帰化允許

[支那國人]《衞 正吉》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1921年05月18日】大正10年

[支那國人]《衞 正吉》日本帝國ニ歸化ヲ允許
【官報. 1921年05月18日】大正10年

【官報. 1921年05月18日】大正10年
◉内務省告示第八十四號 p3/38
 神奈川縣横濱市石川町四丁目二十八番地住
 支那國人 衞 正吉
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正十年五月十八日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[無籍外國人]《ジョンアーサー、ヱミール、ミユラー》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1921年05月18日】

[無籍外國人]《ジョンアーサー、ヱミール、ミユラー》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1921年05月18日】

【官報. 1921年05月18日】大正10年
◉内務省告示第八十三號 p3/38
 兵庫縣神戸市葺合町二千百三十五番屋敷住
 無籍外國人 ジョンアーサー、ヱミール、ミユラー
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正十年五月十八日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[無籍外國人]《エドウィン、ダン》《ジェームス、ダン》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1920年05月28日】

[無籍外國人]《エドウィン、ダン》《ジェームス、ダン》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1920年05月28日】

【官報. 1920年05月28日】大正9年
◉内務省告示第四十三號 p2/26
 新潟縣刈羽郡内郷村大字伊毛住
 無籍外國人 エドウィン、ダン
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正九年五月二十八日
 内務大臣 床次竹二郎
◉内務省告示第四十四號 p2/26
 東京市芝區新門前町十六番地住
 無籍外國人 ジェームス、ダン
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正九年五月二十八日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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(Edwin Dun、1848年7月19日 - 1931年5月15日)は、
獣医師で明治期のお雇い外国人。
開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した。
アメリカ合衆国・オハイオ州チリコシー出身。
オハイオ州マイアミ大学卒業。1883年、勲五等双光旭日章を受章。
息子のジェームス・ダン(壇治衛)は音楽家。
ジェームスの妻・ダン道子も音楽家。

(James Dun, 1898年11月29日 - 1950年4月2日)は、
経歴
エドウィン・ダン、中平ヤマ(後妻)夫妻の次男として生まれる。四人兄弟。
1897年(明治30年)に駐日米国公使を辞任した父・エドウィンは、
その後も引き続き日本の発展のために貢献したいと考え、
当時の新潟県の石油ブームに着眼し、直江津に石油精製工場を造る。
インターナショナル石油会社直江津支店支配人を務めることになった
エドウィンは、
1901年(明治34年)、一家で直江津に移住する
(当時の地元の記録によると、
1907年(明治40年)7月まで住んでいたとされている)。
この直江津滞在中、ジェームスは兄や弟とともに直江津小学校に通う。
その後、一家は東京に戻り、ジェームスは慶應幼稚舎、慶應普通部を経て、
1918年(大正7年)3月東京音楽学校本科器楽部を卒業、
1920(大正9)年3月には同研究科を修了する。
同年5月28日に日本に帰化する。
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[無籍外國人]《イグナツ、エロウイツ》《ハインリッヒ、シエール》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報】大正9年

[無籍外國人]《イグナツ、エロウイツ》《ハインリッヒ、シエール》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報】大正9年

【官報. 1920年03月03日】大正9年
◉内務省告示第十六號 p2/18
 神奈川縣横濱市根岸町字竹丸三千三百四十二番地住
 無籍外國人 イグナツ、エロウイツ
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正九年三月三日
 内務大臣 床次竹二郎
◉内務省告示第十七號 p2/18
 兵庫縣武庫郡精道邑打出字宮川十番地
 無籍外國人 ハインリッヒ、シエール
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正九年三月三日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[獨逸國人]《パウル、キユンメル》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1920年03月03日】大正9年

[獨逸國人]《パウル、キユンメル》日本帝國ニ歸化ヲ允許
【官報. 1920年03月03日】大正9年

【官報. 1920年03月03日】大正9年
◉内務省告示第十五號 p2/18
 東京府荏原郡馬込村三千三百九十二番地住
 獨逸國人 パウル、キユンメル
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正九年三月三日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[英國人]《アルベルト、ジョージ、グレーベン》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1919年06月25日】

[英國人]《アルベルト、ジョージ、グレーベン》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1919年06月25日】

【官報. 1919年06月25日】大正8年
◉内務省告示第四十九號 p3/26
 長崎縣長崎市大浦町十七番地住
 英國人 アルベルト、ジョージ、グレーベン
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正八年六月二十五日
 内務大臣 床次竹二郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[無籍外國人]《ハンツ、カルヽ、ルードヴィグ、ホルム》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1918年07月06日】

[無籍外國人]《ハンツ、カルヽ、ルードヴィグ、ホルム》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1918年07月06日】

【官報. 1918年07月06日】大正7年
◉内務省告示第六十七號 p6/30
 兵庫縣武庫郡西灘村岩屋百二十番地住
 無籍外國人 ハンツ、カルヽ、ルードヴィグ、ホルム
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 大正七年七月六日
 内務大臣 法學博士 水野錬太郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[無籍外國人]《フェオドル、ヤンセン》《ヱレナ、ヤンセン》日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1907年03月29日】

[無籍外國人]《フェオドル、ヤンセン》《ヱレナ、ヤンセン》
日本帝國ニ歸化ヲ允許【官報. 1907年03月29日】

【官報. 1907年03月29日】明治40年
◉告示 p10/21
内務省告示第三十六號
 東京府東京市本郷區森川町一番地住
 無籍外國人 フェオドル、ヤンセン
 同       ヱレナ、ヤンセン
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 明治四十年三月二十九日
 内務大臣 原敬
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[無籍外國人]《アルホンス、ミスレル》日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ【官報】明治39年

[無籍外國人]《アルホンス、ミスレル》日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ【官報】明治39年

【官報. 1906年06月14日】明治39年
◉内務省告示第六十二號 p2/26
 長崎縣長崎市東山手一番地住
 無籍外國人 アルホンス、ミスレル
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
 明治三十九年六月十四日
 内務大臣 原敬

【中等教育諸学校職員録. 明治37年版】
 明治37年1月24日発行
[私立 海星商業學校]  p111/539
    長崎縣長崎市東山手
    現在 生徒 百五拾人
設立者 兼 校長          《エミリエン、ペーレン》
教師  簿、實習、法、商、地、歴、 《山中安躬》
教師  修、國、漢、習、      《大塚江七》
教師  修、國、漢、        《太田蟠龍》
教師  算、博、地、歴、      《小栗參造》
教師  體、            《竹下水造》
教師  數、理、化、        《シユエン、ダンマーン》
教師  數、商、地、歴、      《ガシ》
教師  數、商、實習、簿、     《ミスレール》
教師  英、            《ランパツク》
教師  英、            《ゼロム》
教師  英、            《レメデオス》
教師  畫             《ブレックサクル》
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年08月30日 07:52 ◆小川清秀 《小川清秀:履歴書》
《小川清秀》
[朝鮮元山小學校:海星學校:英米煙草會社:佐世保重砲隊:中國海関…]
    <履歴書>
本 籍 長崎縣長崎市酒屋町三〇番地
現住所 福岡縣福岡市鳥飼町四丁目三〇一番地
戸主  小川清秀
    明治二十五年(1892)十一月十六日生
[學 業]
明治三十二年(1899)四月 朝鮮元山小學校 入學
明治三十四年(1901)四月 海星學校    轉校
明治四十四年(1911)三月 同校      卒業
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第97回日本エスペラント大会 - 長崎市
日時: 2010年10月9日~11日
 ―略―
 長崎は,日本における最初のエスペラント伝道者,
フランス出身で日本に帰化したアルフォンス・ミスレルがいた町。
1902年,英字新聞の長崎プレスにエスペラント紹介記事を書き,
それを大村出身の黒板勝美博士が読み, ※黒板勝美:下記
日本にエスペラントを広めるきっかけになった。
いわば,長崎は,日本のエスペランティストにとっては
ふるさとのような町。
 ―略―
 公開講演は,ミスレルがいた海星学園の理事長 山崎善彦氏に決定。
興味深い話しが期待されます。
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こはる日和♪Esperanto日和♪
12月9日 日本エスペラント大会後観光 (横浜)
2017.12.09 Saturday21:10
 ―略―
まず一番に訪ねたのは、
外人墓地にあるアルフォンス・ミスレル (1873-1953) のお墓。
彼はフランス(当時はドイツ領)から1893年に来日し、
1986年(※1896年)自分が教えていた学生たちに
エスペラントを教えました。
彼は日本で最初のエスぺランチストと言われています。
お墓に花を供えてみんなで黙とうしました。
 ―略―
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年04月11日 07:17 ◆今里廣記
[黒板勝美]【現代人名辞典】明治45年
【現代日本人名大辞典. 昭和5年版】
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