[追憶の曠野]小西達四郎

運命の爆撃(奉天)1/4昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

運命の爆撃(奉天)1/4
昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

  運命の爆撃

それは昭和十九年十二月八日であつた。
この日私は発動機部の的場係長と共に、
満州第二百三十七部隊(航空支廠)に要務のため、
出掛ける事になつていた。

午前八時半頃会社の玄関から車で正門を出ると
何時ものように守衛が挙手の礼をしていたが、
突然そのうちの一人が車に走り寄つて
「空襲警報のようです」と囁いた。

私は一寸車を止めさせて会社の屋上を見たが、
警報の赤旗も立つていないので別に意にもとめず
そのまま車を走らせた。

会社から自動車で十分位で行く大東門を過ぎると
城内(満人居住区)に入るのであるが、
この辺に来たとき、
満人が右往左往して避難の様子を呈しておるのが分った。

然し奉天には、いまだ一度も爆撃がなかつたので、
又鞍山だろう位に考えて部隊に急いだ。

然し千代田通りを過ぎ、
奉天駅近くになると空襲警報のサイレンが盛んに鳴つている。
日本人も満人も、
ただならぬ様相をして居るので、
これはほんとうに敵機の来襲かと、初めて感じた。
 ―1-
p1[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p1[追憶の曠野]小西達四郎

私は運転手に「部隊に急げ」
と命じながらもさして不安の気持はなく、
やがて部隊へつくや正門で下車し、
衛兵所で「満飛」ですと言つて、
荒木主計少佐の室に駆けこんだ。

丁度九時半頃であつた。
荒木少佐は「鞍山だよ」と静かに言つて
ストーブのそばの椅子を指したので
二人は挨拶もそこそこに椅子にかけた。

その時部隊のサイレンは退避の信号を吹鳴し、
兵隊はメガホンで「敵機米襲ツ、退避ツツ」と絶叫した。

私たち二人は部外者であつたから私は荒木少佐に、
「何処の防空壕に退避すれば良いのですか」と聞いた。
少佐は、
「僕の隣りの壕に入りなさい」と言つたので、
少佐と共に防空壕に走つた。

壕に入るやいなや、
部隊の高射砲は奉天のさむぞらにこだました。
と見るや銀翼に光をうけつゝ四本の飛行雲を引いた
十機編隊の飛行機が南方から飛来し、
部隊の上空で東方に方向転換し、
隊伍堂々部隊の上空を通過して北へと移行した。
高度は七千米から八千米位であった。

私たちは零下二十度位の寒い壕の中で足ぶみをしながら、
かたずを呑んで見守ってぃたが、
それでもこれが敵機か、
これが戦争かと目分ながら信じられない。
私は的場君に、
 -2-

「あれがほんとうに敵機か」と聞いた。
的場係長は
「課長、まだ日本では発動機四発の飛行機はない筈です。
あれは確かにB二十九です」と答えたので、
私は初めて現実的な戦争をじかに感じたのであつた。

この時隣の壕から突如「万才万才」と言う声が上つたので
私は頭をあげて北方の空を見た。
と、その瞬間、
真紅の炎がパツと燃えて敵機の墜落する姿を目撃した。
私も思わず万才を叫んだ。
じいんと目頭の熱くなるのを覚えた。

この快事は「B二十九」の一機が
日系満軍将校春日中尉の壮烈なる体当りで墜落したのであつた。

春日中尉の飛行機は満飛で作った
「キ二十七」の飛行機であったことも後で分つた。

春日中尉の自爆は
満州に於ける最初の空軍犠牲でなかったであろうか。

それからどの位の時間が経つたか、
「B二十九」は延べ約百機、
悠々私たちの視界から遠ざかり
やがて空襲解除のサイレンが鳴つた。

悪夢から覚めたようにホットした気持で
荒木少佐の室に戻つた時は
十時五十分頃で一時間半の退避であった。

零下二十度の寒い壕にいたが気が張つていたので
足が非常につめたいと思つただけで、
さして苦痛も感じなかつた。
 ―3―
p2-3[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p2-3[追憶の曠野]小西達四郎

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満州っ子 平和をうたう
B29 満洲も空襲 奉天・鞍山
<<作成日時 : 2014/09/26 06:54>>
1944(昭和19)年12月7日、
奉天にB29約70~100機が空襲、
(満洲国軍の)蘭花特別攻撃隊第一編隊・春日園生中尉が
体当たりし1機を撃墜した。
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[追憶の曠野]著者 小西達四郎:早稲田大学 専門部法律科 昭和2年卒業

[追憶の曠野]著者 小西達四郎
秋田高等学校 大正12年卒業
早稲田大学  専門部法律科 昭和2年卒業

【会員名簿. 昭和2年11月】昭和2年(1927)
專門部法律科 昭和二年卒業
小西達四郎 p150/420
府下下戸塚五一六 榎本方

【會員名簿】昭和3年(1928)
專門部法律科 昭和二年卒業
小西達四郎 p151/424
秋田縣仙北郡六郷村六郷

【早稲田大学校友会会員名簿. [昭和10年用]】
氏 名 小西達四郎 p180/462
卒業年 昭和2年
學 科 專 法
本 籍 秋田
勤務先 横手中學校
住 所 秋田縣横手町横手中學校
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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秋田県立 秋田高等学校 同窓会
同窓会だより第29号
平成元年 5月20日発行
1P 秋高、初戦突破成らず
  センバツを取材して
  本校教職員の人事異動
  459人、若い力が仲間に
  天上天下
2P 同窓会員の名簿発行に携わって
  合格者は前年並み
  総会は8月20日の予定
  常置委員会だより
  小西達四郎先輩を偲ぶ
  秋田高校剣友会長
  大正12年卒業 平成1年3月歿
  哀悼
3P つどい
4P 部活動
  事務局だより
全ページ PDF
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目次・満飛社歌[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

目次・満飛社歌[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

 目 次
[国立国会図書館サーチ]
追憶の曠野
小西, 達四郎,小西達四郎 著
著作権処理情報
著作者名 著作権状態 裁定年月日
国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
目次
目次 / (0007.jp2)
満飛社歌 / (0008.jp2)
運命の爆撃 / 1 (0009.jp2)
会社の疎開と思い出 / 10 (0014.jp2)
ソ連の宣戦と哀愁の疎開 / 18 (0018.jp2)
玉音に涙する終戦 / 30 (0024.jp2)
満飛崩るゝの日近し / 39 (0028.jp2)
初めて見るソ連兵 / 46 (0032.jp2)
ソ連兵殴打事件 / 50 (0034.jp2)
満人の暴動 / 56 (0037.jp2)
岡部理事長帰る / 64 (0041.jp2)
ソ連軍、八路軍、保安団 / 72 (0045.jp2)
樺山課長撃たれる / 82 (0050.jp2)
苦難の使役 / 84 (0051.jp2)
女か退去命令か / 91 (0054.jp2)
二十万円の隠匿 / 104 (0061.jp2)
河野恵 / 110 (0064.jp2)
国軍進駐と駒中佐の思い出 / 115 (0066.jp2)
ミシン事件 / 127 (0072.jp2)
花園銀座の出現 / 134 (0076.jp2)
田島監督官の死 / 138 (0078.jp2)
引揚朗報来る / 142 (0080.jp2)
さらば奉天 / 147 (0082.jp2)
錦洲集中営の生活 / 157 (0087.jp2)
感激の乗船 / 177 (0097.jp2)
蓮台寺一夜 / 183 (0100.jp2)
あとがき / 191 (0104.jp2)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000246800-00

 満飛社歌
古き歴史と新らしき
文化の華と光を競う
こゝ奉天に地を占めて
エンジンの音高らかに
輝き立てり我が会社
若き生命(いのち)のあふれては
流るゝ汗に血潮は躍る
見よ銀翼に陽を受けて
われらが誇り新鋭機
序-4・目次1[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-4・目次1[追憶の曠野]小西達四郎
目次2・満飛社歌[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕目次2・満飛社歌[追憶の曠野]小西達四郎
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月15日(木)
[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
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序 秋田県知事 小畑勇二郎[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

序 秋田県知事 小畑勇二郎
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

   序
 秋田県知事 小畑勇二郎
本書の著者小西さんは、
かつて私が秋田市の助役に就任していた当時、
市の交通局を刷新強化するため、
自動車課長に迎えられて敏腕をふるい、
現在もそこに勤めている。

もつとも小西さんと私の面識は、
その時に始まつたことではなく、
中学は私より一年先輩で、
若い時は剣道の達人として鳴らしたものであつた。

全国大会にはしばしば活躍したが、
その剣は華麗で、
宮本武蔵の佐々木小次郎を思わするものがあつた。

小西さんは、早稲田を出てから、
しばらく郷里に居つたが、
昭和十五年に渡満、その後、
奉天の満州飛行機製造株式会社に営業課長として勤務中、
敗戦を迎えたのである。

つまり本書は、
大東亜戦争も苛烈をきわめた昭和十九年、
奉天最初の爆撃が、
小西さんの会社に加えられてから、
昭和二十一年、
内地に引揚げるまでを、
生々しい体験をとおして語つている。
序-3[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-3[追憶の曠野]小西達四郎

もちろん、この中には、
敗戦直後のすべての人間が、
理性を失い、
みにくい本能をむきだしにした
無秩序と悲惨な情景がある。

また日本人に対する暴徒の、
目をおおわしめるような掠奪、
凌辱の場面もある。

それらが飾気のない文字で、
時間的経過を追うて記述されているが、
私はその混乱の中にさえ、
人間の美しさと尊厳、
人間に対する愛情と信頼を見出して、
非常に感動したのであつた。

したがつて、この書は、
私にとつて世にも悲惨な記録であり、
怒りをこめた抵抗の文字でありながら、
絶望の書とは思われないのである。

これはやはり武道で磨いた著者の強い意志と、
冷静にして的確な判断による体験記録であるからであろう。

今日、
敗戦直後の悲惨な事情を訴える書物は
かなり多く出ているが、
本書は、私の身近かな著者の行動、
感情をとおして書かれているだけに、
感銘も一段と深いものがある。

私はこれを書きあげた
小西さんのご苦労に敬意を表すると共に、
歴史的激動の中に耐えてきた小西さんの、
今後の活躍を心から期待せずにおられない。
 昭和三十四年 夏日
序-4・目次1[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-4・目次1[追憶の曠野]小西達四郎
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[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
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「追憶の曠野」の発刊に寄せて 日本航空整備株式会社 常務取締役 富永五郎[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

「追憶の曠野」の発刊に寄せて 
日本航空整備株式会社 常務取締役 富永五郎
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年


「追憶の曠野」の発刊に寄せて
 花園会 会長
 日本航空整備株式会社 常務取締役
「ゲマインシヤフト」という言葉があります。
私達がいつまでも懐しく思うのは、
同郷の人とか同窓の人とか、
或は隣りの人とか、同僚のことなどで、
そこには地域的な一つのつながりを感じます。

私共もやはりあの満州飛行機と、
その社宅での生活に
(……それがまた終戦という転機で
 一瞬に消え去つた異郷での生活だつただけに……)
つながりを感じて懐しさを覚えるのだと思います。

「満州で骨を埋める」気持で増産に励み、
愉快に働いた満州飛行機、
そして終戦から帰国までの激変した生活、
これは生涯忘れることの出来ないことがらでありましょう。

満州飛行機で営業課長をしていた小西達四郎氏が
その頃の記録を書きとどめて上梓した
この「追憶の曠野」はその意味で貴重な
私共の体験をよみがえらせるものと思います。
序-2[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-2[追憶の曠野]小西達四郎

著者はずつと奉天にいた関係上、
この本には公主嶺とハルピンの模様が書かれていませんが、
終戦時公主嶺から安東方面に疎開した家族も、
ハルピンから牡丹江方面に連れていかれた社員達も
幾多の労苦や危険を重ねながら
やはり奉天に辿りつき、
中には再び花園街の生活に戻つた人もありました。

花園街はその名の通り私達の「花園」でもあつた訳です。

その花園街の終戦後の生活から引揚げまでのメモを
小西氏が身辺の思い出として書き綴つていくうちに
尨然として彼地での生活全部が甦り、
ついに出版を企画したものと聞き及びました。

小西氏の労作を多とし
脱稿を期待して声援を惜しまなかつたものです。

帰国後の旧満飛社員の方々も
“満飛魂”でたくましい生活力と互助の精神を発揮して、
安定した生活に入つておられることを同慶に思い、
諸兄の発展を願うものであります。

本書をひもどき“赤い夕陽”の満州の曠野を追憶するときに
人生の波を心に覚ゆるものでありませう。
 (一九五九年六月記)
序-3[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-3[追憶の曠野]小西達四郎
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[追憶の曠野]小西達四郎
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「追憶の曠野」に寄せて・元満州飛行機製造株式会社理事長・岡部栄一[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

「追憶の曠野」に寄せて・
元満州飛行機製造株式会社理事長・岡部栄一
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年


「追憶の曠野」に寄せて
 元 満洲飛行機製造株式会社理事長
 日本カーリット社長
  岡部栄一
この度、小西君が編んだ「追憶の曠野」は
戦争末期のわが「満飛」の悲惨な有様を
まざまざと思い出される好著である。

私も当時の理事長として、
こゝに書かれてある事は逐一体験したのであるから、
特に胸をつかれる思いがするのである。

当時を思い出して敗戦というものが、
更に一歩すゝめて戦争そのものが、
如何に惨酷にして無駄なものであるかを
改めて認識しなおすためにも
当時の関係各位をはじめ
多くの人々に読んで貰いたいものと思つている。
 昭和三十四年六月十五日
序-2[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-2[追憶の曠野]小西達四郎
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[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
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序にかえて・元満州飛行機製造株式会社理事長・高崎達之助[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

序にかえて・元満州飛行機製造株式会社理事長・高崎達之助
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

表紙[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕表紙[追憶の曠野]小西達四郎
中表紙[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕中表紙[追憶の曠野]小西達四郎

   装幀 藤田海子

序にかえて
 元満州飛行機製造株式会社理事長
 元通商産業大臣
私は昭和十六年から十七年末まで
「満洲飛行機製造株式会社」の第二代目の理事長をした。
その後も引き続き同会社の理事会長として終戦を迎えた。

終戦後も二ケ年間満洲に滞在してつぶさに敗戦の悲惨なる場面を味い、
日本人の引揚げを見届けて来た一人である。

小西君は、当時の「満洲飛行機製造株式会社」に於て
営業課長の職にあった人だが、
今回その終戦時の思出を色々と書き綴り一本を著した事には
大いに敬意と賛意を表したい。

こゝに同著を推薦して大方の御一読をおすゝめするものである。
 昭和三十四年六月十五日
序-1[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕序-1[追憶の曠野]小西達四郎
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[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
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[西四辻公敬:子爵 西四辻公堯 三男]【華族家庭録. 昭和11年12月調】

[西四辻公敬:子爵 西四辻公堯 三男]
【華族家庭録. 昭和11年12月調】

【現代華族譜要】昭和4年1月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879484/440
子爵 西四辻公堯 p274/443
正四、勳三、陸軍歩兵大佐
朝鮮京城大和町二ノ一二〇
(電、本局、二七五)
公堯  子爵 小倉英季 弟 祐三郎 ※①
    明治一一年八月生
 夫人 數子 薗廣憲長女
    明治一七年九月生
武(タケシ)   明治四〇年七月生
壽榮子(スヱコ) 明治四二年一〇年生
彌榮子(ヤヱコ) 明治四四年一〇年生
公順(キミマサ) 大正三年三月生
公敬(キミヨシ) 大正五年七月生
公裕(キミヒロ) 大正八年四月生
公敏(キミトシ) 大正一一年一二月生
公雄(キミヲ)  大正一四年七月生
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879484/274
子爵 小倉英季 p99/443
正三、勳三、功四、貴族院議員陸軍歩兵大佐
東京市外大久保、百人町二〇七
(電、四谷、一三〇四)
小倉祐三郎 改 公尭 西四辻子爵 ※①
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879484/99

【華族家庭録. 昭和11年12月調】
 昭和12年3月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046816/334
西四辻公堯  明治十一年八月生  p55-56/336
 キミタカ  戸主 子爵 從三位 勳三等
       故 子爵 小倉英季 弟
       豫備陸軍少將 貴族院議員
       京都市左京區下鴨中川原町六三
       電話 上四二四四
西四辻數子  明治十七年九月生
  カズコ  妻 故 薗廣憲長 長女
       堀越和洋裁女學校 卒業
       京都市左京區下鴨中川原町六三
西四辻公利  明治四十年七月生
 キミトミ  長男 從五位
       京都帝國大學 經濟學部 卒業
       豫備陸軍歩兵少尉
       日本航空新聞社 勤務
       神奈川縣中郡大磯町字大磯九一八
       電話 一二七
西四辻美枝子 明治四十三年二月生
   ミエコ 公利 妻
       伯爵 酒井忠克 長女
       女子學習院 卒業
       神奈川縣中郡大磯町字大磯九一八
       電話 一二七
西四辻美智子 昭和八年十月生
   ミチコ 孫 公利 長女
       神奈川縣中郡大磯町字大磯九一八
       電話 一二七
西四辻佐智子 昭和十年一月生
   サチコ 孫 公利 次女
       神奈川縣中郡大磯町字大磯九一八
       電話 一二七
西四辻公順  大正三年三月生
 キミマサ  次男
       同志社大學 本科二年 經濟學部 在學
       京都市左京區下鴨中川原町六三
       電話 上四二四四
西四辻公敬  大正五年七月生
 キミヨシ  三男
       立命館大學 豫科二年在學
       京都市左京區下鴨中川原町六三
       電話 上四二四四

西四辻公裕  大正八年四月生
 キミヒロ  四男
       東京陸軍幼年學校 第三學年 在學
       東京陸軍幼年學校 内
西四辻公敏  大正十一年十二月生
 キミトシ  五男
       立命館中學校 第二學年 在學
       京都市左京區下鴨中川原町六三
       電話 上四二四四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046816/55
西四辻公雄  大正十四年七月生
  キミヲ  六男
       京都市立京極尋常小學校 第五學年 在學
       京都市左京區下鴨中川原町六三
       電話 上四二四四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046816/56

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[Wikipedia]
[西四辻公敬]
西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし[1]、
1916年7月17日 - 1991年1月9日)は
滋賀プラスチックス[2]創業者・代表取締役[3]。
スケベ椅子の開発者として知られる[4]。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%85%AC%E6%95%AC

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年01月07日(水)
『満洲飛行機製造株式会社調査資料:⑯』昭和27年(1952)1月
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660104.html

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2015年01月07日(水)
『独身寮の寮長であった中島君や、西四辻君、竹山君』
[追憶の曠野]小西達四郎
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660105.html

『独身寮の寮長であった中島君や、西四辻君、竹山君』[追憶の曠野]小西達四郎

『独身寮の寮長であった中島君や、西四辻君、竹山君』
[追憶の曠野]小西達四郎


[追憶の曠野]小西達四郎

使役の作業は、
機械、施設の解体や梱包で
午前八時から五時までで、
使役に行った社員の苦労は並み大低ではなかった。

ソ連は進駐当時は軍票を発行し、
使役の社員にはその軍票で
毎日三十円から二十円が支給された。
この金は社員にとって唯一の財源で
生活の足しになったことは言うまでもなかった。

殊に育成工などの若い人達は、
売る品物とてなく、
また終戦時の生活資金も多くは貰っておらず、
その生活については非常に心配されたが、
独身寮の寮長であった
中島君や、  ※寮長 大和 中島穆 p70
西四辻君、  ※西四辻公敬
竹山君などが ※竹山?
計画的に使役の代行などで良く指導して
全員を働かさせてくれたので
それ等若い人達も細々ながら
自活を立派にやって引揚げることが出来たことは
偏えに前記三人の努力の賜であった。 p86

昭和三十四年七月三十日 印刷
非売品
著作者 小西達四郎
印刷所 秋田活版印刷株式会社

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月15日(木)
[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176730.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月15日(木)
[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176728.html
※追記:平成27年(2015)1月1日
一方厚生課は
竹内課長始め
西四辻公敬
本社から出張で来た
村田篤彦君等が
食料や配給品の確保に大忙がしで働いてくれ、
大体満足する様になれば、…。 p40
https://livedoor.blogimg.jp/kazuo1947/imgs/5/b/5bf5d1e1.jpg

《西四辻公敬:にしよつつじ きみよし》
小学生の頃、父親(小野又一)に連れられて、
西四辻さんに、お会いしました。
祇園:八坂神社石段下・上る・一筋目を西、左側の家。
現在の「よしもと祇園花月(当時:祇園会館)」南側の筋。
お茶屋さん。
どちらかの足が悪く、杖を突いておられた。
『にしおおつじ』さんと、思っていた。


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年01月07日(水)
『満洲飛行機製造株式会社調査資料:⑯』昭和27年(1952)1月
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660104.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[西四辻公敬:子爵 西四辻公堯 三男]
【華族家庭録. 昭和11年12月調】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660106.html

[追憶の曠野]小西達四郎

[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
1-[追憶の曠野]小西達四郎
序にかえて
元満州飛行機製造株式会社
元通商産業大臣
高崎達之助
私は昭和十六年から十七年末まで
「満洲飛行機製造株式会社」の第二代目の理事長をした。
その後も引き続き同会社の理事会長として終戦を迎えた。
終戦後も二ケ年間満洲に滞在してつぶさに敗戦の悲惨なる場面を味い、
日本人の引揚げを見届けて来た一人である。
小西君は、当時の「満洲飛行機製造株式会社」に於て
営業課長の職にあった人だが、
今回その終戦時の思出を色々と書き綴り一本を著した事には
大いに敬意と賛意を表したい。
こゝに同著を推薦して大方の御一読をおすゝめするものである。
昭和三十四年六月十五日
2-[追憶の曠野]小西達四郎
※追記:平成27年(2015)1月1日

「追憶の曠野」に寄せて
元 満洲飛行機製造株式会社 理事長
日本カーリット社長
岡部栄一
 ―略―
昭和三十四年六月十五日 ※昭和34年(1959)

「追憶の曠野」の発刊に寄せて
花園会 会長
日本航空整備株式会社 常務取締役
富永五郎
 ―略―
(一九五九年六月記)  ※昭和34年(1959)


満飛社歌

古き歴史と新らしき
文化の華と光を競う
こゝ奉天に地を占めて
エンジンの音高らかに
輝き立てり我が会社

若き生命(いのち)のあふれては
流るゝ汗に血潮は躍る
見よ銀翼に陽を受けて
われらが誇り新鋭機
3-[追憶の曠野]小西達四郎
会社の疎開と想い出 p10-17
私たちの会社満飛(満洲飛行機製造株式会社)は昭和十三年七月一日に、
満洲重工業会社(総裁鮎川義介氏)の傘下に出来た
満洲に於ける飛行機製造の唯一の会社であった。
奉天駅から東に八粁、旧東飛行場と張学良の兵舎を利用した
数十万坪の広大な敷地を占めていた。
私が入社した昭和十五年頃は未だ兵舎をそのまゝ利用し、
本格的な工場設備ではなかったが、昭和十八年には機体部も発動機部も、
共に立派な近代化した工場となり、三階建の本館も見事に建設された。
従業員も、日系四千人、満系六千人と一万人以上の社員を擁し
日夜飛行機の増産に懸命であった。 p10
―略―
4-[追憶の曠野]小西達四郎
社業も着々進展し、増産の一途をたどったが、又もや、
昭和十九年二月、再度の火災に機体部が見舞われ、
香積理事長もその責を負って会社を辞任された。
―略―
香積理事長の後任には、小林一三社長のもとに、
東京電燈の副社長であった
岡部栄一氏が理事長として就任された。
この頃会社は最も充実し、一致協力増産の意欲に燃え、
機体部に於ては、
「キ四」、「キ十」、「キ二十七」、
「キ七十九」、「キ八十四」、「キ四十九」と
六種類を製作し、
発動機部は、
「ハ一乙」、三百五十馬力、「ハ十三甲」四百五十馬力を製作し、
機体部は月産百七十機を生産し、
発動機部は、月産百五十機を生産し、
大東亜戦争の重要な一翼を担っていた。
然し昭和十九年十二月八日と、
十二月二十三日の二度の「B二十九」の爆撃は機体部の生産を、
一時ストップの事態におとしいれた。 p12
―略―
5-[追憶の曠野]小西達四郎
私が営業課に転じた昭和十七年頃には、
満航(満洲航空株式会社)に納入する
スーパー六人乗の旅客機が未だ七機ばかり残っていた。
ある時、河野君が私に、
「スーパーも残り少いから、一度同乗して満航に納入してみたらどうです」
と言われたので、乗ることにした。
私も初めて乗る飛行機、いささか不安もあったが、
勇をこして同情した。 p14
―略―
機体部の主力は「ハルピン」に、
発動機部の一部は「公主嶺」に疎開が決定した。
―略―
機体大型工場の忘れられない思い出は、
昭和十七年秋、突然歌手の渡辺はま子さんが会社に来たことである。 p15
―略―
6-[追憶の曠野]小西達四郎
昭和十六年十二月八日未明に行われたあの真珠湾攻撃の勇士
反保慶文中佐の実戦談などもやったなつかしい、
機体大型工場とも、やがて別れなければならぬ時が一日毎に近づいておった。
昭和十九年十二月二十五日、会社は機構の大改革を発表した。
「ハルピン」は北機械製作処、
公主嶺は「中機械製作処」
奉天は「南機械製作処」と名称が変った。 p16
―略―
7-[追憶の曠野]小西達四郎
奥付
昭和三十四年七月三十日 印刷
『小野又一 蔵書』
非売品
著作者 小西達四郎
印刷所 秋田活版印刷株式会社
8-[追憶の曠野]小西達四郎
『小野又一 蔵書』
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