[東京すくも人]第1号1984年版

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):編集後記・奥付

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:編集後記・奥付

[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

編集後記
東京宿毛会も、
三、四年前から宿毛高等学校出身の方々が参加されはじめ、
急に殷賑さを増して参りましたことは同慶に堪えません。

宮尾旭氏や吉良慎平氏の書かれましたように、
この宿毛会は相当昔から宿毛出身の人々によって
会合されていたようですが、
いつの頃から、
誰によって始められたのか、
その記録がなく発祥は定かでありません。

しかし、せっかくこんなに宿毛を愛する人々が
集まるようになったのだから、
幹事打ち合わせの結果、
ここいらで、
簡単でも宿毛会の会則を作ったらどうだろう、
ということになり
表紙の裏へ会則の原案を記載いたしましたので、
ご検討してください。
  ◇
この会報を発行するにあたり、
無作為に三十名の会員を選び、
アンケートを発し、その結果、
会報の題名を『東京すくも人』ときめ、
会の正式の名も、『東京宿毛会』と決定いたしました。
  ◇
『発刊にあたって』を冒頭に書かれました、
宿毛会の会長、伊賀三省氏は、
徳川幕藩体制になってから、
初代宿毛の領主で土佐藩の国家老をつとめられました、
山内左衛門佐可氏殿から十四代後裔で、
明治から終戦までは男爵に列せられた方です。
筆者紹介のところで、
ご本人が元の身分を消されましたので、
後記であえて、ご紹介しておきます。
  文責 兵頭
後記[東京すくも人]第1号
〔画像〕後記[東京すくも人]第1号

編集委員●東京宿毛会幹事
伊賀 三省 (土居出身)
依岡 顯知 (才 角出身)
岩村 敏通 (土居下出身)
島崎  正 (片 島出身)
兵頭 武郎 (真 丁出身)
佐竹 伸次 (真 丁出身)
加藤 剛清 (片 島出身)

東京すくも人 1984年版  昭和59年10月20日発行
編集・発行  東京宿毛会
       〒142 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
       東京宿毛会事務局
編集委員   伊賀三省・依岡顯知・吉良慎平・後藤英輔・
       兵頭武郎・津野輔猷󠄀・加藤剛清
印  刷   誠宏印刷株式会社
       ©東京宿毛会 1984
奥付[東京すくも人]第1号
〔画像〕奥付[東京すくも人]第1号
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[東京すくも人]⇒[土佐すくも人]改題
第1号1984年版(昭和59年)~第4号1987年版(昭和62年)
第5号1988年版(昭和63年)から[土佐すくも人]と改題
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[土佐すくも人]
第1号1984年版(昭和59年)~第22号2006年版(平成18年)
兵頭武郎様から、平成19年(2007)3月に頂きました。
ありがとうございます。  小野一雄
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):北方様の話 兵頭武郎

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:北方様の話 兵頭武郎

[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

 北方様の話   兵頭武郎
         日本文芸社社長
   北方様とは、山内一豊の実の姉君で、
   本名『通(つう)』といい、
   幕藩体制になってからの
   宿毛初代領主となり、
   山内姓を賜わった左衛門佐可氏(よしうじ)の
   母にあたる人で、
   山内家から、美濃・北方城七万石の城主の弟、
   安東太郎左衛門郷氏のところへ嫁いだため、
   通称『北方様(きたがたさま)』と呼ばれ、
   晩年は宿毛で暮らした方です。

このたび、東京宿毛会の機関誌編集に携わるようにと
強いご要請があり、仲間に入れていただきました。

その会合の席上で、宿毛の昔話に花が咲き、
宿毛の歴史上の女性には、作家大原富枝さんが書かれた、
『婉という女』とか『にこもりさん』の話、
『一条公と平田郷のお雪さんの悲恋』話など、
淋しい、悲しい話が多いので、
ここで、パッと明るく胸のすくような女性の話を
取り上げようということになり、
それには北方様の話が最適ということにきまりました。

たまたま、私がいくらか資料をもっているというので
執筆するよう依頼されまして、
浅学を顧みずお引き受けすることになりました。
   ◇
p34-35[東京すくも人]第1号
〔画像〕p34-35[東京すくも人]第1号

宿毛の町なかで生まれました私は、
昭和十年から十六年の六年間、
宿毛尋常小学校へ通いましたが、
その途中、田圃の中に、
妙栄寺というお寺があり、
その境内に北方様のお墓があったことを覚えております。

私を育ててくれました祖母も宿毛っ子でして、
もと三十石取りの宿毛騎馬の武士・池田家の出でしたから、
宿毛の殿様、伊賀家の祖始者ともいえる
この北方様のお墓にはよくお花を上げたりして
敬慕いたしておる姿を、
忘れることができません。

しかしその頃の私には、
北方様がどのように偉かったのかわかるはずがありません。
ただそのお墓の花差挿しに溜っている水を
いぼ(宿毛でいびら)へ つけると、
いつの間にか、そのいぼが取れるという
”ご利益“があると、伝承されていました。

北方様とは、どんな方だったのでしょうか。
  ◇
 ―略―
p36-37[東京すくも人]第1号
〔画像〕p36-37[東京すくも人]第1号

p38-39[東京すくも人]第1号
〔画像〕p38-39[東京すくも人]第1号

p40-41[東京すくも人]第1号
〔画像〕p40-41[東京すくも人]第1号

p42-43[東京すくも人]第1号
〔画像〕p42-43[東京すくも人]第1号

p44-45[東京すくも人]第1号
〔画像〕p44-45[東京すくも人]第1号

  ◇
妙栄寺には、北方様の遺品の一つとして、
おそらく日本最古と思われる相撲の化粧廻しが残されています。
もう相当朽ちてはいますが、
竜が刺繍されており、
眼には宝石がはめ込まれていて、
その眼が、じっとわれわれの方を見つめています。

土佐人は相撲ずきだから、
北方様が領内一番の関取になった者に毎年貸し与えたのでは、
という単純な推理ですまない化粧廻しだと、
私は思っています。

と申しますのは、
山内一豊が土佐領主となった初めの頃は、
まだ、あっちこっちの山村で抵抗や一揆が起きておりました。

これにいつも手をやいていた家老の深尾湯右衛門は、
「土佐七郡の各村から、相撲強者を集め、
 殿様勧進の大相撲興行を行い、その時、
 反骨の強い男や抵抗の指導者などを一挙に殺そう」
という恐ろしい案を立て、
事実それが実行されたことがあります。

相撲興行たけなわになった頃、
突然、足軽隊の銃撃がはじまり、
関取も、観衆も逃げ廻る中を、
強そうな男を片っ端から撃ち殺したといいます。
種崎の浜には梟首(きょうしゅ)台がつくられ、
七十余人の首がさらされました。

山内一豊の一生の中で、
この相撲興行で弾圧、
殺人をしたことは最大の汚点とされています。
当然、土佐土着の郷士や農民は、
新しい山内一家を恐れ、
相撲興行に不信をいだいていたはずです。

その時期になぜ、
北方様はあのような立派な、
化粧廻しをつくられたのだろうか。
どなたか調べてくださることを待ちます。
  ◇
最後になりますが、
山内一豊が亡くなられた後、
その妻、見性院様は高知を離れ、
京都妙心寺で尼さんとなられ一生を終えられますが、
北方様は自分の造った、
日蓮宗妙栄寺を菩提寺として、
一生を宿毛で終えられました。
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〔画像〕p46-47[東京すくも人]第1号
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[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):宿毛会あれこれ 吉良慎平

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:宿毛会あれこれ 吉良慎平

[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

 宿毛会あれこれ 吉良慎平
         弁護士
         元広島高検検事長
この春、引っ越し準備で荷物を整理していたところ、
小学生時代に書いた宿毛町全図がでてきた。
毛利・横江の両君(若くして物故された)と私の三名の合作で、
縮尺は一万五千分の一の等高線に従って色を塗ってあり、
四隅に押しピンの穴があって、
教室の壁に掲げられていたものと思われる。

その地図の大島沖にある小島に、
咸陽島と墨で名が入っている。
「咸陽(かんよう)」はむつかしい漢字で、
わが国の普通の用語にはみかけない文字でもある。
私の筆跡で間違わないよう入念に書かれている。

咸陽島は宿毛名勝の雄である。
干潮時には大島の側まで遠浅の磯続きとなり、
汐干狩りに向いており、
螺(にし)など籠一杯に採れたものである。

また、そのあたりは天然の良港を成しており、
ここに注ぎこむ松田川の清流は海の塩分を薄めて、
船底に牡蠣の付着することも少なく、
戦前は連合艦隊の泊地として知られた。

その昔もこの宿毛湾を中継地点として、
中国や南方に船出し、
あるいはそれらの方から長旅のあげく辿りついた
外洋航路船の補給基地として、
利用されていたに違いない。
小舟が松田川下流の葦や蒲の穂の密生する間を縫って、
薪炭や水を求めて漕ぎのぼったことであろう。

大島から見た夕映えの咸陽島は、
ことに素晴らしく瞼にやきついて忘れられないものがあるが、
その方向がまた西の方、中国の方向でもある。

中国の船乗りや旅人がこの島を眺めながら
遠い古里に思いを馳せる、
そのよすがのひとつとして、
その名を定めたと思えてならない。

「咸陽」は中国の秦の都として栄えたところで、
西安の西北にある。
咸陽島の名付け親は中国人に違いあるまい。

東京では、各種の同窓会・同期会などが催されて
相当の数にのぼってしまう。
しかし、宿毛会のように町(市)単位の会が続いている例は
そうは多くはあるまい。
「古里は遠くにありて思うもの」という言葉があるが、
宿毛までの時間・距離はわが国でも、
いわば最果ての地となってしまった。
それだけに古里への郷愁も根強く、
宿毛会へはなんとしてでも出席したくなるのであろう。

私も出席を重ねているうちに、
いつの間にか年長会員の扱いを受けるようになってしまった。
そのくせ会の由来など聞かれても、
知るところが少ないのは慚愧(ざんき)に堪えない。

戦前のことであるが、いとこの吉良六郎
(いとこと言っても一九歳も年上であったから
 おじさんと呼んでいた)は、
高知工業を出ると大森海岸の電業社に入り
水力発電機の設計に専念していた。
この電業社の創業者は柏島あたりの出身の中島さんで、
当時は先端を行く技術を事業化した先達であった。

私の父 頼松はいとこが卒業するや、
つてを求めてその会社に就職させたのであった。
ところがこの会社は、
創業者没後の昭和一四年頃、
内紛が起こって、
いとこは宿毛出身の同志とともにこの会社に訣別して独立を策し、
結局は関西の工場で水力ポンプの製造を続けた。

戦後になって、
私が宿毛会に出るようになった頃、
彼から聞いたところでは、
宿毛会の前身は「くびっちょ会」と呼ばれ、
当初の頃は気儘(まま)に若い人達が集まり、
飲み会を催しては怪気焔をあげていたが、
そのうち年配者も加わり、
p06-07[東京すくも人]第1号
〔画像〕p06-07[東京すくも人]第1号

次第に上等になって宿毛会と改称されたのだということであった。

私がいとこから聞いたことはそれだけのことであったが、
あるいはそのような集まりが宿毛会の発端であったかもしれない。

また、当時は神田の冨山房創業者坂本嘉治馬氏を頼って
上京していた宿毛出身者もいたので、
その人達が初期宿毛会のメンバーであったことは間違いあるまい。

その辺のことはすでに、
茫漠として歴史の外にかき消されようとしている。
先輩各位の御教示を待つほかはない。
 ―略―
そして、宿毛に住んだのは小学生時代までであったが、
中学から高校にかけて高知市に下宿し、
結局高知県を離れることなく青少年期を過ごしたので、
気質的にはいわゆる「土佐っぽう」
としての特徴を受け継いだことは否めない。

戦時中は海軍士官として横須賀にいたが、
戦後は役所勤めのお陰で東京都のほか
大阪・神戸・横浜・函館・名古屋・長野・広島の
各市に転住して、
それらの地域の風俗人情に接し
住民の気質についても知る機会に恵まれた。
 ―略―
p08-09[東京すくも人]第1号
〔画像〕p08-09[東京すくも人]第1号

 ―略―
最近は、宿毛会会員の数も格段に増えたことでもあり、
会員の誰もが各方面で立派に
その役割を果していることを思うと、
年に一度、宿毛会で一堂に会する機会を
会員相互の貴重な経験交流と、
いわゆる切磋琢磨の場として再確認することも、
いごっそうの末裔にとっては、
特に有意義なことではあるまいか。
p10-11[東京すくも人]第1号
〔画像〕p10-11[東京すくも人]第1号
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):宿毛会雑感 林迶 参議院議員

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:宿毛会雑感 林迶 参議院議員

[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

 宿毛会雑感   林 迶  参議院議員
宿毛市は去る四月、
市制施行三十周年を迎えて記念式典が行われました。

郷里を後にして異郷で生活する者にとって、
郷里の盛衰は大きな関心事であります。

高度経済成長のもとで、
宿毛市もご多分にもれず過疎化が進み、
市制施行時の人口三万三千人が
現在二万六千人といわれております。
はなはだ憂うべき状態にあるといわれていました。
最近はUターン現象も顕著になっておりますし、
また、県政における西南開発もようやく緒に就こうとしております。
将来に向けての曙光がみられるようになってまいりました。

東京宿毛会の歴史はよくは知りませんが、
かつては、宿毛を後にして東京へ出て働いている人々が故郷を思い、
その将来を論じつつ親睦を深めてきたものと思います。

しかし、これまでの東京宿毛会は
老人の範疇に入る方々の郷愁の場であり、
若い人が喜んで参加できる空気が乏しかったように思われます。
そこで宿毛市制施行を期して、
若い人の宿毛会を作ろうという話がもち上がり、
  伊賀三省  岩村和俊  岩村敏通
  後藤英輔  浜口庫之助 林 義郭
  林  迪
等、各氏の骨おりで「宿毛新市会」が発足する運びとなりました。

しかし、その後は、それぞれ多忙にまぎれ、
会の開催はみられず自然消滅の形となってしまいました。
爾来三十年が過ぎ、
当時の若者も熟年の域に入っております。

昨年の宿毛会は、
若い方々が多数参加されて盛大にとり行われました。
誠にご同慶の至りであります。

宿毛市出身者で東京、
あるいは首都圏で活躍されておられる方は、
相当数あるといわれております。

これらの方々が喜んで参加できる雰囲気の
「東京宿毛会」に大きく脱皮して、
名実ともに宿毛のよさを結集した会に
発展させて行かなければならないと思います。

伊賀三省会長は、東京宿毛会の運営のために
大変ご苦労をされておられます。

今後とも東京宿毛会発展のために
ご尽力を賜りますようお願い申し上げます。
東京宿毛会の限りない発展を祈念し、筆を擱きます。
p04-05[東京すくも人]第1号
〔画像〕p04-05[東京すくも人]第1号
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[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):発刊にあたって 東京宿毛会会長 伊賀三省

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:発刊にあたって 東京宿毛会会長 伊賀三省
 
[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

 発刊にあたって 東京宿毛会会長 伊賀三省
東京在住の宿毛縁故の皆様、お元気ですか。
『東京すくも人』一九八四年版を刊行するにあたり、
一言ご挨拶を申し上げます。

宿毛会の起源は定かではありませんが、
大志を抱いて遙遙(はるばる)上京した方々が、
望郷の念にかられ、
東京での生活の様々な苦労を語り合い、
励まし合って、いつしか「クビッチョ会」と称して、
集まっていたと聞いております。

先輩諸氏のあらゆる分野における活躍により、
宿毛会の歴史は栄光に輝いたものである、
と語り継がれております。
“東京砂漠”と言われる中での生活の日々、
宿毛出身ということで、
人の信を得たり、
また先輩は後輩の面倒をよくみてくれたものであります。

高齢化の波は宿毛会にもしのび寄り、
先々を懸念する声も多く聞かれる頃、
幸いに、東宿会(宿毛高等学校卒業生の会)の同憂の士が、
宿毛会に対する啓蒙をしてくださり、
若い人々の新規加入が年々増えてまいりましたことは、
ご同慶の至りでございます。

東京宿毛会は、宿毛縁故の皆様の会であります。
どうか多数お誘い合わせの上、
ご加入してくださるようお願い申し上げます。
そして、秋の定期集会はいつも盛会裏に、
談笑の一夕を楽しむようにしていただきたいものであります。
終わりに、会を代表して皆様のご健勝を祈りつつ、
粗辞ながらご挨拶に代えさせていただきます。
 (伊賀三省 大日本土木株式会社 副社長)
p02-03[東京すくも人]第1号
〔画像〕p02-03[東京すくも人]第1号
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[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年):表紙・東京宿毛会会則原案・目次

[東京すくも人]第1号1984年版(昭和59年)
:表紙・東京宿毛会会則原案・目次

[東京すくも人]第1号
 東京宿毛会 一九八四年版(昭和59年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第1号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第1号

 東京宿毛会 会則 原案
第一章 総 則
 第一条 本会は東京宿毛会といい、
     事務所を東京都内に置く。
 第二条 本会は宿毛を愛好する会員相互の交誼並びに
     親睦を図ることを目的とする。
第二章 事 業
 第三条 本会の目的を果すために、
     必要な事業を行い、
     また年一回、会報を発行する。
第三章 会 員
 第四条 本会の会員は宿毛市の出身か、
     宿毛の小・中・高校に在籍した人、
     または、宿毛に縁があり、
     宿毛を愛好する人で
     首都圏に居住する人人をもって組織する。
第四章 役 員
 第五条 本会は左の役員を置く。
    一、会長  一名
    二、副会長 二名
    三、幹事  五名
第五章 役員の選出方法
 第六条 会長・副会長・幹事の選出は総会に於て決する。
第六章 会 議
 第七条 本会総会は、第二条の趣旨に基づいて行われ、
     会長これを招集する。
 第八条 総会をもって最高の決議とす。
第七章 会 計
 第九条 本会の資産は、会員からの会費、寄附金、
     広告収入、雑収入から成る。
 第十条 資産の管理方法は銀行預金を原則とし、
     会長これを保管する。

 目 次  東京すくも人 一九八四年版
発刊にあたって      伊賀 三省  2
宿毛会雑感        林  迶   4
宿毛会あれこれ      吉良 慎平  6
野中兼山と宿毛      橋田 庫欣  11
宿毛市政展望       林  遉   19
宿毛と人物        依岡 顯知  23
宿毛のあれこれ      宮尾 旭   31
北方様の話        兵頭 武郎  35
東京宿毛会会員名簿           48
  編集後記
       表紙題字/伊賀三省
       表紙写真/大島から咸陽島を望む
目次[東京すくも人]第1号
〔画像〕目次[東京すくも人]第1号
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