[満洲飛行機の思い出]昭和57年

《満洲飛行機の思出》小野久雄:中川智課長、奥徹課長、荒川忠雄さん【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 満洲飛行機の思出 小野久雄
  入社の日
私は昭和十八年一月二十五日(月)に入社した。
一月二十三日(土)
北陵の関東軍無線電信教習所を現地除隊し、
友人宅に一泊、
翌二十四日(日)花園街の自彊寮に急いでいた。

雪の水道局給水塔附近で、
数頭の野犬が何かを奪い合っていたが
其の中の一頭が弁当包み程の大きさの物を
銜えて来るのをふと見て驚いた、
女の首ではないか、
戦場ではこの程度では感じないが
この奉天でこの様な事件を見ようとは
夢想だにしなかった。
これは大変なところへ来たと言って
今更引返すわけにもいかづ
急ぎ足で自彊寮に着き
寮友河野君と寒い一夜を明かした。
翌二十五日機体原価係
畑久雄氏の下で勤務することとなった。

  渡辺はま子会社慰問のこと
入社して漸く勤務にも慣れ
落ち付いた
(昭和18年)三月中旬だったと思う。
歌手の渡辺はま子が慰問に来ると云うので
大型組立工場の大型機と大型機の
中間に舞台を急造した。
全従業員が集合している時間だろうと
社屋裏トイレ前を急ぎ足で過ぎた。
トイレは極寒の満洲のこと
氷結した汚物が入口まで裾野を引いていた。
入口に二人の男を付け、
当のはま子さんが中に入っていた事を
後になって皆が気付いた。
あとあと話題になったこと申すまでもなかった。
渡辺はま子さんも一生忘れ得ぬことと思う。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
会社の疎開と思い出3/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年
機体大型工場の忘れられない思い出は、
昭和十七年秋、
突然歌手の渡辺はま子さんが
会社に来たことである。
渡辺はま子さんは以前から
会社の北村洋二理事と旧知の間柄で、
丁度満洲慰間旅行の帰途奉天に立寄り、
北村理事へ電話をかけたことから
此の慰問が実現されたのであつた。

  応召の前后
昭和十九年七月十一日
故郷より召集令状を知らせる電報が
千代田寮に来ていた。
寮司が静かな調子で渡してくれた。
電文は
「一三ヒ タカサキブタイニ ハイレトノ
 セウシユウレイジヨ キタ
 スグ カエレ モモノ ソンテフ」
と云うのであった。
奉天駅で運賃先払いと云う
前代未聞の切符を貰い出発し
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/239
四日遅れて高崎部隊に入隊することが出来た。
が、部隊は既に編成を終って
フイリッピンに出発した後だった。

今振り返って過去を思うとき
満飛在社が存命に連なる運勢だったと思うと
満洲飛行機製造株式会社に感謝感激している。
是非お会いして感謝し語り合いたい人は
数え切れないが中でも
中川智課長、
奥徹課長の二課長と荒川忠雄さん。
私を満飛に紹介して下さった
三田暁君健在でいて下さい。
祈っています。
(現住所)群馬県利根月夜野町石倉四七

  回 想  竹中大毅
  ―略―
(現住所)和歌山市大垣内三七七
p240【満洲飛行機の思い出】昭和57年
p240【満洲飛行機の思い出】昭和57年
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/240
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
       電話  0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
       〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
       電話  0482-52-2370
印   刷  舶印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/254
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《満飛の思出》河内 実(旧姓 三迫)【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 満飛の思出 河内 実(旧姓 三迫)
一、昭和十六年十二月八日早朝。
  全員飛行場に集合!
  ラッパの音が高々と、
  香積中将が遥か前方の台上に浮かんだ。
  あおの時の緊張は忘れる事が出来ない。

一、満飛工場の大火災。
  第五社宅の一隅から、
  かけつけたが唯々茫然。

一、パイロット河野中尉の死。
  キ-79機の事故。
  続いて又パイロットの死。
  検査課員はその都度気合をかけられた。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
会社の疎開と思い出2/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年
この昭和十九年は会社にとつても、
私たちにとつても、忘れられないことは、
あの爆撃と火災の二つの不祥事に加へ、
河野操縦士の墜死である。
河野君は実戦の経験を得た航空中尉で、
会社では古い名パイロツトであつた。
何時も完成機をテストし、
飛行機を満洲航空支廠に空輸していた。

一、昭和十九年十二月七日。
  B-29の大空襲、
  あの時の命の恩人
  外山君ありがとう、
  負傷した私を背負って
  火の中をそして
  水の中を逃避してくれた。

一、極寒時の公主嶺への転勤。
  山脇課長の配下に?
  出退勤時の隊列に対する
  横田少尉の号令が
  私の耳には今だ残っております。

一、ソ連の参戦を聞く。

一、昭和二十年八月十五日。
  公主嶺飛行場の一隅でラジオ放送を聴く、
  以後セイサンカリを内ポケットにして
  不安な毎日が続いたが
  貨物列車で南下
  奉天を目前にして
  四平街で下車
  徒歩で花園街へ一直線。
  着いた所はもはや花園ではなかった。
  それからは如何にして
  生きて内地の土を踏むかが、
  課題の毎日であった。

一、昭和二十一年六月。
  私は元気で、
  胡芦島より博多港へ帰ってまいりました。
  機体検査課の皆さん、
  如何お暮しですか。
(現住所)広島県府中市府中町一〇七ノ二九
p239【満洲飛行機の思い出】昭和57年
p239【満洲飛行機の思い出】昭和57年
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/239
満州飛行機の思い出
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昭和五十七年六月二十九日 発行
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《玉麻吉丸》健在なり満飛男女排球部【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 健在なり満飛男女排球部
    玉麻吉丸
私は昭和十五年に満洲飛行機製造(株)、
企画部調査課に勤務した。
課長は若栗さんで
彼は満鉄調査部に居たらしく、
能率一本やりで、
無駄、無理、ムラを省く事を教わった。
p226【満洲飛行機の思い出】昭和57年
p226【満洲飛行機の思い出】昭和57年
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/226
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
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花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
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《柯子彰》早大伝統の技術的にすぐれたラグビー【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年

【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/19
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
 ユサブリの前後
 柯 子 彰 昭和9年卒業
第10回と第11回の
全国中等学校ラグビー蹴球大会に連続優勝して
同志社中学を卒業した私は、
昭和4年
早稲田大学第二高等学院に入学、
体育会ラグビー蹴球部員となった。

昭和5年
全日本カナダ遠征チームのCTBとして、
その一員に選ばれたが、
WTBの北野孟郎君(慶応)とともに
最年少組であった。

昭和7年
田川潔主将のもとに全国制覇し、
昭和8年1月上海遠征、帰国し
昭和8年度の主将に任命された。

ラフプレイ問題が原因で中断していた
京都大学との定期戦の復活を
京大 那須嘉門主将との間で話し合った結果、
「復活しよう」との結論には達したが、
すぐには実現しなかった。

昭和7年度の全国制覇の原動力は、
戦車FWといわれた強力FWを編成した
明治を破るためにも考え出された
”ユサブリ戦法“であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/142

そして2年連続して全国制覇を成し遂げる
という成績を残して、
私は昭和9年春卒業し満鉄に入社した。

奇しくも早稲田・京大定期戦復活交渉の
那須嘉門 京大主将も同時に満鉄に入社、
同僚となり同じチームでプレーする事となった。
昭和11年3月
早大満鮮遠征チームを迎えて対戦した。
この時の早大チーム(米華真四郎主将)は
実に見事な縦横の”ユサブリ“を展開して、
満鮮の全試合に完勝した。

大連、奉天と勤務し、
戦時中は上海に、
そして満鉄勤務の後、
終戦になってから台湾に帰り、
鉄道局につとめた。

台湾ではラグビー育成のため
50歳になるまでプレーを続けたし、
56歳までレフェリーをした。

現在は福禄旅行社の社長に就任して
旅行業に専念しているが、
台湾のおかれている複雑な情勢下でも、
台湾ラグビーの強化を念じている。
幸いなことに次第に強力チームが
育って来つゝある。

今年は母校早大ラグビー部創立60周年であり、
是非優勝日本一の覇権を奪取して欲しいと
心から願っています。

そして是非早大伝統の技術的にすぐれたラグビーと
台湾ラグビーの対戦を実現し、
台湾ラグビーの育成強化につながる事を熱願しています。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/143
 歴代部長、監督、主将等一覽表
昭和8年度 主将 《柯子彰》
p189【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p189【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/189
昭和9年   柯 子 彰
昭和15年   井川晴雄
昭和16年   松元秀明
昭和16年12月 福留忠雄
p192-1【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192-1【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
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《柯子彰・昭和4年中学卒業》試練に堪えた中学の思い出【同志社ラグビー七十年史】昭和53年

【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
出版者   同志社ラグビークラブ
出版年月日 1983.12
 試練に堪えた中学の思い出
  昭和4年 中学卒《柯子彰》
今より60年前、
僕は同志社中学に入学して北寮で生活した。
まさかラグビーをやるとは夢にも思わなかった。

当時のラグビー界では、
関東の慶應位いがチームらしいチームであった。
関西方面では特に京都が中心で、
京大・三高・一商・同志社等が
盛んに対抗ゲームを行っていた。
それに同志社中学は全国大会で
殆んど優勝を獲得していたため、
学校当局も学生達もラグビー熱が旺盛で、
特に学生達はお金を出しあって
ボールを買いに求め、
練習やクラス対抗ゲームで盛んに楽しんだものです。
北寮は丁度上立売グラウンドの前で
地理的に恵まれ、
放課後の夕食迄の時間を利用しては、
よく皆と練習やゲームの真似事をやった。
そんな環境で僕もラグビー部に入り、
OB連からいろいろな基本動作を教えられた。
しかし堪えられないぐらいの猛練習で
何回となく止める積りもあったが、
皆が堪えられるなら僕も堪えて行こう。
これも人生の試練であると反省しつつ
中途退部を思いとどまった事は
本当によかったと今でも思っている。

ご承知のように当時のグラウンドは堅くて
石塊が多く、
ラグビーの靴は今のと異なって
革のスパイクを靴の底に
釘で打ちつけたのを履くので、
地面が堅いため革が擦り減って、
釘が靴底を突き抜けて、
足裏が釘で穴だらけになり、
又大学と常に練習マッチをやり、
タックルをやりそこなうと
怒られるばかりでなく、
堅い地面で腰を擦りむくので
所謂「ビフテキ」がシーズン中
癒ることがなかった。
又風邪などで熱があっても、
走れば汗がでるから癒るのだと
絶対に休めなかった。

今から考えると、
よく耐えられたと思う。
然し若い時は疲労回復も早く、
はげしい練習や、
苦しい思いにも耐えられ、
経験豊富な先輩の指導を素直に受け入れ、
同僚同士相互勵みあう
精神を涵養することに努力すれば、
必ず社会に貢献し得る一員となり得ると信ずる。

そしてその精神を鍛え得るには、
ラグビーしかないと信ずる。

最後に同志社ラグビーの益々
御発展を心から祈り続ける。
p131【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
p131【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/131
同志社ラグビー70周年史
1983年11月20日印刷
1983年12月3日4発行
編集 同志社ラグビー70周年史
   編纂委員会
印刷 株式会社 図書印刷 同朋舎
   京都市下京区壬生川通五条下ル
発行 同志社ラグビークラブ
   京都市東山区東大路新橋林下町437
   福住荘 中村公紀 気付
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/237
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《荒尾進一:(株)三荒》京都アサノコンクリート(株) 京都市南区久世東土川町【セメント工業 (96)】昭和44年

【セメント工業 特集号(55)】昭和37年(1962)
著者    日本セメント株式会社セメント営業部 [編]
出版者   日本セメントセメント営業部
出版年月日 1962
社 名 サンコーパイル(株)
資本金 90,000,000円
代表者 荒尾進一
事業場 本社 東京都中央区銀座西4の5(西銀座ビル)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2368183/1/55

【セメント工業 (56)】昭和37年(1962-05)
著者    日本セメント株式会社セメント営業部 [編]
出版者   日本セメントセメント営業部
出版年月日 1962-05
 サンコーパイル社操業開始へ
サンコーパイル株式会社
(資本金6千万円、代表取締役社長 荒尾進一氏
 本社 東京都中央区銀座西4の5)は
昨年9月設立以来鋭意
同社千葉工場の建設を進めて来たが、
いよいよ5月末完成の運びとなった。
同工場は
千葉県千葉郡八千代町大字大和田新田の
敷地29,000㎡に
バッチャープラント、コンクリート投入機、
遠心製柱機、蒸気養生槽などの
最新式諸設備を合理的に配置したもので、
6月中旬より本格的操業を開始する予定である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2368184/1/10
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【セメント工業 (83)】昭和41年(1966-11)
著者    日本セメント株式会社セメント営業部 [編]
出版者   日本セメントセメント営業部
出版年月日 1966-11
 東スルガコンクリート社設立
当社は御殿場市およびその周辺地区における
生コン需要の増大に応えて、
当社特約販売店三荒商店との共同出資による
東スルガコンクリート株式会社
(資本金4,000万円、取締役社長 荒尾進一)を
8月16日付をもって設立した。
同社工場は
もと三島生コンクリート社御殿場工場を
買収したもので
7月から同社により操業を開始したが、
その概要は下記の通りである。
所在地 本社 東京都中央区日本橋兜町2の38
      (共同ビル)
    工場 静岡県御殿場市西田中68
能力  28切×2基
https://dl.ndl.go.jp/pid/2368211/1/9

【セメント工業 (96)】昭和44年(1969-01)
著者    日本セメント株式会社セメント営業部 [編]
出版者   日本セメントセメント営業部
出版年月日 1969-01
 京都アサコン設立
当社は京都地区の生コンの需要の増大に応えるため、
当社販売店
(株)三荒、丸紅飯田(株)、吉沢商店との共同出資による
京都アサノコンクリート株式会社
(資本金5,000万円、取締役社長 荒尾進一)を設立、
昨年12月から営業を開始した。
同社工場は
京都市南区久世東土川町の敷地10,000㎡に
強制練りミキサー1,500L 1基の他、
諸設備を配置したもので、
同工場の稼働により
京都市およびその周辺地区へ
良質の生コンクリートが供給されることとなり、
大阪アサノコンクリート社
淀川、城東両工場との提携により、
当社生コン供給範囲が拡大、
その活躍が期待される。
p7【セメント工業 (96)】昭和44年(1969-01)
p7【セメント工業 (96)】昭和44年(1969-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2368020/1/7
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《荒尾進一》(株)三荒商会「生コンはセメントの最終ランナー」【産経会社年鑑 第4版 第2】昭和38年

【産経会社年鑑 第4版 第2】昭和38年(1963)
出版者   産業経済新聞社年鑑局
出版年月日 1963
(株)三荒商会
東京都中央区銀座西4-5
西銀座ビル
℡(561)5412・6848・6743・7734・7874
〔千葉出張所〕
千葉市稲荷町48
℡(2)1271
〔広島出張所〕
広島市江波町1468-1
℡(3)7134
〔横浜出張所〕
横浜市中区本郷町3-184
℡(2)3864
〔資本金〕 2,000万円
〔設 立〕 昭和24年1月
〔事業内容〕
アサノセメント・生コンクリート・
ポールパイプ・スレート、
サンコーパイル、砂利砂販売
日本セメント・アサノコンクリート・
アサノポール・サンコーパイル・
浅野スレート各(株)特約販売店
〔沿 革〕
昭和24年1月(株)三荒商会設立、
昭和27年アサノコンクリート(株)設立と共に
特定貨物自動車運送事業免許を受け、
昭和35年運送部門を分離
アサノ運輸(株)を設立
〔決算期〕 3月
〔配 当〕 10%
〔年商内高〕12億円内外
〔大株主〕 荒尾進一 134千株
〔取引銀行〕富士 第一 百十四
〔施 設〕 ダンプトラック 16
      シャベルローダー  2
〔従業員〕 67
(社 長) 荒尾 進一
(取 締) 渡辺伊之輔
      大森 恒長
      出井清太郎
      川西  陸
      君塚茂太郎
(監 査) 山中 秀宣
(顧 問) 佐々木高栄
      大塚 芳夫
総務部長(囑)川西  陸
営業部長  正岡  正
第二部長  松元 秀明
営業部次長 高沢 昭二
      川西  尹
 p196【産経会社年鑑 第4版 第2】1963
p196【産経会社年鑑 第4版 第2】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/2522050/1/196
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【運輸 61(3)】昭和55年(1980-03)
著者    運輸社 [編]
出版者   運輸社
出版年月日 1980-03
◎…「生コンはセメントの最終ランナー」
と表現するのは
アサノ運輸をはじめ
三荒、カブト運輸、品川運輸の社長である
荒尾進一氏。
工事現場に運ばれた生コンは、
生コン車から即ビルの基礎となる。
しかし、
その前に生コン業界にも現場待ちがあり、
これが頭痛のタネ。
車は止めてもドラムは回転させているため
「その燃料代がバカにならない。
 四十分の現場待ちのうち
 十分位いはドラムを止めても
 (生コンが)
 分離することはない。
 昔はダンプカーで
 生コンを運んだくらいだから」と。
でも最終ランナーが途中で止まったらどうなる?
(運輸タイムズ二月二十五日付)
 p18【運輸 61(3)】1980-03
p18【運輸 61(3)】1980-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/2637236/1/18
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《荒尾進一》航空發動機【早稲田機友会誌 (33)】昭和15年

【早稲田機友会誌 (33)】昭和15年(1940-08)
出版者   早稲田機友会
出版年月日 1940-08
航空發動機 《荒尾進一》
 V型 550㏋ Water Cooling 160×190mm
 p34【早稲田機友会誌 (33)】1940-08
p34【早稲田機友会誌 (33)】1940-08
https://dl.ndl.go.jp/pid/1526783/1/34
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【会員名簿 昭和36年度版】昭和37年(1962)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1962
荒尾 進一 昭和15年 機械
三荒商会社長・アサノ運輸社長
文京区小日向台町一の七六
(電話九四一ノ〇三三一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/84
松元 秀明 昭和16年 経済
三荒商会
世田谷区船橋町九〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/628
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【会員名簿 別冊(学科年度別)】昭和38年(1963)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1963
早稲田大学 理工学部
昭和一四年 機械工学科
灘波 清一
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/165
昭和一五年 機械工学科
荒尾 進一
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/165
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【早大への道】1954
著者    陣内宜男 編著
出版者   学燈社
出版年月日 1954
三荒商会社長 荒尾進一氏(昭15)は
土建材料の供給で認められた新進事業家だ。
 p113【早大への道】1954
p113【早大への道】1954
https://dl.ndl.go.jp/pid/2433618/1/113
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【旅順のこと・母校のこと:旅順中学桜桂会五十年記念誌】
出版者   旅順中学桜桂会本部
出版年月日 1963.10
その四 日本スポーツ界に名を残した人々
    白井保夫
https://dl.ndl.go.jp/pid/3453245/1/52
《井川晴雄》(第二十二回)故人
早大に進んだ同君は
昭和十二、三年頃の早大ラグビー選手として、
フルバックの名手であり、
昭和十三年、
日本にやってきた
オールニュージランドチームとの対戦に
全日本代表として出た。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3453245/1/53
株式会社 三荒商会
<第18回生 荒尾進一殿>
https://dl.ndl.go.jp/pid/3453245/1/168
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《大森恒長》満洲飛行機製造(株)勤務【日本人事興信録:全国篇 第7版】昭和38年(1963)

【日本人事興信録:全国篇 第7版】昭和38年(1963)
著者    国際探偵社編集部 編
出版者   国際探偵社
出版年月日 1963.11
《大森 恒長》
 アサノ運輸(株)常務取締役
 鳥取県出身
神奈川県鎌倉市岩瀬一三六三
電話 鎌倉⑥二三九一
勤  東京都中央区銀座西四ノ五
電話 (561)六八四八
歴  大正3年3月17日生
   昭和一四年 九州大学工学部冶金科卒後
         満洲飛行機製造(株)勤務
   昭和一八年 茨城県土浦市 森島工場勤務
   昭和二四年 山口県立萩中学校教諭
   昭和二六年 山口県立萩高校 教諭
   昭和二八年 三荒商会入社
   昭和三一年 同社 経理部長
   昭和三五年 アサノ運輸創立に伴い入社
   昭和三七年四月 アサノ運輸 常務就任
現在に至る
尚 三荒商会 取締役兼任
処  和
趣  囲碁・文学
家  妻  那家(大正9年)
      広島県呉市出身
      奉天朝日高女卒
   長女 百合子(昭和16年)
      千葉大在
   長男 健雄(昭和18年)
      湘南高卒
   二男 恒康(昭和20年)
      鎌倉学園高在
親  弟  後藤恒年(人事院事務官)
      東京都港区在住
https://dl.ndl.go.jp/pid/3454340/1/120
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【人事興信録 第25版 上】昭和44年(1969)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1969
《大森 恒長》
 アサノ運輸(株) 監査役
 (株)三荒    取締役
 鳥取県出身
 倉吉市在籍
母   石 明治26年3月11日生
妻  那家 大正9年10月22日生
長男 健雄 昭和18年7月14日生
      東北大学工学部金属学科卒
      日立金属勤務
二男 恒康 昭和20年6月28日生
      麻布獣医大学在
大正3年3月17日
鳥取県 恒蔵の長男に生る
昭和14年 九州大学工学部冶金学科を卒業す
趣味 囲碁・読書
住所 〒247 神奈川県鎌倉市岩瀬一三六三
勤務 三荒 電話(668)六八三一
p594【人事興信録 第25版 上】昭和44年(1969)
p594【人事興信録 第25版 上】昭和44年(1969)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044853/1/594
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松江高等学校 昭和10年3月卒業
【松江高等学校一覧 自昭和11年至昭和12年】
出版者   松江高等学校
出版年月日 昭和11
第十二回卒業生(昭和十年三月十日)計百五十二名
 理科甲類(五十七人)
九州 工学部 《大森 恒長》 鳥取
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九州帝国大学工学部冶金学科
昭和14年3月卒業
【九州帝国大学一覧 昭和15年】
著者    九州帝国大学 編
出版者   九州帝国大学
出版年月日 昭和15-19
 ◎卒業生姓名
工學士
 冶金學科
昭和十四年三月學士試驗合格
《大森 恒長》鳥取
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【旧制高等学校物語 [第13]】
著者    財界評論新社 [編]
出版者   財界評論新社
出版年月日 1967
松江高等学校三十年の歩み
https://dl.ndl.go.jp/pid/9541717/1/4
アサノ運輸常務取締役 大森恒長(米子・12理甲一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9541717/1/136
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【満州冶金学会会報 5(41)】昭和18年(1943-10)
出版者 満州冶金学会
出版年月日 1943-10
《大森恒長》 東京市牛込區市ケ谷町39
https://dl.ndl.go.jp/pid/1524355/1/32
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《荒尾進一・大森恒長・正岡 正》
【ダイヤモンド会社要覧 非上場会社版 1970年版】
出版者   ダイヤモンド社
出版年月日 1970
株式会社 三荒
本社 東京都中央区日本橋兜町2-38
   〒103 電話(668)6831
支店 大阪市北区南森町43南森
   〒530 電話(362)7961
特色 セメントおよびその二次製品の販売、
   輸送ならびに生コンクリートの製造販売、
   建設産業車両の整備・販売を事業目的とし
   営業所、作業所は関東、関西、中国、九州の
   各地に及んでいる。
設立 昭和24年1月8日
   ―略―
従業員  481名
役員   (会 長) 挟間  茂
     (社 長) 荒尾 進一
     (副社長) 湯沢 弘一
     (常 務) 大森 恒長
          正岡  正
          浅野  猛
     (取締役) 神宮 保夫
          出井清太郎
          宮崎 眞治
     (監査役) 渡辺伊之輔
          広瀬 敏雄
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/2522042/1/186
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《松元秀明》早稻田大學ラグビー部(天王寺中学卒) 【運動年鑑 昭和14年度】昭和14年

【運動年鑑 昭和14年度】昭和14年
著者    朝日新聞社運動部 編
出版者   朝日新聞社
出版年月日 昭和14
 ラグビー 東西大學選手名鑑
早稻田大學 (主將 村山)
松元 秀明 S・H 天王中 政經一
p176【運動年鑑 昭和14年度】昭和14年
p176【運動年鑑 昭和14年度】昭和14年
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【日本ラグビー史】
出版者   日本ラグビーフットボール協会
出版年月日 1964
◎天王寺中学
天中からは、その創立期に、巌栄一のほか、
東大の石田啓次郎、
早大の西野綱三が出ている。
また大高が高専大会で全国優勝したときの
フィフティーンのうちで、
8人までが天中出であったという時代もあり、
後続のラガーメンに
東大の正野虎雄、中川一三、
早大の荒賀嘉樹(のち山東)、斉藤正三、
松元秀明、鹿子木聡などをおくり出し、
名門の泉は涸れることなくつづいた 。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/102
  小学生のラグビー
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/171
東京の青山学院大学の小学部も、
松元秀明せんせいらのしどうで
いまもさかんにやっています。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/172
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