吉村法俊

《吉村法俊・山口二矢》大日本愛国党【右翼左翼】昭和35年(1960)

《吉村法俊・山口二矢》大日本愛国党
【右翼左翼】昭和35年(1960)

【右翼左翼】昭和35年(1960)
著者    新聞「日本」社 編
出版者   大日本国民党
出版年月日 1960

大日本愛国党
東京都台東区浅草公園一ノ七
総 裁   赤尾  敏
參 與   浅沼美知雄
青年隊   岡田 尚平
      石川 忠一
      鷺  信次
      中堂 利夫
      加藤 一夫
      中村 芳彦
      吉村 法俊
      渡辺  伸
      山田 十衛
城南支部長 福田  進
      山口 二矢
      村岡 照章
p39【右翼左翼】昭和35年(1960)
〔画像〕p39【右翼左翼】昭和35年(1960)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/39

 全日本愛国団体 主宰者所在(順序不同)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/55
国際反共会議  松本 明重
京都市中京区新町武蔵町下ル

国民運動社   柴田金三郎
京都市伏見区東藪ノ内四六
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/64

 左翼文化人列伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/102
細川チカ子 本名 横田 冬
東京 明治38年12月31日 俳優
東京都港区赤坂新坂町八〇
香蘭女学校卒、民芸
藤山愛一郎外相の妾、子供あり、
細君の資格で外交官社交界に出席して
問題を引き起す、
外相の左翼、共産圏えの機密の抜穴
p141【右翼左翼】昭和35年(1960)
〔画像〕p141【右翼左翼】昭和35年(1960)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/141

昭和34年12月25日 印刷
昭和35年  2月11日 発行
編 纂 新聞「日 本」社
監 修 荒原 朴水
印刷者 丸田 順康
印刷所 日本文教新報社
    東京都新宿区西大久保2ノ278
発行所 大日本国民党
    東京都板橋区常盤台4ノ7
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032566/1/152
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《松本明重》祇園すゑひろ・クラブひめゆり・
日本民主同志会中央執行委員長
【京都年鑑 1969年版】昭和43年(1968)
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吉村法俊:昭和維新連盟最高顧問「人名索引・奥付」[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

吉村法俊:昭和維新連盟最高顧問「人名索引・奥付」
[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

人名索引〈五十音順・姓名下の数字は本文ページ〉 p293-298
吉村法俊 114 129 (本文ページ) p298
昭和二年(1927)、  福岡県生まれ。
三十四年(1959)、  大日本愛国党に入党し青年行動隊長に就任。
三十五年(1960)五月、脱党して中堂利夫、山口二矢と
          全アジア反共青年連盟を結成。
四十六年(1971)四月、昭和維新連盟 最高顧問となる。

猪野健治(いの・けんじ)
1933(昭和8)年、滋賀県に生まれる。
地方紙記者、双葉社等の勤務を経て昭和37年独立。
以来、幅広い執筆活動を続ける。
現在、日本ジャーナリスト専門学校専任講師。
著書:主な著書・編著者・共著者として、
『編集・取材の知識100』(みき書房)
『雑誌記者入門』(みき書房)
『雑誌編集者』(実務教育出版)
『占領下の日本』(『証言の昭和史』第6巻、学研)
『戦後水滸伝』(現代評論社)
『現代若者コトバ事典』(日本経済評論社)
『右翼民族派総覧』(21世紀書院)など多数。

叛骨の過激人間
評伝・赤尾 敏
定価一五〇〇円(本体一四五六円)
平成三年五月二五日  一版一刷
著 者 猪野健治
発行者 小倉一春
発行所 オール出版株式会社
 〒一〇二 東京都千代田区九段北三ノ二ノ四
 TEL  〇三(三二三四)〇九七一
 振 替  東京7―147137
印刷所 (株)CTE
製本所 田中製本印刷(株)
乱丁・落丁本はお取替えいたします
[評伝・赤尾敏]p298-奥付
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p298-奥付
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日 14:21 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》
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吉村法俊と山口二矢[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

吉村法俊と山口二矢[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

二矢は、愛国党に入党して半年足らずの間に、
その過激な行動から十回以上も逮捕されていた。

原水爆禁止世界大会(広島)の会場に、
愛国党の仲間と宣伝カーで突っ込んだり、
石橋湛山訪中に反対して自宅に数人で押しかけ、
ビラを撒き、警官とわたりあったり、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)帰還反対デモで
警官を殴ったり……といった過激ぶりであった。

二矢は昭和三十四年(1959)十二月に、
東京家庭裁判所で保護観察四年に処せられた。

赤尾はそのとき、
担当の検事から呼び出しを受けた。

「殴ったとか蹴とばしたとかいう事件がたまっているのを、
 その検事が保留にしておったんだ。
 取り調べてみると山口君は無邪気で純情でしょう。
 こんな感受性の強い子を少年院に入れてしまったら、
 かえって不良になってしまうというので、
 留めていたと言うんだ。
 でも、
 『これ以上こういうのが続くと
  少年院に行かなくちゃならなくなる。
  赤尾さん、
  責任を持ってあなたが始終そばにつけておいてくれ、
  一人で離しておいちゃダメだ』
 といわれてね」

しかし二矢は、翌年(1960)の五月末には、
吉村法俊、中堂利夫の二人と共に愛国党を脱党する。
三人は愛国党本部の離れの部屋に一緒に寝起きをする仲だった。

吉村はカネ集めの才覚があり、
中堂は文章の才がある、
二矢よりは年長の青年だった。

愛国党員の日課であるビラ貼りに端を発した
ちょっとした争いが、
いつの間にか赤尾と吉村の対立になり、
吉村は愛国党を出て行くと宣言した。
その彼に、二矢と中堂も同調したのだった。

この年の初めごろから、
二矢は、愛国党のやり方は生ぬるく、
日本を救うことができない、
と思うようになっていた。

浅沼事件  p115-124
愛国党を脱党した山口二矢は、
一緒に飛び出した吉村法俊、中堂利夫の二人と共に
防共挺身隊の福田進の家に泊めてもらい、
銀座・鳩居堂二階に借りた事務所に通うようになった。

吉村、中堂の二人は新団体結成のための資金集めや
新聞発行の準備などで飛び回っていたが、
二矢には決まった仕事がなく、
事務所で留守番をしている毎日だった。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p114-115
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p114-115

 ―略―
昭和三十五年七月一日に、
吉村、中堂が準備に奔走した新団体、
全アジア反共青年連盟が結成された。

二矢もこれに加わったが、
彼には当分やることはなさそうだった。

そこで、夏の間一カ月半ほど、
右翼運動家の杉本広義
(赤尾敏夫人、富美江の弟、山田十衛の義兄)
が山梨県の北巨摩郡にもっている牧場で働いた。
そして、杉本の勧めで、大東文化大学の編入試験を受け、
九月中旬から大学に通うようになった。

もうこのころには、
二矢には吉村や中堂と一緒に運動をする気持はなく、
左翼の指導者を一人で倒そうという
ひそかな決心が固まっていた。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p116-117
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p116-117

[評伝・赤尾敏]p118-119
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p118-119

 ―略―
二矢は警察の取り調べでは、
「私の人生観は大義に生きることです」
「自分の信念に基づいて行った行動が
 たとえ現在の社会では受け入れられないものでも、
 またいかに罰せられようとも、
 私は悩むところも恥ずるところもないと存じます」
と述べ、
浅沼委員長刺殺は
全く自分一人の信念で決行したと供述している。

愛国党にいたときに、
左翼の指導者を倒すような話は出なかったかとの質問には、
こう答えている。
「いつだったか記憶にありませんが、
 赤尾先生、吉村さんや中堂さん他の党員が、
 『左翼を倒さなければならない。
  浅沼や野坂、小林を殺さなければダメだ』
  ※社会党 浅沼稲次郎 委員長
   共産党 野坂参三  議 長
   日教組 小林 武  委員長
 などと話していたことがありました。
 私もよく口にしましたが、
 これは本当に殺すというものではなく、
 右翼が二人以上集まればいつも出る話で、
 実行の伴わないものでした」
[評伝・赤尾敏]p120-121
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p120-121

[評伝・赤尾敏]p122-123
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p122-123

 ―略―
赤尾は死の三カ月前、
二矢についてこんなふうに語った。
「普通、共産主義に反対なら、
 共産党の委員長をやるのが本当でしょう。
 それを社会党の委員長を狙うなんて、
 十六、七ぐらいの青年が気がつくこっちゃないんだ。
 これはぼくのイデオロギーなんだ。
 それを、山口君は若い青年だから思い詰めてやっちゃった。
 だからあの事件は、思想的にはぼくの影響ですよ。

 山口君が愛国党を出たのは、
 一部には、赤尾に愛想をつかしたんだと、
 悪口を言う奴がいるが、そうじゃないんです。

 山口君は、一緒に出て行った
 中堂、吉村の二人に引っ張り出されたんですよ。

 山口君は、出てから一人で何度かうちへ来たの。
 それでぼくは
 『君は何も知らんで連れ出されたんだから、
  いつでも戻って来ていいよ』
 と言った。
 ところが、三人でうちを出るときに、
 一緒に運動をやると約束したので、
 山口君だけ戻ると裏切りになるでしょう。
 青年だから、純情だから、戻れなかったんですよ」

赤尾は何度も、二矢のことを
「青年だから」という言葉で表現した。

それは、赤尾にとって最も大切な「純粋」
という言葉と同義語であるようだった。

小森一孝と嶋中事件  p125-133
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p124-125
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p124-125


結局、事件は小森一孝の単独犯行ということになり、
小森は懲役十五年の判決を受け、
昭和三十八年(1963)八月に千葉刑務所に服役した。
赤尾自身についても、浅沼、嶋中両事件関連で起訴され、
三十八年(1963)に懲役八月の刑が確定した。
赤尾の起訴事実は次の通りだった。

① ―略―
吉村法俊 愛国党青年行動隊長と共謀、
三十五年(1960)一月二十四日、
千代田区九段会館で開かれた民社党結成大会を妨害するため、
会場内で発煙筒をたき、
ビラ数百枚をばらまいた威力業務妨害。
③ ―略―
Y[評伝・赤尾敏]p128-129
〔画像〕Y[評伝・赤尾敏]p128-129
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山口二矢との出会い[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

山口二矢との出会い[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年

評伝・赤尾 敏  猪野健治
叛骨の過激人間
  わが国右翼運動の
 栄枯盛衰と不可分に生きた
 “数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
   オール出版
[評伝・赤尾敏]表紙
〔画像〕[評伝・赤尾敏]表紙

山口二矢との出会い   p110-114
平成元年(1989)十一月二日、
赤尾敏は入院中の都立大塚病院を抜け出して、
数寄屋橋の街頭に立った。
この日は、
社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺したあと自決した、
山口二矢少年の二十九回目の命日に当たっていた。

〈憂国烈士山口二矢君〉の追悼と
〈国賊社会党撲滅〉の演説をするために、
赤尾は駆けつけたのだった。

演説のあと赤尾は、愛国党関係者十数人と共に、
二矢の墓がある東京・青山の梅窓院に参った。

九十歳で入院中の身といえ、
赤尾には身体をいたわるという考えはなかった。
病院にいると退屈で仕方がなかった。
それに、山口少年の追悼は、
きちんとやらねばという思いがあった。

大日本愛国党本部の聖堂の祭壇には、
二矢のデスマスクが置かれ、
部屋の後方の壁には学生服姿のメガネをかけた
二矢の大きな写真が飾られていた。

まだ幼さを残してはいるが、
一本気な激しい性格が伝わってくる。

赤尾は二矢のことを「純情で過激な性格だった」と評した。
純真無垢な青年への思い入れが強い赤尾は、
九十歳で病身になったこのとき、
死んだ二矢を自分に最も近い存在と感じていたのかもしれない。

愛国党の歴史の中で、
山口二矢の浅沼事件と、
翌年に起きた小森一孝の嶋中事件は、
特筆すべき重要事件である。

ともに元愛国党員だった十七歳の少年が、
自分の信念のためにテロに走り、
二人が死亡した、
赤尾は当時、
二人を犯行に至らしめた黒幕の疑いを受け、
警視庁の厳しい取り調べを受けている。

山口二矢が愛国党に入党したのは、
昭和三十四年(1959)五月、参院選の真っ只中だった。

赤尾は東京地方区から、
愛国党参与の浅沼美知雄は全国区から立候補していた。
六月二日の開票で、二人とも当選こそしなかったが、
赤尾は三万六千票を集め、
浅沼にも全国の市町村でほとんど漏れなく票が入った。
愛国党の信者が各地に根付いていた証拠だった。
演説会もかなりの人気だった。
 ―略―
[評伝・赤尾敏]p110-111
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p110-111

[評伝・赤尾敏]p112-113
〔画像〕[評伝・赤尾敏]p112-113
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月23日 04:17 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
[デスマスク]『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
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