女醫 萩谷淸江女史【関西杏林名家集. 第1輯】明治42年
【関西杏林名家集. 第1輯】明治42年
女 醫 萩谷淸江女史 p42-43/283
大阪市南區谷町七丁目四番地
婦女子にして刀圭の業に從ふもの近時其人に乏しからずと雖も、
大阪にありて最も聞ゆるもの萩谷淸江女史あり、
其門戸の盛、
堂々たる大家の壘を摩せんとするものあるは特に偉とすべし。
女史の夫君義則氏は舊水戸の藩士にして、
勤王の義擧に加はり時人に知らる、
維新後大阪に來りて職を陸軍醫官に奉じて令名あり、
明治拾七年官を辭して醫業を開き、
内科の達人として重せらる。
女史明治八年を以て北區櫻之宮の寓に生る、
幼より其起居既に尋常女兒に異るものあるを以て、
父君見るところあり、
女史をして其業を繼がしめんとし
明治廿六年東京に送り濟生學舎に入らしむ、
拮据黽勉校中に聞え、
廿八年四月前期試驗に及第し、
後病を以つて其研學を癈するの已むなきに至りたるに拘はらず、
三拾年三月京都に於て後期試驗を通過し、
同年六月より開業するに至れり、
妙齢の身を以て既に此事ある、生平の用意想ふべきなり。
女史は夙に婦人科に就て造詣するところ深かりしに關せず、
同年六月より更に緒方病院に入り、
開業の傍ら研究を積み、
又佐多博士に師事して細菌學を修め出色の譽あり、
特に婦德堅固にして儕輩の崇敬を受けつゝありたりと云へり。
女史は一意專心醫道の研鑽を以て任とし、
今尚ほ之れを怠らず、篤學の風あるは、
人の知るところなりと雖も、
一面又家長として理想的家庭を作りつゝあるは、
藝術に長けたる婦女子の、
往々家庭の圓滿と背馳する行動の多き時流に卓出するものと云ふべく、
愛兒の養育を以て唯一の娯樂と爲し、
其天職に忠實なる、特に稱揚するに足るべし。
明治四十二年十二月 二十日印刷 關西杏林名家集第壹輯
明治四十二年十二月三十一日發行 正價金拾圓
編輯兼發行者 山口 守治
印 刷 者 福山福太郎
大阪市北區東梅田町參百參番地
發 行 所 衛生新聞社
大阪市南區難波河原町二丁目千四百六十八番屋敷
印 刷 所 福山印刷製本所
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月19日
T0110《助産之栞》(記念號)大正01年(1912)10月
緒方洪庵記念財団所蔵
《助産之栞》 記念號
醫學博士 緒方正淸主幹
大正元年十月 創立十五周年
緒方病院助産婦學會
<写 真> p2/3
小野利教 岩崎勘治 梶 完次 山本貞次 藤岡耐三
二川鋭男 足立 貫 飯島貫一 石井嘉四郎 後藤誠一
緒方政治郎 三浦久治 緒方會長 幣原 節 萩谷淸江
高橋辰五郎 五井 徹 龜山忠良 橘 薫 村上 琴
池田義玄 池田 保 水口耕治 福井 繁 小野 安
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