[東京すくも人]第2号1985年版

一等、別府温泉 毛利郁子 昭和29年1月28日【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】昭和34年(1959)

一等、別府温泉 毛利郁子 昭和29年1月28日
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】昭和34年(1959)

【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
講談社社史編纂委員会 編 (講談社, 1959)  

【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p3
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/3

昭和二十九年    p407/474
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/407

 一月二十八日、  p414/474
講談社創立四十五周年記念事業として
「講談倶楽部」で全国ミス温泉コンクールを行なった。
予選を通過した十一人が最後に銀座の花馬車に集まり、
最終審査を経た結果、
一等、別府温泉 毛利郁子。 
ほかに準ミス四人が決まって、
それぞれ賞品を授けられた。
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p414
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p414
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/414

講談社の歩んだ五十年(昭和編)
昭和三十四年十月二十日発行(非売品)
編 纂 社史編纂委員会
印 刷 凸版印刷株式会社
写 真 株式会社 興陽社
製 本 共同製本株式会社
用 紙 十条製紙株式会社
表紙皮 株式会社 石井
発行所 東京都文京区音羽町三ノ一九
    株式会社 講談社
【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p471
〔画像〕【講談社の歩んだ五十年. 昭和編】p471
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941670/471
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【大分県商工名鑑. 昭和12年版】
別府商工會議所      p84/212
 第二十二類 旅 館   p114/212
《毛利茂三郎》 志滿や 不老町 一八八 p120/212
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月02日04:52
カテゴリ◆東京宿毛会 [東京すくも人]第2号1985年版
[東京すくも人]第2号:《宿毛会思い出すまま》槇俊夫
私は人生の全てを映画の中で生きて来ましたが、
昭和二十七年頃、
宿毛の亡き叔母(菓子店 浦田作郎の母=小野梓の姪)から
毛利家の娘さんが女優になりたいということで、
全盛時代の大映に私の推薦で入社させました。
未だ、テレビもなかった当時の映画界ですから
二万人の中から若尾文子その他の多くのスターが育ちました。
毛利君も或期間
文学座で演技指導を受けるという条件で巣立ちました。
そして彼女自身の持つ美しさと、
努力によって僅かの期間でスターダムにのし上りました。
林先生も祝福され
宿毛会の方にも期待を寄せて頂いた門出でしたが、
人生波多しで不幸にも或る事件の為に
引退の止むなきに至りました。
(本名 浦田利夫 社団法人・日本映画俳優協会常任理事)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東京すくも人]第2号:編集後記・奥付・《広告》「宿毛ふるさと会」

[東京すくも人]第2号:編集後記・奥付・《広告》「宿毛ふるさと会」

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

 編集後記
◇「東京すくも人」第二号を、
 東京宿毛会総会に間に合うよう、
 やっと仕上げることができました。

 昨年第一号を刊行いたしましたところ、
 各位から計らずもご好評を頂き、
 これもご執筆下さった各位のお陰と感謝しており、
 今年も張り切って林迶先生、林市長、槇俊夫さん、橋田先生、
 それに最もご多忙の護衛艦隊司令官の能津海将、
 また、宿毛十傑の一人、小野義真先生のご子息
 小野十五郎さんにはご高令にもかかわらず粋きな玉稿を頂き、
 ご協力下さったことに深謝いたしております。

◇この雑誌は、東京宿毛会の機関誌ですから、
 この雑誌にふさわしいお話がございましたら
 是非ご執筆頂きたく存じます。

 但し、非売品で、
 一部の有志のご芳志と奉仕により作っておりますので、
 原稿料はなく、この雑誌をおおめにお渡ししております。

◇第三号は、俳句や、絵なども取り入れたいと思いますので、
 よろしくご協力のほどお願いします。
   編集に関しお問い合わせは
   03-294-8931
   日本文芸社 兵頭宛

東京すくも人 1985年版  昭和60年10月20日発行
編集・発行  東京宿毛会
       〒142 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
       東京宿毛会事務局
編集委員   伊賀三省・依岡顯知・吉良慎平・後藤英輔・
       兵頭武郎・津野輔猷󠄀・加藤剛清
印  刷   誠宏印刷株式会社
       ©東京宿毛会 1985
奥付[東京すくも人]第2号
〔画像〕奥付[東京すくも人]第2号

《広告》「宿毛ふるさと会」会員募集
広告[東京すくも人]第2号
〔画像〕広告[東京すくも人]第2号
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[東京すくも人]⇒[土佐すくも人]改題
第1号1984年版(昭和59年)~第4号1987年版(昭和62年)
第5号1988年版(昭和63年)から[土佐すくも人]と改題
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[土佐すくも人]
第1号1984年版(昭和59年)~第22号2006年版(平成18年)
兵頭武郎様から、平成19年(2007)3月に頂きました。
ありがとうございます。  小野一雄
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東京すくも人]第2号:《小野梓先生を知るために》兵頭武郎

[東京すくも人]第2号:《小野梓先生を知るために》兵頭武郎

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

宿毛の英傑
 《小野梓先生を知るために》
         兵頭武郎
  はじめに
幕末から明治にかけて故里宿毛からは、
幾多の英傑が輩出し、
その栄光は百年後の私共宿毛出身の者にとっても
何かと心の誇りと支えになっているのではないだろうか。

その中でも小野梓先生は
近代日本の政治・行政・学問等において
著述や行動で不滅の足跡を残し、
その偉大さは彼の資料に接すれば接するほど
鮮耀(せんよう)な輝きが見られ、
また当時、梓先生と深く係わった大隈重信候や、
後に早大総長となった高田早苗氏ら
多くの人々の残した賛辞でも
充分知ることができるのである。

早稲田大学では、梓先生の偉業を讃え、
創立七十五周年には、
小野記念講堂を竣工し、
また創立百周年記念事業として、
梓先生の著作すべてを網羅した
『小野梓全集』全五巻を
五年の歳月をかけて完成させたのである。

偶然にも私は梓先生が、
三歳から十七歳で宿毛を離れるまで住まわれた、
宿毛市真丁二六一九番地に生れ育ち、
しかも先生が創立に尽力された早稲田に学び、
『明治政府への小野梓の提言』を卒論に卒業することができたので、
梓先生は私にとって近親感と尊敬に充ちた大先輩である。

偉大なる梓先生は私の拙筆では到底表しきれないが、
幸にも資料が多くあるので、
これを供しながら話を進めたい。

なお次項から煩雑を避けるため諸氏の敬称を略する。

 おいたち
 ―略―
p42-43[東京すくも人]第2号
〔画像〕p42-43[東京すくも人]第2号

 ―略―
もう一つ宿毛市の清宝寺の境内には明治二十年、
高田早苗ら早稲田の関係者が中心になって建立した
小野梓の碑が現存している。

この碑は、梓の死後一年目に建てられたから
美辞誇色が少なくリアルであるのがよい。

また絶対に筆は持たず
墨跡(ぼくせき)を残さないことで有名な
大隈重信が”小野梓君の碑“という題を
篆字で書いた珍しい碑である。
<写真>
明治20年5月に建てられた「小野梓君碑」の拓本
(中村正直撰 大隈重信篆額 大内青巒書)
 ―略―
p44-45[東京すくも人]第2号
〔画像〕p44-45[東京すくも人]第2号

<写真>
機勢隊員:右端が小野梓
(残りの方をご存知の方は編集までお知らせ下さい)
※右から二人目:桑原深造

 留学と思想形成の頃
p46-47[東京すくも人]第2号
〔画像〕p46-47[東京すくも人]第2号

 ―略―
明治三年春、梓は再び海路上阪し、小野義真を尋ねた。
義真は、平民に身を落してまでして
向学心に燃える梓に感動し、
この時から全面的に梓を後援し、
後には妹利遠(りえ)を嫁にくれたのである。

義真は、先ず東洋を識ることが大切と、
中国行きを勧める。
梓もなんでも見てやろうの方であるから喜んで、
名を東島興児と変名して四カ月程
上海(シャンハイ)から中国奥地を見聞し、
丁度、公用で上海に来た義真と一緒に帰国するのであった。

梓はこの旅行で、
半植民地にされている中国の惨状をつぶさに知り、
『救民論』を漢文で著述している。
『梓先生、初期の論であり、
 世界連邦の創設をすすめる
 世界的にも先駆的な一文である』と、
早大高野教授は指摘している。

明治四年二月、 ※明治5年2月
小野義真の妹を娶ったあと、
単身で米国へ向い、
ニューヨークのブルックリンに居を構えた。
 ―略―
p48-49[東京すくも人]第2号
〔画像〕p48-49[東京すくも人]第2号

 大隈侯との出会と「共存同衆」
p50-51[東京すくも人]第2号
〔画像〕p50-51[東京すくも人]第2号

 ―略―
梓は官界でもう一つ大仕事をしている。
この頃の政府の要職はほとんど
薩摩・長州人に占有されていた。
佐賀出身の大隈重信は
参議兼大蔵卿として一人孤塁を守るが、
国家予算は議員もいなく議会もないから、
薩長人に都合のよいお手盛り予算が
どんどんごり押しされてしまう。
こんな不正に反対した
大隈は明治十三年二月には
遂に大蔵卿を免ぜられてしまった。

大隈の懐刀、小野梓は、
「公費の使い方を検査する役所を作るべきであり、
 しかも太政官内に設置せねばならない」
と大隈に進言する。

今、現存する会計検査院は
この時(明治十三年三月)に設置されたもので、
梓もこの新設された役所に移り、
手腕を発揮していたが、
明治十四年の政変で
大隈が参議からも身を引かざるをえなくなった時、
大隈に殉じて、一等検査官を辞して野に下ったのである。
 ―略―

 新政党設立と梓
p52-53[東京すくも人]第2号
〔画像〕p52-53[東京すくも人]第2号

 学問の独立(早稲田)と梓
p54-55[東京すくも人]第2号
〔画像〕p54-55[東京すくも人]第2号

 良書普及と出版(冨山房の夜あけ)
<写真>
次女・三女とともに(明治17~8年頃)
※二女 墨(小野一雄の実祖母) 三女 安(養祖母)
p56-57[東京すくも人]第2号
〔画像〕p56-57[東京すくも人]第2号

 大著『国憲汎論』の意義
p58-59[東京すくも人]第2号
〔画像〕p58-59[東京すくも人]第2号

p60-61[東京すくも人]第2号
〔画像〕p60-61[東京すくも人]第2号

 結 び
大正から昭和にかけて、
大山郁夫という梓の孫弟子に当る教授が早稲田にいた。
彼は根っからのリベラリストで学生にも相当人気があった。

私も戦後大隈講堂で先生の講演を聞いたことがあるが
超満員で押しつぶされそうになったことを覚えている。

大山郁夫は、陸軍省が大学にも軍事研究会を作らせたり、
軍事教練を義務付けようとする政策にことごとく盾をつき、
遂に教授をやめざるをえなくなった。
常に軍部からにらまれていた大山郁夫は昭和の初めの頃
遂にアメリカへ亡命するまでに追い込まれてしまった。

この大山郁夫を迎え入れたのが、
ノースウエスタン大学のコール・グローブ教授であった。
大山郁夫はここで昔、
梓が学んだような憲法学説の研究や、
明治憲法の英訳などをしていたという。

昭和二十年、敗戦により日本帝国と軍部
そして明治憲法は完膚なきまでに解体されてしまった。

そして、戦後の日本国憲法はマッカーサー草案に
基づいて創られてしまった。

ところがこの新憲法を創る時、
コール・グローブ教授が、
マッカーサーの憲法顧問に選ばれて、
その指導に当ったのである。
彼は大山郁夫と共に、
日本向きの憲法をよく勉強していたからだった。

早稲田大学史VOLⅡNo.Ⅱに、
高野善一教授と学生のこんな対話が載っている。
 教授 天皇機関説の先駆は学祖小野梓先生です。
    功利主義者で、ベンサミストであった小野先生こそ、
    日本における天皇機関説の鼻祖です。
    もしも小野先生の憲法論『国憲汎論』が
    そのまま帝国憲法になっていたなら、
    日本国憲法についてマッカーサー改革は、
    七~八割まで無用だったでしょう……。
 学生 『国憲汎論』はそんなに進歩的なものですか?
 教授 アングロサクソン系統の流れをくむ憲法ですから……
    原酒スコッチに日本の風味を加えた
    日本人の口に合う味の「憲法」……
    小野先生にはじまり高田先生を介して大山先生へと、
    早稲田のアングロサクソン系のプログレッスィブの
    伝統は脈々と続いていた。
    ……現在の日本国憲法は、孫弟子の大山教授を介し、
    コール・グローブ教授を介し、
    遂に日本に返り咲いたと見られないこともありません。
 学生 面白いですね。

小野梓の『国憲汎論』が日本の新憲法に脈々と入り
生かされていることを知っている人は少ない。
この偉大な先駆者、
小野梓を早稲田当局も
ますます大切に扱っているのであるが、
われわれ、宿毛人も小野梓をもっとよく知り、
その偉業を顕章する必要があるのではないだろうか。
 (日本文芸社 社長)
p62-63[東京すくも人]第2号
〔画像〕p62-63[東京すくも人]第2号
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《日本国憲法の誕生》
4-7 コールグローヴ、トルーマン宛書簡 1946年7月29日
GHQ憲法問題担当政治顧問として
1946(昭和21)年3月に来日したケネス・コールグローヴは、
日本人が憲法草案に好印象を持っていることを知り、
帰国後の同年7月29日、トルーマン大統領宛てに書簡を送った。
その中で彼は、GHQを擁護し、
マッカーサーの憲法草案承認に不満を表明していた
極東委員会によって政策変更が行われることは、
日本国民を混乱させるものであると説いた。
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[東京すくも人]第2号:《頌・林譲治先生》依岡顯知

[東京すくも人]第2号:《頌・林譲治先生》依岡顯知

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

 《頌・林譲治先生》  依岡顯知

一 封建打破の警鐘と  民権自由の雄叫を
  父有造の膝に聴き  誠と仁とを信条に
  歩み来りし君なりき

二 父祖より享けし反骨は  正を護りて邪を憎み
  風雪実に四十年  明利を捨てて国のため
  捧げつくせし君なりき

三 出でゝしばしば台閣に  入りて党務の中枢に
  はたまた衆院議長とし  民の栄と和を念じ
  身を挺したる君なりき

四 新憲法の制定に  講和締結独立に
  翰長としまた副宰相  心魂砕く幾星霜
  青史を飾る君なりき

五 君臨終の床にして  遺せし詩は「日本の
  桜を見ずに吾は逝く」  四半世紀は夢とすぐ
  惜しみて余る君なりき

六 憲政すでに九十余年  議事堂独り輪奥の
  美を誇れども実添はず  泉下に嘆き在すらむ
  あゝ廉潔の君なれば
p40-41[東京すくも人]第2号
〔画像〕p40-41[東京すくも人]第2号
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月03日 03:38 ◆小野一雄 [思い出の写真帖]
[思い出の写真帖]028〔坂本電器:林譲治・小野又一〕
前列:右から四人目・林譲治
      五人目・坂本恭啓(坂本電器株式会社社長)
後列:右から大澤・芦田・?・宇野
      五人目・小野又一
撮影:坂本電器(株)会議室
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[東京すくも人]第2号:《東京は吉原・宿毛は新地》小野十五郎

[東京すくも人]第2号:《東京は吉原・宿毛は新地》小野十五郎

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

《東京は吉原・宿毛は新地》
 ―とんぼと一緒に―
  小野十五郎
p34-35[東京すくも人]第2号
〔画像〕p34-35[東京すくも人]第2号

p36-37[東京すくも人]第2号
〔画像〕p36-37[東京すくも人]第2号

p38-39[東京すくも人]第2号
〔画像〕p38-39[東京すくも人]第2号
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月05日 10:21 
◆小野義真 小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]
《小野十五郎〔福地悟朗〕》小野義真の二男

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月15日 14:50 
◆小野義真 小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]
《おお活動大写真》[福地悟朗](本名・小野十五郎)
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[東京すくも人]第2号:《宿毛会思い出すまま》槇俊夫

[東京すくも人]第2号:《宿毛会思い出すまま》槇俊夫

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

《宿毛会思い出すまま》 槇 俊夫
あの戦が終ってからいつの間にか四十年の歳月が流れ去りました。
戦後、宿毛会の辿った歩みを思い出すまま拾ってみました。

さて、書くに当って芳名簿を探してみましたが、
昭和三十年以前の名簿や記録が散逸して
不正確な点が有るかと思いますが、御諒承下さい。

昭和二十年代、
当時の総理大臣吉田茂、副総理林譲治
司法大臣岩村通世など国を代表する方々が
わが宿毛町から多く出ており、
綺羅星のような盛況でした。

宿毛会は林譲治会長、林茂木会長に続き
伊賀三省会長に至って居ります。

林譲治先生時代に宿毛会定例会、
あるいは会員特別招待であったかも知れませんが
議長官舎で催されたことがあります。

当時議長官舎は、
現在高輪プリンスホテルとなっている北白川宮家か、
竹田宮家の御殿が一時的に使用されていました。

当日、林先生の御説明では、
「広さは○○万坪、毎日、
 庭園の手入れに一桁以上の庭職人が当っている。
 とても議長給料では維持出来ないよ」と、
笑っていらっしゃいました。

食堂の椅子、
撞球室(たまつき しつ)の椅子等の背面には菊の金箔紋章、
屋根は石盤瓦、
当時の時点で坪価格が想像の出来ない金額との話でした。

いやぁ驚きました。

私ども映画に携(たずさ)わるものは、
将軍家御殿とか、
あらゆるものを大道具が作り、
真物らしくみせる技を心得て居ります。
しかし、これは正真正銘ほんものです。

現時点では世の中も変りましたから
多少のことには動じませんが、
未だ明治、大正から脱却していない
戦後のわれわれには驚きそのものでした。

少々宿毛会の先輩のこともふれてみたいと思います。

林 茂木
長い宿毛会の歴史の中で実質的、
名運営者であられました。
あの温顔、特長ある口ひげ、愛嬌のある声、
この人あって宿毛会は独特の雰囲気を保っていたと思います。
御本人から直接伺ったところでは、
私の親類に当る北村金物店に若い頃奉公されていた由、
北村のキクおばさんからも帰郷の際、
話を聞いたこともあります。

北本基良さんも亡くなるまで欠かさず御出席になり良い方でした。

小野十五郎さん(芸名 福地悟郎
土佐財閥の御曹子には特に思い出があります。
この方は小生の父などと新地
(松田川堤防の際(きわ)にあった遊廓。
 大正九年の大洪水で堤防が決壊し流出した)
で大いに浮名を流し、
後年、徳川夢声の門下三羽烏の一人として名を成し、
活動弁士(映画解説者)、漫談家、俳優で一家をなし、
東宝映画でも活躍され、
小生も同業として御懇意にして頂きました。

その他、浜田さん、岩村さん、堀内さん、等々
記憶の糸を辿れば走馬燈のように浮んできますが
割愛させて頂きます。

この辺で私たち同期の桜、
いや姥桜のことを少々、
宿毛会中同級生が七人も連なっていたことは
珍しいことと思います。
その七人は岡添徳助高橋重吉小野忠義
猪崎直一加藤駿雄宮尾旭、それに小生で、
旭チャンは同年ですが生年月日の関係で学年は一年下でした。
時々は新橋辺りで盃を交わし、
旧交を暖めてチャンづけで呼び合い、
p32-33[東京すくも人]第2号
〔画像〕p32-33[東京すくも人]第2号

幼い頃に返っていました。

岡添君とは少年時代林邸の大桜に登り、 ※宿毛まちのえき 林邸
晩年の林有造先生に怒られた想い出もあります。
有造先生に叱られたのは
宿毛会の中でも私達だけではないでしょうか。

何時頃だったか仲間が誰いうとなく
一度故郷で同級会をという訳で、
高橋君、小野君の骨折りで宿毛で集りを催しました。
都合で東京からの参加者は小野、高橋、小生の三名でしたが、
約二十名の幼い頃の仲間と嬉しい一夜を過しました。
初めての最後の良き思い出でした。
これも宿毛会あってのことであります。

こんなことも有りました。

私は人生の全てを映画の中で生きて来ましたが、
昭和二十七年頃、
宿毛の亡き叔母(菓子店 浦田作郎の母=小野梓の姪)から
毛利家の娘さんが女優になりたいということで、
全盛時代の大映に私の推薦で入社させました。
未だ、テレビもなかった当時の映画界ですから
二万人の中から若尾文子その他の多くのスターが育ちました。

毛利君も或期間
文学座で演技指導を受けるという条件で巣立ちました。
そして彼女自身の持つ美しさと、
努力によって僅かの期間でスターダムにのし上りました。
林先生も祝福され
宿毛会の方にも期待を寄せて頂いた門出でしたが、
人生波多しで不幸にも或る事件の為に
引退の止むなきに至りました。

最後に、
宿毛会の歴史の中で特筆しなければならない人は、
依岡顯知さん。
何十年昔とちっとも変らない童顔、
いつも笑を持つ得がたい人柄、
この人なくしては宿毛会の今日はないと云えます。
私達会員は永久に忘れてはいけないと思います。
心から感謝と敬意を表すとともに
いつまでも御健康をお祈りしたいものです。

昨今、加藤剛清君らの若い方々が中心になって企画、
運営されている宿毛会は、
将来昔日以上に発展すると期待し、確信致します。
特に加藤君は父上時代から二代にわたる交際(つきあい)になります。
前記七名の同級生のうち、
一、二年の間に小野忠義加藤駿雄両君が亡くなられました。
心から哀悼の意を表し御冥福を祈ります。
残りの五名出来る限り例会には顔を合せて盃を交わしたいものです。
(本名 浦田利夫 社団法人・日本映画俳優協会常任理事)
p34-35[東京すくも人]第2号
〔画像〕p34-35[東京すくも人]第2号
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東京すくも人]第2号:書評『世の中これでいいのか』依岡顯知著

[東京すくも人]第2号:書評『世の中これでいいのか』依岡顯知著

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

書評『世の中これでいいのか』依岡顯知著

吉田元総理、林元衆議院議長の秘書官を長らく務められ、
また、わが『東京宿毛会』の発展に尽力されていられます
依岡顯知氏がこの八月、
(株)文化創作出版から
―『世の中これでいいのか』―
という図書を刊行されました。
昭和二十年代・三十年代の日本政治を内側から見た、
蘊蓄(うんちく)あるエッセイ集です。

こんな話も載っています。
昭和二十二年から発効せられる新憲法は、
総理大臣は国会議員でなければならない。

昭和二十一年五月、
総理になった吉田茂氏は国会議員の議席を持っていなかった。

林譲治氏は、恩人の息子、
田村良平氏が復員して来て、
高知から立候補しようと相談を受けたのを、
日本の為にどうしても吉田氏を土佐から立候補、
当選させたいと、
田村氏に辞退を懇願し県会議員になってもらった。

林氏自身も、
高知市と七郡のうち五郡を吉田茂氏の地盤に提供し、
自らは幡多・高岡の二郡で当選した。

この結果、
吉田氏は第七次まで内閣を組織し、
日本再建に大きな役割を果すことが出来た。

吉田氏が政界を退いた時、
林譲治氏は、吉田氏の議員バッヂを戴き
それを田村氏の襟につけてあげたという。
  発行所 文化創作出版(四九六 四二五一)
p20-21[東京すくも人]第2号
〔画像〕p20-21[東京すくも人]第2号
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月04日 10:49 ◆小野梓 写真:小野梓・墨・安
写真[小野梓・墨・安]
[林譲治・坂本恭啓・坂本佳記]
[中西清二 前宿毛市長]
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[東京すくも人]第2号:「宿毛会」に寄せて 林 迶

[東京すくも人]第2号:「宿毛会」に寄せて 林 迶

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

 「宿毛会」に寄せて   林 迶
昨年秋、恒例の「宿毛会」が盛会裡に開催されてから、
はや一年が過ぎました。
今年も例会の時がきました。
昨年は会誌『東京すくも人』の発刊もあり、
若い方々の多数が参加されて、
稀にみる盛会であったことを心から喜んでおります。
幹事の皆様方のご苦労に敬意を表するものであります。

聞くところによりますと、
会誌『東京すくも人』の発刊は
極めて好評であったとのことであり
ご同慶の至りであります。
故郷を遠く離れ、都会での慌しい生活をするものにとっては、
とかく、忘れがちの故郷のことなどに思いを馳せる時、
懐しい故郷の空気に触れる思いがします。

「宿毛会」は長い歴史と伝統のある会であり、
宿毛を郷里とするものにとっては、
互いに語り合い、扶け合い、励まし合う親睦の会であります。
昔は人数も少く、
極めて家族的な雰囲気に満ちた会であったようです。
現在は宿毛出身で在京する方々も非常に多くなっており、
多士済々、広汎多岐に亘って活躍されておられます。
「宿毛会」がよりおき発展をするためには、
お互いに連絡をとり、
一人でも多くの人の参加を呼びかけ、
立派な会になってもらいたいと念ずるものであります。
年に一度、この会合の素晴しさを味わいながら、
明日への活力を涵養して、
会員各位がそれぞれの分野での
ご活躍されますことを祈ってやみません。
 (参議院議員)
p04-05[東京すくも人]第2号
〔画像〕p04-05[東京すくも人]第2号
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[東京すくも人]第2号:はじめに 東京宿毛会会長 伊賀三省

[東京すくも人]第2号:はじめに 東京宿毛会会長 伊賀三省

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

 はじめに 東京宿毛会会長 伊賀三省
東京在住の宿毛の皆様、
本誌をかりて御機嫌をお伺い申し上げます。
昨年お配りしました『東京すくも人』が御好評を頂きましたので、
ここに、一九八五年版(第二号)を刊行することになりました。

東京宿毛会の起源は芒洋として遠く、
判然としないことが判りました。
この様に長く続いている郷土出身者の親睦会は、
全国的に見ても非常に珍しいといわれます。

それにしても宿毛は四国の西南端にありながら
誠に歴史の話が豊富なところでありますね。
そして、私共はその歴史を掘り起しながら
語りつづけて参りました。

さて、これからは若い人々の時代であります。
二十一世紀に向って皆様はどの様な日々を送り
新時代を切り開いて行かれるのでしょうか。
毎年の秋の宿毛会では、
是非沢山これらのお話を聞かせて頂き、
それを逐次『東京すくも人』にまとめ上げて
刊行が永続されますことを望むものであります。

終わりに、会を代表して皆様のご健勝を祈りつつ、
秋の宿毛会がいつも盛会でありますことをお願いしまして、
粗辞ながら御挨拶に代えさせていただきます。
 (大日本土木株式会社 副社長)
p02-03[東京すくも人]第2号
〔画像〕p02-03[東京すくも人]第2号
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[東京すくも人]第2号:表紙・東京宿毛会会則・目次

[東京すくも人]第2号:表紙・東京宿毛会会則・目次

[東京すくも人]第2号
 東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
 東京宿毛会事務局
 東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
表紙[東京すくも人]第2号
〔画像〕表紙[東京すくも人]第2号

 東京宿毛会 会則
第一章 総 則
 第一条 本会は東京宿毛会といい、
     事務所を東京都内に置く。
 第二条 本会は宿毛を愛好する会員相互の交誼並びに
     親睦を図ることを目的とする。
第二章 事 業
 第三条 本会の目的を果すために、
     必要な事業を行い、
     また年一回、会報を発行する。
第三章 会 員
 第四条 本会の会員は宿毛市の出身か、
     宿毛の小・中・高校に在籍した人、
     または、宿毛に縁があり、
     宿毛を愛好する人で
     首都圏に居住する人人をもって組織する。
第四章 役 員
 第五条 本会は左の役員を置く。
    一、会長  一名
    二、副会長 二名
    三、幹事  五名
第五章 役員の選出方法
 第六条 会長・副会長・幹事の選出は総会に於て決する。
第六章 会 議
 第七条 本会総会は、第二条の趣旨に基づいて行われ、
     会長これを招集する。
 第八条 総会をもって最高の決議とす。
第七章 会 計
 第九条 本会の資産は、会員からの会費、寄附金、
     広告収入、雑収入から成る。
 第十条 資産の管理方法は銀行預金を原則とし、
     会長これを保管する。

 目 次  東京すくも人 第二号
はじめに         伊賀 三省  2
「宿毛会」に寄せて    林  迶   4
宿毛市政展望       林  遉   6
宿毛と連合艦隊      能津 長和  14
林新田          橋田 庫欣  22
宿毛会思い出すまま    槇  俊夫  32
東京は吉原・宿毛は新地  小野十五郎  35
頌・林譲治先生      依岡 顯知  40
小野梓先生を知るために  兵頭 武郎  42
東京宿毛会会員名簿           64
  編集後記
       表紙題字/伊賀三省
       表紙写真/河戸の堰
目次[東京すくも人]第2号
〔画像〕目次[東京すくも人]第2号
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