《山根政治》慶尚北道立大邱醫院長
【財界二千五百人集. 満蒙及朝鮮篇】昭和9年
【財界二千五百人集. 満蒙及朝鮮篇】昭和9年
財界二千五百人集
「滿蒙及朝鮮篇」目次 p5-13/196
銀行會社商店之部 p13-14/196
《山根政治》 p134/196
正五位、醫學博士、
慶尚北道立大邱醫院長、
大邱醫學專門學校長
氏は東京府人 山根純藏の長男にして
明治十九年四月十四日を以つて
東京市赤坂區田町三丁目に生れ
大正四年四月家督を相續す
家嚴醫を營みたり
氏亦夙に醫學に志し
獨逸協會中學校に入り
明治三十六年之れを卒業し
第一高等學校第三部を經て
九州帝國大學醫科大學に入り
明治四十四年十一月卒業
更に大學院に入り
翌年一月より大正二年十二月まで
第二内科敎室に武谷博士の助手たり
大正二年十二月
滿鐵より招聘されて大連に入り
大連醫院に勤務し内科第三部長となり
南滿醫學堂敎授を兼ね
翌三年十一月轉じて
滿鐵營口醫院長兼醫長たりしが
大正五年五月内地に還り母校に於て
内科醫學に關する一般的研究を重ねること滿二箇年
歸任後大正七年五月鐵嶺滿鐵醫院長に任ず
翌八年八月歐州に派遣され
其の年十月より十年四月まで
瑞西ベルン大學に於て
病理學の大家ウエゲーリン敎授に就き斯學を修め
更らにラサーリー敎授に就きて内科學を研究
歐米各國の醫界を視察して
同十年九月歸朝す
同時に撫順滿鐵醫院長となり
大正十一年五月
九州醫科大學の推薦にて醫學博士號を受け
大正十四年四月
關東廰醫院醫官となり旅順醫院長たり
昭和五年二月
朝鮮道立醫院醫官(高等官二等)に任じ
慶尚北道立大邱醫院長となり
大邱醫學專門學校長を兼ねて今日に及び
内科學一方の權威を以つて知らる
趣味として謡曲を好む
家族は
妻 嘉代子(明治三二年生)
(元臺灣總督陸軍大將 男爵 明石元二郎 女)
(山脇高女卒)
男 政隆 (大正七年生)
長女 マツ (大正五年生)
二女 昭子 (昭和二年生)
三女 朝子 (昭和五年生)あり
(大邱府三笠町 醫院官舎 電話三一一)
昭和九年七月五日印刷 財界二千五百人集別巻共揃
昭和九年七月十日發行 並製 金參拾圓也
編纂兼 東京市芝區神谷町十八番地
發行者 中西利八
電話芝(43)二六六九番
印刷者 東京市京橋區湊町二ノ一六
篠倉政一
印刷所 東京市京橋區湊町二ノ一六
第一印刷所
發行所 東京市芝區神谷町十八番地
日本産業經濟資料社
財界二千五百人集編纂部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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