◆東京宿毛会

宿毛郷出身 長尾一族と立田氏の系譜を追う:今西 誉【土佐史談 (174)】1987-03

【土佐史談 (174)】1987-03
出版者   土佐史談会
出版年月日 1987-03
 p1【土佐史談 (174)】1987-03
p1【土佐史談 (174)】1987-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/1

 宿毛郷出身
 長尾一族と立田氏の系譜を追う
      今西 誉
 長尾氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/23
 その(二) 立田氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/24
 立田黙斉公之墓誌
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/26
 放亀山に有る立田黙斉(省菴)公之墓誌を基に作製した
 立田家略系図
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/27
昭和六十二年三月三十一日印刷・発行
土佐史談 通刊一七四号
発行所 高知市丸ノ内一ノ一ノ一〇
    高知県立図書館内
    土佐史談会
    会長 山本 大
印刷所 弘文印刷株式会社
    電話〇八八八(七二)六三〇七
    振替大阪一ノ七五七一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913117/1/38
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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宿毛機勢隊 橋田庫欣【土佐史談 (155)】1980-11

【土佐史談 (155)】1980-11
出版者   土佐史談会
出版年月日 1980-11
  土佐史談
  通刊155号(復刊76号)
  維新殉難志士特集号
  土佐史談会
 p1【土佐史談 (155)】1980-11
p1【土佐史談 (155)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/1
  戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)
別府彦九郎宜春  胡蝶隊長    (写真上段右より)
北村長兵衛重頼  砲隊長
西山 栄由矩   砲隊分隊長
真辺戒作正精   迅衝六番隊長
片岡健吉益光   大軍監兼右半隊司令
吉本兵之助祐雄  徒士砲隊指揮官 (写真中段右より)
山田平左衛門(喜久馬)清廉 迅衝九番隊長
谷守部干城    大軍監
谷神兵衛重喜   迅衝四番隊長
山地忠七元治   迅衝七番隊長  (写真下段右より)
谷乙猪繁枝    (弱冠十二歳で後続部隊に従軍)
乾(板垣)退助正形 東山道先鋒総督府参謀兼帯
伴権大夫正順   軍監
 なお戦争中に指揮部隊の変動したものもある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/51

    宿毛機勢隊  橋田庫欣
慶應四年一月三日にはじまった
※1868年1月27日
鳥羽伏見の戦いが宿毛に報告されたのは、
一月九日のことであった。
高知から急いで帰った中村進一郎が
これを伝えたのである。

中村は林有造(当時の名は祐次)等に
出兵の必要を説き、
中村等四名は宿毛領主の許可を得て高知に行き、
板垣の軍団に参加することができた。

林有造や竹内綱たちは、
領主山内主馬の嫡子
陽太郎(当時の名は太郎左衛門)の
学問修業のお供をして京都に上ることになった。

中村進一郎らは、
本藩の高知兵と共に松山城攻略に向い、
その後東征軍に従って江戸まで進撃したが、
六月二日再び宿毛に帰り、
戦況を報告するとともに、
領主に対して宿毛兵の出兵をすすめた。
大江卓も宿毛兵の出兵を種々画策した。
だがそう簡単には許可は下りなかった。

林有造の兄の岩村通俊は、
小野義真とともに
大坂の宿毛屋敷に勤務していたが、
大阪府の要路を動かして親兵総取締となり、
陽太郎に出陣をすすめた。

有造は山内容堂に働きかけて
陽太郎の出陣を戦況視察という名目で許可を受けた。
その時ちょうど土佐兵を以て
越後を討伐するよう密旨が下ったので、
宿毛兵の到着をまたず出陣するよう容堂に命ぜられ、
金百両をもらって出発した。

宿毛兵にようやく出陣の許可が下りたのは、
七月十日のことであった。
  ―略―
この機勢隊には十七才の少年兵小野梓も入っており、
この他陽太郎づきの林有造等も戦場では合流しており、
総勢百十五名となっている。
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/29
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/30
  ―略―
百十余名の機勢隊が、
領主の嫡子陽太郎を先頭にして北越に出征し、
官軍として戦ったのであったが、
その割合には大した戦果もなく、
その功績も大したことではなかった。
しかし、この戦の意義は、
宿毛にとっては実に大きなものがあった。

林有造、竹内綱、中村進一郎、酒井融、小野梓等が
直接機勢隊の一員として戦闘に参加し、
岩村通俊、高俊は共に親兵の軍監として
同じ地域に転戦して偉勲をたて、
明治維新という日本の大転換をみずからの手で行い、
その進路を大局からつかんだのであった。

宿毛に居てはなかなかとどいてこない
中央の情勢をその渦中に入り
身を以て体験したのであった。

その上、これらの人々はそのまま
中央に残って政府の要職につくか、
或は一旦帰郷の上再び中央に出て活躍したのであるが、
若しこの時官軍として参戦した実績がなかったならば、
中央であのような活躍はできなかったにちがいない。

こう考えてくると、
僻地の小さな宿毛から、
後世数多くの人材が輩出した原因の一つに、
この宿毛機勢隊の参戦があったといっても
決して過言ではない。
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/31
昭和五十年十一月三十日発行
通刊 一五五号(復刊七六号)
発行所 高知市丸ノ内一ノ一ノ一〇
    高知県立図書館内
    土佐史談会
印刷所 弘文印刷株式会社
    電話(72)六三〇七
    振替大阪七五七一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/52
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《別府彦九郎》日下別府氏の後裔:明治元年戊辰東征の時、土佐官軍迅衝隊將校【土佐名家系譜】昭和17年

【土佐史談 (155)】1980-11
  土佐史談会
   戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)
別府彦九郎宜春 胡蝶隊長(写真上段右より)
p1【土佐史談 (155)】1980-11
p1【土佐史談 (155)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/1
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【土佐名家系譜】昭和17年
著者    寺石正路 著
出版者   高知県教育会
出版年月日 昭和17
  二、室津別府氏
〇日下別府氏
 吉野朝高岡郡日下領主に、
 別府彦九郎あり、
 佐伯文書、曆應三年十二月十九日
 軍忠狀に土佐國久佐賀(くさか)
 別府彦九郎入道跡の事
 軍忠ある所により宛て
 行ふ所なり云々とあり。
 (參考)
 明治元年戊辰東征の時、
 土佐官軍迅衝隊將校に、
 別府彦九郎あり、
 其の後裔なりと認められる。
土佐遺語、續太平記、秦氏地檢帳、
土佐國編年紀事略。
昭和十七年一月十日印刷  定價 四圓五十錢
昭和十七年三月二日發行  送料   拾四錢
著 者 寺石 正路
    高知市南新町一六五
發行者 桑名 薫延
    高知縣敎育會代表
    高知市丸ノ内二ノ三
印刷者 岡本 專吉
    高知市枡形一二
印刷所 仁尾印刷所
    高知市枡形一二
發行所 高知縣敎育會
    高知市丸ノ内二ノ三
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《別府彥九郞》御雇ニテ句讀師被仰付[致道舘]文久2年11月【高知藩教育沿革取調】昭和7年

【土佐史談 (155)】1980-11
  土佐史談会
   戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)
別府彦九郎宜春 胡蝶隊長(写真上段右より)
p1【土佐史談 (155)】1980-11
p1【土佐史談 (155)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/1
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【高知藩教育沿革取調】昭和7年
著者    高知県 編
出版者   青楓会
出版年月日 昭和7
  [致道舘]
初 文武舘ト稱ス、尋テ本稱ニ改ム。
校舎所在ノ地
土佐國土佐郡西弘小路
沿革要略
 ―略―
學舘惣裁手扣牒
一、文久二年四月廿六日
  三奉行ヲ御使ニテ文武舘惣裁可致旨
  被仰出思召之御書附之覺
  一通受取左之通
   ―略―
◎十一月九日
一、四時臨舘 先日
  市川内藏次 渡邊禎吾 文舘 助敎授被仰付
  内田茂助 句讀師本役ニ被仰付
  別府彥九郞 弘田貢次郞 喜多村寅次郞
  御雇ニテ句讀師被仰付
  苅屋說太郞 松木滄吉 朝比奈時馬 句讀師御免被仰付事
一、吉田文次 品川御侍讀被仰付 當月廿日 出足 被仰付事
一、細川潤次郎 當役其儘ヲ以 御船手御用取扱勤 被仰付事
昭和七年七月廿五日印刷
昭和七年八月 一日發行
四百部限定 (非賣品)
編輯兼 靑楓會
發行者 高知縣立圖書館内
    右代表者 小牧 猛
    高知市永國寺町六四五
印刷人 仁尾 進
    高知市舛形一三
印刷所 仁尾商店印刷部
    高知市舛形一三
發行所 靑楓會
    高知縣立圖書館内
    電話八三一番
    振替口座德島  番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)【土佐史談 (155)】1980-11

【土佐史談 (155)】1980-11
出版者   土佐史談会
出版年月日 1980-11
  土佐史談
  通刊155号(復刊76号)
  維新殉難志士特集号
  土佐史談会
 p1【土佐史談 (155)】1980-11
p1【土佐史談 (155)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/1
  戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)
別府彦九郎宜春  胡蝶隊長    (写真上段右より)
北村長兵衛重頼  砲隊長
西山 栄由矩   砲隊分隊長
真辺戒作正精   迅衝六番隊長
片岡健吉益光   大軍監兼右半隊司令
吉本兵之助祐雄  徒士砲隊指揮官 (写真中段右より)
谷守部干城    大軍監
谷神兵衛重喜   迅衝四番隊長
山地忠七元治   迅衝七番隊長  (写真下段右より)
谷乙猪繁枝    (弱冠十二歳で後続部隊に従軍)
乾(板垣)退助正形 東山道先鋒総督府参謀兼帯
伴権大夫正順   軍監
 なお戦争中に指揮部隊の変動したものもある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/51
昭和五十年十一月三十日発行
通刊 一五五号(復刊七六号)
発行所 高知市丸ノ内一ノ一ノ一〇
    高知県立図書館内
    土佐史談会
印刷所 弘文印刷株式会社
    電話(72)六三〇七
    振替大阪七五七一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/52
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《兵頭武郎》(株)徳間書店取締役(営業局長) 【出版社調査録 第2版(昭和44年版)】

《兵頭武郎》(株)徳間書店取締役(営業局長) 
【出版社調査録 第2版(昭和44年版)】

【出版社調査録 第2版(昭和44年版)】
出版者   丸之内リサーチセンター
出版年月日 1969
(株)徳間書店  p302/417
本 社 港区新橋4-10-1
    (433)代6231
設 立 昭和28年10月10日
資本金 3,000千円
決算期 7月
代表者 徳間康快
支 社 大阪
沿 革 昭和28年2月
    現社長 徳間康快(大正10年10月25日生)
    新潟県出身、昭和17年早大卒、
    読売新聞記者、真善美社専務を経て
    昭和28年2月現職就任。
    常務(編集局長)   山下 辰己
    取締役(販売局長)  浦 進三郎
    取締役(総務局長)  鈴木 繁実
    取締役(営業局長)  兵頭 武郎
    取締役(非)     生出  寿
    監査役       宮本 昇蔵
編集長  山下 辰巳
資材担当 兵頭 武郎
従業員  140人(内 女子18人)
労 組  単一組合を結成。組合員110人
設 備  本社 大德第一ビル3~7階 延450坪(借室)
     車両 乗用車6台
事業内容 書籍 30%
     雑誌 70%
出版種別 書籍 既刊480点 新刊年50点
        政治・経済・歴史・思想・趣味・
        実用書等広範囲に及んでいる
     雑誌 週刊誌1点—アサヒ芸能
        月刊誌—問題小説特集 別冊マンガ
     代表出版物
        週刊アサヒ芸能 徳間ビジネス
        徳間ブックス 中国の思想 西郷隆盛
        徳川女系図 司馬遼太郎選集
        五味康祐選集 今東光名作選集
        大藪春彦活劇選集
販売状況 取次店 100%(東販・日販・大阪屋他45%
            鉄道弘済会35% 啓徳社20%)
用紙消費状況(年間)
     上質紙     120,000千円
     更 紙     150,000
     アート・コート
     クロス他    250,000
仕入状況(年間)
    用紙
     東新紙業    220,000千円
     富士洋紙店   150,000
     服部紙店    120,000
    印刷・製本
     大日本印刷   180,000
     凸版印刷      60,000
     千代田グラビア   40,000
    広告
     電通      100,000
決済条件 回収—納品後90~120日内外。
     現金90%、手形10%(100~110日)
     支払—20日〆月末。
     現金若干、手形100%(110日)
取引銀行 ◎平和相互(本店) 〇協和(新橋)
     第一 富士 三井(各新橋)
収益推移  期 別  売上高 税引前利益 利益率 配当
      42.7期    676,500   8,500  1.2% 0
      43.7期 2,155,000 38,500  1.8% 0
     ※42.7期は旧(株)徳間書店のみの計算である。
経営評  昭和42年10月雑誌部門と書籍部門の合併に依り
     経営の合理化が行なわれている。
     業績は順調な伸展を見ており、
     収益率は高率を維持している。
     編集振りは斬新であるが、
     経営振りは堅実である。
p302【出版社調査録 第2版(昭和44年版)】
〔画像〕p302【出版社調査録 第2版(昭和44年版)】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3000544/1/302
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【会員名簿 昭和33年】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1958
徳間康快 昭和18年 専 商  p421/721
横須賀市汐入町二〇八

徳間正昭 昭和22年 専 商  p421/721
日本経済新聞販賣店
横須賀市汐入町二〇八
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580678/1/421

兵頭武郎 昭和27年 教 社  p497/721
東京都 墨田区横川橋三の五 倉持方
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580678/1/497
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《兵頭武郎》(株)徳間書店常務取締役【戦後20年・日本の出版界】昭和40年(1965)

《兵頭武郎》(株)徳間書店常務取締役
【戦後20年・日本の出版界】昭和40年(1965)

【戦後20年・日本の出版界】昭和40年(1965)
著者    戦後20年・日本の出版界編集委員会 編
出版者   日本出版販売弘報課
出版年月日 1965
(株)徳間書店  p76/92
東京都港区芝新橋四ノ三四
電話(四三四)六一九一~六
徳間書店主要刊行書籍
全集=日本の戦史 全十一巻
   西郷隆盛  全十二巻
   中国の思想 全十二巻
▽リスのマークの平和新書
▽趣味の新書
▽現代人の古典シリーズ
▽今東光選集
代表取締役    徳間 康快
常務取締役    兵頭 武郎
取締役営業部長  梨本  実
第一編集長    村山  孚
第二編集長    増村外喜雄
p76【戦後20年・日本の出版界】昭和40年
〔画像〕p76【戦後20年・日本の出版界】昭和40年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3000695/1/76
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《兵頭武郎》東西藝能出版社販売部長「週刊アサヒ芸能」【電通広告年鑑 昭和33年版】

《兵頭武郎》東西藝能出版社販売部長
「週刊アサヒ芸能」【電通広告年鑑 昭和33年版】

【電通広告年鑑 昭和33年版】
著者    電通 編
出版者   電通
出版年月日 1958
東西藝能出版社   p365/458
中央区日本橋江戸橋2-5
28~5941
大阪支社  東区内本町橋詰町38
94~9031
取締役社長 徳間 康快
取締役   宮本 昇蔵
      増田 四郎
監査役   石井  弘
編集長   徳間 康快
編集部次長 山下 辰巳
      増村外喜男
      八雲井国男
販売部長  兵頭 武郎
広告部長  梨本  実
  次長  浜田近之助
総務部長  宮本 昇蔵
 週刊アサヒ芸能
 編集長  徳間 康快
p365【電通広告年鑑 昭和33年版】
〔画像〕p365【電通広告年鑑 昭和33年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2481616/1/365
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一等、別府温泉 毛利郁子 昭和29年1月28日【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】昭和34年(1959)

一等、別府温泉 毛利郁子 昭和29年1月28日
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】昭和34年(1959)

【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
講談社社史編纂委員会 編 (講談社, 1959)  

【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p3
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/3

昭和二十九年    p407/474
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/407

 一月二十八日、  p414/474
講談社創立四十五周年記念事業として
「講談倶楽部」で全国ミス温泉コンクールを行なった。
予選を通過した十一人が最後に銀座の花馬車に集まり、
最終審査を経た結果、
一等、別府温泉 毛利郁子。 
ほかに準ミス四人が決まって、
それぞれ賞品を授けられた。
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p414
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p414
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/414

講談社の歩んだ五十年(昭和編)
昭和三十四年十月二十日発行(非売品)
編 纂 社史編纂委員会
印 刷 凸版印刷株式会社
写 真 株式会社 興陽社
製 本 共同製本株式会社
用 紙 十条製紙株式会社
表紙皮 株式会社 石井
発行所 東京都文京区音羽町三ノ一九
    株式会社 講談社
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p471
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p471
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/471
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【大分県商工名鑑. 昭和12年版】
別府商工會議所      p84/212
 第二十二類 旅 館   p114/212
《毛利茂三郎》 志滿や 不老町 一八八 p120/212
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月02日04:52
カテゴリ◆東京宿毛会 [東京すくも人]第2号1985年版
[東京すくも人]第2号:《宿毛会思い出すまま》槇俊夫
私は人生の全てを映画の中で生きて来ましたが、
昭和二十七年頃、
宿毛の亡き叔母(菓子店 浦田作郎の母=小野梓の姪)から
毛利家の娘さんが女優になりたいということで、
全盛時代の大映に私の推薦で入社させました。
未だ、テレビもなかった当時の映画界ですから
二万人の中から若尾文子その他の多くのスターが育ちました。
毛利君も或期間
文学座で演技指導を受けるという条件で巣立ちました。
そして彼女自身の持つ美しさと、
努力によって僅かの期間でスターダムにのし上りました。
林先生も祝福され
宿毛会の方にも期待を寄せて頂いた門出でしたが、
人生波多しで不幸にも或る事件の為に
引退の止むなきに至りました。
(本名 浦田利夫 社団法人・日本映画俳優協会常任理事)
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《兵頭武郎》理研映画株式会社【帝国銀行・会社要録. 第51版】昭和45年(1970)

《兵頭武郎》理研映画株式会社
【帝国銀行・会社要録. 第51版】昭和45年(1970)

【帝国銀行・会社要録. 第51版】
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
(帝国興信所, 1970)
理研映画株式会社  p1563/2297
  東京都港区新橋4-10-1
  電話436-5501(代)
目 的  映画製作
設 立  昭和13年4月
資本金  1億円(500円)
決算期  5月
役 員  (長)徳間 康快
     (締)山下 辰巳
     (締)生出  寿
     (締)兵頭 武郎
     (監)宮本 昇三
株 主  太平住宅建友会 150,000株
     太平火災相互(株)  47,000株
従業員  100名
年 商  3億円
取引銀行 ◎平和相互(本店)
     東海(東京) 協和(新宿)
     三和(岩本町)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2522053/1563
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月18日
[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):北方様の話 兵頭武郎
 北方様の話   兵頭武郎
         日本文芸社社長
   北方様とは、山内一豊の実の姉君で、
   本名『通(つう)』といい、
   幕藩体制になってからの
   宿毛初代領主となり、
   山内姓を賜わった左衛門佐可氏(よしうじ)の
   母にあたる人で、
   山内家から、美濃・北方城七万石の城主の弟、
   安東太郎左衛門郷氏のところへ嫁いだため、
   通称『北方様(きたがたさま)』と呼ばれ、
   晩年は宿毛で暮らした方です。
宿毛の町なかで生まれました私は、
昭和十年から十六年の六年間、
宿毛尋常小学校へ通いましたが、
その途中、田圃の中に、
妙栄寺というお寺があり、
その境内に北方様のお墓があったことを覚えております。
 ―略―
山内一豊の一生の中で、
この相撲興行で弾圧、
殺人をしたことは最大の汚点とされています。
当然、土佐土着の郷士や農民は、
新しい山内一家を恐れ、
相撲興行に不信をいだいていたはずです。
その時期になぜ、
北方様はあのような立派な、
化粧廻しをつくられたのだろうか。
どなたか調べてくださることを待ちます。
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[東京すくも人]⇒[土佐すくも人]改題
第1号1984年版(昭和59年)~第4号1987年版(昭和62年)
第5号1988年版(昭和63年)から[土佐すくも人]と改題
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[土佐すくも人]
第1号1984年版(昭和59年)~第22号2006年版(平成18年)
兵頭武郎様から、平成19年(2007)3月に頂きました。
ありがとうございます。  小野一雄
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