吉弘茂義(吉弘白眼)

《緒方正清:舊氏名 辰己正清》『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

《緒方正清:舊氏名 辰己正清》『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
第4版 [大正4(1915)年1月]
緖方正清 (男性)
位階・勲等・功級 正七位
爵位・身分・家柄 大阪府士族
職業       醫學博士、緖方婦人科病院長、大阪化學研究所長
生年月日     元治元年七月二十一日 (1864)
親名・続柄    中村恒藏の二男
家族       妻 千重 明二一、二生、養父拙齋長女
養子       祐將 明二〇、五生、
         養女シナ夫、鳥取、平、伊東彌壽九郞三男
養女       シナ 明二五、一生、
         養子祐將妻、鳥取、平、福井久右衛門姪
記述部分
君は愛媛縣平民中村恒藏の二男にして
元治元年七月二十一日を以て生る
曩に同縣平民 辰巳家を相續せしも故ありて廢家し
明治二十年六月先代拙齊の養子となり
三十一年四月家督を相續せり
君初め漢醫となり刀圭の術に從ひしも
當時海外の文物制度漸く輸入し社會の風潮又
草根木皮の調劑の迂なるを悟り
飜然志を立て高松醫學校に入り優等を以て卒業し後
大學醫學部別科に入り明治二十年卒業す
同二十二年獨乙ヱナ大學に遊ひ又
フライブルク大學に入り研究多年
同二十四年ドクトルの學位を受く後
ストラスブルヒ大學伯林大學維納府大學等に學ひ
婦人科の薀奥を極め
同二十五年歸朝し直に緖方病院に入り産科婦人科長となる
同二十六年醫術開業試驗委員を命せられ
現時尚ほ其任にあり又
二十七年二月内務省産婆開業試驗委員を囑托せらる
同三十五年緖方婦人科病院を開き自ら院長となり
大阪化學硏究所長を兼ぬ
同三十八年醫學博士の學位を受け著者亦頗る多し
養弟潤三(明一六、九生)は京都府平民井口又五郞の養子となり
養弟平吉(同四、五生)は其妻子と共に分家し
養妹重(同二四、一一生)も亦分家せり
住所       大阪、東、今橋三ノ一八
電話番号     本一九八四
名古屋大学大学院法学研究科
〒464-8601 名古屋市千種区不老町 TEL:052-788-6236
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月11日 04:10 ◆小野安子 吉弘茂義(吉弘白眼)
《緒方正淸君》明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年
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《緒方正清:舊氏名 辰己正清》医術開業試験委員大西克知以下二拾名叙位ノ件

《緒方正清:舊氏名 辰己正清》医術開業試験委員大西克知以下二拾名叙位ノ件

立案 明治三十六年三月二十六日
医術開業試験委員 従六位 医学博士 大西克知以下二十名
敘位ノ件
0162-01
〔画像〕0162-01

医術開業試験委員 従六位 医学博士大西克知以下二十名敘位ノ件
右謹テ奏ス
 明治三十六年三月十日 内閣総理大臣伯爵桂太郎
0162-02
〔画像〕0162-02

 明治三十六年三月十日
医術開業試験委員 従六位医学博士 大西克知以下二拾名
叙位進階内則第六条ニ依リ叙位ノ件
    従六位医学博士 大西克知
叙正六位
    正七位     新宮凉亭
    同       斎藤仙也
    同       西村輔三
叙従六位
    従七位勲六等  長谷川順次郎
    同       新井春次郎
    勲六等     森篤次郎
0162-03
〔画像〕0162-03

※同
0162-04
〔画像〕0162-04

            浦島堅吉
            魚住完治
            益田広岱
            緒方正清
            渡邉晋三
            伊沢信平
            緒方収二郎
            伊庭秀栄
            佐々倉永三郎
            寺田織尾
            土岐文二郎
            秋元隆次郎
            橋田茂重
叙正七位
0162-05
〔画像〕0162-05

 ―略―
右多年奉職勤労不尠者ニ付 叙位進階内則第六條ニ依リ
各頭書ノ通 位一級進メラレ度 謹テ奏ス
 明治丗六年一月十六日
  内務大臣 男爵 内海忠勝
0162-06
〔画像〕0162-06

 ―略―
右多年奉職勤労不尠者ニ付 叙位進階内則第六條ニ依リ
各頭書ノ通 位一級進メラレ度 謹テ奏ス
 明治丗六年一月十六日
  内務大臣 男爵 内海忠勝
0162-07
〔画像〕0162-07

氏  名 緒方正清
府縣族籍 大阪府士族  舊氏名 辰己正清 ※別稿に記載
生年月日 元治元年七月廿一日  産地 香川縣綾歌郡瑞岡村
原  籍 大阪市東區今橋三丁目番外三番屋敷
現住所  仝上
年号
明治十七年六月     帝國醫科大學別課理科試問ニ及第ス
明治二十年五月丗日   帝國医科大學別課卒業
     六月     私立緒方病院ニ就職ス
     九月     浴療新論著述出版ス
明治廿二年ヨリ二十三年 獨逸國「イヱナ大學ニ於テ産科婦人科學研究
 ―略―
0162-28
〔画像〕0162-28

0162-29
〔画像〕0162-29
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件名標題(日本語) 医術開業試験委員医学博士大西克知外十九名叙位ノ件
階層        国立公文書館 内閣 叙位裁可書 明治
          明治36年 叙位裁可書・明治三十六年・叙位巻三
レファレンスコード A10110120300
言語        日本語
作成者名称(日本語)内閣総理大臣 伯爵 桂太郎/
          /内務大臣 男爵 内海忠勝
記述単位の年代域  明治36年(1903 - 1903)
資料作成年月日   明治36年1月16日~
          明治36年3月26日(1903/01/16 - 1903/03/26)
画像数 47
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月11日 04:10 ◆小野安子 吉弘茂義(吉弘白眼)
《緒方正淸君》明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年
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《吉弘茂喜》《吉弘茂義:吉弘白眼》【人事興信録. 第8版(昭和3年)】

《吉弘茂喜》《吉弘茂義:吉弘白眼》【人事興信録. 第8版(昭和3年)】

【人事興信録. 第8版(昭和3年)】
《吉弘茂喜》 p1740/1789
 關西日報社長
 大阪日日新聞社長
 大阪府士族
 妻  トメ 明治 三年五月生、大阪、飯田勘藏 妹
 男  基彦 明治二八年一月生
 婦  琴代 明治三一年五月生、二男 基彦 妻、
       岡山 赤木金三郎 三女
 男  正之 明治三一年九月生
 男  靖一 明治三五年一月生
 女  淸子 明治三六年一月生
 女  光子 明治四一年九月生
 養子 ふじ 明治四〇年八月生、高田友治郎 三女
君は大阪府士族 吉弘恒男の弟にして
明治三年十一月を以て生れ
大正二年選定により家督を相續す
夙に操觚界に入り
大阪日報を經營し名古屋毎日新聞社長を經て
現時 關西日報・大阪日日新聞各社長たり
家族は尚
六男 七郎(大正元年一二月生)
孫  珪子(大正一〇年一月生、二男 基彦 長女)
孫  明子(大正一二年一月生、二男 基彦 二女)
孫  尚子(大正一四年九月生、二男 基彦 三女)あり
甥  高明(明治三三年二月生)は
   大阪府人 藤木重次郎の養子となれり
(大阪、北、堂島濱通一ノ五五)
 參照=藤木重次郎※田中安治郎の項
《吉弘茂喜》【人事興信録. 第8版(昭和3年)】
〔画像〕《吉弘茂喜》【人事興信録. 第8版(昭和3年)】

【人事興信録. 9版(昭和6年)】
《吉弘茂喜》 p1702/1755
 關西日報社長
 大阪日日新聞社長
 大阪府士族
 妻  トメ 明治 三年五月生、大阪、飯田勘藏 妹
 男  基彦 明治二八年一月生
 婦  琴代 明治三一年五月生、二男 基彦 妻、
       岡山 赤木金三郎 三女
 女  政子 明治三〇年五月生
 男  正之 明治三一年九月生
 男  靖一 明治三五年一月生
 女  淸子 明治三六年一月生
君は大阪府士族 吉弘春海の三男にして
明治三年十一月を以て生れ
大正二年兄恒男の後を承けて家督を相續す
夙に操觚界に入り
大阪日報を經營し
現時 關西日報・大阪日日新聞各社長たり
家族は尚
孫  珪子(大正一〇年一月生、二男 基彦 長女)
孫  明子(大正一二年一月生、二男 基彦 二女)
孫  尚子(大正一四年九月生、二男 基彦 三女)あり
三女 光子(明治四一年九月生)は大阪府人 飯田ウノに
六男 七郎(大正元年一二月生)は大阪府人 田中ヒデに
甥  高明(明治三三年二月生)は
   大阪府人 藤木重次郎に各養子となり
養子 タケ(明治三三年二月生、東京、石塚トミ養子)は
   大阪府人 梅鉢安太郎 二男 安里に嫁せり
(大阪、北、北濱四ノ七 關西日報社内)
 參照=梅鉢安太郎、藤木重次郎※田中安治郎の項

【人事興信録. 10版(昭和9年) 下卷】
《吉弘茂喜》 p846/902
 關西日報社長
 大阪府士族
 妻  トメ 明治 三年五月生、大阪、飯田勘藏 妹
 男  基彦 明治二八年一月生
 婦  琴代 明治三一年五月生、二男 基彦 妻、
       岡山 赤木金三郎 三女
 女  政子 明治三〇年五月生
 男  正之 明治三一年九月生
 男  靖一 明治三五年一月生
 女  淸子 明治三六年一月生
君は大阪府士族 吉弘春海の三男にして
明治三年十一月十六日を以て生れ
大正二年兄恒男の後を承けて家督を相續す
夙に操觚界に入り
大阪日報を經營し
現時 關西日報社長たり
家族は尚
孫  珪子(大正一〇年一月生、二男 基彦 長女)
孫  明子(大正一二年一月生、二男 基彦 二女)
孫  尚子(大正一四年九月生、二男 基彦 三女)あり
三女 光子(明治四一年九月生)は大阪府人 飯田ウノに
六男 七郎(大正元年一二月生)は大阪府人 田中ヒデに
甥  高明(明治三三年二月生)は
   大阪府人 藤木重次郎に各養子となり
養子 タケ(明治三三年二月生、東京、石塚トミ養子)は
   大阪府人 梅鉢安太郎 二男 安里に嫁せり
(大阪府泉北郡濱寺男公園内)
(電話 濱寺二三)
 參照=梅鉢安太郎、藤木重次郎の項
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《吉弘茂義:吉弘白眼》【昭和新聞名家録. 昭和5年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/25403607.html
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《吉弘茂義:吉弘白眼》【昭和新聞名家録. 昭和5年】

《吉弘茂義:吉弘白眼》【昭和新聞名家録. 昭和5年】

【昭和新聞名家録. 昭和5年】
《吉弘茂義》 p92/287
 關西日報社社長、大阪日日新聞社社長
關西言論界の怪物と稱された大阪日報に
社長として夙に盛名を馳せた。
同紙廢刊の明治四十五年七月帝國新聞を讓受け、
八月一日大阪日日新聞と改題して、
大革新を施し紙面を改善し内容を充實して以來
急速の發展を遂げ
同紙の言論は關西新聞界の權威とせられ
獨特にして潑溂の氣溢るゝ社會記事と共に刮目さるゝに至つた。
又大正三年十一月
君は突如として曩の大阪日報に代るべき關西日報を發刊し
新進氣鋭を以て一生面を開拓鬱勃たる覇氣紙面に横溢して
痛快なる言論と放膽なる報道は
當年の大阪日報に髣髴たる意氣を示した。
君は社長として兩社の經營に天禀の才を揮つたが、
頃來健康勝れざるやに傳へられ、
業界に惜まれてゐる。
(現在)大阪市東區北濱四ノ七 其社
昭和五年十二月 二十 日印刷
昭和五年十二月二十五日發行
定價金拾圓
編纂兼 東京市京橋區銀座西三ノ三
發行者 永代靜雄
印刷者 東京市牛込區矢來町六二
    上田榮吉
印刷所 東京市牛込區矢來町六二
    上田泰文堂
發行所 東京市京橋區銀座西三ノ三
    新聞研究所
    電話 京橋 二二二五番
    振替 東京五四五七八番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
緒方正淸氏と小野安子【青眼白眼】
《吉弘茂義:吉弘白眼》明治39年
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吉弘茂義、高橋健三【堺利彦伝】大正15年

吉弘茂義、高橋健三【堺利彦伝】大正15年

【堺利彦伝】大正15年
 四 吉弘茂義、高橋健三 p90-92/182
そうする中、私等の桃谷時代が過ぎて、曾根崎北野時代が來た。
天囚〔西村天囚〕氏が曾根崎に移り、
欠伸〔本吉欠伸〕もすぐその側に移つた。
霞亭〔渡邊霞亭〕氏、
紫芳〔加藤紫芳〕氏等も皆な其の邊に居た。
そして私も北野の長家に住んだ。
北野にはその頃、『鶴の茶屋』だの、
『九階』だのといふ遊園地があつたりして、
面白い郊外の土地だつた。

その『九階』の、枝垂柳の多い園の内に
吉弘茂義(白眼)君が住んでゐた。
吉弘君は『文士』でなかつたが、
新聞だの雜誌だのの計畫屋で、
兄だの私だのとは自然懇意になつてゐた。

色の白い、奇麗な痩せぎすな小男でありながら、
吉弘君には何となく親分肌があつた。
ちよかちよかした才子の樣で、
而も、大膽な、機敏な、親切な、熱心な所があつた。

自分が親と妻子とを養ひかねて居りながら、
困つた文士連を庇護するといふ態度を忘れなかつた。

私とは近所でもあり、同年でもあり、
直ぐに大の仲好しになつてしまつた。

その頃わたしは、
春先になつて羽織といふものを持つてゐなかつたが、
吉弘君の只一枚の飛白の袷羽織が、
少々肩行は合はないながら、
屢々私の背にも着られてゐた。

つまり吉弘君と私と、
二人で一枚の羽織を使用してゐたのであつた。

吉弘君と私とは又、
米の使用に於いても常に共通であつた。
卽ち、吉弘君が米の一斗も買つて居れば、
私が直ぐに行つて其の中から二三升も借りて來る。

そうかと思ふと又、
私の家に米が五升しかない時、
吉弘君が來て其の中から一二升も持つて行くのであつた。
(この吉弘君が今は大阪に有名な新聞社長であり、大紳士である。)

右は多分、
明治廿七年(私の廿五歳)の春だつたと思ふが、
その時、私は計らずも新聞記者の地位を得た。
今度も矢張天囚氏の世話だつた。
而も天囚氏は其の話をまとめてくれて、
いよいよ明日、
社長の藪廣光氏に會ひに行けと云つてくれたと同時に、
紬の袷羽織を一枚、
私の家に持たせてよこしてくれた
それは私がねだつたわけでも何でもないが、
吉弘君との共同使用物以外、
私が羽織といふものを持つてゐない事を
天囚氏が知つてゐて、
その前晩、奥さんを古着屋にやつて、
わざわざ私の爲に買はせてくれたのであつた。

この新聞は『新浪華』と云つて、
前に記した新聞の後を繼いで、
其の同じ家屋機械を使用したものではあつたが、
經營者は全く別であつた。
社長の藪廣光氏は熊本人で、
佐々友房氏の子分であつた。
つまり『新浪華』は國民協會の機關誌であつた。
p90【堺利彦伝】
〔画像〕p90【堺利彦伝】
大正十五年九月一日印刷
大正十五年九月三日發行
    堺利彦傳
    定價 壹圓九拾錢
著 者 堺 利彦
發行者 山本 美
    東京市芝區愛宕下町一丁目一番地
印刷者 松井 勇
    東京市芝區愛宕町二丁目一番地
發行社 改造社
    東京市芝區愛宕下町一丁目一番地
    振替口座 東京八四〇二番
    電  話 銀座四五五八番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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緒方正淸氏と小野安子【青眼白眼】《吉弘茂義:吉弘白眼》明治39年

緒方正淸氏と小野安子【青眼白眼】
《吉弘茂義:吉弘白眼》明治39年

【青眼白眼】吉弘白眼 明治39年1月1日発行
  緒方正淸氏と小野安子 p138-140/164
光線の透りよき診察室、
背を南に、豊頬胖體、
白哲にして光澤ある顔面に、
漆黑にして極めて麗はしき鬚髯を蓄へつゝ、
百以上の來診患者を左も無雜作氣に一々按診するは
ドクトル緒方正淸君也、
君は身体の強健なると共に
頗る勤勉勵精なる人にして、
如何なる劇忙にも打克つて、
殆ど無休息の勞苦をも辭せざる勇氣を有せり。
君は此點に於て甚しく普通人に超えたり。

左れど予は、
君を推重するに於て如上の一事を其中に數へざる可し、
予の君を推重する所以は君が學者たるに非ず
病院長たるが故に非ず、
又た名門の人、
世才の人たるにあらずして、
實に君が「腕」の人たるに依つて然る也、
「腕」とは何ぞや、
「開腹術に於ける君の伎倆是れ也、
開腹術は必しも醫學上甚だ困難なるものに非ざるも、
而かも君に依つてなされたらむには、
百得あつて一失なく、
恰かも文惠君の爲めに牛を解く
包丁氏の如きものあるを見る、
所謂、手之所觸、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、
■然嚮然、奏刀■然、莫不中音、合於桑林之舞、
乃中經骨之會」者あり、
文惠君たらざるも、
誰か「禧、善哉伎蓋至此乎」の嘆なからむ耶、
於是予は、
開腹術に於ける君の伎倆は實に日本第一なりと
斷言するに躊躇せざるもの也。

予は君に阿(おもね)るを好まず、
予は君が品藻、
人格の上に於て緒方収二郎君に如かざるを知る、
而かも尚ほ銈次郎君の上にあり、
君の品藻、人格は銈次郎君の上にあつて
而して逴く収二郎君に及ばざるもの、
収二郎君は君子人也、
政治家的野心もなく事業家的商賣氣もなき
純然たる學者肌の君子人にして、
品格、人望の點に於ては殆んど匹儔を見ず、
緒方家は實に収二郎君あるに依つて、
其名門たるを辱めずと云(いゝ)つべきなり。

君は成功に近きたる人也、
君の成功は名門「緒方」の名もあるべし、
其のドクトルの看板にもあるべし
又た洋行、駄法螺若くは圓轉滑脱、
頗る辭令に巧みなる君の社交術にもあるべしと雖も、
ソは蓋し些■の要素にして
君の成功は君の「腕」にある也、
君は腕に依つて成功したる人也、
予は君に阿(おもね)る者にあらざるも、
品藻、人格の外にあつて、
遂に君の「腕」を閑却する能はず、
予は唯だ君の「腕」を知るに依
つて推重するもの也、
君は「腕」の人也、
君の「腕」は殆んど天分也、
君は學者たるべく餘りに利口に、
醫家たるべく餘りに野心あり、
君にして若(もし)「腕」の人たるなからしめば、
君の君たる所以、
それ何れにか存せむ、
固より君が多少の學者たるは、予よく是を知る、
ドクトルタル、亦よく是を知る、
されど、
ヨリ以上に於て君が「腕」の人たるを認めたり、
君に欽ず可からざるものは之れあらむ、
而かも學ぶべきは君の「腕」也、
君も亦た當世の人物なるかな。

予は餘に君を語るに過ぎたり、
予は尚ほ君の診察室に、
君と相對して事を見つゝある、
粗服を着けたる看護婦らしき妙齡の女子、
小野安子の半面を記述せざる可らず、
安子は土佐の人、
昨年後期の醫術開業試驗に優等を以て及第したる女醫也、 ※明治36年11月
予は常に安子を見るに當りて
何となく畏敬の念を萌(きざ)すを禁め得ざりし也、
何となれば、
彼は予が同國の先輩たる梓先生小野君の孤兒なるに依つて。

小野梓先生の名は、
日本の國民として尚ほその記臆に新らしきものあるべし、
先生は早稻田專門學校の創立者として、
明治の學者として、
識見家として、
雄辯家として、
殆ど第一期文明時代を代表しつゝありし人也、
其聲望は伯大隈と伯仲し、
眞の國士の面影は、
先生に依つて認められたる位ゐ也、
先生をして今日にあらしむ、
好箇の文部大臣也、
否適當の外務大臣也、
先生は其識見、學問、人物に於て
遙に犬養、尾崎君の上にあり
大隈伯が深く先生に信頼する處ありたる、
亦た所以なきに非ず、
思ふに先生にして今日あらしめば
大臣の椅子は幾度か其の選ぶ所に依つて
先生を迎へたりしよ、

噫(あゝ)、今や卽ち亡し、
予は伯大隈のために惜むに非ずして、
其の文部省廢止の説ある今日、
其の外交の最も紛糾を極むる今日に於て、
識見彼れが如く、
品格彼れが如き、
一代の國士を亡ひたるに依つて、
惜み且つ悲むの念
最も切なるもの也、

安子は斯の如き大人物を其父として
生れたるの光榮を有する人也、
而して流落、
來つて緒方君の門に遊び
予の所謂緒方君の「腕」を學ばむとして
刻苦しつゝあり、
意氣酷だ愛すべがらず耶。

聞くが如くむば、
大隈家は深き同情を安子に表し、
また叔父小野義眞君は安子をして
緒方君に依つて名をなさしめむと云ふ、
左のあるべき事也、
安子は予の問ふに答て曰く
 別して伯夫人はお優しい方で、
 種々御親切にして下さいます、
 東京に行けば私も必らずお訪ねいたします、
 此程はまた、
 早稻田專門學校を大學の制度にしたと云ふので、
 紀念のためとて貴き品を頂戴しました、と
是れあるかな、
伯爵夫人は小野先生の遺子を閑却せざるに於て、
その光あるを証據立てぬ。

安子齡二十一、
其前途極めて有望也、
予ひそかに彼れの人物を見るに
温籍の中に強健の意志を偶し
肥滿したる身体、
凹凸ある輪畫の、
寧ろ美ならざる容貌にも
一種の天才は穗の見えて、
六分の多血質と四分の神經質とを加味し、
流石に名士の遺子たるの面影を存しつ、
その緊りある口元に無上の愛嬌を湛へ、
其光りある眼に淸高なる情味を宿して、
親み易きところにも狎れ難き威嚴を備へたり、

予は■的の男也
予は男子のハイカラーを惡むと共に
女子の生意氣を憎むに於て假さゞる者也、
予は名士の遺子に對して
禮に非ざるを知りつゝも、
予は先づ彼に生意氣の分子の有無を認めむとして甚しく苦痛しぬ、
而して遂に見出すこと能はざりき、
彼は滔々たる學才ある女子のソレの如く、
生意氣なる處を有せざる也、
於是予は梓先生に私淑するの心を以て
君の敬重せむと欲したりし也。

予は安子に於て世才なきを認めぬ、
世才は或點に於て小成すべし、
而かも大成を期す可らず、
予は世才なきに依つて囑望するところ極めて多し、

世才ある人何ぞ限らむ、
緒方君の門
福井、萩原二女醫の如き ※下記:福井繁子
寧ろ世才に依つて世渡りに巧みなる人也、

予は安子をして世才の人たらしむるを欲せざるもの、

予は今少しく其の大ならむを希望するもの也、
彼れは讀書に於て最も嗜好を充されたり、
緒方君の「腕」を學ぶと共に
有らゆる醫書を研究するのみならず、
如今專ら佛蘭西學を修業せり、
また書を巧みにして其筆蹟を見る、
流麗雅健予をして舌を巻かしめぬ、
若夫れ其辯舌に至つては頗る快辣にして
人を壓するものあり、
予一日緒方君の講堂に、
彼が學生に書を講ずるを聞く、
詞藻豊富にして言議甚だ明徹、
語尾に最も力あり、
端嚴なる姿勢、
快辣なる辯舌は、
その熱心と相俟つて人をして感動せしむるものあり、
予は彼れの講義を聞くに當て
髣髴として梓先生の浮動するが如き心地し、
愴然として一種の感に打たれぬ、
予は思はず暗涙に咽びたり
予は面を俺ふてソの室を退きぬ。

彼は鷹揚にして拘々たる處なし、
大器たるに庶幾し、
予は友人として彼を有するを光榮とするもの也
予は彼れを語つて未だ悉さゞるを知る、
而かも唯だ彼れの一面を觀察するに於て、
甚しく誤謬に陥(おちゐ)らざりしを自信する者也。
明治三十八年十二月二十九日印刷
明治三十九年 一月  一日發行
(正價金壹圓)
著 者 吉弘白眼
發行兼 中野龜吉
印刷者 大阪市東區備後町四丁目百五十九番地
印刷所 大阪通信社
    大阪市北區堂島濵一丁目百九十番地
發兌元 吉岡寶文舘

【妊婦の薔薇園】明治31年2月
明治三十一年一月卅一日印刷
明治三十一年二月 三 日發行
著作兼 福井繁子
發行者 大阪市東區今橋三丁目三番邸寄留
印刷者 松本貞三
    大阪市東區本町一丁目三十番邸
    大阪國文社社員
發行所 緒方病院助産婦學會
    大阪市東區今橋三丁目三番邸
賣捌所 丸善株式會社書店
    東京市日本橋區通三丁目十四番邸
同   仝 出張所
    大阪市東區心齋橋筋北久寶寺町四丁目
印刷所 株式會社 大阪國文社
    大阪市東區本町一丁目三十番邸
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月01日 11:29 ◆小野安子
[小野安(安子)] 《女医への道》-01
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吉弘茂義(吉弘白眼)発行 直言直筆 名士公評 発賣頒布ヲ禁止:明治22年

吉弘茂義(吉弘白眼)発行 直言直筆 名士公評 発賣頒布ヲ禁止:明治22年

八月八日
名士公評ト題スル出版物發賣頒布ヲ禁止ス
  内務省告示
 大阪府下北區堂島濱通一町目二百五十九番地
 吉弘茂義発行 直言直筆 名士公評ト題スル出版物ハ
 治安ニ妨害アルモノト認メ
 発賣頒布ヲ禁止ス
 二十二年八月八日
A15111705500-名士公評ト題スル
〔画像〕A15111705500
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レファレンスコード A15111705500
件名 名士公評ト題スル出版物発売頒布ヲ禁止ス
   国立公文書館 内閣 公文類聚 明治
   第13編・明治22年
   公文類聚・第十三編・明治二十二年・第八巻・文書・出版・
   公文書式・記録志表・印璽・受付進献
【 画像数 】1
作成年月日 明治22年8月8日
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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十一月三十日
直言直筆名士公評ト題スル出版物 發賣頒布ヲ禁止ス
  内務省告示
 第五十號
 一 直言 直筆 名士公評 第二編 一冊
   大阪東區島町二町目百二十八番邸寄留
       吉弘茂義 發行
 右出版物ハ治安ニ妨害アリト認ムルヲ以テ
 其發賣頒布ヲ禁止ス
 二十二年十一月三十日
A15111707800-直言直筆名士公評ト題スル
〔画像〕A15111707800
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レファレンスコード A15111707800
件名 直言直筆名士公評ト題スル出版物発売頒布ヲ禁止ス
   国立公文書館 内閣 公文類聚 明治
   第13編・明治22年
   公文類聚・第十三編・明治二十二年・第八巻・文書・出版・
   公文書式・記録志表・印璽・受付進献
【 画像数 】1
作成年月日 明治22年11月30日
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
緒方正淸氏と小野安子【青眼白眼】
《吉弘茂義:吉弘白眼》明治39年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/25403512.html
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《緒方正淸君》明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立【諸家稜々志】大正4年

《緒方正淸君》
明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年

【諸家稜々志】大正4年
《緒方正淸君》 p242-243/262
  現住所 大阪市東區宰相山町
      電 話 東四〇八番
 君は醫學博士にして、
緒方婦人科病院長兼院主なり。
元治元年七月二十一日を以て、 ※1864年8月22日
香川縣讃岐國綾歌郡瑞岡村國分に生る。
幼にして聰明怜悧、
夙に鳳卵の譽れ高く、
將來に於ける出群の大器を以て尠からず
郷閭に囑目せらる。

 明治二十年(1887)東京帝國大學醫科大學別課を了へ、
同年(1887)直ちに歐洲に留學し、
獨逸フライブルク・エーナ・ベルリン大學及び
墺國維納大學にて、 ※墺國(オーストリア)維納(ウィーン)
婦人科醫學を專攻し、
斯學の蘊奥を究め以て
二十四年(1891)五月ドクトルの學位を受け、
翌二十五年(1892)歸朝し、
同年(1892)四月緒方病院婦人科長となり、
翌二十六年(1893)以來
醫術開業試驗委員、産婆試驗委員たり。

 而して君は、
三十五年(1902)七月
東區今橋三丁目十八番地に於て
緒方婦人科病院を設立し、
獨力之が經營の重任に當り、
三十八年(1905)醫學博士の學位を受け、
四十二年(1909)萬國政府委員として
ブタペスト府に派遣せられ、
翌四十三年(1910)三月より大正二年(1913)三月まで
大阪市醫師會長たり。
尚且つ同二年(1913)七月より翌年(1914)五月まで
大阪府醫師會長の榮職に就き、
尚ほ明治四十五年(1912)六月より
大阪府衛生會副會頭たり。
且つ四十四年(1911)二月より
大阪市
産婆會長たりて、
亦四十三年(1910)七月より大正二年(1913)まで
大阪市會議員の公職を勤む。
而も君は、
明治二十六年(1893)より助産婦敎育所を創立し、
以て今日に及ぶ。

 君の學界並に社會公共の爲めに
裨益貢獻したる功勞功績や、
積んで山を成し、
殆ど枚擧に遑なきのみならず、
其の深遠該博なる學識、
卓越精妙の技倆、
加ふるに玲瓏玉の如き高潔なる人格は
世の珍とするところにして、
亦我が大阪の誇りの一とするに足る。

 尚ほ君の名譽に、
「日本婦人科史」「婦人家庭衛生」「初生兒發啼術」
「社會的色慾論」「婦人科手術學」「富山縣奇病論」
「硬性放射線學」等其の主なるものにして、
共に廣く世に行はる。
大正四年八月三十日印刷
大正四年九月 三 日發行
定價金五圓
編輯者 商工重寶社編輯部
發行者 今北治策
    大阪市西區本田二番町六番地
印刷者 大原一雄
    大阪市東區南農人町二丁目四番地
發兌元 商工重寶社
    大阪市西區本田二番町
    電話 長 西一二三七番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年03月01日 07:55 ◆小野安子
《緒方とら子:醫學博士 緒方正清夫人》
【婦人宝鑑. 大正12年度】
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