[満洲飛行機の思い出]昭和57年

《松元秀明・中嶋 穆》千葉アサノポール【丸の内名鑑 1966】昭和40年(1965)

【丸の内名鑑 1966】昭和40年(1965)
著者    丸の内名鑑刊行委員会 編
出版者   丸の内タイムス社
出版年月日 1965
 千葉アサノポール
本  店 東京都千代田区大手町1-4
     大手町ビル 電話(212)0416
事業内容 鉄筋コンクリート
     基礎杭の製造販売
社 長  江上忠次
常 務  吉野光雄
取締役  古藪徳二
取締役  中島 薫
取締役  中嶋 穆
取締役  松元秀明
p81【丸の内名鑑 1966】昭和40年(1965)
p81【丸の内名鑑 1966】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2509177/1/81
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《松元秀明》僅か一年の満飛ラグビー部の回想【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 僅か一年の満飛ラグビー部の回想
  松元秀明(早大ラグビー部 昭和16年卒業)
果てしない平原、
無限の広野、
そこには高粱畠が林のように重なりあい、
黄砂の厚いベールを通して、
ポッカリと真紅に染まった太陽が、
地平線の彼方に浮かぶ。
それが満洲大陸なんだ。
今も脳裡から離れない、
印象的な風景である。

私は昭和十六年四月に青雲の志を立てて、
渡満した。
しかし、僅か一年という短期間であった。
発動機計画課に勤務し、
A-1、M-1、
等部品名を覚えることが精一杯であった。
 ―略―
この青春を謳歌するてだてになったのは
満飛ラグビー部の存在であった。

早大で一年先輩の《井川晴雄》
(全日本代表選手、フルバック、
 昭和一九年一〇月一日・グァム島で玉砕)
のあとを継いで入社した。

翌年は《福留忠雄》
(全日本代表選手、スタンドオフ、
 昭和二〇年三月一五日・ビルマインパールで戦死)
が私の後を継いでくれた。

部の活動は、
会社と共に発展途上にあったので
活気が充満していた。
青年学校の連中が熱心であったので、
日毎に強くなっていた。

満鉄や昭和製鋼のチームが目標であったが、
奉天満鉄がよきライバルであり、
満洲重工業ラグビー界では重きをなした。

私は球友のお蔭で
《正岡 正》と共に奉天代表として
都市対抗に選ばれる光栄に浴した。
ゲームの楽しさも格別であるが、
ゲームの後の懇親会が面白い。
忘れもしない。
春のシーズン・オフの納会を、
時のマネジャーの
《大森恒長》先輩の企画で、
本場のジンギスカス料理を
野外でやったことがある。
夕方から始まるのに、
満人の料理人は朝から
花園社宅区域をところ狭しと、
笛や太鼓を打ちならし、
爆竹をあげて練り歩き、
賑やかなことである。
大きさは半球円の鍋で
羊に肉や野菜を焼き、
色々なたれをつけて喰べる。
野性味溢る、
豪快そのものである。
大きな夕陽は仲々落ちない。
白夜の続く中で
友情を温めあったことが何故か、
一生忘れられずに、
印象深く、
心の中に刻み込まれているのである。

私の人生は戦争という悪魔によって、
その運命をかえた。
しかし、
あの僅か一年の友情が
何日までも生きていたのである。
しかもラガーの友情がある。

昭和三十四年に《正岡》と巡り合い、
先輩《荒尾進一》にお世話になって、
セメント業界に入り、
今日に至る。
そこには、《大森》、※大森恒長
それに《中島穆》がいて、
人生の熟年二十年以上も
親交を続ける幸運を味った。
p192-1【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192-1【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/225
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
       電話  0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
       〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
       電話  0482-52-2370
印   刷  船舶印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/254
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《正岡 正》満飛ラグビー部のことども【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
  満飛ラグビー部のことども
    正岡 正
私の満飛ラグビー部の歴史は
昭和十四年(康徳七年)より
終戦までの昭和二十年までとなる。
p224清水賢司[空襲より引揚まで]
p224清水賢司[空襲より引揚まで]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/224
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
       電話  0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
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《全滿グライダー大會記》故隅田悠紀雄君に悼ぐ:昭和12年10月3日【満航 1(46)】昭和12年(1937-11)

【満航 1(46)】昭和12年(1937-11)
出版者   満州航空
出版年月日 1937-11
 全滿グライダー大會記
     グライダー部
 謹みて此の大會を最後に、
 貴き犠牲となりし、
 故隅田悠紀雄君に悼ぐ。
いよいよ大會だ。
(昭和12年)十月三日
新京飛行場に集まる者、
大連、新京、ハルピン、奉天の六〇名の選手。
 
後列左から
丸山大尉 @ 故隅田君 @ 榎本君
進士教官 @ @ @ @
林幹事 西尾理事 @
前列左から
@ 石田君 @ @ 市川君 @
金江君 川上君
p28【満航 1(46)】昭和12年(1937-11)
p28【満航 1(46)】昭和12年(1937-11)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583248/1/28
個人賞
セコンダリープライマリー
 總得點優勝盃及副賞盃 澤柳誠四郎(工廠)
セコンダリー第一等   澤柳誠四郎(工廠)
セコンダリー第二等   隅田悠紀雄(工廠)
セコンダリー第五等   川上 新太(工廠)
プライマリー二等    小島  順(醫大)
プライマリー四等    金江圭太郎(工廠)
プライマリー九等    淺尾 有隣(醫大)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583248/1/29
康德四年十一月 十日 印刷
同  年十一月十五日 發行
    (非賣品)
發行人 松田  毅
編輯人 八鳥 寛一
印刷人 鶴原 淸雄
印刷所 鶴原印刷所
    奉天浪速通八番地
發行所 滿洲航空株式會社
    奉天商埠地五經路九緯路三
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583248/1/40
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卒業生一覧表《昭和15年井川晴雄・昭和16年12月福留忠雄》【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年

【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/19
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
 歴代部長、監督、主将等一覽表
昭和8年度 主将 《柯子彰》
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/189
昭和9年   柯 子 彰
昭和15年   井川晴雄
昭和16年12月 福留忠雄
p192【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
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ラグビー部の歴史と私②早稲田大学ラグビー部《井川晴雄・福留忠雄》金江圭太郎【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 ラグビー部の歴史と私
      金江圭太郎
私の拙文は之れで終るが、
在籍一年未満ながら戦死された
早大の故井川氏竝
福留両氏のラグビー歴を記載し
御冥福を祈りたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/223
《故 井川晴雄》
 満洲旅順出身。
 旅順中学卒。
 昭和十五年早稲田大学卒。
満洲国におけるラグビー熱は、
現地の新興会社、官庁等に
赴任したラグビー界の先輩達の指導もあって、
大いに高揚せられ、
昭和十一年には早大の遠征もあった。
新京、奉天、大連に選抜チームも組織せられたし
撫順、鞍山、大連、旅順の各中学は
それぞれラグビー部を育成した。
井川はその旅順中学の出で、
学院入学直後直ちに頭角を現わし、
その長大にして正確なるキックと
広い防禦範囲は稀にみる
名フルバックと激賞された。

昭和十五年卒業後、
直ちに生地満洲に帰り、
満洲飛行機製造(株)に勤務したが
同年(昭和15年)十二月
千葉高射砲聯隊に入隊し、
翌昭和十六年十一月
北満孫呉駐屯の高射砲隊に配属され、
昭和十八年に陸軍中尉に任官された。

戦局の進展に応じて、
関東軍主力部隊の南方移動で
南大平洋戦線に加わったが、
昭和十九年十月一日、
グァム島で玉砕した。
遺骨帰還と共に陸軍大尉に昇進、
功五級を授けられた。
(遺族)松本房子(妹)(OB松本文雄夫人)
山県ひで(母) 京都市左京区東大路仁王門下ル
       東門前町五一六

《故 福留忠雄》
 鞍山中学卒
 満洲出身、
 昭和十六年専法卒、
在学中、スタンドオフ、
スリーコーターとして活躍、
昭和十六年の全日本選抜メンバーに選ばれた。
昭和十七年四月
満洲飛行機(株)に入社、
昭和十七年十月朝鮮部隊、
昭和二十年三月十五日
ビルマ北部(インパル)方面の戦闘に於て戦死。
(遺族) 福留清吉(父)
鹿児島県揖宿郡顚娃町別府一二四八
(墓所) 顚娃町別府 福留
(以上早大ラグビー部の歴史より転載)
p223【満洲飛行機の思い出】昭和57年
p223【満洲飛行機の思い出】昭和57年
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/223
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
       電話  0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
       〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
       電話  0482-52-2370
印   刷   船舶印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/254
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ラグビー部の歴史と私①(満洲航空から満洲飛行機製造)金江圭太郎【満洲飛行機の思い出】昭和57年

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 ラグビー部の歴史と私
      金江圭太郎
私は昭和十年一月六日
満洲航空(株)に入社した。
満洲独立守備第三大隊(大石橋)を除隊、
学校の先輩斉藤氏の紹介でした。
寮は「キササギ」寮で、
寮長の寺東さん(予備役大尉)が時に巡視に来た。
四人部屋の私の処は室長の斎藤さんが
軍隊出身で整理整頓が行き届き、
又勉強家なのでいつもほめられた。
食事は三食共会社の食堂だが
蠅が一杯なので文句が絶えなかった、

夜はよく道場で守衛班長の松岡さん等と
銃剣術の練習をした。
彼は独歩二大隊(奉天)出身の現役軍曹上り、
私は二年在役の予備役伍長、
良く教えてもらった。
彼は夜長の練習後
良く極秘の滿洲事変の話をした。
張作霖の暗殺の為の列車爆破から始まり
満洲事変の発火点は
直接関係した我々だと云う話は
当時は秘中の秘、
迫力があった。

私は設計課に入ったものの、
飛行機は全く知らぬ機械科出身、
未知の世界に飛び込んだ素人である。
富永課長は私を機体修理検査に勉強の為
三ケ月間出してくれた。
之は大変有難い事だった。
後にも先にも私だけの様な気がする。
或いは軍隊の討伐等で
頭の切り換え期間をやらぬと
使いものにならぬと思われたかも知らぬ。
此の職場には臼井、高山、高野氏がいて
親切に教えられた。
名称、図面、現品の検査、之は後日
学卒拾名余の教育を命ぜられた折
参考になった。

三ケ月後 機体設計課勤務、
唯一人の女事務員久良子嬢から
設計器具の貸与を受けた。
其の折「ダバイダー」の名前を忘れて弱った。
貴方其れでも工業学校出たのと
一本取られた事は今だに忘れない。

当時は武石技術部長の許に
設計の富永課長と中西課長の研究課の二課で
富永課長は機体と発動機設計の兼務であった。
機体設計は一〇名程の人員で一家と云う感じ、
佐藤、山川、矢部、鈴木、
高橋、小立、高梨、沢柳氏等、
発動機は江沼氏以下
六、七名いた程度、
外に青写真係があり
庶務の小林、白川嬢だった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/217

(昭和14年)
春のラグビー部の第一戦は四月下旬奉満と対戦した。
このチームは全満一で早大OBの台湾出身
名センター「柯」が又 ※柯子彰
横浜高工の益さん事益田さんがおり強かった。
試合は三十対三で負けたが
初めて三戦目に一トライを取った。
之れは私が敵陣一五ヤードのルーズの中から
球を拾ったもので之れは我が部史に残る
記念すべき一トライと自賛した。
又選手にもやれると自信を植付さした。

 満航ラグビー部 篠原顧問歓迎会
p218【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
p218【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/218
然しその技量の差は如何とも仕難いと思っている時に
倉庫課に松村君が入社直ぐ入部した。
彼は同志社の名センターだ。
彼の入部により練習方法も一変し
六月の満洲電々と対戦一八対六と
部創立二年目にして初勝利を得た。
その日のジョッキ程うまいものはなかった。
今日の勝利を得るのに
一年半の練習の毎日は大変なもの、
之れを機会に沢柳主将は現役を去り
松村主将にバトンタッチした。
鈴木、建部両氏も仕事の関係で退部した。
東田監督も現場多忙で退いたので
松村新主将が兼任した。

大利君のロック、サードローの渡辺、
インハーフの市川氏、
スリーコーターは松村を中心として
亀岡、小立氏等で固って来た。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/219

川崎飛行機には学校時代の親友
吉原謙二郎氏がおり
私一人彼の下宿から通った。
彼とは野球のバッテリを組んでいた仲、
昭和十四年
彼は満飛に入社したが一年で退社、
横浜の日本飛行機に入社、
工場長として大いに腕をふるい、
終戦后岡村製作所を興し社長として
今日の隆盛を見た。
慶賀に堪えない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/220
(昭和13年)
会社も満洲飛行機となり、
満洲重工業の一翼となった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/221
昭和14年
荒尾、灘波等
豪の者も強いウオッカ…。

市川氏は南満工専出身、
彼とはラグビーで仲良くなり
奉天音楽で同宿だった。

昭和十五年には
本年四月に早大出身、
全日本の選手井川君が入社した。
これで同志社出身の松村、正岡と ※正岡 正
早大名フルバックの井川を中心に ※井川晴雄
メンバーを編成すれば
全満でも優勝可能チームになるねと
田名部部長。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/222
私の拙文は之れで終るが、
在籍一年未満ながら戦死された
早大の故井川氏竝
福留両氏のラグビー歴を記載し
御冥福を祈りたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/223
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
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《江沼孝太郎》満洲飛行機製造(株)発動機部長【全日本紳士録 昭和40年版】

《江沼孝太郎》
満洲飛行機製造(株)発動機部長
日本ミネチュアベアリング(株)副社長
ビユーテイカメラ(株)取締役
【全日本紳士録 昭和40年版】

【全日本紳士録 昭和40年版】
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1965
《江沼孝太郎》 p167/1019
産業開発(株)企画部長
朝日精機(株)顧問
富山県出身
東京都杉並区在籍
明治42年5月17日生
昭和6年物理学校 数学科 ※下記:卒業名簿に記載なし
経 満洲飛行機製造(株) 発動機部長
  日本ミネチュアベアリング(株) 副社長
  ビユーテイカメラ(株) 取締役
趣 音楽・読書
住 東京都杉並区上高井戸三ノ六六九
  (電)398-二七五七
勤 産業開発(株) (電)251-三四六〇・254-四三二五
 p167【全日本紳士録 昭和40年版】
〔画像〕p167【全日本紳士録 昭和40年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3041322/1/167
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【東京物理学校一覧 昭和11年度】
著者    東京物理学校 編
出版者   東京物理学校
出版年月日 昭11
第八十回 昭和六年三月卒業 p67-68/97
江沼孝太郎 記載なし
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
当時の組織の一部は次のとおり。 p40
北機械製作処
処長 武石喜三
副  富永五郎
副  松尾四郎
機体部  部長 富永五郎
発動機部 部長 江沼孝太郎
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《江沼孝太郎》ビューティカメラ取締役工場長【北日本年鑑 1962年版】昭和37年

《江沼孝太郎》ビューティカメラ取締役工場長
【北日本年鑑 1962年版】昭和37年

【北日本年鑑 1962年版】昭和37年
著者    北日本新聞社 編
出版者   北日本新聞社
出版年月日 1962
《江沼孝太郎》
ビューティカメラ取締役工場長
東京都杉並区上高井戸三の六六九
(富山県)明治42・5・17
 p202【北日本年鑑 1962年版】
〔画像〕p202【北日本年鑑 1962年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2985225/1/202
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藤原銀次郎閣下の航空機緊急増産命令に基づく査察<3/3>[満洲飛行機の思い出]昭和57年

藤原銀次郎閣下の航空機緊急増産命令に基づく査察<3/3>
[満洲飛行機の思い出]昭和57年


満洲国政府並に関東軍司令部の特命による
日本の前軍需大臣藤原銀次郎閣下の
航空機緊急増産命令に基づく査察を受けた状況
 武田智泉

私は会議中の質問に対し
岡部理事長に回答の資料を随時提出し
又后日報告を要する事項の記録や議事録の作成担当者として、
又査察使側との打ち合せ連絡者として
一行に随行することとなり、
岡部理事長秘書兼任も命ぜられて
理事長と共に公主嶺ハルピンにも随行したのである。

 中機械製作処の査察
公主嶺は奉天と新京との丁度中間にある都市で
満洲国では珍しく唯一の日本人が市長をしている
風光明美な市街と比較的日本人の多いところであり、
市の西部にある軍の施設に中機械製作処が疎開して居り
その規模も小さく良く纏っているところである。

中機械製作処に於ては本社の査察会議中に概況を説明されて居り、
現地では西村処長より生産の実情を説明された后に
工場を査察されたのであるが、
会議に於ても若干の質疑応答がされたのみで順調に終了した。

修了后査察使一行を接待の為
郊外の芝生が地平線まで続く
広大な所でジンギスカン鍋料理の野外宴が催された。

芸者達も多数サービスに出て酒宴もたけなわなる時、
遥か地平線の彼方より沢山の羊が群を追って
会場に近づいて来る光景は折からの大きな夕陽に映えて
実に美しい絵のようであった。

この雄大な景色の中で味ったジンギスカン鍋料理の美味と
土産に貰った大きな木箱入のカステラの美味しさは
当時満洲でも砂糖酒類の配給制で窮屈な折柄
よくこの様なものが出来たものと
忘れられない思い出となっている。

査察使一行はその日は新京にて宿泊し
二日を置いてハルピン大和ホテルにて
会社側と会同し
北機械製作処の査察を行なうことになったので
私達は一応奉天に帰った。

 北機械製作処の査察
中機械製作処の査察終了後二日目に監督官室に呼ばれ、
中村監督官より
明日夜ハルピン大和ホテルにて岡部理事長と会同し、
明后日よりハルピン地区の工場査察を実施する旨連絡があり
直ちに富永総務課長に ※富永秋敏
理事長に報告方依頼すると共に
携行書類の準備をした。
携行書類について岡部理事長に報告すべく
理事長室に入ったところ、
富永課長よりハルピン行きについては
時局柄理事長のみ行くこととし
総務課長も坂田秘書も随行せず ※坂田一嘉
私が只一人秘書をかねて随行せよとの命を受けた。

翌日九時岡部理事長にお伴して
奉天駅より特急アジヤ号の一等室に乗り
夕刻ハルピン駅に到着し直ちに
大和ホテルに入って宿泊手続をした。

ホテルには既に藤原査察使一行並に軍の関係者と共に
中村監督官も投宿されて居り
くつろいでいられた。

岡部理事長は到着后直ちに藤原閣下に着到の挨拶をすべく
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[満洲飛行機の思い出]p298
〔画像〕[満洲飛行機の思い出]p298

貴賓室に案内された際
「明日の予定については后で連絡するから
ゆっくり休まれるように」とのことであった。

夕食后暫らくして中村監督官より呼出しがあり
お部屋に伺うと随員の方二人と立会の上
明日の行動予定について次のように指示された。

「藤原査察使並に随員の方々が新京に於て
満洲飛行機会社より提出されている報告書の内容と
奉天、公主嶺に於ける査察を詳細に検討されて
ハルピンの情況と概略把握されているので、
ソンジャンに於ける査察及び会議は本社のように
一件一件を質問されるようなことはなく
会議では北製作処長の説明を聞いて
若干の質疑応答は行われるかも知れないが、
工場の生産態勢状況の査察に主体をおかれるから
岡部理事長にこの旨伝えよ」

「尚明朝のホテルの出発は午前八時にし
査察使一行及軍関係者の車の手配は出来ているので
理事長の車を遅れぬように手配せよ」
と指示された。

 孫家工場に於ける査察
当日午前八時大和ホテルより車六台を連ねて
孫家工場に向ったが、
理事長の車に随員の一人が同乗され種々と話されていたが
私は助手席にいたのでよく聞きとれなかったけれども、
あまりいい話ではなかったように思った。

孫家工場の会議場に於ては富永副処長より
一月厳寒の中での機械設備の疎開
並に之等の据付作業員の転勤による
諸状況と共に工場の生産状況について説明された后
工場の操業状況を詳細に視察せられた。

既に孫家工場に於ては
「キ-84」機体を組立完了して居り
発動機の到着待ちの態勢にある実情に
査察使一行は感心された様子にて
藤原査察使より賞讃の言葉があったのを記憶している。

査察修了后
松花江の畔にある
ヨットクラブに於て夕食会をしたのであるが
査察の結果報告書は后日、
軍を通じて送達されるとのことであった。

夜 大和ホテルに帰った時、
岡部理事長はホット安心された様子がうかがわれた。

然しこれからの対策や生産増強の実績を確保するのが大変だと
一入口許を引き締められたお姿に経営責任の重大さと
並々でない覚悟をされていることが
私にも感じられたのである。

附記 この原稿執筆に当り当時を想起する参考資料として
   次の文献より関係事項を採用した。
   一、藤原銀次郎述 下田将美著
     藤原銀次郎回顧八十年
   二、閉鎖機関等其の特殊清算(昭和二十九年著)
    (旧所属)総務課
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[満洲飛行機の思い出]p299
〔画像〕[満洲飛行機の思い出]p299
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当記事は、平成30年(2018)3月6日に小野雄二(弟)が、
大刀洗平和記念館を訪館した際に、
[満洲飛行機の思い出]を閲覧し、
小野又一(父)の記載を見つけ、
関連個所を記念館の方にコピーして貰った。
平成30年(2018)3月15日 小野一雄
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筑前町立大刀洗平和記念館
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月15日 09:33
[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
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国立国会図書館サーチ
満洲飛行機の思い出
満洲飛行機の思い出編集委員会 編
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