野口正利議員(前)

船井郡高原村上豐田 協議員 平井秀一【全国融和団体聯合大会紀要】昭和16年

船井郡高原村上豐田 協議員 平井秀一【全国融和団体聯合大会紀要】昭和16年

【全国融和団体聯合大会紀要 : 紀元二千六百年奉祝】昭和16年
   八、參會者氏名 p57/74
 東京府
 ―略―
 京都府
 ―略―
南桑田郡野條    區 長       高木喜平次 p58/74
南桑田郡稗田野村  同         前田數之助
船井郡富本村    郡靑年更生聯盟幹事 平井房次郎
船井郡高原村上豐田 協議員       平井秀一
 ―略―
 大阪府
 ―略―
p58【全国融和団体聯合大会紀要】
〔画像〕p58【全国融和団体聯合大会紀要】
 九、物故功勞者氏名 p70/74
 氏 名    遺 族 住 所
大木喬任    東京府
加藤弘之
大木遠吉    東京市小石川區東靑柳町一〇
喜田貞吉
松本 幸    東京府
宮地久衞    東京市世田谷區代田町一ノ六五二ノ二
岡 弘毅    東京市中野區鷺ノ宮一ノ一五九
山中金兵衞   東京府南多摩郡元八王子村
竹中庄右衞門  京都市東山區三條大橋東三丁目
櫻田儀兵衞   京都市下京區東七條
萩崎佐次郎   京都市左京區鹿ケ谷高岸町
平井政憲    京都府船井郡須知町
今井米太郎   京都市伏見區桃山水野左近
西井行次郎   京都府相樂郡中和束村
 ―略―
p70【全国融和団体聯合大会紀要】
〔画像〕p70【全国融和団体聯合大会紀要】
昭和十六年八月二十八日印刷
昭和十六年九月  一日發行
非賣品
編纂者 財團法人 同和奉公會
    東京市麴町區三年町一番地二十一
發行者 菊山嘉男
    財團法人 同和奉公會 代表者
印刷所 今井印刷所
    東京市深川區牡丹町一丁目七番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
大江卓氏の解放運動:三好伊平次・述
【維新前後に於ける解放運動】昭和5年
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大江卓氏の解放運動:三好伊平次・述【維新前後に於ける解放運動】昭和5年

大江卓氏の解放運動:三好伊平次・述【維新前後に於ける解放運動】昭和5年

【維新前後に於ける解放運動】昭和5年
  融和問題叢書第三編
 維新前後に於ける解放運動
  三好伊平次・述
 財團法人 中央融和事業協會

 目 次 p4/33
 ―略―
維新前後に於ける解放運動
       三好伊平次
所謂部落の解放運動、
特に維新前後の解放運動に於ては
これまで何人によつても
組織的に調査され記述されたものがありませぬので
纏つた參考資料は今の處
絶無であるといつてよいと思はれます。

私はこのことを遺憾と存じまして
多年舊幕府の記錄や、
各藩の文献や、
地方の資料や、
各種の著述や、
又 當時直接間接この解放に關係せられた方々等
あらゆる方面に就いて材料を蒐集してゐました。

今其の中で的確と信ずるものゝみを纏めて
此の稿を作つたのであります。

説述の都合上初めにざつと所謂部落の起因の梗概を述べ、
それから本題に入ることに致します。

 七、大江卓氏の解放運動 p21-23/33
維新の大業の際高野山の義擧に加はりて功績の尠くなかつた
土佐宿毛出身の志士 土居卓造氏
(後 大江卓と改め晩年 天也(てつや)と稱した)
當時 官を止めて兵庫の湊川附近に閑居して居た、

湊川に近い宇治川在にフロノ谷と稱する所がある、
此處は所謂部落であつて
曾て德川光圀が楠公の墓を展した際
墓前に生き生きした花が立てられ
線香が薫じてゐたので、
これは奇篤のことである
一體これは誰れが展墓するのであるかと
よく調べて見た所が、
それは實にこのフロノ谷の人々が
毎日香華を手向けてゐたのであつた事を聞いて、
其の淳(あつ)き至誠に感激せられたといふ
由緒のある部落であるが、
何分多年に亘る周圍の不合理な差別のために
物質的にも精神的にも非常に惨憺たるものであつた、

或日 大江氏は此の部落の人々の狀態を見て大に慨嘆せられ、
斯ういふ氣の毒な狀態の下にゐるものは
啻(ただ)に此の部落ばかりではあるまい
全國を通じてそうした境遇に泣いてゐるものが
恐らく幾十萬人といふ多數に上ることであらう、

戊辰の御誓文にも
『舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』と
宣(のたま)はれてあるに拘はらず
依然として今尚ほ陋習に累(わざはひ)せられて
惱んでゐる同胞のあることは
一時も捨て置くことはできない、

斯かる人々に自由を得せしめることが
陛下の大御心を體する所以であると
深く決心する所あつて、

明治三年八月
其の調査に掛り
翌年上京して先づ
大隈參議(八太郎 後 重信と改む)に圖りて
其の賛成を得
大隈參議の紹介で
大木民部大輔(民平 後 喬任と改む)に會つて p22/33
それから正式にヱタ・ヒニン廢止の建白書を提出した。
大江氏の建白書は第一第二の二回に亘つて提出されてゐる

第一回の分には先づ我國良賤の變遷より説き起して
賤稱廢止の要を説き、
それより廢止の方法、
廢止後の措置にまで及んでゐる。

第二の建議は第一回の建白中に解放後蝦夷地に移して
牧畜に從事せしめてはと書きしが、
よく考へるとそれは却て
蝦夷地に第二の部落を形成することゝなるの
虞(おそれ)があるから、
此の際先づ無條件で平人となし、
其の人々に自覺奮勵を促して
殖産興業を奬勵することが
もつとも適切なることであるとして、
一々詳細に其の方法を具陳したのであつた。

此の大江氏の建白を受けた大木民部大輔は、
其の建白を納れそれを具體化する爲めに
大江氏に對し民部省に入つて
其の手腕を揮(ふる)はんことを求めた、

そこで大江氏はよろしい私も這入りませう
が私が民部省に入つて事に當るとなれば
私から推薦したい人物があるから
是非それを採用して貰ひたいと言ひ出した、

それは誰か、
他でもない先年平人に復した
彈左衞門であるといつた、

大木民部卿も一寸考へたが、
可(よ)し
彈をも採用しやうと快諾された、

そこで大江氏は地理係出仕、
彈は御用係りといふことで
何れも民部省の役人となつた。

こゝで一寸(ちよつと)一言したいのは
明治四年五月に民部省が彈直樹即ち
元の彈左衞門を民部省御用掛として採用したことである。

純理論から言はば政府が人を採用するに方つて
其の出身の如何によつて採否の手加減があつては
ならぬことは何人も知つてゐることではあるが、
何事も理論と實際との間に多少の距離は免れない、

殊に大政維新を距る僅かに三年、
つい先日までエタ頭だとか
何とか云はれてゐた人を
何の毛嫌いもせず任用したことは
大政一新を標榜する明治政府の措置としては
當然のことではあるが、
併し明治維新を距ること
六十年に垂々(なんなん)とする今日に於てすら、
尚は且つ地方によつては吏員職員の任用に當り、
其の出身の如何によつて採否の手加減ある
官公署 會社 工場等が無いとは限らぬといふ
遺憾な噂を耳にすることから考へて、
私は彈の任用を以て
明治政府の一大英斷と感嘆せざるを得ないのであります。

大江氏は單に此の賤稱廢止に盡力されたのみならず、
翌 明治五年
神奈川縣權令時代
偶(たまたま)ペリユー國の汽舶マリア・ルーズ號で
支那人二百三十一名を奴隷として
本國に連れ歸る途中
横濱に寄港中この怪事實を知り、
副島外務卿の旨を受けて正義人道の爲めに
萬難を排してこれが解放を斷行し、
其の後 國事犯にて囹圄(れいご)の身となつたが、
憲法發布の大典によつて赦(ゆる)され、
晩年には帝國公道
會を興して

氏が壯年時代
賤稱廢止の努力と照應したる
實質的融和の徹底の爲めに
圓頂黑衣の姿となつて
全國を行脚(あんぎや)し
涙ぐましいまでの働きをされたのであります、
3a7063b6
〔写真〕大江卓 小野梓『酒井南嶺伝』p138:下記

筆者も氏の行脚に隨行した一人であるが、
其の事績は維新前後の運動とは切り離して
別の機會に述べることに致しませう。
大正十五年八月十八日初版發行
昭和 五年九月十五日三版發行
(定價金十錢)
發行人 赤堀郁太郎
    東京市麴町區大手町社會局構内
    財團法人中央融和事業協會常務理事
印刷人 稻葉仁三郎
    東京市牛込區早稻田鶴巻町二六〇
印刷所 有文社
    東京市牛込區早稻田鶴巻町二六〇
發行所 財團法人中央融和事業協會
    振替口座 東京七〇〇八六番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月25日 07:52 ◆小野梓 大江卓
《土佐宿毛の教育者 酒井南嶺》『酒井南嶺伝』昭和63年発行
〔写真〕大江卓 小野梓
大江卓(天也ト号ス)酒井ノ親戚
小野梓(次女墨子 三女安子とともに) p138
※小野墨子(小野一雄の実祖母)
 小野安子(父・小野又一の養母)
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須知庄左衞門を稱して藤堂氏に仕へたりと。【船井郡誌】大正4年

須知庄左衞門を稱して藤堂氏に仕へたりと。【船井郡誌】大正4年

【船井郡誌】大正4年
  第十六章 高原村 p145/196
一、沿革
古の須知郷の一部にあたる。
今、豐田、富田、實勢、下山の四大字あり。
大字豐田は元 紅井、谷、新宮の三村に分れ、
大字富田は高屋、坪井二村に、
大字實勢は上十勢、下十勢二村に、
大字下山は黑瀨、蕨、尾長野、白土、知野部の五村に分れたり。
 ―略―
五、名勝舊蹟 p148/196
紅村 歌の名所にして、
   高屋川の岸に九手梅存す。
   文政元年、 ※文政元年:1818年5月
   嘉永元年  ※嘉永元年:1848年4月
   兩度の大嘗會に主基田に卜定せられたり。
   文政元年  ※文政元年:1818年5月
   主基方御屏風に
     けさよりも夕は梅の咲きみちて
        日影に匂ふ くれなゐのむら
   とあり。

狐塚 大字實勢に狐塚と稱する古墳あり。
   明治四十三年(1910)夏、
   胡麻停車場開鑿の時之を發掘し
   石棺を露出せり。
   發掘の武器、馬具、陶器等は
   今園部警察署に藏す。

城山 大字豐田小字谷に在り。
   須知氏の城址なりといふ。
   城主は伊賀に逃れ、
   須知庄左衞門を稱して藤堂氏に仕へたりと。 ※下記
   其老臣樋口某泉谷寺の下に住し、
   廣大なる屋敷跡を留めたり、
   子孫山内を稱し尚存す。
   按ずるに豐田の須知氏は
   須知町大字上野に存する周知氏の一族にして、
   谷の古城は市森の支城なり。
大正四年十一月五日印刷
大正四年十一月七日發行
船井郡敎育會編纂
印刷人 須磨勘兵衞
    京都市北小路通新町西入
    (電話 下 一一四一)
印刷所 弘文社印刷所
    京都市北小路通新町西入
    (電話 下 一一四一)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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※須知庄左衞門を稱して藤堂氏に仕へたりと。
藤堂高虎とその家臣
[須知家]
 須知出羽 始主水 元和中改出羽 号梅雪
├定信──────────────────────┐
│ 住丹州船井郡須知村
│ 須知村紅村相隔一里余也
│ 天正年中属毛利伊勢守高政而従
│ 高麗之役於朝鮮有武功
│ 帰朝之後辞毛利家而仕高虎公
│ 食禄弐千石 寛永十六年卒
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月26日 06:18 ◆京丹波町 野口正利議員
《船井郡高原村 紅村義塾 木島恒太郎》【船井郡誌】大正4年
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【須知定信】山内孫十郎定家の子・須知出羽守元秀の養子・山内氏は元、丹波国紅村城主

【須知定信】
山内孫十郎定家の子・
須知出羽守元秀の養子・
山内氏は元、丹波国紅村城主

【須知定信】
(主水、出羽、号・梅雪)。
山内孫十郎定家の子。
須知出羽守元秀の養子となり須知を称すという。

須知氏は遠江国周知郡に住した周知景基が源為義に従い
丹波国に移って須知氏の初代となり、
九代・秀基が足利尊氏挙兵時に活躍して
同国市森の須知城主となったものといわれる。

また、山内氏は元、丹波国紅村城主で、山内首藤氏の支流という。
天正八年正月十七日、明智光秀の丹波攻略により、
市森城は落城し須知氏は没落。
定信は毛利高政に仕えた。
高政に従い朝鮮両役に従軍。

慶長三年、高虎が毛利高政に懇願して貰い受けた。
以後、高虎の家臣となり、翌年、二千石を給される。
同五年、関ヶ原陣に従う。
同六年、高虎は家康より福島正則監視を命じられた為、
定信を伊予国甘崎城々代とし、
来島家の旧臣十余人を隊士として預けた。
これが後、久留島衆と呼ばれる様になる。

同十九年の大坂冬陣には旗本士大将、
翌元和元年の夏陣にも旗本士大将を務めた。
元和年中に出羽と改めた。
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[須知氏系図]藤堂高虎とその家臣

[須知氏系図]藤堂高虎とその家臣

 山内修理亮
定重───────────────────────┐
 須藤刑部丞後胤也 依之山内為氏
┌────────────────────────┘
│ 山内左馬助
├定頼
│ 山内右馬助
└定清──────────────────────┐
  丹州船井郡紅村城主
┌────────────────────────┘
│ 山内信濃守
└定光──────────────────────┐
  定清女子有一人無男子故
  定光配于実女令嗣山内家
  記曰定光仕于細川管領高國而麾
  有軍功其感状二通有
┌────────────────────────┘
│ 山内孫十郎
└定家──────────────────────┐
  始属信長公後奉仕秀吉公
  如父祖住于丹州紅村給地 三百石
┌────────────────────────┘
│ 須知出羽 始主水 元和中改出羽 号梅雪
├定信──────────────────────┐
│ 住丹州船井郡須知村
│ 須知村紅村相隔一里余也
│ 天正年中属毛利伊勢守高政而従
│ 高麗之役於朝鮮有武功
│ 帰朝之後辞毛利家而仕高虎公
│ 食禄弐千石 寛永十六年卒
│                  
│ 山内彦助 後号佐太夫
├定正───────────────────┐
│                
│  ┌──────────────────┘
│  │ 山内所左衛門 九大夫 後姓改須知
│  ├定元
│  │ 高虎公賜三百石 奉仕高次公高久公
│  │ 須知左近 後半之丞
│  └正長
│    百五十石 奉仕高次公
│                       
│ 伊勢因幡守 後号仙斎
├某 ───────────────────┐ 
│ 仕細川越中守 名家伊勢因幡守養子
│  ┌──────────────────┘ 
│  │ 伊勢因幡守 後号印斎
│  └某
│    仕于同家而受父禄 父与仙斎倶熟得
│    家業鞍打之法 今子孫肥後熊本
│                        
├女 澤隼人室
│                       
│ 山内八兵衛
├某 ───────────────────┐ 
│ 室神宮六兵衛女         
│  ┌──────────────────┘ 
│  │ 須知権之丞
│  └某
│    二百石 奉仕高次公
│ 山内小兵衛
├某
│ 妻橋詰村山内五左衛門女
│ 山内覚兵衛
└某
  妻神宮五郎兵衛女
  有子孫住丹州紅村
                         
┌────────────────────────┘
│ 須知九右衛門 元和年中孫左衛門 父没後出羽
├吉正──────────────────────┐
│ 自慶長五年 奉仕高虎公 千石
│ 室 長屋若狭女
│                       
│ 嫁京師町屋                 
└女 ───────────────────┐  
   
   ┌──────────────────┘  
   │ 須知丞助
   └正廣
     三百石 奉仕高次公
┌────────────────────────┘
│ 須知出羽
├吉正
│ 実石田惣左衛門次男
└女 吉正室

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[須知家]藤堂高虎とその家臣

[須知家]藤堂高虎とその家臣

[須知家]
 元、毛利高政臣で、
慶長の朝鮮役の際に高虎に召し抱えられた
須知出羽定信を初代とする。
定信は、始め主水と称したが、
元和年中に先祖の名に倣ったらしく出羽と改めた。
※元和1年:1615年~元和10年:1624年

 須知氏は元々、丹波国船井郡須知城主である。
織田氏の丹波攻略で多くの丹波国人が下城を余儀なくされたが、
須知氏もその一人であり、定信は毛利伊勢守高政に仕えた。

 慶長三年、朝鮮再役の折、 ※慶長3年:1598年
戦場に於いて定信が敵陣より放たれた虎を馬上から
一突きに突き殺したのを見た高虎が、高政に懇願して貰い受けた。

 当時、朝鮮半島に本当に虎がいたのか分からないが、
事実なら「虎退治」で有名な加藤清正と
肩を並べる武功ということになる。
須知家の系図にはこの時の虎皮は須知半之丞家の子孫である
須知正左衛門正慎の家に蔵すとあるから本当なのかもしれない。

 慶長三年、 ※慶長3年:1598年
高虎の家臣となり、二千石を給される。
高虎は定信の能力を高く評価していた様で
慶長六年、 ※慶長6年:1601年
家康より福島正則の監視を命じられた際には、
定信を伊予国甘崎城代とし、来島家の旧臣十余人を配下として預けた。
これが後、「久留島衆」と呼ばれる様になった。

 同十九年の大坂冬の陣には ※慶長19年:1614年
旗本士大将となり組士三十八騎を率い、負傷。
翌元和元年の夏の陣にも旗本士大将を務めたが、
※元和1年:1615年
五月六日の戦闘で先鋒が壊滅したため
翌七日は右先鋒の相備となった。
寛永十六年十二月二日、死去。
※寛永16年12月2日:1640年1月24日

 定信は、遺言で自分の禄を嫡子だけではなく、
一族に分与される様に願い出ていたらしく、
寛永十七年二月にその遺領は次の様に分割して与えられた。
※寛永17年2月:1640年3月
五百石  須知孫左衛門吉正   定信嫡子
三百石  須知丞助正廣     定信の孫(娘の子)
二百石  須知権之丞      定信の甥(弟の子)
二百石  須知少(所)左衛門定元 定信の甥(弟の子)
百五十石 須知左近正長     定信の甥(弟の子)

 須知所左衛門家は、四代目に至って
藤堂出雲家から養子・元宴を迎えたが、
元宴は藩主の一族ということから、
享保十四年に藤堂姓を下賜され、禄も千三百石に上った。
※享保14年:1729年

 昭和20年時の海軍相浦海兵團長・須知幸太郎大佐は、
藤堂藩士・須知家の子孫と思われるが、どの家の子孫かは分からない。
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[丁髷]【阿古木の真砂】昭和4年

[丁髷]【阿古木の真砂】昭和4年

【阿古木の真砂】昭和4年
丁髷 p54/68
丁髷といへば どれも是も同じと思うふが、
藩政時代には これにもそれぞれの型があつて、
身分、老少で少しづゝ變はり、
時代の流行によつて 幾分かづゝ變化したのは勿論である。

維新前後 朱鞘の刀が流行する前、
若士が大きな丁髷を頂邊に載せ、
少し根が緩むと首を掉る毎に
ユサユサと髷が頂上で舞踏し、
話をするにも 一々髷が動揺するといふ時代があつた。

處で京都警衛で若士が上京し、
諸藩の武士で京都市中が埋まる程の大混雜中、
尤も威勢のよい長州藩士の丁髷が、
なんぞ圖らんチョコナンと頂邊で小さく納まり、
他の諸藩とても羽振りのよいのは皆髷が小さいので、
それを見た大髷連が俄に恐縮して髪を結び直した。

其の連中が宿衛任期を了へて歸藩すると、
一藩が驚異の眼を睜つたが、
何となくハイカラに見えるので、
皆が申合わたやうに丁髷の縮小を實行した。

併し にやけた連中は襟足を抜き揃えて鬢を緩め、
女臭い頭を得意とする徒輩も往々にしてあつた。

丁髷伸縮の沿革を細叙するも一興ではあるが、
餘り香ばしくもないからこれは止めて置く。
昭和四年四月十五日印刷
昭和四年四月二十日發行 【非賣品】
著作者 梅原三千
發行者 津市敎育會
代表者 奥村 勇
印刷所 粟 活版印刷所
    三重縣津市塔世西裏一、一三一番地
印刷者 粟 政哉
    三重縣津市塔世西裏一、一三一番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《野口正利議員》〔2/2〕平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)平成30年3月8日

《野口正利議員》〔2/2〕
平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)平成30年3月8日

平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)
 平成30年 3月 8日(金)
 開 議 午 前 9 時 0 0 分

○2番(野口正利君)  p21/67
山崎高明旧丹波町長が総理大臣だったら、
日本中がデンマークの色に包まれまして、
四季折々の美しい日本の国で、
穏やかな高齢化社会を迎えられたことと思います。

 続きまして、同和問題の解消についてなんですが、
同和問題の解消は、同和地域の人々にとって
安全と安心が約束されることにつながるものですが、
ハード面においてほぼ解消されているとはいえ、
ソフト面において問題があります。

これらの課題を国からの法的支援もあることから、
解決に向け提案していきたいと思います。

 同和地区に住んでいて、幕末以前は、
この書物は須知高校にもありますし、
京都の中央図書館にもありますし、
府立図書館にもある書物なんですけども、
この書物の中において、
貝原益軒をして「名所なり」と言わせしめたところであります。

また、仁考天皇が即位された1818年のときには、
  ※仁孝天皇
大嘗祭において、主基方屏風に和歌が残されているほどであります。

図書文献等を調べていくうち、
明治に歴史がゆがめられていることを発見をいたしました。

このことは明治から数えて150年目にして
姿形があらわれた思いであります。
同和問題解消に大いに役立つと考えております。

同時に、維新に至る過程で、京都の町は破壊を受け、
市街の6割が焼失するなど、
破壊から復興まで先人の努力によるところが
共通した私どもの地域でもあります。

解決に向け提案していきたいと思いますが、
ご支援のほどをお伺いをいたします。

○議長(篠塚信太郎君) 太田町長。

○町長(太田 昇君)
 ―略―

○議長(篠塚信太郎君) 野口君。

○2番(野口正利君) 
京都市が開始されたことと関連性があり、
この3冊がありまして、
これにおいて回答がなされております。
さらなる復興を目指したいというふうに思います。

 引き続きまして、土佐太守里帰りプランについてなんですが、
健康の里づくりのもと、土
300308kaigi-p21
〔画像〕300308kaigi-p21

佐太守里帰りプランを提案をしたいと思うんですが、 p22/67
山内一豊公は、尾張国で誕生されたわけなんですけども、
そのゆかりの地、
1500年ぐらいの時代には
一豊公の父、盛豊、祖父の久豊が
三ノ宮(三ノ宮城)もしくは橋爪(淵上城)に
住んでおられたということで、
そして、上豊田、天ケ棚という地があるんですけども、
ここが山内庄があったところで、
ここが出身で、太平記の9巻にありますように、
山内氏として武士に身分を落として名字が誕生し、
ここが出発になっております。

この村おこしの一環として、
一豊公のご末裔をゆかりの地に招く
里帰りプランを提案いたしますが、
取り組む考えはないか、お聞きをいたします。

○議長(篠塚信太郎君) 太田町長。

○町長(太田 昇君)
 ―略―

○議長(篠塚信太郎君) 野口君。

○2番(野口正利君) 
プラン作成に当たっては、
たくさんの方に一豊公のご末裔に当たる方だけではなしに、
ほかにも関係する方々をお呼びするように
計画をいたしておりますので、
一つよろしくお願いをいたしたいと思います。

 それから、引き続きまして、
丹波の国を文化遺産に登録をという提案なんですけども、
上豊田(紅村)には、太古丹波が湖であった頃、
すきで湖水を葛野平野に流して丹波を干拓したという
伝説を残しております。
そこから丹波町という町名がついたわけなんですけども、

その丹波の国を改めて見直したときに、
文化の定義に沿っていること。
つまり、文化の定義としてラテン語の「耕す」から派生したもの
というふうにあります。

それから、丹波の国の先人の残した大きな財産があります。
その財産については、私も専門家ではありませんので、
専門家・修士の方々にいろいろと作成を依頼して、
文化財を掘り起こしていただいて、
作成をしていただくということで、
地図を見ましたときに、
ここが丹波の国なんですけども、
山陰道、山陽道、陰を通って陽に帰るという、
心臓部に当たるところです。

あと、北陸道、東山道、畿内とあわせて
中心になっているところなんですが、
私は、文化遺産に登録をすることを発想しましたのが、
伊勢神宮の外宮に
丹波の国から御饌都神として豊受大神が祭られている、
というところからなんですけども、
文化財を丹波の国の中に集約させることで、
文化遺産に登録が可能になるのではないかと思われます。

ぜひ検討していただく価値はあると思うんですが、
所見をお伺いをいたしたいと思います。

○議長(篠塚信太郎君) 太田町長。
300308kaigi-p22
〔画像〕300308kaigi-p22

○町長(太田 昇君) p23/67
 ―略―

○議長(篠塚信太郎君) 野口君。

○2番(野口正利君) 
この京丹波町をとにかく日本でトップにするために
どうしたらいいかということを考えたら、
いろいろと出てきますので、そういう意味も含めまして、
突拍子もない質問ではありましたけども、
さらにこのことは諦めずに進めていきたいと思います。
 では、終わります。

○議長(篠塚信太郎君) これで野口正利君の一般質問を終わります。
 暫時休憩します。10時25分まで休憩します。
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〔画像〕300308kaigi-p23
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月22日 05:16 ◆京丹波町 野口正利議員
《上豊田区の歴史:野口正利議員》
「京丹波議会だより」第57号[平成30年4月]
野口正利議員 p8/24
同和問題の解消は同和地域の人々にとって
安全と安心が約束されることにつながるものである。
上豊田区の歴史を図書文献など調べていくうち、
貝原益軒をして「名所なり」と言わせしめ、
仁孝天皇が即位された1818年には、
※1818年:文化14年11月
大嘗祭において主基方の屏風に和歌が残された。
幕末、維新で京都の町の6割が焼失した時代に書物も多く消失し、
当区の歴史がゆがめられることにつながった。
正しく歴史を伝えることが、解決につながると思うが。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月22日 06:50 ◆京丹波町 野口正利議員
紅村は名所也・山内村あり土佐太守山内氏の先祖
【西北紀行 2巻】貝原篤信 記:正徳3 [1713]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月26日 06:18 ◆京丹波町 野口正利議員
《船井郡高原村 紅村義塾 木島恒太郎》【船井郡誌】大正4年
【日本教育史資料集. 八】冨山房:明治25年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1759098/375
京都府船井郡     p111-113/378
學 科   讀、算  p112/378
舊管轄   柴田支配 紅井村 
開 業   ・・・・
廢 業   明治四年
敎 師   男 一
生 徒   男 一四  女  六
調査年代  明治四年
身 分   僧
習字師氏名 松山惠龍
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《野口正利議員》〔1/2〕平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)平成30年3月8日

《野口正利議員》〔1/2〕
平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)平成30年3月8日

平成30年第1回京丹波町議会定例会(第2号)
 平成30年 3月 8日(金)
 開 議 午 前 9 時 0 0 分

○議長(篠塚信太郎君) 休憩前に引き続き会議を開きます。 p18/67
 次に、野口正利君の発言を許可します。
 野口君。

○2番(野口正利君) 
 失礼します。
 一般質問に入る前に少し申し述べておきたいと思います。
 野中広務先生に続き、
金子兜太先生が2月20日の日にお亡くなりになりました。
心から哀悼の意を表します。

 野中先生は、同和行政にも力を注いでこられた方で、
私にとっては命の恩人であります。

 金子兜太先生は、今から20年以上前のことですが、
会社勤めの際、会社が日経新聞をとっておりまして、
その新聞の最終面に私の履歴書という欄で
金子先生の戦争体験記が連載されておりました。
昼休みの時間を利用しまして読んでいました。

今でもはっきり覚えてる箇所がありまして、
その箇所というのは、
「動くものは何でも食べた。
しかし、夜になって床につくころになると、
枕元にちょろちょろ動くものがやってくる。
これだけは食べられなかった。」
この箇所で、当時人間味があって身近な存在を感じとりましたが、
今、改めて思い起こしますと、
人間として生きるために
当然の生活と人間として何か侵してはいけない。
そんな領域があるように感じております。

尊敬する1人なので、
金子先生が「アベ政治を許さない」という揮毫をされまして、
お亡くなりになりました。
この「許さない」という文字が
かなり大きな文字で表現されているので、
はかり知れない怒りが込められていると私は思います。

アベ政治を片仮名にしたのは、
「こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と
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〔画像〕300308kaigi-p18

話されたそうです。 p19/67
金子兜太先生が言っておられるので、
深刻で問題のある政治なのだろうなというふうに思います。
戦争となると、最悪の政治になることから、
述べさせていただきました。

続きまして、一般質問に移らせていただきます。

 12月7日の所信表明を受けまして、
健康の里づくりのスローガンのもとで、助け合いの理念は、
横のつながりの連携と弱者に手を差し伸べる
温かい意味が込められております。
さらに、助け合いは、町民一人ひとりにボランティア精神を育み、
町長が主張されている3つの健康のうち、
心も体も健康な状態、
その心の健康において付加価値が生まれ、
本町の大きな財産につながると思いますが、
再度、決意のほどお伺いをいたします。

○議長(篠塚信太郎君) 太田町長。

○町長(太田 昇君)
 ―略―
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〔画像〕300308kaigi-p19

○議長(篠塚信太郎君) 野口君。 p20/67

○2番(野口正利君) 
長寿社会がさらに健康で生き生きとした
農業生活が送れますよう、ご支援をお願いいたします。

 続きまして、ビジョンダンマークが解体されることになりました。
福祉のまちづくりを目指した
京都デンマーク公園構想のシンボルが消滅することになりました。
雲が勢いよく流れている頃に、
帆船の形をした建物の先頭に立って、
雲の流れの中に帆船を合わせると、
その帆船が動き出すんです。
帆船に乗っているようで、最高に爽快な気分でありました。

これは、幾ら金を出しても、これだけは味わうことのできない、
実に穏やかな気分を体験することができたわけですが、
少子高齢化を国難と位置づけた安倍総理に対し、
世界有数の高福祉国家であるデンマーク王国では、
人口が増加し、子どもの数も増えている現況にあって、

将来を見据えていた建設当時の
山崎高明旧丹波町長の先見性が歴史的な勝利になったと同時に、
旧丹波町が大きく評価されてもいいのではないかと思います。

憲法が理想とする国家というものは、
こういうことではないかと思うんですが、
町長の見解をお伺いをいたします。

○議長(篠塚信太郎君) 太田町長。

○町長(太田 昇君)
 ―略―
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〔画像〕300308kaigi-p20
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《船井郡高原村 紅村義塾 木島恒太郎》【船井郡誌】大正4年

《船井郡高原村 紅村義塾 木島恒太郎》【船井郡誌】大正4年

【船井郡誌】大正4年
  第十六章 高原村 p145/196
三、敎育
維新前は寺子屋には大字豐田に松田一馬、
大字富田に世木與平次、
大字實勢に小森安次郎、
小森勘兵衞、北村作右衞門、北村孫八郎、湊仲助等あり、
各村童を集めて讀書算を授けたり。
紅村義塾は
島根縣人 木島恒太郎が ※島根県⇒鳥取県
明治九年頃 大字豐田に開設したるものなり、
經書、史書を授け塾生十名内外あり、
二三年にして閉鎖したり。

【境港独案内】明治33年
●政治思想ノ端緒及來歷 p41/81
明治十五年六月廿一日
立憲政黨員 小室信介氏ヲ招聘シ
同黨員 手嶋俊甫・小泉又治郎(後チ憲貞ト改名ス)
會主トナリテ政談演説會及懇親會ヲ開設シタルヲ以テ
當地ニ政治思想ヲ發揚スルヲ嚆矢トス
●開業醫 氏名錄 p46/81
祝 良之助  野坂 環   坪内德太郎
里田群一   木下德太郎  足立久三郎
(附記) 産婆
佐々木ツネ  桑原サダ

【東洋義人百家伝. 初帙 上】明治16年5月
 明治十六年五月 編者識 p10/38
東洋民權百家傳初帙之上
 丹後 小室信介 編輯  p12/38
編者曰く ※小室信介   p25/38
予ハ本年一月十六日 ※明治16年(1883)1月16日
紀伊伊都郡有志者の招きに應じ、
郡橋本村の政談演舌會に臨みし際、
この新右衛門氏の事を聞き、
追慕感慨止む能はず、
同行の土居通豫 木島恒太郎の兩氏及
同郡の有志者 木村 大西 山本 桝井等の諸氏
數十人と倶に新右衛門氏の墳墓に詣ふでしに、
 ―略―

【日本教育史資料集. 八】冨山房:明治25年
京都府船井郡     p111-113/378
學 科   讀、算  p112/378
舊管轄   柴田支配 紅井村 
開 業   ・・・・
廢 業   明治四年
敎 師   男 一
生 徒   男 一四  女  六
調査年代  明治四年
身 分   僧
習字師氏名 松山惠龍
 八】
〔画像〕p112【日本教育史資料集. 八】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1759098/112

【鳥取県職員録. 大正12年11月1日現在】
西伯郡 村長
餘子村 木島恒太郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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木嶋恒太郎(ひらがな)きじま こうたろう
生没年(西暦)1855~1925
   (和暦)安政2年~大正14年
出身地(現市町村名)境港市
ゆかりの地 会見郡中野村,西伯郡余子村。京都・大阪。
活動分野 及び業績 余子村長(7代)。
参考資料 境港市史 上。
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リサーチナビ 国立国会図書館
明治建白書集成 筑摩書房/1987.4 分類:憲政
『明治建白書集成』刊行にあたって
明治十四年十月
七八 建言(伯耆国会見郡ヲ島根県へ付属ノ儀) 
   鳥取・山内竹四郎ら 五四五
提出者地域別一覧
一 人名の下の数字は提出年と史料番号を示す。
鳥取県 木島恒太郎 明治一四〔七八〕
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Wikipedia[会見郡]
会見郡(あいみぐん)は鳥取県(伯耆国)にあった郡。
明治4年7月14日(1871年8月29日)
 - 廃藩置県により鳥取県の管轄となる。
明治9年(1876年)8月21日
 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
明治12年(1879年)1月12日 
- 郡区町村編制法の島根県での施行により
行政区画としての会見郡が発足。郡役所が米子町に設置。
明治14年(1881年)9月12日 - 鳥取県の管轄となる。
明治22年(1889年)10月1日 
- 町村制の施行により、以下の町村が発足。
特記以外は全域が現・米子市。(2町36村)
下浜村 ← 福定村、中野村、竹内村、高松村(現・境港市)
明治22年(1889年)12月
下浜村が改称して余子村となる。
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Wikipedia[余子村]
余子村(あまりこ そん)はかつて鳥取県に存在した村。
歴史
高松村、竹内村、福定村、中野村を
4つの大字として発足した余子村は、
町村制が施行された明治22年(1889年)10月当初は
村名を下浜(しもはま)村と称した[1]。
村長 木嶋恒太郎
大正2年(1913年)12月 - 大正13年(1924年)2月
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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