祐
016 仝          第一國立銀行朝鮮支店  西脇長太郎
017 仝          北海道製麻會社     羽田桂之進
018 明治十六年(1883)三月 三井物産會社上海支店  小室 三吉
019 仝          高等商業學校      原田貞之介
020 仝          死亡          長野源太郎
021 仝          神戸外國商舘      齋藤軍八郎
022 仝          横濱同伸會社      新井 貢
023 仝          海上保險會社      羽生 久安
024 仝          米國メーソン商會代理店 堀越善重郎
025 仝          甲部鐵道會社      安藤高太郎
026 明治十六年(1883)九月 死亡          篠  有道
027 仝          三井物産會社新嘉坡支店 福井菊三郎
028 明治十七年(1884)二月 鐵道廰         名倉竹次郎
029 仝          三井物産會社倫敦支店  大野市太郎
030 仝          茨城縣廰        三戸 得一
※ここから、東京商業学校
031 明治十七年(1884)七月 不詳          一瀬鐐之助
032 仝          在朝鮮         植野 繁太
033 仝          不詳          朝比奈庸吉
034 仝          横濱水道會社      田中元次郎
035 仝          在上海三菱銀行     宮塚亥之助
036 仝          東京灣滊船會社     佐藤 鐵三
037 仝          新潟商業學校      東 富五郎
038 仝          長崎縣師範學校     原口松次郎
039 仝          死亡          來島 久祐
040 仝          自家營業        小倉鈴之助
041 仝          大坂商業學校      草野 安吉
042 仝          死亡          鈴木 銶作
043 仝          第一國立銀行      須藤壯一郎
044 仝          死亡          陶山 與一
045 仝          日本銀行        山田 七郎
046 仝          米國桑港スミツス商會  藤田鉚之助
047 明治十八年(1885)三月 名古屋商業學校     高柳豐三郎
048 仝          名古屋商業學校     佐々木要一
049 仝          小樽商業學校      依田 貫一
050 仝          正金銀行倫敦支店    高杉 東一
051 仝          神戸十七番米國貿易商會 新井 謹三
052 仝          高田商會        草刈義三郎
053 仝          明治火災保險會社    原  錦吾
054 明治十八年(1885)七月 北海道製麻會社     福田 久德
055 仝          三井物産會社倫敦支店  藤瀬政次郎
056 仝          米國紐育サイモン商會  西川 一平
057 仝          三井物産會社本店    北邨七郎
058 仝          仝           朝比奈孝重
059 仝          三井物産會社上海支店  高木銕太郎
060 仝          自家營業        久原房之助
061 明治十九年(1886)三月 江州八幡中一商會    松尾 幹次
062 仝          廣島縣廰        佐々木虎太郎
063 仝          高等商業學校      奥村忠三郎
064 仝          日本銀行        鹽田 幸二
065 仝          日本鐵道會社      澤野 銀藏
066 仝          米國紐育グリブル・ヱンド・ナツシュ商會
                          中山三保太郎
067 仝          死亡          小林 喜一
068 明治十九年(1886)七月 北海道炭鑛鐵道會社   高野寛三郎
069 仝          不詳          伊東雄次郎
070 仝          大坂商業學校      岡野熊太郎
071 仝          鐵道廰         水野 專吉
072 仝          中外商業新報      兼子初太郎
073 明治二十年(1887)三月 自營          保田 安政
074 仝          横濱正金銀行      水島 銕也
075 仝          第百十九國立銀行    江口 定條
076 仝          三井鑛山会社      市邨 芳樹
077 仝          長崎商業學校      東 奭五郎
078 仝          不詳          四屋 章之
079 仝          外務省         須藤十二郎
080 仝          死亡          吉田 貞太
081 仝          商業素修學校      森田熊太郎
082 仝          鐵道廰         梅田信五郎
083 仝          内外用達會社      小林安之助
084 仝          外國貿易自營      丹野 茂樹
085 仝          神戸商業學校      丸岡久之助
086 仝          不詳          春名鏈之助
087 明治二十年(1887)七月 新潟商業學校      @尾野藤八
088 仝          自家營業        富田勝三郎
089 仝          死亡          中川 市郎
090 仝       横濱九拾三番舘ウイスコー商會 上村 淸一
091 仝          不詳          村松龜太郎
092 仝          日本鐵道會社      田崎  要
093 仝          高田商會東京本店    松田 好生
094 仝          死亡          滑川 桃作
095 仝          尾道商業學校      小原右馬允
096 仝          三池炭鑛社       岩田謙三郎
097 仝          横濱商舘        田中倍次郎
098 明治廿一年(1888)七月 海上保險會社      各務 謙吉
099 仝          高等商業學校      下野直太郎
100 仝          不詳          宮崎 律三
101 仝          神戸商業學校      髙橋鈴太郎
102 仝          死亡          駒井佳三郎
103 仝          神戸商業學校      稻田藤次郎
104 仝          日本鐵道會社      井上英七郎
105 仝          第百十九國立銀行    坂野 兼通
106 仝          赤間ケ關商業學校    武田勝太郎
107 仝          生絲業自營       錦戸 右門
108 仝          函舘商業學校      立花 寛藏
109 仝          大坂商業學校      太田 正躬
110 仝          名古屋商業學校     有村彦九郎
111 仝          在濠洲         松崎萬之丞
112 仝          大坂内外綿會社     榎本謙七郎
113 仝          大坂紡績会社      杉村仙之助
114 仝          三井物産會社神戸支店  田村  實
115 仝          鐵道廰         五島廣太郎
116 仝          代言人         窪田 熊藏
117 仝          大倉組神戸支店     篠田文次郎
118 仝          赤間ケ關商業學校    彌津 雄男
※以降、明治二十三年(1889)七月卒業
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

江口定條・水島銕也『東京商業学校』明治20年3月 卒業假證書ヲ授與【官報. 1887年03月23日】明治20年

江口定條・水島銕也『東京商業学校』
明治20年3月 卒業假證書ヲ授與
【官報. 1887年03月23日】明治20年

【官報. 1887年03月23日】明治20年
   〇教育  p4/7
〇生徒卒業
 東京商業學校ニ於テハ此程制規ノ試驗ヲ執行シ
 舊敎則ニ據リテ卒業セシ者ニ
 去ル十九日卒業假證書ヲ授與シタリ
 其姓名等左ノ如シ(文部省)
靑森縣士族  前田 安政  二十二年四箇月
大分縣士族  水島 銕也  二十二年十箇月
高知縣士族  江口 定條  二十二年
廣島縣平民  市村 芳松  十九年一箇月
長崎縣士族  東 奭五郎  二十二年
宮崎縣士族  四屋章太郎  二十二年一箇月
東京府平民  須藤十二郎  十九年六箇月
大分縣士族  吉田 貞太  二十一年二箇月
東京府平民  井澤熊太郎  十九年九箇月
廣島縣士族  梅田信五郎  二十年一箇月
東京府平民  小林安之助  十九年七箇月
東京府士族  丹野 茂樹  二十四年一箇月
東京府士族  丸岡久之助  二十一年一箇月
埼玉縣士族  春名鏈之助  二十三年三箇月
【官報. 1887年03月23日】p4-25
〔画像〕【官報. 1887年03月23日】p4

【官報. 1887年07月12日】明治20年
〇東京商業學校卒業生  p4/7
 -略-

【東京高等商業学校一覧. 明治23-24年】
  本校出身者姓名  p41/66
高等商業學校   森島修太郎
仝        成瀨 隆藏
大坂藤田組    水島 銕也
高等商業學校   江口 定條

【東京高等商業学校一覧. 明治25-26年】
明治二十年三月卒業  p55/150
横濱正金銀行     水島 銕也
第百十九國立銀行   江口 定條
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【議会制度七十年史. 第1】1960
   貴族院議員名鑑
江口 定條(えぐち さだえ)  p58/184
   勲三等 同和会
慶応元年4月生、本籍 東京都、
明治20年 東京高等商業学校卒
○同年 東京高等商業学校教諭となり、
 その後、港湾調査会臨時委員、臨時船舶管理局、
 軍需評議会の各評議員、三菱合資会社総理事、
 日本郵船(株)取締役、南満州鉄道(株)副総裁、
 (財)日華学会理事、その他諸会社重役、
 団体役員等となり、
 また対支文化事業調査会委員となる
〇在任(昭和7・6~21・3)
〇昭和21年3月14日死去
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

商法講習所(一橋大学の前身)森島修太郎、成瀬隆蔵[慶應義塾百年史:上巻]1958(昭和33年)

商法講習所(一橋大学の前身)森島修太郎、成瀬隆蔵
[慶應義塾百年史:上巻]1958(昭和33年)

五七二頁
 それから、今日の一橋大学の前身にあたる商法講習所には
森島修太郎、成瀬隆蔵らがいちはやく教師となっているし、
のみならず、同校が明治七年(一八七四)森有礼の首唱により
わが国最初の商業学校として、
富田鉄之助らとの協力のもとに設立された際、
この商法講習所設立の趣意書を草して大いにその挙を賞揚したのは、
ほかならぬ福沢諭吉自身なのであった。
 (注)明治七年十一月一日付の同趣意書については、
    すでに『福沢諭吉伝』第二巻および
    『続福沢全集』第七巻等に掲載されて、 ※下記
    内容は容易に知ることができるが、
    昭和三十年五月篤志家西川考治郎の好意により、
    当時刊行のままの原本が
    内閣文庫に所蔵されていることがわかって、
    その写真をもそっくり恵贈をうけた。
    すなわち、それによると、一七・八×一一・九センチ
    本文七葉の活版刷和本で、
    表紙に「商学校ヲ建ルノ主意 附商法学校科目並要領」とあり、
    いままで知られていた前文のほかに講習所の教科目とか
    予算書までが付加されている。
    この原本はさらに森有礼旧蔵本を森有剛が所蔵していて、
    それは『図説日本文化史大系』第十一巻『明治時代』に
    写真が載っている。
    ※赤字部:令和4年(2022)3月8日 19:08 追記 小野一雄
 -略-
p572[慶應義塾百年史:上巻]1958
〔画像〕p572[慶應義塾百年史:上巻]1958

五七三頁
前記の成瀬隆蔵のごときは、
このとき義塾から同所に移った同講習所第一回の卒業生で、
結局そこにながく残って教頭を勤めたり、
商業教育につくすことになったものである。
p573[慶應義塾百年史:上巻]1958
〔画像〕p573[慶應義塾百年史:上巻]1958
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《森島修太郎》
【慶応義塾総覧. 明治41年】
   第十九章 卒業生   p80/123
安政五年本塾創立ヨリ
明治六年ニ至ルマデ未ダ卒業ノ制ナシト雖モ
其在學年限學力其他ノ廉ニヨリ
卒業生ト同視スベキ者
《森島修太郎》       p81/123

《成瀨隆藏》
【慶応義塾出身名流列伝】明治42年
《成瀨隆藏》  p248/536
 三井同族會書記長
 東京市麴町區元園町一ノ三七
 (安政三年生)
 -略-
 -略-
卽ち慶應義塾に入る、
時に明治八年なりき。
十年頃に森有禮氏等相圖りて
銀座の鯛味噌屋の二階を借て、
商業講習所を開設するに當り、
氏は塾を退いて同講習所に入り
十二年に同所を卒業す、
卒業後同所を主宰せし矢野二郎氏の周旋により助敎授となり、
十八年高等商業學校と改稱すると同時に、
卽ち同校助敎授として入り敎頭兼幹事を勤む。
 -略-

福沢諭吉『商法講習所設立趣意書』明治7年11月1日
【福沢全集. 続 第7巻】昭和九年
   商法講習所設立趣意書  p226-227/374
 人間の事務は内外公私の別あるより
其有樣を比較せざれば輕重を斷ずべからず
 -略-
 -略-
米國の商法學士ホウヰツニー氏
積年日本に來りて商法を敎へんとするの志あり
森有禮・富田鐵之助兩氏の知る人なり
東京其他の富商大賈各其分を盡して
資金を出すの志あらば
兩氏も亦周旋して其志を助け成すべし
 明治七年十一月一日  森 富田兩君の需に應じて
     福澤諭吉記す
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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別府祐弘(七回)【成蹊と私】「朝陽」No.70 2021 Jun(創立100周年記念特集号)

別府祐弘(七回)【成蹊と私】
「朝陽」No.70 2021 Jun(創立100周年記念特集号)

「朝陽」No.70 2021 Jun
東京都立新宿高等学校〔府立六中〕朝陽同窓会
注)「桜満開の新宿御苑と東京都立新宿高等学校全景」
  別府祐弘(七回)撮影。
テニスコートと三角グランドでは新宿高生が元気一杯試合中。
屋上には「新宿高」と大書されたヘリポートとプールがある。
防災拠点としての防災設計。
画像拡大してご覧下さい。
またグーグルマップでもご覧下さい。
 別府随筆20210606_p1

【成蹊と私】 別府 祐弘(七回)
※画像クリックで拡大します。
 別府随筆20210606_p3-1
47 同窓会員寄稿随筆

(令和二年春の叙勲 瑞中
  教育研究功労 成蹊大学名誉教授)
※画像クリックで拡大します。
 別府随筆20210606_p4
48 同窓会員寄稿随筆
東京都立新宿高等学校朝陽同窓会
  同窓会会報 朝陽70号
発行日:2021年6月1日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[成蹊と私]別府祐弘
PDF:[成蹊と私]別府祐弘
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「令和2年春の叙勲 瑞中 教育研究功労 成蹊大学名誉教授 別府祐弘」

「令和2年春の叙勲 瑞中 教育研究功労 成蹊大学名誉教授 別府祐弘」

“コロナにも めげず朗報 叙勲の師”

 宮中参内令和2年8月28日
〔画像〕宮中参内令和2年8月28日

 恩賜の宮中絵葉書セット
〔画像〕恩賜の宮中絵葉書セット

条谷泉篆刻審査員出展作品令和2年日書展
(祝感謝)田中愛治早大総長:「早稲田の誇り」ワイン
条谷泉篆刻審査委員出展作品:令和二年日書展等

如水会井の頭支部一同
お祝い
如水会井の頭支部一同

PDF「功績概要・功績調書・履歴書・著書・論文一覧」
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[成蹊と私]別府祐弘

[成蹊と私]別府祐弘

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[昔、父に聞くあり]別府祐弘

[昔、父に聞くあり]別府祐弘

 

PDF[昔、父に聞くあり]別府祐弘

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心の力と学風 成蹊大学名誉教授 別府祐弘:第297号 花園神社社報 令和2年1月26日

心 の 力 と 学 風

 

成蹊大学名誉教授

旧四谷第二中学校 片山文彦名誉宮司同級生  (べっ) () (ゆう) (こう

 

一 意志の力

 「心 志あれば、必ず便宜あり」

強固な意志の力さえあれば、必ずや道は拓ける。

 

 東京帝国大学教授・女子高等師範学校初代校長・貴族院議員で

文明開化の旗手であった中村正直は、

明治4年の著書「西国立志編」

(明治時代の100万部超ベストセラー)の中で、

英国人スマイルズの言葉をこのように訳しました。

【西国立志編:仮名読改正.第1編】

明治1512月出版 斯邁爾斯(スマイルズ)【原著】

中村正直 原訳 中村秋香 和解(有終堂 1882)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755565/6

 

 昌平黌教授・安積艮あさかごんさい門下の岩崎弥太郎

(武士的実業家/孫子の兵法をビジネスに応用)と

中村正直は同じ考え方を共有する同志故に、

岩崎は三菱財閥企業の人材の多くを小石川にあった

中村正直の私塾・同人社(~1888)に頼っていたといわれています。

しかも本書を和解した女子高等師範学校教授・

宮内省御歌所寄人・中村秋香が

成蹊学園創立者・中村春二の尊父であったことから、

成蹊の建学精神「心の力」の由来は正しくこの一文にあります。

 

 因みに、成蹊人(成蹊小・中・高・大卒)

安倍晋三内閣総理大臣の初の施政方針演説

(第185回国会2013/1015)で高く掲げられ強調された

「意志の力」(=成蹊の建学の精神〝心の力〟)を旗印にして、

現在の日本丸は荒海を驀進中です。

https://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement2/20131015shoshin.html

 

二 篤実と実学

①大事に耐えるには篤実でなければならぬ

 たとえば 

②基礎が堅固で家が築けるようなもの

③君は実行を重んじかくて弟子を教えた

④学風を後に伝えてきわまることはない

※篤実とは、誠実で相手の立場を考える気持が強い様子

 

 豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛(如水)の扇城本丸(大分県中津市)には、

曽祖父の『大久保麑山(げいざん)先生紀念碑』が1888年、明治21年に建立され、

右記のような顕彰碑文が刻まれています。

この碑文を撰した幕府学問所以来の同志・

中村正直自身の学風でもあるといわれています。

 

そしてこの「中村正直文庫」が岩崎家より寄贈されて

成蹊大学図書館にあることが、

1966年以来成蹊と私を結びつけたご縁でした。

この碑文こそが、実学としての経営学を私に専攻させた理由であり、

これを講じて36年間、研究教育活動に従事させて頂きました。

 

 その間、経済学部経営学科・大学院経営学研究科修士課程・

博士課程及びアジア太平洋研究センターの創設に参画しました。

そして、成蹊の原点である実務学校(実科中学)・

実業専門学校(高等商業学校)の伝統の上に、

この碑文で中村正直に称えられた大久保麑山(げいざん)の学風

(≒岩崎弥太郎・中村正直の考え方)を重ね合わせて成蹊で展開すべく、

心の力により私なりに努めて来た次第です。

 

因みに大久保麑山(げいざん)の学風②③が

成蹊実務学校の「活きた学問の指導」であり、

大久保麑山(げいざん)の学風①③が

成蹊の「道徳の実践躬行」「桃李不言 下自成蹊」です。

 

三 成蹊大学経営学部創設

 ところで成蹊は

「(1917年・大正6年)

岩崎小彌太を社長とする三菱合資会社の要請により、

実業界における人材の育成を目的として

成蹊実業専門学校を開校しました。

専門学校でありながらも鍛錬を通じた人格(心の力)教育を基調とし、

内容的には高等商業の学科目を加えた高等学校、

あるいは高度な大学課程に準ずるものでした。」

(成蹊学園案内)

 

 江口定條(えぐち さだえ)

(1887年東京高商卒一期生、三菱合資会社入社、1920年同社総理事)が

三菱側実務の中心になって尽力したことは想像に難くありません。

折しも1919年・大正8年に東京商科大学に昇格した母校に続いて、

さぞかし成蹊にも商科大学への道を歩んでいって欲しかったことでしょう。

首席卒業後数年母校の教員をしていたところ声をかけられて

三菱に入ったのですから

(湯本憲二著【財界の名士とはこんなもの?第1巻】

 大正13年 事業と人物社 58頁)、

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/38

実業教育に対する思い入れは並々ならぬものがあったはずです。

しかしその後成蹊学園は諸般の事情により、

「…実務学校と実業専門学校を廃止し、

小学校から七年制高等学校へと続く(普通教育)一貫体制に改め、

校地も市街化した池袋から、郊外の吉祥寺へ移すことを決定したのです」

(成蹊学園案内)

 

「…君は先年突如としてこの要職を退いて

評論子たらざる世人をアッと驚かした。

この時同王国の連中は、

ハハア両雄並び立たずかな、てなことを言って

いやに消息通がったものだが、未だにその真相は判らずに居る。」

(湯本憲二著 前掲書 59頁)

 

ここで両雄とされているのは、

三菱のもう一人の大番頭・木村久寿弥太総理事のことです。

 

 彼の屋敷は吉祥寺北町筆者宅の北側向こう三軒隣にあり、

彼の義弟の鮎川義介邸となった後、

現在は竹中工務店の社宅アパート群に代わっています。

扶桑通りを挟んだその向かいの広大な岩崎農園

(成蹊のキャンパス)の中に岩崎別邸があり、

四代目の岩崎小弥太社長はここに陣取って

木村総理事に助けられながら、

三菱各社に最高司令を下すことも多かった。

 

江口邸は京橋(別邸は国分寺の殿ヶ谷戸庭園)に、

三菱合資会社は東京駅前にありました。

なお現在の岩崎別邸はお屋敷門を残すのみです。

 

「…評論子も敢えてこれが原因を追究する義務もなければ、

必要もないから先ず

『…教育事業に対する意見の相違』と言う

当時の消息子の傳えたところを其儘借用して置くこととする。

…ある人は君を評して謙譲温厚、一見長者の風があると云ったが、

蓋し当たらずとも遠からずである。

…何れにしても斯くの如き人材を失った三菱の損害は

有形無形にたいしたものであらう。

江口君たるもの、何にも三菱だけが天下ではない、

社会はもっともっと廣い、

君だけの手腕力量人望があれば、

どんな大仕事でもできるのだから、

一つ、大いにやって現三菱のボンクラ理事共をアッと云わせて下さいな。」

(前掲書60頁)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914370/39

 

 江口定條(さだえ)は三菱を辞職し、

病床にあった成蹊創立者中村春二は

この決定で病状を悪化させ苦悩しつつ逝去しました。

翌1925年・大正14年4月池袋から吉祥寺へ移転し、

10万坪(現在は7万坪)の岩崎農園跡地に

7年制成蹊高等学校が発足しました。

 

 同年、貴族院議員・満鉄副総裁・江口定條(さだえ)は、

一橋大学同窓会の依頼により、

黒田官兵衛の隠居号・如水の由来する漢詩から

渋沢栄一が命名した如水会初代理事長に就任しました。

それから実に約一世紀の時を経て、

この江口如水会理事長や中村春二成蹊学園創立者の遺志を継ぎ、

成蹊大学が経済学部創設五十周年を盛大に祝ったうえで現在、

2020年4月を目指して経営学部を新設しようとしていることは

誠に芽出度くもあり、感慨深いところであります。

 

四 学風

 江口定條(さだえ)は草創期の成蹊に、

また初代・二代・四代如水会理事長・東京高商教員として

一橋大学にも大きな貢献をしました。

大分県中津市金谷の水島公園にある「水島鐵也先生生誕之地碑」に、

東京高商同期・学寮同室で生涯の親友であった江口は揮毫しています。

そこには一橋大学校章のマーキュリーの杖が

高々と掲げられ刻まれているのです。

 

 大久保(おおくぼ)麑山(げいざん)門下中津藩士・水島六兵衛長男で

西南戦争南洲軍生き残りの水島鐵也は神戸商業講習所に学び、

大久保麑山(げいざん)隊長のもとで長州征伐・戊辰戦争生き残りの中津藩士の

初代校長・甲斐織衛に大久保麑山(げいざん)の学風を改めて叩き込まれました

(士魂商才=心の力と篤実・実学)。

そして東京高商生え抜きの東京高商専門部初代主任教授・

付属商業教員養成所初代所長として

草創期の東京高商の学風と基盤づくりに大きな足跡を残して、

神戸高商を開学し大学昇格決定まで約30年の長きにわたり校長を務めあげ、

大学昇格の日を待たず旅立っていきました。

 

神戸大学本館と愛弟子・出光佐三記念図書館の間にある

朝倉文雄作・水島鐵也先生胸像台座には、

渋沢栄一揮毫の大銅板がはめ込まれています。

 

 さて大宰相・吉田茂が在籍していたこともある

東京商科大学に昇格した大正8年に、

水島鐵也神戸高商校長の推薦により

東京高商専門部に編入学したのが、

一橋大学初代学長中山伊知郎(水島愛庵会員)です。

草創期の東京高商に植え付けられた

水島鐵也(大久保麑山(げいざん))の学風は

確実に一橋大学にも受け継がれているはずです。

 因みに大久保麑山げいざんの学風①②が

渋沢栄一の「知識と道徳の密着」であり、

大久保麑山(げいざん)の学風②③が

渋沢栄一の「学問と実践の密着」です。

④学風を後に伝えてきわまることはない。

        (成蹊大学名誉教授)

 

追記①=P・F・ドラッカーが

岩崎弥太郎と渋沢栄一を取り上げて

大いに賞賛していたことは比較的よく知られている。

「この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ

3分の2を作り上げたのである。

たった2人の人間が、

一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例は

どこにも見当たらない」

 岩崎・渋沢共に人材育成重視。

行政府のエリート官僚養成の東京帝国大学と同格の、

ビジネス・エリート人材を育成する必要性痛感。

 

追記②=ヤフー・グーグル等で以下の言葉の幾つかを検索すると

ユーチューブが出てきます。

別府祐弘は前列左から二人目です。

「如水会 佐野書院 歌の会 宇宙戦艦ヤマト」

https://www.youtube.com/watch?v=ptGCM6Ola7s

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

別府祐弘氏寄稿文

 今回「心の力と学風」をご寄稿頂いた別府祐弘氏は片山文彦

名誉宮司の旧新宿区立四谷第二中学校三年C組時代の同級生であり、

先月ご夫妻で金婚式奉告祭の為、当社に来社された。

 これからも亡き名誉宮司に代わり末永くご指導ご鞭撻を賜りたく思う。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

297号 花園神社社報 令和2126

発行所 花園神社社務所

160-0022

東京都新宿区新宿5-17-3

電 話(3209)52654586

FAX(3209)5645

編集発行人 片山裕司

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