小野雄二

『チャー坊と出会った日 』もうひとつの村八分1-5/村瀬シゲト[NICO-NICO GUITARS BLOG]

『チャー坊と出会った日 』もうひとつの村八分1-5/村瀬シゲト
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2019年4月10日 toshiakikasuya

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2019年6月16日 toshiakikasuya
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月04日
[チャーボー&ゆう(by Yu)]2/2《柴田和志&小野雄二》
【10年以上が過ぎて………】
◆古紙回収
私が鳥羽街道の借家の整理のため、
正覚町付近を歩いていた時、
「ゆうさん」とふいに声を掛けられたのです。
それがチャーボーでした。
古紙回収の軽トラに乗っていました。
確か運転していた山口冨士夫君だったと思います。
◆ヘロインは上品
チャーボー曰く、ありとあらゆる麻薬を経験したようです。
南米(ペルーetc)は豊富だったようです。 ※昭和51年(1976)
「麻薬評論家になれるかも?」と言っていました。
麻薬の中で、一番上品なのでは何と言っても
「ヘロイン」だと…。
上品という意味は不明ですが、
その道の人なら理解できるのかもしれません。
◎「京大西部講堂でコンサートやっていた時は、
バッシュ履いて、フットワークよく動き回っていたで。」
とチャーボーが言っていた。
(私は村八分のコンサートは一度も見たことがない)
 ―略―
この記事へのコメント
1. Posted by 小野雄二   2018年05月08日 16:42
チャーボーとは30年以上の付き合いでしたが、
村八分のミュージシャンであった彼とはほとんど接点はなかったのです。
有名なんだと伝え聞きびっくりした覚えがあります。
小学生/中学生そしてヒッピー?(最近は死語のような)/
ロックミュージシャンへと変貌、薬漬けになったり、
その一風変わった様子には少し驚きもありましたが、
彼の持っている感性に対しては違和感を感じることはなかったのです。
いつどこで会っても普段の彼でした。
もうすぐ亡くなって四半世紀になるんですね。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月03日 05:00 ◆柴田和志 小野雄二
[チャーボー&ゆう(by Yu)]1/2《柴田和志&小野雄二》
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[小野雄二:柴田和志][伏見稲荷大社・京都陸軍墓地・深草中学校]昭和39年秋

[小野雄二:柴田和志]
[伏見稲荷大社・京都陸軍墓地・深草中学校]昭和39年秋

小野雄二・柴田和志:1
 伏見稲荷大社
〔画像〕小野雄二・柴田和志:1

小野雄二・柴田和志:2
 京都陸軍墓地
〔画像〕小野雄二・柴田和志:2

深草中バスケット部
 深草中学校体育館 昭和38年秋
後列左から ? ? 金谷信 島幸隆 ? ? 柴田和志
前列左から 上谷光博 青山俊夫 小野雄二 加藤伸二
〔画像〕深草中バスケット部
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年06月27日 06:10 ◆柴田和志 バスケットボール
[小野雄二:柴田和志][京都陸軍墓地(京都府)]昭和39年秋
柴田和志 深草中学校 二年生 昭和41年(1966)3月 卒業
小野雄二 深草中学校 三年生 昭和40年(1965)3月 卒業
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年01月19日 08:46 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
柴田和志《さよならカズー》〈せめて参りに東丸〉[東丸神社]
[京都市立 深草中学校 バスケットボール部]
近畿大会 昭和39年度(1964) 優勝
 昭和39年(1964)8月31日 一回戦  西中学校 (大阪市)
 昭和39年(1964)8月31日 準々決勝 湊中学校 (神戸市)
 昭和39年(1964)9月  6日 準決勝  衣笠中学校(京都市)
 昭和39年(1964)9月  6日 決 勝  魚崎中学校(神戸市)
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「お墓の花入れ」と「本場ニューオリンズのハーモニカ」

「お墓の花入れ」と「本場ニューオリンズのハーモニカ」

mail-小野雄二:20180616 15:43
お墓の花入れからの不思議な縁です。
あの時、曲がった花入れを直そうとしなかったら、
こんな出会いはなかったのです。
チャーボーの姪夫婦に、いろんな話を・・・。
僕がチャーボーにあげた(?)
ニューオリンズのハーモニカを依子さんは持っているそうです。
「本場ニューオリンズのハーモニカやで」と
チャーボーが言っていたそうです。
おそらく、それだと思います。
チャーボーはハーモニカうまかったそうです。
などなど・・・。
帰りに衣笠墓地へ。(添付写真)
 墓-花入れ-20
〔画像〕墓-花入れ-20
小野雄二
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『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
『チャー坊遺稿集』表紙
〔画像〕『チャー坊遺稿集』表紙

©吉村邦代 ローリング・ストーンズの初来日公演を観に行く/
左より吉村邦代(姉)さんの長女、依子さん、ともこさん、
吉村邦代さん/1990年
『チャー坊遺稿集』-1-50
〔画像〕『チャー坊遺稿集』1-50

©吉村邦代 吉村邦代(姉)さんの長女、
依子さんの結婚式に招かれて/1992年
『チャー坊遺稿集』2-50
〔画像〕『チャー坊遺稿集』2-50
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(有)石駒
代表者名 伊藤雅之 電話 075-541-5214
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月04日 05:10 ◆柴田和志 小野雄二
[チャーボー&ゆう(by Yu)]2/2《柴田和志&小野雄二》
◆アメリカ土産
私は家族でアメリカツアーに行くことになり、
チャーボーに「アメリカ土産でほしいものある?」と。
彼の希望はハーモニカでした。
ニューオリンズでハーモニカを購入しました。
土産のハーモニカを渡すため、
チャーボーと京都の喫茶店で出会いました。
※平成2年(1990)6月
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月27日 05:00 ◆柴田和志 小野雄二
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
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[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》小野雄二:平成30年5月26日

[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日

[柴田家之墓]
  くたびれて
あるいても あるいても 
涯てどなく 涯てどなく
握りしめた 手のひらは
あせばかり あせばかり
 チャー坊 デビュー作
柴田家の墓-1
〔画像〕柴田家の墓-1

   平成二十八年十月六日
俗名 柴田次男 納骨
   行年 七十一歳
柴田家の墓-2
〔画像〕柴田家の墓-2

[柴田家之墓]
柴田家の墓-3
〔画像〕柴田家の墓-3

釋 浄 剛
昭和41年1月22日歿 俗名 金三郎 行年 63才
釋 尼 妙 春
昭和58年4月14日歿 俗名 つぎ  行年 73才
春光院法音日和居士
平成6年4月25日歿  俗名 和志 行年 43才
柴田家の墓-4
〔画像〕柴田家の墓-4

柴田家の墓-5
〔画像〕柴田家の墓-5

平成7年4月建之
 柴田次男
柴田家の墓-6
〔画像〕柴田家の墓-6

[柴田家之墓]
柴田家の墓-7
〔画像〕柴田家の墓-7
撮影日 平成30年(2018)5月26日(土)
撮影者 小野雄二
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BABYDOLL LOUNGE
2013-09-27
チャー坊の墓参り
 ―略―
30分ほど神社(伏見稲荷大社)を見学した後、
チャー坊の墓参りへ。
伏見稲荷駅の入口から見て右手の歩道をまっすぐ進み、
2、3分ほど歩くと踏切のある線路とぶつかる。
そこで左に曲がり山側の民家が並んだ細い道を
まっすぐ上っていくと、それほど大きくはない墓地がある。
有名なぬりこべ地蔵がある場所のまん前だ。
管理人も誰もいないので勝手に入ってお墓を探したんだけど
意外と見つけるのに苦労したね。
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2013年02月28日 07:24 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日 07:50 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日 08:31 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《柴田金三郎》《柴田 コト 北野金三郎》
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月08日 10:56 ◆柴田和志 バスケットボール
柴田次男(柴田和志の兄):平成28年10月6日逝去

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月23日 11:44 ◆柴田和志 バスケットボール
[柴田大地トレーナーの父と叔父][具志堅ジムの比嘉大吾]

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年06月27日 06:10 ◆柴田和志 バスケットボール
[小野雄二:柴田和志][京都陸軍墓地(京都府)]昭和39年秋
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[チャーボー&ゆう(by Yu)]2/2《柴田和志&小野雄二》

[チャーボー&ゆう(by Yu)]2/2《柴田和志&小野雄二》

※チャーボーとは、稲荷小学校からの友人(1年下)
※二人の共通点は、運動神経に優れていたこと位

◆「これあげへんで、やったらアカンで」
高3の秋、クラブ活動も終了、目的を失った時期でした。
友人と木屋町界隈をふらっと。
そこでチャーボーと久しぶりに出会ったのです。
(彼女もいっしょだったような?紀伊国屋書店の役員の娘?)
当時、ハイミナールという睡眠薬が流行っていました。
チャーボーも常用していたようで、
彼のジーパンのポケットには。
彼曰く
「これ、ゆうさんにあげへんで、こんなんやったらアカンで」。
チャーボー流のけじめのつけ方だったようです。
※昭和42年(1967)秋

◆長髪に毛皮っぽいロングコート
三条大橋だったかな?
長髪で変な服装の若者、
避けて通り過ぎようとした瞬間、
よく見ると、チャーボーだったのです。
彼女と一緒でした。
軽く挨拶を交わした程度で別れました。

【10年以上が過ぎて………】
◆古紙回収
正覚町付近を歩いていた時、
「ゆうさん」とふいに声を掛けられたのです。
それがチャーボーでした。
古紙回収の軽トラに乗っていました。
確か運転していた山口冨士夫君だったと思います。
「何してんの?」というチャーボーの問いに、
「家を整理しているね」と応えると、
チャーボーは「手伝うわ」と。
そんなわけで不用品を軽トラに載せて
何回も捨てに行ってくれました。
ふと気になった私は「どこに捨てたの?」と、
チャーボーは「稲荷山の辺やけど」、
私「そんなんあかんで。あとは業者に頼むし、ありがとう…。」
その時、
冨士夫君以外の村八分のメンバーも
手伝ってくれた記憶が残っています。
メンバーの一人が近くの久野病院に入院していたらしく、
そんな事情もあり私に出会ったようです。
古紙回収の仕事について、
「この仕事、小雨が降るとええねん」
とこんな一言を覚えています。
※昭和54年(1979)12月頃

◆ゆうさんが来てくれたら
ある日、 ※昭和60年(1985)
ボンちゃん(チャーボーの兄)から会社に電話がかかってきました。
「ゆうさんが来てくれたら入るしって」。
実は症状がでたのか入院を迫られていたようです。
チャーボーは入院を渋っていたようです。
チャーボー曰く
「ゆうさんが来てくれたら入院するしって」。
そんなわけでチャーボーの家へ、
到着してすぐに岩倉だったかな?
病院に付き添って行ったことがありました。
私と一緒なら安心感があったのかな?
小野一雄 柴田次男01
柴田次男(ボンちゃん) 小野一雄

◆病院でピンポン
その後だったと思います。
洛南病院(宇治)にチャーボーが入院。
お見舞いに行ったときのことです。
周りを見渡すと、目つきが普通じゃない人たちばかり、
見つめてはいけないと思い通り過ぎる。
普通なのはチャーボーくらい。
するとチャーボーが「卓球せぇへん?」と、
そんな流れでこの病院で卓球をしたのです。
精神病院で卓球は初めての体験でした。
チャーボーも入院中は暇そうなので、
医者から医学の本を借りて、
研究していると言っていました。
※昭和61年(1986)

ミック・ジャガーは体で覚えている
チャーボーがミック・ジャガーの日本公演を聞きにいったそうです。
その時に感想を話してくれました。
「ミックは、今は、やっていないみたいだけど、
やっていた頃の音が再現されている」って言っていました。
どんな薬か知りませんが、いわゆる麻薬ですね。
麻薬の音ってどんな音?
※昭和63年(1988)3月

◆ヘロインは上品
チャーボー曰く、ありとあらゆる麻薬を経験したようです。
南米(ペルーetc)は豊富だったようです。 ※昭和51年(1976)
「麻薬評論家になれるかも?」と言っていました。
麻薬の中で、一番上品なのでは何と言っても
「ヘロイン」だと…。
上品という意味は不明ですが、
その道の人なら理解できるのかもしれません。

◆アメリカ土産
私は家族でアメリカツアーに行くことになり、
チャーボーに「アメリカ土産でほしいものある?」と。
彼の希望はハーモニカでした。
ニューオリンズでハーモニカを購入しました。
土産のハーモニカを渡すため、
チャーボーと京都の喫茶店で出会いました。
出会った瞬間、
チャーボーは「忘れた、ちょっと待ってて」。
最初は意味不明でした。
実は、薬のせいで、総入れ歯だったようで、
慌てて家をでたようで、入れ歯を忘れてしまったようです。
※平成2年(1990)6月

◆毛皮のコート
「豹(?)のコートあるけど、ゆうさんほしい?」
とチャーボーから聞かれ、
「チャーボーが要らんならもらうわ」という流れで、
毛皮のハーフコートをもらったのです。
チャーボー曰くその当時は購入できない貴重品だったそうです。
兄がお世話になっていた
三上さんの娘さんはそのコートのことを知り、
興味を示したので、彼女に譲ったのです。
※平成5年(1993)

◆チャーボーとの断片的な記憶
◎兄の入院中、洛西シミズ病院でチャーボーと出会い、
私が持っていたレイバンのサングラスに興味を示したので、
「これほしい」と聞いたら「うん」と、
すぐにチャーボーにプレゼントしたこと
※平成5年(1993)

◎ある日、私が乗っていたスポーツタイプの自転車をプレゼント

◎チャーボー曰く
「ゆうさんにミニクーパーあげるわ」と、でも実現せず。

◎チャーボーと滋賀県在住の友人(女性)宅を訪問。
彼女は閉所恐怖症で電車に乗ることができなくなり
会社を辞めたそうです。
どんな友人なのか訪問目的も不明

◎チャーボーが私の長男を見て、
「イギリス人の赤ちゃんみたい」と感想を
※高祖父(曾祖父の父):イギリス人 ノット
母方の曽祖父:イギリス人[ジョージ・ノット?]―01
◎私の娘がチャーボーと出会って、娘の感想「口臭い」。
入れ歯の影響?

◎岡崎近辺の喫茶店(?)でコンサートを計画していると
チャーボーより電話があった。
ロックには興味がなかったので
コンサートには行っていない。
行ったらよかったかなと後悔。

◎鹿ヶ谷付近を車で通りかかったとき、
喫茶店の駐車場で、
髪の長い男と金髪だったかな(?)外人女性が、
ボクシングの真似事を(グローブをはめて)。
変な奴だなと思ってよく見たら、
その男はチャーボーだった。
喫茶店って「ジグザグ」かな?

◎「京大西部講堂でコンサートやっていた時は、
バッシュ履いて、フットワークよく動き回っていたで。」
とチャーボーが言っていた。
(私は村八分のコンサートは一度も見たことがない)

◎「MG5のコマーシャルで髪の毛が長い男は僕やで」
とチャーボー談。
もう一人は村田秀雄(団時朗)
チャーボーは顔がはっきり映っていないので、
誰もわからないだろう。
でも雰囲気はチャーボー。
※昭和46年(1971)

山科の病院に入院したとき、
暴れたので椅子に縛り付けられた。
※昭和52年(1977)6月

【チャーボーの彼女から電話】
「今日、チャーボーが………」と彼女より。
気が付いたら、息を引き取っていたそうです。
薬の常用によるショック死?
教会で行われた告別式に参列
※平成6年(1994)4月25日(44歳)急逝

【チャーボーとの出会いと別れ】
ソフトボールをきっかけに、
小学校から友人として付き合ってきたチャーボー。
チャーボーの高校受験の挫折から
全く違う道を歩むことになりました。
彼がロックの世界で活躍している
という噂を聞いたのはいつ頃かな?
私はその世界には興味がなく
「村八分」についても知識もなかったのです。
西の「村八分」
東の「内田裕也?」と言われていたようです。
でも、テレビ出演は断っていたので、
その名を知る術もなかったのです。
チャーボーの全盛期には、出会うチャンスはなかった。
(街ですれ違ったときがその時期かもしれないが)
村八分解散後、ふと出会って、
亡くなるまでがある意味で一番密な
(中学までを除いては)
関係にあった時期かもしれません。
彼の音楽は理解できないが、
CDと遺稿は部屋に。
亡くなって何年かな?
まだファンもいるようです。
振り返ってみると、
チャーボーは皆から愛される人間だったのでしょうね。

2018/5/2。
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SCAN0747
左 小野雄二
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月03日 05:00 ◆柴田和志 小野雄二
[チャーボー&ゆう(by Yu)]1/2《柴田和志&小野雄二》
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[チャーボー&ゆう(by Yu)]1/2《柴田和志&小野雄二》

[チャーボー&ゆう(by Yu)]1/2《柴田和志&小野雄二》

※チャーボーとは、稲荷小学校からの友人(1年下)
※二人の共通点は、運動神経に優れていたこと位

【小学校時代(稲荷小学校)】
◆ソフトボール
夏休みは毎日ソフトボール漬け。
炎天下、
今日は誰も来ていないと思って、校庭に足を踏み入れると、
チャーボーの姿。
当時、町内対抗のソフトボール大会があった。
ともにピッチャーだったと思う。
チャーボーは東藪ノ内町、私は正覚町
エースでスピードはあったが、ともにコントロールはいまいち。
※昭和36年(1961)夏

◆運動能力
小学校ではスポーツテスト
(ソフトボール投げ、50メートル走など)
私が小6時代
(ソフトボール投げ51メートル、50メートル走7.9秒
※ともに学年一位)、
チャーボーは小5で
(ソフトボール投げ49メートル、50メートル走8.1秒
※ともに学年一位)。
学校全体で見れば。1位と2位。
一学年違いということもあり、
チャーボーは2位に甘んじたのであろう。
ライバル視していたかどうかはわからないが、
とにかく競っていたようだ。
おそらく次年度はチャーボーが学校でトップだっただろう。
※昭和36年(1961)

◆登山競走での逸話
稲荷小学校では、
小学校から稲荷山頂上までを往復するマラソンがあった。
早い人は、30分以内のタイムだったようです。
私は、長距離は全くだめで、
これはチャーボーには敵わなかったはず、
タイムを競った記憶はない。
チャーボーは何でも全力で挑むという性格で、
この登山競走で、頂上まで駆け上った時に、
気分が悪くなったようです。
(吐きそうになったらしい)
普通ならへたり込んで休むところ、
チャーボーはそれを許さず、
こみ上げる吐物をかなぐり捨てるようにして走り続けたと
本人から後日聞いたのです。
※昭和36年(1961)

【中学時代(深草中学)】
お互いの兄がバスケット部OBだったこともあり、
二人ともバスケットに入部
※私が中1時代は、チャーボーが小学校だったため、
二人にまつわる記憶はない。
※昭和37年(1962)

当時は、ミニバスもなく、
バスケット部全員が中学入学より同時スタート。
1年先輩の私は、チャーボー入部時点では、 ※昭和38年(1963)
レギュラーを確保しており、
ライバルという存在ではなく親しい後輩という存在だった。
チャーボーは持ち前の運動神経を発揮し、
スピードあるプレイをしていた記憶がある。
彼は右利きでうまかったが
もう少し左をうまく使うことができていれば
もっと幅広いプレイができていたのでは
という印象が残っている。
3年になってからは、チームリーダーとして ※昭和40年(1965)
ポイントゲッターとして活躍していた。
IMG_0012
左 柴田和志 中央 小野雄二 右 青山俊夫
IMG_0013
左から 武田 柴田和志 小野雄二 木下
当時、ウェストサイド物語が一世を風靡し、
中学生であった私たちは、真似の一つとして、
テニスシューズを買い、その雰囲気に浸っていた。
当然、映画館まで映画を見に行ったのです。
確か東宝公楽(三条河原町)でも
上映していたという記憶があります。
チャーボーは弁当持ちで映画館に行き、
朝から晩まで鑑賞したと言っていました。
何でも徹底してやる性格だったのでしょう。
この体験を契機に、
ロック活動につながる何かがあったのかもしれない。

◆「明日ちょっと入ってくる」
チャーボーの自宅に行ったときのこと。
風呂上がりにおっさんがステテコ姿で、
椅子に腰を掛け、
第一声「明日ちょっと入ってくるわ」。
意味不明の一言。
「入る」とは、刑務所だったのです。
普通の家庭環境で育った私にとっては、異様な光景でした。

◆階段上れない
私が中3の冬休み、バスケットは当然引退。
顧問は三浦先生
先生の趣味はスキーでこの時期だけは、
スキーに行かれその間のバスケットの練習は、
中3生にコーチを託していました。
その担当としてなぜか私が指名されたのです。
練習内容は基礎練習ばかり。
当時はうさぎ跳びとか…。
チャーボーがキャプテンで一生懸命に
私のプログラムに取り組んでいたのです。
その翌日、
チャーボー曰く「足が痛くて、階段上れなかった」。
何事もベストを尽くす性格だったからかな?と感じました。
※昭和39年(1964)冬

◆「お前、誰に手を出したんや」
チャーボーが中1か中2の時、
私と同学年の番長的な大山君(その兄が暴力団員)に
殴られたと話を聞きました。
そのことが大山の兄に伝わったようで、
大山は兄にきつく怒られたそうです。
「お前が殴ったのは誰か知っているか!」と。
暴力団員も恐れるチャーボーの背景に何が?と思ったのです。

【中学卒業以降】
私は日吉ヶ丘高校へ進学。
チャーボーも1年遅れで入学してくると思っていたのです。
ところが受験に失敗、東山高校へ。
中3の時、チャーボーのお父さんが亡くなり、
※昭和41年(1966) 1月 父:柴田金三郎(63歳)逝去
学校の勉強も疎かになったのか、
内申書の成績が思わしくなかったせいもあり、
公立高校受験は失敗したようです。
チャーボーはバスケットで活躍していたので、
東山高校へは推薦で入学。
当時、深草中学バスケットは、
公立高校に入れなかったら、
東山高校へという流れができていました。
チャーボーは東山高校へ入学したものの、
その雰囲気には馴染めなかったようで、中退。

◆東山高校時代から聞いたこと
清水さん(私と同学年、その後日体大、松下電器、監督まで)は、
朝早くから登校して頑張って練習していたよ」
とチャーボーから聞いた唯一の東山高校時代の話であった。

◆スカートを穿いた男二人が日吉ヶ丘高校グランドに
私は高2か高3のとき、
中間の休み時間、グランドを眺めていると、
スカートを穿いた男二人が、グランドを歩いていたのです。
異様な雰囲気、
誰?何で?一人は外人、
もう一人?えぇ?
それがチャーボーだったのです。
外人はスコットランド人。
こんなカッコウで私に会いにきたのかな?
不思議な一瞬でした。
スコットランド人ならスカートが正装だが、
どうしてわが高校に?

[チャーボー&ゆう(by Yu)]2/2《柴田和志&小野雄二》
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年06月27日 06:10 ◆柴田和志 バスケットボール
[小野雄二:柴田和志]
[京都陸軍墓地(京都府)]昭和39年秋
チャーボと二人。
でも、誰が撮った?
写真を見たら、加藤、チャーボと私の三人で行ったようだ。
柴田和志 深草中学校 二年生 昭和41年(1966)3月 卒業
小野雄二 深草中学校 三年生 昭和40年(1965)3月 卒業
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