◆[日本の右翼]

《吉村法俊・山口二矢》大日本愛国党【右翼左翼】昭和35年(1960)

《吉村法俊・山口二矢》大日本愛国党
【右翼左翼】昭和35年(1960)

【右翼左翼】昭和35年(1960)
著者    新聞「日本」社 編
出版者   大日本国民党
出版年月日 1960

大日本愛国党
東京都台東区浅草公園一ノ七
総 裁   赤尾  敏
參 與   浅沼美知雄
青年隊   岡田 尚平
      石川 忠一
      鷺  信次
      中堂 利夫
      加藤 一夫
      中村 芳彦
      吉村 法俊
      渡辺  伸
      山田 十衛
城南支部長 福田  進
      山口 二矢
      村岡 照章
p39【右翼左翼】昭和35年(1960)
〔画像〕p39【右翼左翼】昭和35年(1960)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/39

 全日本愛国団体 主宰者所在(順序不同)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/55
国際反共会議  松本 明重
京都市中京区新町武蔵町下ル

国民運動社   柴田金三郎
京都市伏見区東藪ノ内四六
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/64

 左翼文化人列伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/102
細川チカ子 本名 横田 冬
東京 明治38年12月31日 俳優
東京都港区赤坂新坂町八〇
香蘭女学校卒、民芸
藤山愛一郎外相の妾、子供あり、
細君の資格で外交官社交界に出席して
問題を引き起す、
外相の左翼、共産圏えの機密の抜穴
p141【右翼左翼】昭和35年(1960)
〔画像〕p141【右翼左翼】昭和35年(1960)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/141

昭和34年12月25日 印刷
昭和35年  2月11日 発行
編 纂 新聞「日 本」社
監 修 荒原 朴水
印刷者 丸田 順康
印刷所 日本文教新報社
    東京都新宿区西大久保2ノ278
発行所 大日本国民党
    東京都板橋区常盤台4ノ7
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/152
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《松本明重》祇園すゑひろ・クラブひめゆり・
日本民主同志会中央執行委員長
【京都年鑑 1969年版】昭和43年(1968)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

吉村法俊:昭和維新連盟最高顧問「人名索引・奥付」[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

吉村法俊:昭和維新連盟最高顧問「人名索引・奥付」
[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

人名索引〈五十音順・姓名下の数字は本文ページ〉 p293-298
吉村法俊 114 129 (本文ページ) p298
昭和二年(1927)、  福岡県生まれ。
三十四年(1959)、  大日本愛国党に入党し青年行動隊長に就任。
三十五年(1960)五月、脱党して中堂利夫、山口二矢と
          全アジア反共青年連盟を結成。
四十六年(1971)四月、昭和維新連盟 最高顧問となる。

猪野健治(いの・けんじ)
1933(昭和8)年、滋賀県に生まれる。
地方紙記者、双葉社等の勤務を経て昭和37年独立。
以来、幅広い執筆活動を続ける。
現在、日本ジャーナリスト専門学校専任講師。
著書:主な著書・編著者・共著者として、
『編集・取材の知識100』(みき書房)
『雑誌記者入門』(みき書房)
『雑誌編集者』(実務教育出版)
『占領下の日本』(『証言の昭和史』第6巻、学研)
『戦後水滸伝』(現代評論社)
『現代若者コトバ事典』(日本経済評論社)
『右翼民族派総覧』(21世紀書院)など多数。

叛骨の過激人間
評伝・赤尾 敏
定価一五〇〇円(本体一四五六円)
平成三年五月二五日  一版一刷
著 者 猪野健治
発行者 小倉一春
発行所 オール出版株式会社
 〒一〇二 東京都千代田区九段北三ノ二ノ四
 TEL  〇三(三二三四)〇九七一
 振 替  東京7―147137
印刷所 (株)CTE
製本所 田中製本印刷(株)
乱丁・落丁本はお取替えいたします
[評伝・赤尾敏]p298-奥付
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p298-奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日 14:21 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

吉村法俊と山口二矢[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

吉村法俊と山口二矢[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

二矢は、愛国党に入党して半年足らずの間に、
その過激な行動から十回以上も逮捕されていた。

原水爆禁止世界大会(広島)の会場に、
愛国党の仲間と宣伝カーで突っ込んだり、
石橋湛山訪中に反対して自宅に数人で押しかけ、
ビラを撒き、警官とわたりあったり、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)帰還反対デモで
警官を殴ったり……といった過激ぶりであった。

二矢は昭和三十四年(1959)十二月に、
東京家庭裁判所で保護観察四年に処せられた。

赤尾はそのとき、
担当の検事から呼び出しを受けた。

「殴ったとか蹴とばしたとかいう事件がたまっているのを、
 その検事が保留にしておったんだ。
 取り調べてみると山口君は無邪気で純情でしょう。
 こんな感受性の強い子を少年院に入れてしまったら、
 かえって不良になってしまうというので、
 留めていたと言うんだ。
 でも、
 『これ以上こういうのが続くと
  少年院に行かなくちゃならなくなる。
  赤尾さん、
  責任を持ってあなたが始終そばにつけておいてくれ、
  一人で離しておいちゃダメだ』
 といわれてね」

しかし二矢は、翌年(1960)の五月末には、
吉村法俊、中堂利夫の二人と共に愛国党を脱党する。
三人は愛国党本部の離れの部屋に一緒に寝起きをする仲だった。

吉村はカネ集めの才覚があり、
中堂は文章の才がある、
二矢よりは年長の青年だった。

愛国党員の日課であるビラ貼りに端を発した
ちょっとした争いが、
いつの間にか赤尾と吉村の対立になり、
吉村は愛国党を出て行くと宣言した。
その彼に、二矢と中堂も同調したのだった。

この年の初めごろから、
二矢は、愛国党のやり方は生ぬるく、
日本を救うことができない、
と思うようになっていた。

浅沼事件  p115-124
愛国党を脱党した山口二矢は、
一緒に飛び出した吉村法俊、中堂利夫の二人と共に
防共挺身隊の福田進の家に泊めてもらい、
銀座・鳩居堂二階に借りた事務所に通うようになった。

吉村、中堂の二人は新団体結成のための資金集めや
新聞発行の準備などで飛び回っていたが、
二矢には決まった仕事がなく、
事務所で留守番をしている毎日だった。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p114-115
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p114-115

 ―略―
昭和三十五年七月一日に、
吉村、中堂が準備に奔走した新団体、
全アジア反共青年連盟が結成された。

二矢もこれに加わったが、
彼には当分やることはなさそうだった。

そこで、夏の間一カ月半ほど、
右翼運動家の杉本広義
(赤尾敏夫人、富美江の弟、山田十衛の義兄)
が山梨県の北巨摩郡にもっている牧場で働いた。
そして、杉本の勧めで、大東文化大学の編入試験を受け、
九月中旬から大学に通うようになった。

もうこのころには、
二矢には吉村や中堂と一緒に運動をする気持はなく、
左翼の指導者を一人で倒そうという
ひそかな決心が固まっていた。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p116-117
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p116-117

[評伝・赤尾敏]p118-119
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p118-119

 ―略―
二矢は警察の取り調べでは、
「私の人生観は大義に生きることです」
「自分の信念に基づいて行った行動が
 たとえ現在の社会では受け入れられないものでも、
 またいかに罰せられようとも、
 私は悩むところも恥ずるところもないと存じます」
と述べ、
浅沼委員長刺殺は
全く自分一人の信念で決行したと供述している。

愛国党にいたときに、
左翼の指導者を倒すような話は出なかったかとの質問には、
こう答えている。
「いつだったか記憶にありませんが、
 赤尾先生、吉村さんや中堂さん他の党員が、
 『左翼を倒さなければならない。
  浅沼や野坂、小林を殺さなければダメだ』
  ※社会党 浅沼稲次郎 委員長
   共産党 野坂参三  議 長
   日教組 小林 武  委員長
 などと話していたことがありました。
 私もよく口にしましたが、
 これは本当に殺すというものではなく、
 右翼が二人以上集まればいつも出る話で、
 実行の伴わないものでした」
[評伝・赤尾敏]p120-121
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p120-121

[評伝・赤尾敏]p122-123
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p122-123

 ―略―
赤尾は死の三カ月前、
二矢についてこんなふうに語った。
「普通、共産主義に反対なら、
 共産党の委員長をやるのが本当でしょう。
 それを社会党の委員長を狙うなんて、
 十六、七ぐらいの青年が気がつくこっちゃないんだ。
 これはぼくのイデオロギーなんだ。
 それを、山口君は若い青年だから思い詰めてやっちゃった。
 だからあの事件は、思想的にはぼくの影響ですよ。

 山口君が愛国党を出たのは、
 一部には、赤尾に愛想をつかしたんだと、
 悪口を言う奴がいるが、そうじゃないんです。

 山口君は、一緒に出て行った
 中堂、吉村の二人に引っ張り出されたんですよ。

 山口君は、出てから一人で何度かうちへ来たの。
 それでぼくは
 『君は何も知らんで連れ出されたんだから、
  いつでも戻って来ていいよ』
 と言った。
 ところが、三人でうちを出るときに、
 一緒に運動をやると約束したので、
 山口君だけ戻ると裏切りになるでしょう。
 青年だから、純情だから、戻れなかったんですよ」

赤尾は何度も、二矢のことを
「青年だから」という言葉で表現した。

それは、赤尾にとって最も大切な「純粋」
という言葉と同義語であるようだった。

小森一孝と嶋中事件  p125-133
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p124-125
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p124-125


結局、事件は小森一孝の単独犯行ということになり、
小森は懲役十五年の判決を受け、
昭和三十八年(1963)八月に千葉刑務所に服役した。
赤尾自身についても、浅沼、嶋中両事件関連で起訴され、
三十八年(1963)に懲役八月の刑が確定した。
赤尾の起訴事実は次の通りだった。

① ―略―
吉村法俊 愛国党青年行動隊長と共謀、
三十五年(1960)一月二十四日、
千代田区九段会館で開かれた民社党結成大会を妨害するため、
会場内で発煙筒をたき、
ビラ数百枚をばらまいた威力業務妨害。
③ ―略―
Y[評伝・赤尾敏]p128-129
〔画像〕Y[評伝・赤尾敏]p128-129
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

山口二矢との出会い[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

山口二矢との出会い[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

山口二矢との出会い   p110-114
平成元年(1989)十一月二日、
赤尾敏は入院中の都立大塚病院を抜け出して、
数寄屋橋の街頭に立った。
この日は、
社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺したあと自決した、
山口二矢少年の二十九回目の命日に当たっていた。

〈憂国烈士山口二矢君〉の追悼と
〈国賊社会党撲滅〉の演説をするために、
赤尾は駆けつけたのだった。

演説のあと赤尾は、愛国党関係者十数人と共に、
二矢の墓がある東京・青山の梅窓院に参った。

九十歳で入院中の身といえ、
赤尾には身体をいたわるという考えはなかった。
病院にいると退屈で仕方がなかった。
それに、山口少年の追悼は、
きちんとやらねばという思いがあった。

大日本愛国党本部の聖堂の祭壇には、
二矢のデスマスクが置かれ、
部屋の後方の壁には学生服姿のメガネをかけた
二矢の大きな写真が飾られていた。

まだ幼さを残してはいるが、
一本気な激しい性格が伝わってくる。

赤尾は二矢のことを「純情で過激な性格だった」と評した。
純真無垢な青年への思い入れが強い赤尾は、
九十歳で病身になったこのとき、
死んだ二矢を自分に最も近い存在と感じていたのかもしれない。

愛国党の歴史の中で、
山口二矢の浅沼事件と、
翌年に起きた小森一孝の嶋中事件は、
特筆すべき重要事件である。

ともに元愛国党員だった十七歳の少年が、
自分の信念のためにテロに走り、
二人が死亡した、
赤尾は当時、
二人を犯行に至らしめた黒幕の疑いを受け、
警視庁の厳しい取り調べを受けている。

山口二矢が愛国党に入党したのは、
昭和三十四年(1959)五月、参院選の真っ只中だった。

赤尾は東京地方区から、
愛国党参与の浅沼美知雄は全国区から立候補していた。
六月二日の開票で、二人とも当選こそしなかったが、
赤尾は三万六千票を集め、
浅沼にも全国の市町村でほとんど漏れなく票が入った。
愛国党の信者が各地に根付いていた証拠だった。
演説会もかなりの人気だった。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p110-111
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p110-111

[評伝・赤尾敏]p112-113
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p112-113
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月23日 04:17 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
[デスマスク]『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑨あとがき・奥付[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑨あとがき・奥付
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

 あとがき p370-372
本書にまとめた右翼人の素描は、
昭和四十五年から四十六年にかけて
「問題小説」(徳間書店)に「壮士列伝」として
連載したものが中心になっている。
その他の雑誌に発表したものは、
その稿の末尾に明記してある。
書き足りない部分や読みかえしてみて、
間違いに気づいた部分については、
全面的に書き改めた。

左右激突の危機といわれた七〇年(昭和45年)から、
すでに三年が過ぎ去ろうとしている。
この間には、三浦義一、福田素顕、佐郷屋嘉昭といった
右翼の巨頭があいついで逝った。
笹川良一も「直接的反共活動」から身を退くことを宣言した。

右翼団体は、左翼のように理論によってではなく、
人間関係によってまとまる傾向が強い。
したがって指導者の人柄によって、
運動の盛衰は大きく左右される。
これからの右翼運動は、
指導層の新旧交替の進行のなかで、
展開されていくことになる。

全愛会議は、先ごろ開いた京都大会で
「一発の銃声は百万の力にまさる」
というスローガンをかかげた。
いうまでもなく「一発の銃声」とは、
二・二六事件をさしている。

その底流には「クーデター指向」が見られるが、
現憲法のもとで育った若者たちに、
その意味が理解できるかどうかは大いに疑問である。
没理論的な一揆主義は、危険である前に、
理論を尊重する若者たちには受け入れられない。
いまの若者――とくに学生の多くは、
「右翼」のラベルを貼られることさえも本能的に嫌がる。
「右翼」という二字に時代がかった
アナクロニズムを感じとるのである。

現実に右派系の学生団体のなかには、
「反右翼」を標榜するものもあり、
既成右翼に根深い不信感と警戒心を抱いている。
そして、その姿勢こそ
「民族派学生運動の出発点にすべきだ」
という声もある。

筆者は、ある人に
「いったい右翼は政権をとった場合を想定しての
 政策をもっているのか」ときかれて、
説明のしようがなく困ったことがある。

「じゃ、経済政策なり公害対策は」という。
これも、スローガン的にかかげている団体が若干あるていどで、
それを体系的に行動理論としている団体はない。

評論家の堀幸雄氏は、筆者に、
「戦後の右翼運動は体制従属の反共活動として推移してきた。
 だから、右翼に政策がないというのはあたらない。
 政策なんか必要なかったのだ。
 戦後の右翼運動に対権力闘争というものが見られないことが、
 なによりもそれをものがたっている」と、
指摘したことがあるが、
これに反論する材料はいまもない。

かつて北一輝や内田良平、宮崎滔天は、
貧困の極にありながらも、
朝鮮では東学党を助け、
孫文を助けて中国革命に情熱を燃やした。
たとえ、それが日本帝国主義のアジア侵略に
結果的に短絡されたとしても、
少なくともそのことに生死を賭けてたたかった。
しかるに戦後の右翼(はベトナム、ラオス問題一つをとっても、)
[日本の右翼]p370-371
〔画像〕[日本の右翼]p370-371

(しかるに戦後の右翼)
はベトナム、ラオス問題一つをとっても、
「共産勢力の浸透」をいうだけで、
主体性のある主張というものがまるでない。
要するにアメリカの政策を是認し、支持するだけだ。
これでは、若者の支持が得られないのは当然である。

今後、右翼運動はどのような変貌を遂げていくか。
戦前の右翼運動とは、どのようなものであったのか。
その問いに若干なりとも答えるべく
「解説・右翼運動の軌跡と展望」を付した。
率直なご批判をいただければ幸甚である。
  母の初盆の日に  著者

著者略歴
猪野健治
1933年(昭和8年)滋賀県に生まれる。
新聞記者・雑誌記者・週刊誌記者等を経て、
1962年以降フリーとなる。
著書に『親分』『全学連各派』(双葉社)、
『児玉誉士夫の虚像と実像』(創魂出版)、
『民衆宗教の実像』(月刊ペン社)、
『電通公害論』『天下り官僚』『買占め黒書』(日新報道)、
『やくざと日本人』(三笠書房)ほか多数。
現住所・埼玉県春日部市大枝89
    武里団地6-1-206

 日本の右翼
昭和48年9月15日発行 ¥970 〒110
著 者 猪野健治
発行者 綿秡幹夫
発行所 株式会社 日新報道
    郵便番号 105
    東京都港区芝栄町9番地
    電話 03(431)9561
    振替 東京140840
(分)0030(製)46267(出)5738
編集人 遠藤留吉
担 当 青山博充
印 刷 上野印刷
製 本 宮田製本所
乱丁・落丁はお取り替えいたします
[日本の右翼]p372-奥付
〔画像〕[日本の右翼]p372-奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年07月12日 08:01 ◆『株主総会百人の侍』
《西山幸輝:昭和維新連盟》
『株主総会百人の侍』松島聖悟:昭和43年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑧雌伏の五年間[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑧雌伏の五年間
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

雌伏の五年間 p133-134
西山幸輝は、四十五年(1970)十二月二十五日、
乃木神社で営まれた右翼有志による
三島・森田追悼会で、
「自分には、この事件について、なにもいう資格はない」
と、参会者に訴えた。

そして、それを機会に、
昭和維新連盟、全愛会議、旭進学園、日本及日本人社などの
役職から一切身を引く決心をした。
右翼運動をやめるというのではなく、
「もう一度、一兵卒にかえって、じっくり勉強したい」
ということらしい。

旭進学園は工業高校(電波技術)で、宮崎にあり、
毎週月曜日に「皇居遥拝」、
生徒手帳の第一ページには
「教育勅語」が刷り込まれているというように、
徹底した「日本精神」をつらぬいている。

西山幸輝の地味な仕事の一つに、
日本政治文化研究所(財団法人)がある。

同研究所は時局問題をテーマとした
一連のパンフレットを発行している。
すでに刊行されているものでは、
王育徳(台湾独立連盟中央委員)の「台湾は愁訴する」、
津久井龍雄・上条末夫(駒沢大講師)の対談「共産主義の虚妄」、
源田実の「アジア・日本防衛の原点」その他、
北方領土問題、教(育)、
[日本の右翼]p132-133
〔画像〕[日本の右翼]p132-133

(北方領土問題、教)育、
尖閣列島問題などをとりあげ、
それらは勉強会の資料に使われている。

その一方で西山は、
日本カーフェリーの付帯事業を請負する太平洋海事など、
いくつかの企業役員をつとめている。

短銃と日本刀に狙われるという騒乱の巷を歩いたのち、
三浦義一と児玉誉士夫氏の庇護のもとで、
政財界に地盤をきずいた
西山幸輝が今後どう変貌するかは、
予測しようもない。

西山には、終戦直後から約五年間、
断続的に消息の知れない部分がある。

「温室」育ちの無謬の「エリート」に魅力がないのは、
そのコースに起伏がなく、
したがってドラマもナゾもないからである。

西山幸輝に魅力があるとすれば、
それは、その黒幕的な行動に、
つねに「秘密」のニオイがつきまとい、
それがアウトロー的かつ
荒けずりな光芒を放つからだといえるかも知れない。
[日本の右翼]p134
〔画像〕[日本の右翼]p134
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑦運動資金の問題点[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑦運動資金の問題点
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

運動資金の問題点 p131-133
西山幸輝の、
こうした政財界の裏側での動きに対する批判は、
もちろん右翼の内部にもある。

が、逆説的にいうならば、
待合政治に象徴される日本の政財界の体質は、
ビジネス以前に「専門的な第三者」の「仲介」または、
「調停」をもってしか解決できない問題を、
政局の推(移の過程、)
[日本の右翼]p130-131
〔画像〕[日本の右翼]p130-131

(政局の推)移の過程、
あるいは企業の内側にあまりにも多くかかえている
――ということの結果でしかない。

大衆的な基盤を持たない右翼は、名目はどうであれ、
政財界からなんらかのかたちで、
資金をあおがざるを得ない。

政財界との資金上の因果関係は、
右翼の政財界に対する批判や行動をにぶらせる。
たとえば公害問題については、
「左翼の宣伝にのるな」と主張する。

水俣病に例をとるなら、
あの運動は、イデオロギーとはなんの関係もない。
チッソ(株)のたれ流す廃液でからだを犯され、
片輪になり、あるいは死んでいった
地元住民の怨念を原点として広がった運動である。

いまも、この本質はかわらない。
「左翼の宣伝にのるな」という前に、
右翼がこの運動の先頭に立てばよいのだ。

現実の政治に不満をもつ一般民衆は、
そうした右翼にそっぽを向く。
かくて、一般民衆と右翼との意識上のズレは、増幅され、
運動は民衆のなかへは定着せず、
浮きあがって孤立化する。

三島由紀夫が既成右翼に絶望し、
ほんの二、三人を除いては
交流を持たなかったのもその故である。

右翼が純粋に右翼であろうとするならば、
政財界筋からの資金にたよらず、
「会員」が「正当な労働」につき、
それぞれの職場で、
「シンパ」や「会員」を獲得し、
運動資金は「会費」と「カンパ」でまかなうという
社会運動の原則に立ちかえる以外にない。
[日本の右翼]p132-133
〔画像〕[日本の右翼]p132-133
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑥政財界の裏面で暗躍[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑥政財界の裏面で暗躍
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

政財界の裏面で暗躍 p128-131
昭和四十一年(1966)、
自民党は、重政誠之元農相(旧河野派)を
政調会長に据えることを内定、
新聞にもその旨報道されたが、
土壇場になって、
中間派の赤城宗徳がかわって就任した。

西山は重政追い落としの影で動いた一人であった。
西山は、重政と共和製糖の菅貞人との黒い関係を
早くからキャッチしていた。

重政が農相時代、記者連が、大臣室をのぞくと、
重政のかわりに菅貞人が大臣椅子に座っている
ということがままあったのである。

当時、砂糖業界は過当競争下にあり、
「原料高の製品安」現象に、
各メーカーは、大幅な赤字を出していた。

そこで糖価の安定をはかる目的で、
政府出資の事業団ができた。

事業団の恩恵を受けるのはメーカーである。
大手十七社に対抗して、
中小八十社をひきいる菅貞人は、
重政農相に、「政治献金」することによって、
巧みに「補助金食い」をやった。

鹿児島県、同経済連と共和製糖が合弁でつくった
南国製糖もその一つで、
「国産ビート糖生産」のうたい文句もどこへやら、
わずか一年三カ月でつぶし、
宮崎にも同様の合弁会社をつくり、
これまた行き詰まった。

一カ所だけならともかく、
こうなると明らかに「補助金食い」である。

菅と重政の「クサイ関係」はやがては、
表面化せずにはいない。
その重政が党三役(政調会長)に入るのは、
自民党にはマイナスだ。

西山は、三浦義一に相談をもち込む。
重政の対抗馬には、
三木派から早川崇が立つことになったが、
「早川が立つならおれも立つ」
と言って重政はおりなかった。

とどのつまりが、
中間派の赤城宗徳におちついたわけであった。

それから三カ月後に、共和製糖事件が発覚した。
重政が政調会長になっていたら問題は、
もっと大きくなったに違いない。

西山は、ホテル・ニュージャパン問題でも調停に動いている。
ニュージャパンは、
斜陽の一途をたどる藤山コンツェルンの
最後のトリデといわれた会社だ(が、)
[日本の右翼]p128-129
〔画像〕[日本の右翼]p128-129

(最後のトリデといわれた会社だ)が、
豪華ホテルのあいつぐオープンで、経営不振をつづけ、
つもった借金が五十四億円、
赤字が四億円に達した。
対する売上げは、約十八億円(四十年の段階)、
金利と償却費だけに売上げの三分の一強を食われていた。

藤山勝彦は、重役の一人、永田雅一に相談をもちかけ、
永田経由で植村経団連会長(当時は副会長)に話が持ち込まれた。
そこへ、中央土地の勝田国夫(韓国名=朴竜九)社長から、
「肩がわりしたい」と話があり、
おりから日韓問題が解決に近づいていたときだったので、
植村会長がなかに入って、
「日韓財界のかけ橋に」ということで、
藤山の持株を中央土地が引きとり、
再建にあたることで話しあいがつき、
勝田新社長が誕生した。

ところが、やがて難問がもちあがる。
経営はパブリック・スペースの拡大や
大小宴会の誘致で上むくが、
勝田側が再建資金を出ししぶったことから、
藤山側との間にトラブルが生じたのである。

藤山は永田経由で、児玉誉士夫氏に調停役を依頼した。
これを受けた、西山は、
ホテル業界制覇に意欲を燃やす、
国際興業の小佐野会長に
「藤山―勝田双方が身を引く」条件で、話を持ち込んだ。
が、調印前夜になって、
勝田側が難色を示し、国際興業は手を引いた。

一時は、この問題にからんで
在日韓国人グループ数百人が動く気配もあったが、
経営の実権は、一応藤山側の手にもどった。

公称六百七十万人の信徒を持つ
真宗本願寺の内紛では、
児玉誉士夫氏とともに大谷光紹新門側につき、
多数派だった革新派(?)の
訓覇信雄宗務総長の追い落としに一役買った。
しかし、この紛争は、なお尾を引いており、
全面的な解決はついていない。

八幡・富士合併の「影の部分」といわれた
松庫商店事件でも、
西山は、「調停役」の一人として登場する。

松庫事件は、
八幡製鉄のクズ鉄部門といわれた同社が行き詰まり、
稲山嘉寛 元八幡社長の従弟にあたる山根一郎が、
融資と引きかえに、松庫にのり込んだときにはじまる。
実権を一切奪われ
ていよく叩き出された松庫の桑原用二郎前社長は、
児玉誉士夫氏らに調停を依頼、
西山は桑原のもっている大量の長崎日報および松庫株を
八幡が七千万円で引きとることで話をまとめた。
[日本の右翼]p130-131
〔画像〕[日本の右翼]p130-131
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑤「独立独行自由自在」[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑤「独立独行自由自在」
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

「独立独行自由自在」 p126-128
三十六年(1961)七月、
興論社から独立し、
手塩にかけた六人を中心に昭和維新連盟を結成する。

綱領には、
①青年の知育と徳育の錬成、
②思想的研鑽と同志的結合、
③国際共産勢力の排撃
 の三点をうたった。

昭和維新連盟は、
パンフ「維新シリーズ」を刊行するかたわら、
傍若無人な行動を展開する。

たとえば、日教組大会では、三日前にのり込み、
会場前に大横幕をめぐらし、
日教組打倒の断食をやったり、
駅頭で待ち受けて地方代表に突入するというように
連合組織の全愛会議や青思会との統一行動を無視して、
もっぱら派手なスタンド・プレイを連続的にやってのけた。

そのかわり、部下にはきびしく、
会則に反する行為をした者は、
容赦なく木刀でぶん殴った。

昭和維新連盟が単独行動をとったのには、
それなりの理由がある。

戦後の右翼運動は、
組織的にも資金的にも左翼に大きく水をあけられた。

きれいごとを並べてみたって、どうにもならない。
そこで何といわれようが、
まず団体の名を売り、行動右翼の存在を大衆に印象づけ、
運動の足がかりをつかむ――それが西山の考え方であった。

当然のことながら、その行き方は、
全愛会議や青思会加盟団体の強い反発をかった。

スタンド・プレイや さきがけ行為は、
統一行動を攪乱する――というわけだ。
事実、それから数年間の全愛会議や青思会の統一行動には、
発煙筒をたいたり、
会場に乱入してビラをまいたりする売名的な行動が続出し、
一般市民のひんしゅくをかった。

あれやこれやで西山は、総スカンをくい、
全愛会議の議長団に選ばれたときも、
一部に反対が強く、
佐郷屋嘉昭代表のとりなしで、
やっと諒承するという一幕があったほどだった。

中学時代から硬派で鳴らした西山にとっては、
一定のワクのなかにおさまっているのは、
性にあわないのかも知れない。

佐郷屋嘉昭も、西山を評して、
「とにかく行動をせねば納得のできない男」(『大亜義盟』)と、
書いている。
[日本の右翼]p126-127
〔画像〕[日本の右翼]p126-127

三十九年(1964)六月には、
中国青年反共救国団(蔣経国主任)の招きで、
足立諭彦(関西護国団)ら十三人と渡台、
蔣政権の要人とアジアの反共運動について懇談した。

が、帰国後、
台湾独立連盟の指導者王育徳(明大教授)を知り、
その思想に共感して運動に協力することになる。

「台湾人による台湾」の実現を目ざす、台湾運動は、
蔣政権がもっとも きらうところである。
中国承認についても、
「反共日本の政治テーゼとは別」という立場から、
「平等互恵の日中関係の打開」を主張し、
中国派、蔣政権派の双方から「敵」あつかいされた。

西山は、自邸の書斎に、
「独立独行自由自在」
という頭山満の書をかざっている。
思いたったら周囲がどうあろうと、
大胆に実行に移さずにはいられない性格が、
結果的に西山に「火中の栗」をひろわせることになるわけだ。
[日本の右翼]p128-129
〔画像〕[日本の右翼]p128-129
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派④ハダカで重光元外相を訪ねる[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派④ハダカで重光元外相を訪ねる
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

ハダカで重光元外相を訪ねる p124-126
西山が社会党から、一転して右翼運動にとび込むのは、
三浦義一を知ってからである。

右翼には左翼からの転向者が多く、
一つの人脈を形成しているほどだが、
戦後、転向したのは
浅沼美知雄(防共新聞主幹=元社会党杉並区議)と
西山くらいのものであろう。

しかし、西山の場合は、社会党に投じたといっても、
「社会主義社会の実現の可能性を確信していたわけではなく、
 既成の価値観が音をたてて崩れていくあの混乱のなかでは、
 なにかに没入せずにはいられなかった。
 そんなとき、松本先生を知った」
と言っているように、
社会党というより、
松本英一や松本治一郎の人間性にひかれて、
運動に入っていったというほうが当っている。

松本治一郎の周辺には、
むしろ右翼イデオローグに属すると見られる人が数多くいた。
苦難の底部を通過してきた松本には、
それだけの包容力があったのであろう。
だが、政党となるとそうはいかない。

とくに左翼政党には官僚的な統制や教条主義がついてまわり、
規律の名のもとに、しばしば個人の情熱をつみとってしまう。
だから、理論よりも人間関係あるいは感性で行動するタイプは、
政党には向かない。

西山は、そのことを考えはじめていた時期に、
関山義人氏を通じて三浦義一を知る。
政財界に多数の知己をもつ三浦は、
GHQによってたたきつぶされた右翼の再建工作や
政財界の影の「策士」として、
多忙な毎日を送っていた。

その傘下には、
大庭勝一(義仲寺史蹟保存会常務理事)、
栗原一夫(評論家)、
関山義人(興論社社主)氏といった切れ者があり、
三浦を助けていた。

西山が関山義人氏の世話になったのもこの時代である。
関山氏は、三浦が国策社を創設した当時の青年部長で、
三浦と上海に渡り、軍の嘱託として活躍、
終戦で抑留ののち二十一年(1946)四月復員、
日本橋室町のライカビル五階に東京産業を設立し、
機械類のブローカーをはじめた。

その後、
二十八年(1953)、政治文化研究所を設立、
三十七年(1962)十月、民間調査局(私立探偵社)を設置し、
三十三年(1958)八月これを解散したのち、
同年(1958)十一月に政治結社興論社をつくった。

西山は、この関山氏にはひとかたならぬ世話を受けている。
西山は興論社幹部として、三浦義一の手足となって動く。

あるとき、三浦に「重光葵のところまで行ってくれ」
と使いを頼まれた。
三浦の要件は、い(つも緊急を要することばかりである。)
[日本の右翼]p124-125
〔画像〕[日本の右翼]p124-125

(三浦の要件は、い)つも緊急を要することばかりである。

おり悪しく、一着しかない背広は、
クリーニングに出したばかりで着ていくものがない。
おまけにワイシャツも、よれよれのヤツしかなかった。
知りあいに借りにいくにも時間がない。
仕方がないので、ハダカの上にオーバーをはおり、
襟を立ててすっとんで行った。

応接室に現われた重光には、
「カゼを引いておりますので……」とことわり、
ゴホン、ゴホンと空セキをやってゴマかしたという。

大久保留次郎を訪ねたときも、同じ手で切り抜けた。
[日本の右翼]p126-127
〔画像〕[日本の右翼]p126-127
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ