<幻のロック・バンド《村八分》誕生の瞬間(とき)>
文=木村英輝[ロック画報 05]2001年7月25日発行
<幻のロック・バンド 誕生の瞬間(とき)>
文=木村英輝
新宿にユニット・プロダクション、
略してユニプロという企画事務所があった。
ユニプロの主宰者は宮井陸郎というアングラの映画作家である。
彼は多才な男だった。
スペース・プロデューサーでもあったし、
サブ・カルチャーの旗手でもあった。
彼の京都の友人、
故小松辰男さんを介して私は彼を知ることになる。
京都はおもしろい。
彼は私達の動きに興味をもっていた。
その宮井さんの相棒に、
面倒見のいい五味ちゃんという姉御がいた。
金のない若者たちに、
今でいうアルバイターの手配をしてあげたり、
寝床を提供したりもした。
そんなこともあってか、五味ちゃんの周りには、
いろんな若者があつまってきた。
コンセプチャル・アーティストのガリバーこと安土修三や、
今は小説家になっている「ちだ・うい」などは、その代表格だった。
五味ちゃんは時代を肌で感じて生きている若者が特に好きだった。
イラストレーターになりたいと集う、
長沢節さんのアカデミィーには、
そんな若者がたくさんいた。
ミュージカル、ヘアーに出演していた深作龍作、
後にガロというバンドで有名になったボーカルこと大野真澄、
島根県のジョン・レノンと自称するミュージシャン。
髭が、その風貌がキリストそっくりのキリスト。
そんな若者のなかに村八分結成の要の一人になる青木君もいた。
五味ちゃんから京都の私に電話があった。
「青木君の知り合いのダイナマイツというGSの山口フジオ君が
キーヤンとこ、訪ねるけど、よろしくたのみます」。
当時、GSが終焉を迎えようとしていたが、
ゴールデン・カップスやモップスとならんで実力派といわれた
ダイナマイツはかろうじて活動していた。
私の家を訪ねてきたフジオ君は、ダイナマイツをやめたという。
実に礼儀正しい爽やかな青年だった。
変に突っ張ったり、
かっこつけたりする連中とちがうオーラがあった。
芸能界で苦労してきたのだ、物腰のやわらかい、
俗にいわれる好青年というのが
フジオ君に対する第一印象だった。
GSをやめて京都に行こうと考えたのは、
京都に、自分が捜している何かに出会えるかもしれない
という予感があったからかもしれない。
そんなフジオ君が半年後の深大寺フリー・コンサートの時には、
チャー坊や青木君と一緒に、
目の回りを黒く化粧した村八分に変身していた。
私の家を訪ねたフジオ君ではなかったのだ。
その後、チャー坊と衝撃的な出会いをすることになったのだろう。
チャー坊は高校時代、バスケットの名選手だった。
※深草中学校時代(小野一雄)
柴田和志:深草中学校バスケットボール部
ただの体育会系ではなかった。
新宿の風月堂や京都の六曜社などに出入りする
アート系の少年でもあったのだ。
そんな少年、チャー坊は、
ステファニィというアメリカ女性と出会い、
柴田和志:Staphanie(ステファニー)LPレコード
オルタモントでミック・ジャガーを見ることになる。
オルタモントは60万人の反体制で自然賛歌、
ギンギンの若者があつまった世紀を超えて語りつがれる
ロック・フェスである。
星条旗がそのままデザインされたシルク・ハットをかぶり、
ピンクのラメのジャケットをきたミック・ジャガーが登場したのだ。
クライマックスである。
舞台をガードするヘルス・エンジェルスが昂奮したファンを殺傷する。
オルタモントに集うピース&ネイチャーを叫ぶ若者が一番嫌うはずの
星条旗とラメを身につけたカリスマ・ミックが
「ブラウン・シュガー」を歌うのだ。
余りにも、きわどい危険でカッコいいローリング・ストーンズの存在が
チャー坊のそれからの出発点(?)になってゆく。
元気でカッコいい、詩や絵にも興味をもった
アート系スポーツマンだった少年、
チャー坊がオルタモントの体感によって変わるのである。
お尻まで髪をのばし、
ステファニィと静かに町を歩くチャー坊になったのだ。
フジオ君が京都を訪ねてから、一年位経った頃、
チャー坊とフジオ君が私に話があると連絡してきた。
木屋町の琥珀というロココ調の喫茶店で会うことになる。
私に村八分をプロデュースしてくれということだった。
「キーヤンと組んで売りだしたらすぐに日本で一番になれる。
売りだすのがはっきり見えるんや、
一緒に金儲けしよう」。
何と自惚れの強い奴らや、
私に儲け話をもってのせようとしている。
金では動かない私のこと知らんのと違うか、
そう思ったけどチャー坊の自信にはオーラがかかった迫力があった。
世直しをしなければと
政治運動に奔走する若者たちの情報に囲まれていた私に、
チャー坊の誘いは意外な新鮮さがあった。
その後村八分をプロデュースすることになる。
幻のロック・バンド、伝説の村八分、
どんどん深秘と幻想につつまれたイメージだけが一人歩きする。
伝説イメージが広がれば広がるほど、
村八分の誕生を垣間見てきた私から遊離してゆく。
伝説は、欠落した空洞化の歴史を埋めようとすることから始まる。
埋めようとする人の感覚や都合によって、拡大する。
チャー坊のおばあちゃんが、
※お母さん(柴田つぎ)
《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》<チャー坊(“村八分”)の生と死>
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
※お姉さん(吉村邦代)
「お墓の花入れ」と「本場ニューオリンズのハーモニカ」
©吉村邦代 ローリング・ストーンズの初来日公演を観に行く/
左より吉村邦代(姉)さんの長女、依子さん、ともこさん、
吉村邦代さん/1990年
邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》
「キーヤン、チャー坊のこと、よろしゅうたのんます」。
まるで授業参観にきた父兄が息子のことを先生にお願いするように、
私にチャー坊のことを頼む姿と
柴田家の一番大事な末っ子チャー坊がつながった時に、
どうして村八分が生まれることになったのかが見えてくる。
<フジオ=山口冨士夫の弔問>
[チャー坊(柴田和志)の母(つぎ)の葬儀]
きむら・ひでき/1942年生れ。
イヴェントプロデューサー。
京都美大講師を経て
MOJO WEST等のロック・コンサートをプロデュース。
その後京都にて世界歴史都市博等をプロデュース。
〔画像〕RG0064-65
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月18日 05:38 ◆柴田和志 [ロック画報 05]
特集 最も危険なロック 村八分①
[ロック画報 05]2001年7月25日発行
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