[檜山村誌]平成5年

山内又四郞定俊、丹波法華寺を創し、祖衷(丹嶺)を開山に請す、是日、祖衷入寺す【曹洞宗大年表】昭和10年

【曹洞宗大年表】昭和10年
著者    大久保道舟 編
出版者   仏教社
出版年月日 昭和10
皇紀 2355 天皇 東山 年號 八 干支 乙亥
支那年代 〔淸〕(聖祖) 康煕三四 
西曆 1695(元禄7年?)
四月十二日
是より先、山内又四郞定俊、丹波法華寺を創し、
祖衷(丹嶺)を開山に請す、
是日、祖衷入寺す
(大陽開山丹嶺禪師紀年錄)
 p438【曹洞宗大年表】昭和10年
p438【曹洞宗大年表】昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1264337/1/438
昭和十年十月十六日印刷 【曹洞宗大年表】
昭和十年十月二十日發行 (定價金拾參圓)
編纂者 大久保道舟
    東京市世田谷區上馬町二丁目一二〇九番地
發行者 來馬琢道
    東京市淺草區新谷町一〇番地
印刷者 寺井藤左エ門
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目一二番地
印刷所 大日本印刷株式會社
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目一二番地
發行所 佛敎社
    東京市淺草區新谷町一〇番地
    (振替東京一四七五)
    (電話根岸一五三二)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1264337/1/953
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月21日05:00
安養山 西岸寺(元松壽山誓願寺)2/2[檜山村誌]平成5年4月
法華寺(法花寺)廃寺 p681
宗 派 曹洞宗
所在地 字中台小字原
開 創 元禄六年(一六九三)
    石川県石川郡小立野村本寺
    宝円寺九世円嶺祖衷大和尚の開山にして、
    開基は山内定俊、同区内山内一族の菩提寺で、
    開山以来二十余世大等知蔵和尚以後
    西岸寺の兼務寺となり昭和三十年(1955)合寺し、
    現在寺跡と墓地のみ遺され、
    墓地には卵塔十四基と開基傑岩浄俊居士
    一性妙輪大姉刻銘の石塔がある。
     寛永三年(一六二六)山内定俊開創の説あり。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年01月17日05:20
山内又四郎《中臺村》當村に字二ノ丸と申古跡御座候
【船井郡誌】大正4年
法地 法華寺 曹洞 ― 寛永三年
山内定俊 大字中臺小字並河
 中臺村 p182/196
  山内又四郎
一 私先祖當所山内之庄領主谷山城と申ものゟ
  十一代に相成申候、
  則當村に字二ノ丸と申古跡御座候、
  代々私共支配仕來候。
一 寶永元申歳十二月帶刀仕度儀奉願候處
 ※宝永1年申12月:1704年12月
  同二酉歳願之通被仰付候。
 ※宝永2年酉:1705年1月
一 同六丑春ゟ御直被仰付候。
 ※宝永6年丑:1709年2月
   古來ゟ帶刀之者と相傳ヘ候、
   元祿年中帶刀御停止之節中絶仕候ゆへ、
  ※元禄年中:1688年~1704年
   追而帶刀相願被仰付候と相傳へ候。
   御直禮之事御銀之才覺御用等相勤候者故
   寶永六年ゟ御直禮被仰付たる趣に相傳候。
  ※宝永6年丑:1709年2月
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京丹波町の城【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年(1925)

【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年(1925)
著者    太田亮 著
出版者   磯部甲陽堂
出版年月日 大正14
  第五節 船井郡
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/97
須知城(須知村)
 須知主水景氏の居城也。
 須知氏、また志宇知氏とも云ふ。
 淸和源氏にして赤井と同族也と云ふ。
 六郎景澄が末孫主水景氏
 戰國時代波多野氏に屬す。
 太平記には志宇知とあり。

井尻城(井尻村)
 安田若狭守の居城也と云ふ。
 安田氏は武田氏の族か。

三ノ宮城(三ノ宮村)
 山の内甚右衞門弟小太夫等居住す。

鎌谷城(鎌谷村)
 細見河内守の居城也。
 細見氏、天田郡細見村より起る。
 武内宿禰裔紀氏の族也。

橋爪城(橋爪村)
 山内伊勢守通意の居城也。

檜山城(檜山村)
 柴田氏此地に住居す。

出野城(和知谷出野村)
 片山彦五郎の居城也、
 小野木縫殿介と戰ひ討死す、
 一族に伊豫守有重あり。
〇井上氏 鎌谷城の家士。
〇金川氏 鎌谷城の家士。
〇内藤氏、
〇船井氏、船井郡より起る。
p98【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年
p98【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/98
大正十四年三月十五日印刷 丹波・丹後
大正十四年三月十八日發行 定價金貳圓參拾錢
著 者 太田  亮
發行者 磯部辰次郎
    東京市日本橋區鐵砲町六番地
印刷者 田中常太郎
    東京市神田區表猿樂町二番地
印刷所 三誠社
    東京市神田區表猿樂町二番地
發行所 磯部甲陽堂
    東京市日本橋區鐵砲町六番地
    振替東京一五〇五六番
    電話大手六六八七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/206
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丹波霧の里
京丹波町  兜山 八田城・井尻城 ・坂井城・
垣内城・橋爪城・三宮城・三宮東城・井脇城・豊田城
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京都府船井郡京丹波町(瑞穂町)井脇<別所>【月刊状況と主体 (156)】昭和63年(1988)

【月刊状況と主体 (156)】昭和63年(1988)
著者    谷沢書房 [編]
出版者   谷沢書房
出版年月日 1988-12
蝦夷〝征伐〟の真相(74)丹波国の別所(続) / 柴田弘武/
https://dl.ndl.go.jp/pid/2207928/1/82
 七、京都府船井郡瑞穂町井脇<別所>
   ―略―
〔写真〕瑞穂町井脇 別所古墳・別所付近
高屋川の西、小字別所には
別所一号・二号墳(円墳)があり、
いずれも山麓の台地にある。
一号墳は径十四メートル、高さ三メートルで、
頂部に稲荷の小祠が祀られるが、
横穴式石室を有し、ほぼ完存する。
二号墳はこれよりやや小型で半壊しており、
横穴式石室は
長さ四・三メートル、幅一・二メートルである
(『歴史地名大系』)。

井脇の上流域は三ノ宮であるが、
ここにはこの地方では珍しい
横穴遺跡が一か所発見されているが、
半壊しているという。

また下流域の中台(ちゅうだい)中島に円墳一基、
中台桜池には須恵器登り窯跡群がある。
奈良前期から平安初期の遺跡だという。
ここにも古墳が八基確認され、
いずれも後期のものと推定されていて、
うち七基が円墳で、
また五基が横穴式石室である
(『地名大辞典』)。
p86【月刊状況と主体 (156)】昭和63年(1988)
p86【月刊状況と主体 (156)】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2207928/1/86
月刊 状況と主体/第156号/88年12月号/
1988年11月10日発行
編集人・岡田道枝
発行・谷沢書房/東京都文京区本駒込5-72-14
        よしかたビル 〒113
電話・03(946)6681/振替・東京1-193671/
銀行振込・三菱銀行駒込支店061-4404234
定価・850円/購読料・半年4,900円、1年9,600円
https://dl.ndl.go.jp/pid/2207928/1/90
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船井郡京丹波町(瑞穂町)【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)

【全国遺跡地図:史跡・名勝・天然記念物および
 埋蔵文化財包蔵地地図 京都府】昭和50年(1975)
出版者   文化庁文化財保護部
出版年月日 1975
   例  言
3. 『京都府遺跡地図』昭和47年(1972)3月発行
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/6
番号 名  称     種別   所 在 地    位置
14
001 皿引野古墳    古 墳  瑞穂町皿引野    a2
002 中台遺跡     散布地  瑞穂町中台中島   a3
003 中島古墳     古墳(円) 瑞穂町中台中島   a3
004 桜池窯跡     窯 跡  瑞穂町中台桜池   a3
005 天ヶ棚1号窯跡  窯 跡  丹波町中台天ヶ棚  a3
006 天ヶ棚2号窯跡  窯 跡  丹波町中台天ヶ棚  a3
007 天ヶ棚3号窯跡  窯 跡  丹波町中台天ヶ棚  a3
008 天ヶ棚4号窯跡  窯 跡  丹波町中台天ヶ棚  a3
009 院内窯跡     窯 跡  丹波町院内     a3
p58【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
p58【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/58
〔地図〕
p20【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
p20【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/20

番号 名  称     種別   所 在 地    位置
11
137 三ノ宮校裏山横穴 横 穴  瑞穂町三ノ宮    c2
138 薬師寺跡     寺院跡  瑞穂町鎌谷中寺ノ谷 d2
139 薬師寺窯跡    窯 跡  瑞穂町鎌谷中寺ノ谷 d2
140 鎌谷城跡     城 跡  瑞穂町鎌谷中    d2
141 コハケ谷古墳   古墳(円) 瑞穂町井尻コハケ谷 d2
142 丁谷古墳     古墳(円) 瑞穂町井脇丁谷   d2
143 別所1号墳    古墳(円) 瑞穂町井脇別所   d2
144 別所2号墳    古墳(円) 瑞穂町井脇別所   d2
145 谷古墳      古墳(円) 瑞穂町和田 谷   d2
146 和田狐塚古墳   古墳(円) 瑞穂町和田諸内   d3
p57【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
p57【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/57
〔地図〕
p17【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
p17【全国遺跡地図:京都府】昭和50年(1975)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/17
全国遺跡地図 京都府
昭和50年3月20日印刷
昭和50年3月31日発行
発行者 文化庁文化財保護部
〒105  東京都港区西新橋3丁目5番2-202号
印刷者 財団法人 国土地理協会
    電話 代表(433)1561
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573632/1/81
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《城跡》橋爪城・大朴の城山・井尻城・八田城[檜山村誌]平成5年

[檜山村誌]平成5年(1993)
  第二節 城跡
(1) 橋爪城
船井郡誌によると承久の乱(一二二一年)後、
丹波の守護は北条時房-時盛-時益が、
又、南北朝期は、
仁木頼章-頼夏-義伊などで、
室町時代には山名時氏-氏清、
次いで明徳三年(一三九二年)以降は
細川氏が八代に亘って当地を支配した。
こうした中で地方豪族層の出現が多数あり、
山内氏は当地に於て早くから勢力を有していた。
橋爪城は山内一豊の祖父
久豊の居城であったと称されている。
而し山内伊豆守憲邦、
山内越後守憲方などの居城は字三ノ宮であり、
三ノ宮城址として残っている。
[檜山村誌]第一節 遺跡p826
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p826

一説によると橋爪城は
山内出羽守長宗の居城であるとも称されている。
城址は丹波誌によると、
橋爪常照寺の卵塔場東側の坂道を上った所にあって、
本丸は二四m~一四mの規模で
高さ一m、長さ一八m、幅二mほどの
土塁が北側を限っている。
本丸の上には更に一四m~六mの高台があり、
この高台の北側にも高さ二m巾二mほどの土塁がある。
この高台が最高所の居館跡とすると、
天守台の祖形とも考えられる。
本丸には井戸跡らしい凹地があり、
本丸の南側の一段下った郭にも
池か泉の跡と思われる六ヶ所の凹地がある。
また南郭には三方に土塁がめぐらされていた痕跡があり、
また南郭の東南には城戸口があって、
下方の数郭にも同方向に入口の門が認められる。
城主は山内但馬守盛豊等四代に亘り、
廃城後は桧山に蟄居すとも記されている。
一説によると城跡が橋爪山内家の上の高台にもあり、
近藤家の持山との間に堀の跡があり、
こゝにも何等かの形で居城を構えていたとも考えられる。

(2) 大朴の城山
旧村時代避病院のあった地で、
この土地を大朴方面からは道場ヶ谷と呼び、
和田方面からは飼馬谷と称していて、
大朴の城山と言われているが、
地方の豪族等の見張番の地と推意される。

(3) 井尻城(丹波誌による)
井尻区内中央部消防器具置場のあたりより
西に向って井尻川を渡った所の
城山と呼ばれているのが井尻城跡である。
谷垣氏は「往古谷口と名乗り坂井の城主であったが、
井尻の城主谷垣兵部と
[檜山村誌]第一節 遺跡p827
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p827

市場の束の山に戦い討死す。
今其所を武士谷と云う」
と丹波誌では書かれている。
本丸を中央にして東、西側にそれぞれ郭が接しており、
両端凡そ五~七mの急斜面に掘られた空堀となっている。
また南側の空堀に連なる二三m×一七mの規模の西ノ丸には、
幅約四m長さ約十一m、高さ約一mの土塁があり、
その中央は通路のようにくぼんでおり、
同形の土塁は本丸の東の郭の北端にも認められる。
さらに、本丸と西の郭との間には
中央櫓の跡かとみられる高まりがある。

(4) 八田城
国道一七三号線高畑の北方にそびえる山があり、
そこに八田城があったと伝えられている。
丹波誌によると
「八田ノ井尻 村上氏先祖ハ
当 奥八田村ノ古城主ノ子孫ニテ
往古 信濃ノ国ヨリ来往ス」とあり。
また
「吉田氏本苗 上原氏 
先祖ハ則チ八田村ノ古城主上原氏ノ分流也。
下八田村 山王権現ノ棟札ニ曰ク、
文安元年(1444)上原久左衛門ト記ス」
ともあり
八田村城主が上原氏であったことが考えられる。
「遠山文書」の「中津川秀家申忠状」によると、
観応三年(正平七・一三五二)七月十四日の記述に、
八田の地名が二ヶ所記されている。
本丸は一二m×一九mの規模で、
北西の尾根には階段上に下りながら五つの郭があり、
南の尾根にも同様四つの郭があって、
輪郭型式がとられている。
附近には巨岩が多いが、
それらが巧みに防衛線に取り入れてある。
[檜山村誌]第一節 遺跡p828
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p828
 桧山村誌
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
    桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
    (非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
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《遺跡》中台遺跡・別所一号墳・別所二号墳・丁谷古墳・皿引野古墳・谷古墳・コハケ谷古墳[檜山村誌]平成5年

[檜山村誌]平成5年(1993)
  第一節
(1) 中台遺跡
縄文時代から古墳時代にかけての遺跡として
中台地区に遺跡があり、
散布地集落跡の可能性もあり、
縄文弥生土器片、土器須恵器、
磨製石斧片も出土している。
また中台中島には円墳一基、
中台桜池には須恵器登り窯跡群がある。
奈良朝前期から平安初期の遺跡で、
古墳が八基確認されている。
そのうち七基が円墳で、
また五基には横穴式居室がある。
(船井郡誌)

(2)(イ) 別所一号墳
字井脇別所にあり、
台地径一二~三・〇米の円墳で、
頂部は平坦で稲荷の小祠をまつる。
横穴式石室自然石二枚は露出している。

(2)(ロ) 別所二号墳
字井脇別所にあり、
円墳で径一〇米、高さ〇・五米、
横穴式石室跡であって、
長さ四・三米、巾一・二米
巨石が露出している。

(2)(ハ) 丁谷古墳
字井脇丁谷にあり、
丘陵の陵を切った如き様子で
径四米、高さ〇・七米、
墳頂に墓石あり。

(3) 皿引野古墳
台地あり古城があったと伝えられるのみ。
[檜山村誌]第一節 遺跡p823
〔画像〕[檜山村誌]第一節 遺跡p823

(4) 谷古墳
字和田谷にあり、
横穴式石室、
過去石材搬出されると伝えられる。

(5) コハケ谷古墳
井尻コハケ谷にあり、
横穴式石室で自然石が多数寺の東側に置いてある。
須恵器(𤭯、広口つぼ、長頚台付つぼ、無蓋高杯、
杯身三、その他破片多く出土)する。
(古えの桧山の項参照)

(6) 米屋の道標
   ―略―
[檜山村誌]第一節 遺跡p824
〔画像〕[檜山村誌]第一節 遺跡p824
 桧山村誌
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
    桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
    (非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
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安養山西岸寺(京丹波町中台桜梅)の朝焼け:令和2年(2020)1月7日7時14分

安養山西岸寺(京丹波町中台桜梅)の朝焼け:令和2年(2020)1月7日7時14分

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〔画像〕CIMG6007-50

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〔画像〕CIMG6008-50

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〔画像〕CIMG6009-50

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〔画像〕CIMG6011-50
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月19日 05:10 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
安養山 西岸寺(元松壽山誓願寺)1/2[檜山村誌]平成5年4月
安養山 西岸寺(元松壽山誓願寺) p675
宗 派 曹洞宗
所在地 字中台小字桜梅一番地
   ※京丹波町中台桜梅一番地 ※桜梅(さくらうめ)
開 創 天智七年(六六八)
開 基 和泉式部念称恵意比丘尼
本 山 吉祥山 永平寺
    諸嶽山 総持寺
本 寺 龍沢寺 船井郡日吉町字胡麻 ※南丹市日吉町
開 山 大本山永平寺二十四世日照孤峰龍札禅師
    寛永十年(一六三三)曹洞宗に改宗
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西岸寺(京丹波町中台桜梅)住職 初鹿野徹明:HP[金桂山 寶昌寺]より

西岸寺(京丹波町中台桜梅)住職 初鹿野徹明:HP[金桂山 寶昌寺]より

[金桂山 寶昌寺]

[寶昌寺の歴史]
[金桂山 寶昌寺の紹介]
本 尊:薬師如来
所在地:京都府船井郡京丹波町曽根曽根北24
○郵便番号:622-0232
○電話:0771-82-1294
○FAX:0771-82-1294
○メールアドレス:tetsumyo@ybb.ne.jp
創立は不明、曹洞宗開宗 長録三年(1460年)
金桂山 寶昌寺の歴史

[住職の紹介]
●住職
 初鹿野 徹明(はじかの てつみょう)
●略歴
 1955年 生まれ
 1977年 武蔵工業大学 工学部 経営工学科卒業
 1978年 曹洞宗 伴 鉄牛老師について得度
 1978年 曹洞宗 大本山 総持寺に安居
 1979年 曹洞宗 大本山 総持寺の修行を終える
 1981年 曹洞宗 信州の真興寺住職となる 

 以後日本各地の禅師。上人に就いて仏道修行を続ける。
 1999年・2000年 世界各地を訪問し、精神世界(仏教)の研鑽を続ける
 2001年・2002年 インドの聖地や聖者を訪ね仏教の真理を探求する。
 2006年 曹洞宗 京都の寶昌寺・常願寺・千峰寺(3ヶ寺)の住職となる

[行事内容]
寶昌寺の活動内容

[法話会予定]

[老学 無門関]
無門関について

[老學 伝光録]

[ギャラリー]

[大宇宙]

[徹明和尚自伝]
1.誕生(宿命的な誕生)
徹明和尚は、1955年3月3日に東京都品川に生まれました。
徹明和尚の母は、徹明和尚の生まれる前に不思議な夢を見ました。
それは、母が地下の暗いところに居た所を、若いお坊さんが現れて、
手を差し伸べて助けてくれた夢でした。
後に徹明和尚が僧侶になることは、
すでに運命的に決まっていたのかもしれません。
2.青年期(運命的な出会い)
 ―略―
3.猛烈な修行の日々
25歳の時、信州の山寺に住職することになり、
真の仏教の悟りを目指し、徹夜で座禅したり、
本当に猛烈な修行を開始しました。
兎に角、真剣に毎日、修行にあけくれていました。
4.連戦練磨の旅(悟りの旅)
自から悟りを深めるため、あらゆる禅師、
上人また覚者に教えを請う修行の旅を続けました。
また、僧侶だけの生活では、浮世の人々の気持ちが分らないと考え、
俗世の生活もしながらさらなる、深い修行を進めて行きました。
5.布教の開始(一切衆生の済度)
50歳になってから、釈尊の導きにより京都のお寺の住職に就任し、
いよいよ一切衆生の済度の為、
真の釈尊の教えを伝えてべく布教活動を開始することになりました。

[嶋田本妙老師]
[嶋田本妙老師の物語]
(1917年4月23日~2006年11月25日 世寿89歳)
               平成19年7月28日
                    老學 徹明
ここに、どうしても後世の人に残したい物語があります。
私は、今まで出会った人のなかで、
これ程無欲の人に会ったことがありません。
優れた境地にいながら、一生、何も保持せず、
仏様の使いとして尊い生涯を全うした
嶋田本玅(しまだ ほんみょう)老師の物語を書き残したいと思います。
 嶋田本玅老師(89歳)の最後のお写真です。
 (2006年6月9日に宮崎県延岡市北浦町市振のご自宅で撮影したものです。)
 ―略―
出生:大正6年4月23日、
宮崎県延岡市北浦町市振の漁村で嶋田本玅老師は、お生まれになりました。
兄弟は、多く7人兄弟と聞いています。
その4番目が嶋田本妙老師(以下嶋田老師と致します)であったようです。
最初のお名前は、儀三郎であったと思います。
幼少期: ―略―

[リンク]
kokorozen(ゆらぎの会)
樫野弘美さんのHP

[連絡先]
ここに連絡先を書きます。
〒622-0232 京都府船井郡京丹波町曽根曽根北24
■メールアドレス: tetsumyo@ybb.ne.jp
■電話番号 : 0771-82-1294
■ファックス: 0771-82-1294
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合氣道 吉照塾
亀岡道場 一般の部  昇段者
初鹿野 徹明     3段    (平成29年4月付)
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唯心は・和・輪
6品が一つのお皿に・・・そんな展示会です!
2011/5/3(火) 午後 11:35
初鹿野 徹明 作
     お寺の御住職
     水墨画 「達磨大師」
     何度か徹明さんの達磨を大師を拝見してますが
     新作のこの達磨さんに、より生身を私は感じます
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池乃屋日誌
法話会。
2012-04-25 00:42:26
初鹿野 徹明住職をお招きして法話会を開催いたします。 
初鹿野住職は水墨画もたしなまれ、 
その縁あって唯心での法話会開催のはこびとなりました。 
初心者の方も気軽に仏道にふれられる機会です。 
皆様どうぞお越しください。 
講師: 初鹿野 徹明(老學 徹明)住職 
月日:平成24年5月6日 (日) 
時間:13時~15時まで 
会費:初回は無料です。 
予約:なし(ご自由に参加できます)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月19日 05:10 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
安養山 西岸寺(元松壽山誓願寺)1/2[檜山村誌]平成5年4月

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月21日 05:00 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
安養山 西岸寺(元松壽山誓願寺)2/2[檜山村誌]平成5年4月

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年12月18日 18:33 ◆京丹波町 [檜山村誌]平成5年
《和泉式部の墓》:[檜山村誌]
墓近くの西岸寺の過去帳にも死亡年月日が
長暦四年三月二十一日と記され、
位牌は過去帳に基づき新しく作ったのだが、
法名は和泉式部念唱專意比丘尼とある。
中台和泉式部の墓については、
中台区出身伊藤正雄氏の「和泉式部を偲ぶ」、
元・須知高校教諭芦田氏の「和泉式部考」などいろいろ考証されているが、
歿年など正暦とあるもの長暦とあるもの種々あって明らかでないので、
中台西岸寺の記述にも記されているが
長暦四年(一〇三八)三月歿すと推定することとす。
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《坪井法眼》名古屋市中區古渡町 東海寺現董【曹洞宗名鑑】大正5年

《坪井法眼》名古屋市中區古渡町 東海寺現董【曹洞宗名鑑】大正5年

【曹洞宗名鑑】大正5年
《坪井法眼》 p153/256
 名古屋市中區古渡町 東海寺現董
師は名古屋の人、
中學林を經て、
明治卅六年(1903) 曹洞宗大學林卒業、
尋いて現住地に住職し專ら地方布敎に盡瘁す、
名古屋市には名刹大藍櫛比し、
老々大々の宗匠雲集するも
何れも皆
御前樣氣取りで雲深く垂れ籠る頭的の人のみ多きを慨し、
師は中京敎界の足の人、手の人として
各方面に活動して令名あり、
現今管内布敎部委員と爲り盛に活動す。
大正五年一月廿五日印刷
大正五年一月廿八日發行
定價 金拾圓
編輯兼 東京市淺草區橋場町百三番地
發行者 安藤嶺丸
印刷者 東京市京橋區西紺屋町廿七番地
    勝亦省三
印刷所 東京市京橋區西紺屋町廿七番地
    株式會社秀英舎
發行所 東京市淺草區橋場町百三番地
    壬子出版社
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《谷 碩童》京都府船井郡高原村 泉谷寺現董【曹洞宗名鑑】大正5年

《谷 碩童》京都府船井郡高原村 泉谷寺現董【曹洞宗名鑑】大正5年

【曹洞宗名鑑】大正5年
《谷 碩童》  p151/256
 京都府船井郡高原村 泉谷寺現董
 明治八年(1875)三月十一日生
師は泉谷寺祥雲の法子、
二十一年(1888)二月得度、
同年(1888)夏
船井郡須知町 玉雲寺山内忍聽初會に入衆、
二十六年(1893)夏
丹波天田郡上六人部村 長川寺 豐本卍山初會に於て立身、
同年(1893)九月 谷祥雲に嗣法、
先是、專門支校を卒り
舞鶴 桂林寺 橋本祖能、
尾張 熱田 安齋院 野々部至游等に隨侍すること十年、
後能大本山に安居數年、
三十六年(1903) 敎導講習院卒業
二十七年(1894)九月 能本山に於て瑞世轉衣、
二十八年(1895)四月 現住地に住職す、
爾來地方布敎に盡瘁し
三十七年(1904)以來 兩本山布敎師として
各地に巡回して令名あり。
大正五年一月廿五日印刷
大正五年一月廿八日發行
定 價 金拾圓
編輯兼 東京市淺草區橋場町百三番地
發行者 安藤嶺丸
印刷者 東京市京橋區西紺屋町廿七番地
    勝亦省三
印刷所 東京市京橋區西紺屋町廿七番地
    株式會社秀英舎
發行所 東京市淺草區橋場町百三番地
    壬子出版社
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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