◆【支那事変実記】讀賣新聞社編輯局

安藤部隊長代理と間瀬副官:(原特派員)讀賣百萬讀者【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

安藤部隊長代理と間瀬副官:(原特派員)讀賣百萬讀者
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年八月二十九日) p173-174/187
 流彈は壁に喰い込む
部隊長を失つた○○中央最前線の倉永部隊は、
三十日陸續たる後續部隊の到着とともに
決然一大弔合戰をなさんとの決意をかためた。

空にわが友機數機飛んで敵陣地の偵察、爆撃、
風は江南の野に滿ちて、
敵本陣への總攻撃の機は
黄浦江に迫る夜のとばりとともに充ち滿ちて來た。

嵐の前のごとく
依然として不氣味な唸りをたてつづける
流彈のなかをくぐつて、
記者(原特派員)は
※読売新聞社 社会部 原 四郎:下記
前線に倉永部隊長なき倉永部隊を訪へば、
安藤部隊長代理と間瀬副官は
いきなり記者の手を握り男泣きに泣いて、
必ず弔合戰を行ふことを誓ひ、
記者を通じて左の手記を
讀賣百萬讀者に傳へられんことを懇望された。

折柄敵の迫撃砲は附近支那農家の屋根窓に炸裂、
一彈、二彈、三彈と
記者と間瀬副官の握り合つた手の上を越えて
傍らの壁に喰ひこんで行く……


 部隊長代理 安藤元一 手記
本官は以下に記す
部隊長戰死の眞相を先きに各部隊長に傳へ、
その眞相を部下一同に傳達するとともに
益(ますま)す士氣を作興し、
部隊長のために一大弔合戰をなすの覺悟を
喚起せられんことを望んだが、
いま再び讀賣新聞記者を通じ
讀者諸君にその眞相を傳へんとするものである。

八月廿九日拂曉、
第一線の銃砲聲激烈となりしを以て、
部隊長は間瀬副官と小出曹長を呼び、
護衞兵に名を從へて午前二時五十分、
敵狀及び第一線狀況視察並びに
戰闘指揮のため本部隊建物を出て、
約三十メートル前進、
部隊長が十字路を左折せられんとしたる刹那、
前方より飛來したる一彈胸部に命中、
アツと聲を發せられ
二、三歩後方によろめき倒れたり。

間瀬副官及び小出曹長、
護衞兵二名は直ちに駈け寄りて手當したるも、
弾丸は心臓部より左肺に貫通しをり、
約三十秒にして遂に名譽の戰死を遂げられたり。

 「敵は裏だ」と慈悲の一語
  間瀬副官 手記
わが部隊長の戰死に際し、
余は何をさきにいふべきかを知らない。

あの、部下に慈悲深かつた部隊長、
食事は兵より先に決して攝らず、
夜も兵が寝てから一々兵舎を廻り
『どうだ皆寝たか』と
兵の顔を覗き込むやうにして
コツコツと見廻られたあの靴音は、
あゝもはやこの夜からはわ
 第1輯】p173
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p173

が兵舎に聞くことは出來ない。

部隊長は敵陣にバタリ倒れられた際
駈け寄つたわれわれに
『裏だ裏だ』と繰返し繰返し呻くやうに仰有られた。

敵彈は裏の方向から飛んで來る、
みな注意せよと、
飽くまで死の最後
部下の身を思つてゐられたのだ。

宜しい!
我々はこの部隊長の大きな慈愛に滿ちたお氣持を
骨身に徹して全軍みなよく知つてゐる。

この恨みを晴らすことが今我々に殘された任務だ。

○○部隊の名譽のために我々皆死を覺悟、
敵の本陣地の攻略へ向ふであらう。
幸ひに後續部隊は續々と到着した。
あとはただ合戰があるのみである。
『弔合戰!弔合戰』
 第1輯】p174
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p174
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編 者  讀賣新聞社編輯局
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責任者  樺山寛二
發行者  東京市淀橋區下落合二ノ九一六
     佐藤邦秀
印刷者  東京市神田區鎌倉町一九
     井關敦雄
東京市淀橋區下落合二ノ九一六
讀賣新聞社編輯局編纂
  大東亞戰史發行所
  電話大塚(86)三四七一番
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【日本新聞年鑑. 昭和12年(15版)】
[讀賣新聞社] p246/264
 昭和十一年十二月現在
社 長   正力松太郎
社會部長  宮崎光男
グラフ主任 三浦薫雄
      原 四郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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支那軍隊の一般人民に對する暴虐ぶりは…【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

支那軍隊の一般人民に對する暴虐ぶりは…
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年八月二十八日) p165/187
(支那の動き)
張治中は上海正面作戰部隊の總指揮に任ぜられた。

呉淞戰線より遠く蘇州方面まで充滿してゐる
支那軍隊の一般人民に對する暴虐ぶりは言語に絶し、
掠奪暴行勝手次第といふ鬼畜の如き支那戰場風景を呈している。

豫備線より前線に出た支那軍には、
掠奪など一切の暴虐は正式に許されてゐることが判明した。

二十八日には嘉定縣長
郭某が支那兵の掠奪に不滿の意を漏らした廉で、
賣國奴の名を冠せられて
慘虐目を蔽ふ火焙りの極刑に處せられたといふ事實がある。
 第1輯】p165
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p165
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連日無辜の市民大量虐殺のテロ政策【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

連日無辜の市民大量虐殺のテロ政策
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

 デマに惑ふな p162/187
(昭和十二年八月二十七日)
午後三時半、
憲兵司令部では北支並びに上海事變、
または軍事上に關する流言蜚語取締に關して
警察側とも密接に協力して全國に指令を發した。
巷間に流布される種々のデマに惑ふなといふのである。

(支那の動き)
上海、南京間一切の通信線は切斷され、
自動車、汽車、汽船、飛行機等の交通機關は
完全にその機能を停止した。

わが海軍機の南京空襲は今日まで既に九回決行されたが、
軍事關係施設以外の被害は一箇所もなく、
驚嘆すべき正確さを示してゐる。

支那側は日本軍空襲による
一般民衆の被害は盛んに書き立ててゐるが、
南京市民は日本飛行機襲來の警報が鳴り渡つても
日本軍は軍事機關以外を爆撃しない事を知つてゐるので、
その態度は寧ろ平靜である。だが
 第1輯】p162
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p162

支那は自ら黄浦江並びに揚子江を封鎖して以來
次第に食糧難に陥り、
一流ホテルにおいてすら一罐のバタも手に入らない狀態である。

また賣國奴の名の下に
連日無辜の市民大量虐殺のテロ政策を續けてゐるので、
暴動の勃發は表面的には極力抑へられてゐるが、
市民は内心ひとしく
更に險悪な狀態が遠からず來るべきことを豫期して居り、
戰々兢々たるものがある。
 第1輯】p163
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p163
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殘兵の掃蕩終り、天津治維會成立【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

殘兵の掃蕩終り、天津治維會成立
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年)七月卅一日
殘兵の掃蕩終り、天津治維會成立 p70/187
山東省居留民・靑島に引揚
(戰況)
午前五時頃より高木部隊は、
總站附近の鐘紡工場地區に殘留する
敗殘兵を攻撃して四散せしめた。

また通州兵變の敗殘兵約一千名は、
北平安定門外に於て、
完全に武装解除を行ふ。

この日萱島部隊は通州に到着、
市内の保安隊殘兵を掃蕩した。

なほ殷汝耕氏の拉致に依り空席となつた長官には、
冀東政府秘書長池宋墨氏が代理に任命された。

天津に於ける日本租界及び隣接地區より、
完全に支那兵を驅逐し終へたので、
愈々金融界方面の實力者を主體とし、
高凌蔚氏を委員長に治維會を組織し、
安民樂土の建設に踏出すことに決定した。
 第1輯】p70
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p70
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冀東防共自治政府長官・殷汝耕氏【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

冀東防共自治政府長官・殷汝耕氏
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年七月三十日) p67/187
通州事件の消息がはつきりと分らなかつた
卅日の天津の話である。

居留民會から罐詰のやうな長期に耐へる食料は
なるべく食べないで貯藏しておくこと、
といふ決議が通達された。

正陽門の河北銀行は朝から取付け騒ぎがはじまつた。
同銀行は流通の紙幣が使へなくなるといふて、
札束をもつた支那市民が狂氣のやうになつて
ワイワイとたかつてゐる。

ある映畫班がそれをクランクしてゐるところを、
保安隊と群衆に包圍されフイルムを取りあげられ
ハウハウの體で逃げてきた。

夕方皇軍の通州爆撃から逃れたてきた
冀東保安隊五〇〇名が安定門外へ到着した。

二日間も物も食はずヒヨロヒロだから、
飯を食はせてくれれば、
武裝解除に應じる旨を傳へてきた。

こんな奴等は餓死が因果應報だが、
武器を持たしておいたら何をするか判らない。

わが〇名の兵がトラツクで急行、
安定門の城壁の上と下で交渉をはじめたが、
やつと交渉がついたらしく
城門を半開
 第1輯】p67
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p67

していよいよ城外で武裝解除をやつた。

保安隊の服裝をかなぐりすてて
今は土匪同樣のテイタラクで、
たつた〇〇名の我が兵の命令で
ヅラリと並んだ五百餘の敗殘兵どもは銃を捨て、
靑龍刀を投げて早く飯を食はしてくれと言はんばかりの
ガツガツした顔色だ。

その中から突然一人の平服の男が獨り
『ワツ』と聲をあげてとび出して來た。

之が意外にも
冀東防共自治政府長官
殷汝耕氏だつたのだ。 ※殷汝耕:下記

ヨレヨレの服は泥によごれ破れて
痛ましくも脚に輕傷を負ひ憔悴しきつた姿だ。

『あゝ、よかつた。』
と殷長官は感極つたやうに涙をボロボロ流し、
その救出は誠に劇的場面であつた。

保安隊どもは共産學生と敗殘兵の煽動に乗つて暴動を起し、
殷長官を拉致して北平へ乗りこめば、
宋哲元が喜んで正規軍に編入してくれるだらうと
いい氣になつてここまでやつて來たものらしい。

ところが來てみると案に相違して
北平はどの城門もピツタリ閉ぢ
『支那軍大勝利』の夢は一ペンに覺め途端に、
空腹が身にこたへ、
かくは泣込んだ始末。
 第1輯】p68
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p68
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《殷汝耕》國民政府外交部長等
【日本人名選:昭和16年】
【早稲田大学校友会会員名簿】
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南京政府は洛陽の毒ガス工場に命じて…【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

南京政府は洛陽の毒ガス工場に命じて
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年七月二十八日)
 宋哲元等逃げだす p62/187
この日の我軍の總攻撃に、
北平外廓の敵軍は殆んど全滅の形で、
最早殘軍を整理して
有力な抗日戰を行ふ望みがなくなつたのと、
身邊の危險に迫られた
宋哲元、秦德純、馮治安等の冀察首腦部は、
午後十一時頃逸早く西直門驛より長辛店を經て、
保定に逃亡してしまつたので、
城内の兵も之に從つて退去する者多く、
北平市内の治安は張自忠が臨時に治維會を組織して、
之に當つてゐる。

(外 交)
 ―略―

(支那の動き)
中央が賴みとする廿九軍は、
たつた一日の戰闘で殆んど主力を失つてしまつたで、
此の上は毒ガスでも撒布して勝つより外ないと考へたのか、
南京政府は洛陽の毒ガス工場に命じて、
盛んに毒ガスの製造をつづけてゐると報ぜられる。

中型タンク六十臺を津浦線にて前線へ急送した。

事變以來銀資金の海外への逃避を防止するため、
國民政府は防戰賣りを行ひ、
旁々公債の崩落を喰止めてゐる。

孔祥熙は英國との鐵道借款にあたつて、
一千萬磅(ポンド)の三分の二を鐵道材料の購入に、
三分の一を爲替資金とすることを提案して
一蹴されたと傳へらる。
 第1輯】p62
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p62
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籠城を決意する北平の邦人女性【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

籠城を決意する北平の邦人女性
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

(昭和十二年)七月二十二日 p51/187
籠城を決意する北平の邦人女性
民間鳥人蹶起す
(戰況)
 ―略―
 雄々し白粉をすてて
硝煙の北平籠城風景を彩る花―
それは白粉氣をなくした雄々しい大和撫子だ。

蘆溝橋の砲聲は、
北平在留の日本女性の半分以上を追ひ立てた。

天津經由で内地へ避難しただけでも六百人、
事變はじめの悲壯感は、
皇軍の派兵で大分落付いて來たとはいふものの、
それでも毎日幾人かは北平を去つて行く。

後に殘つた籠城娘子軍は
半島の女性を交へてただ四百人あまり、
これが北平をかざる悲壯な花である。

彼女達はいよいよ最後の籠城となつたら
炊出しを引受けて女ながらも
力の續く限り働いて見せやうと力んでゐる。
 第1輯】p51
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p51
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《片岡直道》日本放送協會 常務理事 業務局長【人事興信録. 第12版(昭和14年) 上】

《片岡直道》日本放送協會 常務理事 業務局長
【人事興信録. 第12版(昭和14年) 上】

【人事興信録. 第12版(昭和14年) 上】
《片岡直道》 p570/1079
 正四位勳三等
 大日本航空(株)常務取締役
 大分縣士族
 養父 正路  安政三年八月生 現戸主
 養母 テル子 明治 九年四月生
 妻  田鶴子 明治三二年 三月生
        養父 正路 長女
 男  知道  昭和 六年 一月生
大分縣 高妻弘道の弟にして
明治十八年出生
昭和六年 片岡正路の養子となる
大正二年
東京帝大法科政治學科を卒業し
逓信局書記・通信事務官補・通信事務官を經て
大正八年
通信局郵便課長となり
大正十年
米伊二國に出張す 後
熊本・大阪各逓信局規畫課長・逓信書記官・
大臣官房・保險・秘書各課長・仙臺逓信局長を經て
昭和六年
航空局長に任ぜらる
昭和十二年五月
退官 直に日本放送協會 常務理事 業務局長に就任し
昭和十三年十一月
大日本航空會社 常務取締役に擧げらる
家族 尚ほ
長女 恒子  昭和七年八月生
二女 不二子 昭和一一年二月生あり
所得税 一五二〇
(東京市杉並區井荻町二ノ二一 電話荻窪二一一七)

【ラヂオ年鑑. 昭和12年】
社團法人 日本放送協會役員名簿 p222/245
 昭和十二年三月末日現在
※片岡直道 記載なし

【ラヂオ年鑑. 昭和13年】
社團法人 日本放送協會役員 p220/243
 昭和十三年三月末日現在
理事 常 務    片岡直道
本部 業務局 局長 片岡直道

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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擧國一致の結束成る・言論機關代表等【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

擧國一致の結束成る・言論機關代表等
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

 北支派兵中外に宣明 p20/187
またこの日、 ※昭和12年(1937)7月11日
政府は帝國の態度を決定するため、
午前十一時三十分、
首相、外相、陸相、海相、蔵相の五相會議を開き、
會議實に二時間ののち緊急閣議を開催、
廟議において決定せる根本方針について
近衛首相より委曲奏上御裁可を仰いだのち、
午後六時二十五分、
北支派兵について左のごとく聲明した。
 第1輯】p20
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p20

 第1輯】p21
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p21

 擧國一致の結束成る p22/187
この聲明發表ののち、
政府は擧國一致、結束せる國力をもつて
この方針の遂行を期するため、
言論機關、貴衆兩院、財界、三方面の協力を求めるべく、
夜九時から、右三方面の代表者の參集を乞ひ、
政府側からは近衛首相以下の各閣僚、
各關係官出席して、
事件の經過と政府の所信を述べて協力を要望したが、
これに對し、
各代表よりもそれぞれ協力して
これに當るべしとの挨拶があり、
ここに政府の方針は完全なる擧國一致のもとに
遂行されることとなつた。

當夜、首相官邸に參集せる各方面代表、
及びその挨拶は次のとほりである。

言論機關代表    ※●下記参照
岩永同盟社長、   ※●同盟通信社   岩永裕吉
上田同編輯局長、  ※●同盟通信社   上田碩三
阿部東日總務、   ※●東京日日新聞社 阿部眞之助
岡野報知編輯局長、 ※●報知新聞社   岡野茂雄
村上國民編輯局長、 ※●國民新聞社   村上猶太郎
田中中外社長、   ※●中外商業新報社 田中都吉
山本都主幹、    ※●都新聞社    山本信博

柴田讀賣編輯局長、 ※●讀賣新聞社   柴田勝衛
緒方東朝主筆、   ※●東京朝日新聞社 緒方竹虎
美土路同編輯局長、 ※●東京朝日新聞社 美土路昌一
その他右各社幹部、
片岡東京放送局常務理事
など約四十名、

衆議院代表
町田民政黨總裁、 ※立憲民政党 町田忠治
小泉同幹事長、  ※立憲民政党 小泉又次郎

鳩山、前田、島田、※鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄
三政友會代行委員、※立憲政友会
松野同幹事長、  ※松野鶴平

安達國盟總裁、  ※国民同盟  安達謙蔵
無所屬 望月圭介、※無所属   望月圭介
東方會 中野正剛、※東方会   中野正剛
社大 安部磯雄  ※社会大衆党 安部磯雄
の諸氏。

貴族院代表
 ―略―
財界代表
 ―略―
 第1輯】p22
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p22
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※●印 下記に記載あり
【日本新聞年鑑. 昭和12年(15版)】
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(及廣告代理業 滿洲弘報協會)幹部表
(昭和十一年十二月現在)
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[序]讀賣新聞社編輯局【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

[序]讀賣新聞社編輯局
【支那事変実記. 第1輯】讀賣新聞社編輯局・昭和17年

【支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編】

 第1輯】p3
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p3

  [序] p4-5/187
今回の支那事變における我が軍の行動は、
同文同種の親近關係にある
支那國民を敵とするものではなくて、
日支の國交を阻害する抗日分子を徹底的に排除し
東洋の平和を永遠に確立するための
正義の戰ひである。

わが社は事變勃發と同時に
逸早く多數の記者を現地に派遣し、
現地報道の第一線に立てた。

幸ひに皇軍は銃後における
全國民の熱烈なる聲援と支持の下に、
陸に、海に、空に、連戰連勝、
世界の戰史にも未だ嘗て例を見ざる程の
驚異的戰績を擧げつゝある。

この輝かしき戰績は、
或はラヂオによつて、
或は新聞を通じて時々刻々報道されつゝあるが、
これを一冊の書物にまとめて通覽し、
死生を賭しての皇軍將士の奮闘と勞苦を思ふことは、
第一線に戰ふ皇軍將士に對する國民的支援を益益深め、
以てわが國策の貫徹を期する所以であると思ふ。

わが編輯局が本書の編纂を企てるに至つた動機はこゝにある。
 第1輯】p4
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041954/4

事變は今尚刻々に擴大中であり、
且多忙の間にこれを纏めざるを得ない事情にあつたので
素より完全無缺のもとはいへず、
多少の遺漏は免れられぬかも知れぬが、
然し現在の事情の下にあつて
手に入る限りの資料を蒐集し
最新の注意をもつてこれを整理し、
出來得る限りの完璧を期した積りであり、
こゝに収められた
一行の文章、
一葉の寫眞と雖も
鐵火の中を潜れる多數の記者の
貴重なる血と汗の結晶たらざるものはない。

本書はこれを
縦に見れば、
一貫せる戰史的記錄であると共に、
横に見れば
忠勇義烈の各將士の戰火と血涙に彩られた
奮闘談であり、
美談集であり、
逸話集であるところに、
いささかの特色を示したことを最後に附言して置く。

 讀賣新聞社編輯局識

[支那事變實記] 自七月七日 至八月卅一日
 第1輯】p5
〔画像〕【支那事変実記. 第1輯】p5
昭和十七年四月 十日印刷
昭和十七年四月十五日發行
支那事變實記 全十五輯
 特製 定價 金三十圓
編 者  讀賣新聞社編輯局
編輯實務
責任者  樺山寛二
發行者  東京市淀橋區下落合二ノ九一六
     佐藤邦秀
印刷者  東京市神田區鎌倉町一九
     井關敦雄
東京市淀橋區下落合二ノ九一六
讀賣新聞社編輯局編纂
  大東亞戰史發行所
  電話大塚(86)三四七一番
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