◆伊賀とら(登良)

《伊賀とら》女髪結の見た各地の婦人の風俗【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10

【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
著者    近代女性文化史研究会 編
出版者   大空社
出版年月日 1985.10
 婦人の働き
 婦人世界 秋季增刊
女髪結の見た各地の婦人の風俗…伊賀とら子(九六)
p120【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
〔画像〕p120【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
https://dl.ndl.go.jp/pid/12092662/1/120
近代婦人雑誌目次総覧 Ⅱ期 第9巻
揃定価  六一、八〇〇円
(本体価格六〇、〇〇〇円)
一九八五年一〇月一六日 印刷
一九八五年一〇月二二日 発行
監修者 中嶌 邦
編集者 近代女性文化史 研究会
発行者 相川 仁童
発行社 株式会社 大空社
    〒115 東京都北区赤羽二ノ三六ノ一二
    電話 〇三(九〇二)二七三一
印 刷 平河工業社
製 本 東和製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12092662/1/264
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【ファッションドキュメンテーション (6)】1997-03
著者    ファッションドキュメンテーション研究会 編
出版者   神戸文化短期大学
出版年月日 1997-03
★女髪結の名人に結って貰った記:婦人記者
 婦人世界8(5)(1913)104-109
★女髪結の名人に結って貰った記(続):婦人記者
 婦人世界8(6)(1913)67-69
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/43
★女髪結の見た各地の婦人の風俗:伊賀とら子
 婦人世界 8(12)(1913)96-99
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/46
★髪結としての二十年:伊賀とら
 婦人界(東京社)(1917.12.1)62-64

ファッションドキュメンテーション No.6
    1997年3月31日
編集 ファッションドキュメンテーション研究会
編集責任 高橋晴子
発行 神戸文化短期大学
   〒673 明石市明南町2丁目1番50号
   tel 078-927-0771
   fax 078-927-0774
表紙デザイン 鈴木八朗
定価2,500円(本体2,427円)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/55
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《伊賀とら》桑島千代・大沢たけ【東京一代女】邦枝完二 昭和25年(1950)

《伊賀とら》桑島千代・大沢たけ
【東京一代女】邦枝完二 昭和25年(1950)

【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
著者    邦枝完二 著
出版者   ジープ社
出版年月日 1950
p1【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
〔画像〕p1【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
  石の下に  p34-47/
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/34
三十間堀の桑島千代、
南金六町の大沢たけ、
大阪から來た日吉町の伊賀とらと、
新橋の腕ッこきの髪結は、
島田、げいこ、つぶし、銀杏返し、
丸髷、桃割、唐人髷と、
それぞれの好みの髪を、
ちつとでも女ッぷりの佳くなるようにと、
腕に縒をかけて結い上げるのを、
自慢にしているのであるが、
一代前の、吉原から來た烏森のお夏が、
水髪が得意であつたごとく
お千代は鬢の取り方がいかにも巧く、
そろそろ秋風が吹きそめた旦那も、
お千代が、結い上げた鬢の色気を見て、
甘ッたるくしだれかゝれば、
あと一年は寿命が続くといわれるくらいの、
人に負けない特技を持つていた。

三人の梳手が、
朝から夕方まで立ッ放しで梳き続けても、
下地ッ子に早くから番をとらせておかないことには、
結つてもらいそこねるという大繫昌。
遠く柳橋や下谷からも、
景気のいゝのになると、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/35
俥で乗り着けるくらいであるから、
客溜りには、
いつも自分の番を待ついる芸者の、
五人や七人ないことはなかつた。

天野のオムライスや、
プランタンのホット・サンドヰツチが、
次々に配達されて、
聽いたり聽かせたりするのは、
座敷のうわさ、岡惚れののろけ、
芝居の話、着物の好み。
……岡惚れの話はしても、
そのくせ自分の旦那のことは、
これッぱかりも口にしないのが、
規則というのか、
習慣というのか、
一種の不文律になつているのも、
旦那大事の商売なればこそなのであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/36
東京一代女 定価二百八十円・送料四十円
昭和二十五年九月 二十日印刷
昭和二十五年九月二十八日発行
著 者 邦枝 完二
発行者 佐藤淸四郎
印刷所 同盟印刷株式会社
発行所 株式會社 ジープ社
    東京都中央區銀座西二ノ一
    電話京橋(56)四三四〇・四九四一・七三四〇
    振替口座東京一九五一〇九
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/226
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《伊賀いせ子》須磨 伊賀邸 昭和7年1月4日【壬申日記 1の巻】昭和7年

《伊賀いせ子》須磨 伊賀邸 昭和7年1月4日
【壬申日記 1の巻】昭和7年

【壬申日記 1の巻】昭和7年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和7.6
 壬申日記 一の巻
 昭和七年一月一日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137768/1/8
 一月四日  於 須磨 伊賀邸
高木總務の滿洲行きをおくらんと
午前の八時龜岡をたつ
心地よく神苑晴れたり
汽車の窓に見る高殿は朝日かがよふ
高木總務小谷哲氏を伴いて
勇み出で行く奉天の旅
神戸にて高木一行と相わかれ
閑月伴ひ
須磨に向へり
伊賀いせ子舘に入りて
信徒と黄昏るるまで漫談をなす
須磨支部の中尾氏邸を訪ひ行きて
信徒ともに神言を宣る
尺八や三味に合して歌うたふ
咽喉の冴えをば聞かされにけり
小夜更くるまでも眠らず
信徒の讀む物語聞きてゐたりき
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137768/1/15
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※《伊賀ヒサ》と《伊賀とら》《伊賀いせ》の関連は不明。
【官報 1910年01月15日】明治43年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治43年
 〇貯金通帳亡失及盗難等
左記貯金通帳亡失及盗難等ノ事故ニ罹リタルニ付キ
若シ其所在ヲ發見シタル者ハ速ニ
最寄郵便貯金取扱局所ニ届出ツヘシ
 明治四十三年一月 郵便貯金局
記番號   ぬはか 一六二三
交付局所名 攝津 須磨
預人氏名  伊賀ヒサ
p11【官報 1910年01月15日】明治43年
〔画像〕p11【官報 1910年01月15日】明治43年
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日

伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳

伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日  74歳

伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日  15歳

伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日  25歳
【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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須磨より伊賀伊勢子(伊賀とら姉)【東北日記 1之巻】昭和3年

須磨より伊賀伊勢子(伊賀とら姉)
【東北日記 1之巻】昭和3年

【東北日記 1之巻】昭和3年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和3.8-4.2
   東北日記
 昭和三年七月十一日
梅田安子 伊賀伊勢 純子の三婦人
 ※伊賀伊勢:伊賀いせ(伊賀とら姉)
伊都雄 吉原 岩田氏 同車す。
 ※伊都雄:大国浩三(戸籍名)
  大国 弘(小野又一の姉)の夫
 七月十二日  於 高天閣
大津驛まで同車見送りたる
宣、信氏名左の如し。
京都より
出口日出麿、
伊賀治子(※伊賀とら)、
鎌光よね子、平野松三郎、木全仙右衛門、
大谷敬祐、粟辻忠造、荒川安史、南貴太郎、
三雲孝四郎、三雲麻子。
天恩郷より
加藤明子、日田井輝男、出村喜一郎。
宇治より
石田要之助(但し米原まで)。
大阪より
米倉一郎。
須磨より
伊賀伊勢子 ※伊賀治子(とら)の姉
の諸士にして、
大津に出むかへたる人々は、
西村爲次郎、藤丸、辻、堀江の夫妻諸氏なりき。
暑さの時節諸氏の厚情を感謝す。
又滋賀縣の農林主事補
北村常三氏の繁中の出迎を感謝す。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月08日 05:40
《伊賀とら》義侠者の伊賀お寅
[下山京子]仲居變装記 常盤花壇
【一葉草紙】大正3年(1914)
 三 藝者氣質  p130/187
《お寅さん》は相變らず後姿を見せて仕事に餘念ない。
黄色い聲の賑かな話は彼方此方に起つて
既(も)う私の存在は認められて居ないらしい。
周圍の事情がこんなだから
私もツイ油斷してゐると突然横手から、
『若し貴女、一寸(ちょ)いと』
と優しげな聲がする。
ハツと膽(きも)を潰(つぶ)して向ふを見ると、
何時の間にか廿五六の束髪に
結(ゆつ)た品の好い奥樣風の人が立つてゐて、
『此方でお話をしませう』
と澄(すん)だ東京辯で次の間へ案内された。
丁寧に頭を下げると、
『私は《お寅》の姉ですが
 一體貴女は怎(ど)ういふ譯で―』
※伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]下記詳細
と凛々しい眼附で眤と見詰める。
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《女髪結の伊賀トラさんは著名で》大本敎の新風景【更生日記 4の巻】昭和6年

《女髪結の伊賀トラさんは著名で》
大本敎の新風景【更生日記 4の巻】昭和6年

【更生日記 4の巻】昭和6年
著者    月の家 著
出版者   第一天声社
出版年月日 昭和6.4-7.5
更生日記 四の巻  月の家著
昭和六年 自 四月一日
     至 四月卅日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/4

 ◇四月十一日 江州日々新聞所載記事 p153-154
  女性でバツクする
   大本敎の新風景
    信者や宣傳使に
     著しい女性の進出
女性を開祖に持ちその又
敎主を女のお世嗣と定めた
京都府の大本敎では
エロ、グロの兩女性風景が敎團を彩る。
大本には男女平等制が布かれ
滿二十歳以上の信者には
參政權の淸き一票が與へられてゐる。
全國初回の賛襄(代議員)の中に
二人の女性が當選した時には
豫期したとは云へ信者間で奇異の目を睜つたもので、
その一人が本縣彦根町の高祖富士子女史であつた。
今では女の大宣傳使、正宣傳使、准宣傳使がザラにあり、
女の分院長を始め、分所、支部長があつて
斷然男性の壘を摩してゐる始末、
從つて女傑も少なくない。
開祖が超人であれば
二代、三代その姉妹の方々にも
思藻的にも思想界にも秀でゝゐるし
女髪結の伊賀トラさんは著名で
墨西哥(メキシコ)より修業にて歸朝の宮本ツネ、
竹内テル子、三段崎ミチ、田端サキ、
成川アサ子、遠山幾子、
吉野分院長吉野時子、
大宣傳使加藤明子女史の如きは
確に男まさりの豪のものであらう。
此の外藝界方面、文藝、内侍方面には女大を始め
高等敎育、普通敎育を受けた
エロ、グロによつて色とりどりの交響樂を奏してゐる。
瑞の御魂變性女子たる王仁師御大によつて
太陽系を形造り之を圍繞する衛星にも
前兩樣の經緯によつて錦の機を織り上げた。
曰く筑紫女王柳原燁子、
曰く江木欣々女史、
曰く桂公愛妾お鯉の方、
曰く古屋登代子女史など、
尚平塚雷鳥女史の王仁師訪問の噂もある。
昨今信者や宣傳使に著しく女性の進出を見つゝある
大本は女性の魅力によつて將來榮えもし、
幾多のナンセンスが貽されても行きさう、
是れが大本をバツクする
現在の新風景とも云へよう。
(吉野花明)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/153
昭和六年七月三日印刷 更生日記四の巻奥附
昭和六年七月十日發行 定價壹圓
編輯兼 第一天聲社
發行者 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村
    字東四ツ辻十三番地
    振替大阪六〇五三四番
印刷者 東尾吉三郎
    京都府何鹿郡綾部町大字本宮村
    字東四ツ辻十三番地
販賣所 第二天聲社
    京都府南桑田郡龜岡町
    大本天恩郷内
    振替大阪七五九一七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/249
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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新橋藝妓等【京橋繁盛記】大正元年(1912)

新橋藝妓等【京橋繁盛記】大正元年(1912)

【京橋繁盛記】大正元年(1912)
著者    京橋協会 編
出版者   京橋協会
出版年月日 1912
墓碑一覽
割烹及飲食
遊藝娯樂
▲新橋藝妓
 新橋藝妓の名は日本到る所
 之を知らざるものなし、
 誠に新橋藝妓ありて
 都の空に色彩を生じ居れるが如き觀あり、
 眞に是れ繁昌の一つと言はざるべからず、
 今其の藝妓名、本名等を示せば
 大略左の如し。
 ▲一等藝妓
 ▲二等藝妓
 ▲小藝妓
▲待合及遊船宿
 京橋區内には多數の待合あり
 今其の重なるものを舉ぐれば
 左の如し。
▲貸席
京橋名物
評判記
職業と其住所人名一覽(イロハ順)
大正元年拾壹月二十四日印刷
大正元年拾壹月二十七日發行 定價金壹圓七拾錢
  東京市京橋區木挽町一丁目十四番地
編輯兼發行人 石川庄平
  東京市京橋區南水谷町七番地
印刷人    森 潤二
  東京市京橋區南水谷町七番地
印刷所    日進舎
  東京市京橋區木挽町一丁目十四番地
發行所    京橋協會
       電話京橋二八八七番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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※上記と同一内容
【京橋繁昌記 : 一名・京橋区沿革史】大正元年
著者    京橋協会 編
出版者   京橋協会
出版年月日 大正1
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀 虎》《下山京子》當世成上り男女番附【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)

《伊賀 虎》《下山京子》當世成上り男女番附
【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)

【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)
出版者   實業之世界社
出版年月日 1916-08
 當世成上り諸君  p11/95
右列上より 神田鐂藏氏、松崎天民氏、
      石井菊次郎子爵、曾我廼家五九郎氏、
中列上より 幣原喜重郎氏、松井須磨子氏、
      加藤高明子爵、豐竹呂升氏、
左列上より 中平文子氏、高木德子氏、
      菊村音丸氏、下山京子氏
p11【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)
〔画像〕p11【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1556331/1/11
 當世成上り男女番附(口繪を見よ) p31/95
前頭(髪結で)   伊賀 虎
前頭(なんでもで) 下山京子
前頭(美顔術で)  小口みち子
p31【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)
〔画像〕p31【世の中 2(9)】大正5年(1916-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1556331/1/31
大正五年七月廿三日印刷納本
大正五年八月 一日發  行 第二巻第九號
編輯兼 倉若梅二郎
發行者 東京市麴町區有樂町一丁目四番地
印刷者 秋山 尚男
    東京市麴町區有樂町一丁目四番地
印刷所 凸版印刷株式會社分工場
    東京市本所區番場町四番地
發行所 實業之世界社
    東京市麴町區有樂町一丁目四番地
    振替東京三四三三番
    電話本局四五一五番(編輯用)
        四五一六番(營業用)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1556331/1/94
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《下山京子》『一葉』美人記者の料理店・築地一丁目十八番地【実業の世界 10(5);大正二年三月一日號】

《下山京子》『一葉』
美人記者の料理店・築地一丁目十八番地
【実業の世界 10(5);大正二年三月一日號】

【実業の世界 10(5);大正二年三月一日號】
出版者   実業之世界社
出版年月日 1913-03-01


東京變物傳  p54-55/69
馬賊式の豪傑飯屋
美人記者の料理店
     一記者
▼墨痕淋漓四壁落書
   口上……一
   口上……二
▼主人は早稻田出身の豪傑
▼廉くて旨い飯と酒
https://dl.ndl.go.jp/pid/10292863/1/54

美人記者の料理店
▼女記者から女將  p55/69
水滸の豪傑飯屋の主人公を叙した
その不似合な筆で、
記者は世にも優しき人の營む、
蘭燈の影春の夜よりも朦(おぼ)ろなる
酒樓の光景を描かねばならぬ。

優しき人、其名を下山京子と云ふ。
思出の酒樓、呼んで『一葉』と云ふ。
京子は生粹の江戸ッ兒と聞く、
無雜作に束ねた櫛巻の後れ毛から、
黑地に刺繍したねび紫の小袖から、
油斷の無い引締つた言葉付から、
何處までも懐古的氣分の勝つた
江戸女たるは爭はれない。

彼女自ら散りし一葉と物の憂ひを
水に流した氣でゐるが、
流れ流れて里から里へ、
何時かは岸に流れ着いて、
花咲き實結ぶ時もあらう。

さはれ、美しき京子の細腕は、
今や一料理店の女將として、
赤い前垂の女中の總大將として、
朝から晩まで眩(めくら)めくばかりの
帳場萬端を一手で斬廻してゐる。

何時の頃であつたか、
大阪時事新報の一三面記事が、
京阪地方さては中京あたりの
天地を震駭せしめたことがある。

堂々たる攻撃文でもない、
壯絶にして辛辣なる公開狀でもない。

僅かに花柳界の暗黑面を素ツ破抜いた、
艶種の少し氣の利いた
變装記體のものに過ぎなかつた、
而も其一文は女性の筆致であつた。

何が故に、女性の一戯文が
鬚髯男兒の膽(きも)を奪ふたのであるか、
他なし、其の日々現出し來る人物と、
活躍の舞臺といふ舞臺は、
渾て是れ架空の拈(ひねり)出した幻影にあらで、
筆勢の躍動する所、微に入り細を穿ち、
粹界の遊治郎共をして、
『嗚呼之れ誰が筆ぞ!』と
顔を蔽(お)ふて市に走らしむるに至つた。

彼の三業組合の如きは、
血眼になつて在らゆる迫害を、
此の華者たる一女性の上に加へんとした、
其女性こそ、
此處『一葉』の女將と濟まし込んだ
京子女史ならんとは、
扨(さて)も運命は今更奇なものである。

女記者として半生を送つた彼女に取つては、
兎角の世評は有るにした處で、
弊履のやうに生命の筆を抛り出して、
一料理店の帳場にドカンと座り込んだ處に、
捨て難い江戸ツ兒の淡然たる
猪突的勇氣を味ひ得る。
〔写真〕一葉の女將お京さん

▼野依社長の結婚申込
『妾(わたし)はもう噴火しない死火山ですよ、
 さらりと過去の生涯は捨てゝ了つて、
 妙なことには、此頃は靜かに靜かに、
 佛信心などがしたくなつてきました。』

招ぜられた見馴れぬ粹造りの四疊に固くなつて、
記者は彼女から沁々(しみじみ)と
述懐談を聞かされた。

『貴女は何の爲に、料理屋なんか行(や)るのです』
と問へば、
『妾(わたし)は小供の折から繪草紙が好きで、
 その幼い時の記憶が、
 知らず識らず妾(わたし)を導いて、
 一度は爲(な)つてみたいと思つた、
 この姿になりました』と、
夢見るやうな眼光である。

面白いのは我社の野依社長が曾(かつ)て
厖大な求婚廣告を出して配偶を天下に求め
一世の物議を醸した時、
社長は自ら大阪に下つて
京子女史に結婚を申込んだことがあるといふ、

『妾(わたし)もヒヨツトしたら、
 行つてみたい氣になつたかも知れません』といふ、
何故行かなかつたかと尋ねると
『でも阿母(おつか)さんが、
 アンナ狗(いぬ)の子でも貰ふやうに
 思つてる人には行つては不可ないと、
 それはそれは八釜敷(やかまし)かつたのです』
は何處までも變つた女なり。

『世の中は、何と言つても一金二金三金と
 つくづく想ひます、
 過去に社會から在らゆる迫害を受けた
 故でもありはしましやうが、
 如何(どう)しても金の土臺を 
確然(しつかり)築いて置いて、
 夫れから思ふ存分暴れてやるのです。』

恐ろしい拜金主義もあつたもの哉、
嗚呼されば子孫の爲に美田を買はずとか、
家に擔石の蓄へなしとか豪語した
堂々たる天下の國士さん、
媚を賣つては遊女風情同樣に、
巨頭公の羅織に甘んずる世の中ぢやもの、
記者は却つて、思切つて豪語する
彼女の眼底に涙の露の宿るのを壯とする。

『結婚した事はないのですか、
 如何(どう)です結婚しては!』と
矢繼早に攻立てると、
皮肉な笑を片頬に浮かべて、
秋の一葉を彩つた封筒を取出して、
『笑而不答』と筆走らせる。

通がらぬ所、新らしがらぬ所、
落着いて御座る所、
浮世の波を潜つただけに、
馬鹿に垢抜がして見える。

▼健氣な赤前垂
御料理、調理精撰輕便を旨として
御用相勉め申候、
何卒御引立御來駕待奉仕候

これは世間體の表看板ながら、
有繫(さすが)にソレ者の果の
槍一筋の夫れならぬ、
隱すとすれど現はるゝ譬へ、
何處やらに氣高い空氣が、
格子から、奥座敷まで漲つてゐる。

御常連は政治家や實業家が多いと聞けど、
記者の如き破れ袴に一升德利枕で轉やうな
珍客でも平等に相應に待遇なして呉れる道理、
デなければ『一葉』は
二葉にも三葉にも成り申すべし。

『如何です、
 貴方がたで牛飲馬食か何かなさる時は、
 何時でも接伴に參りますよ』とは
ちと物凄い。
一時は好きで呑んだ酒杯(さけなど)も
トント此頃に手にせぬとやら。

好事家あらば叩いて見給へかし、
場所は築地一丁目十八番地、
驅出しの目下こそ
左して大なる結構とには非ねど、
今に日本一の料理店になつて見せると、
京子女史は鼻息は荒しとも荒し。
〔写真〕笑而不答 下山きやう子
https://dl.ndl.go.jp/pid/10292863/1/55
大正二年二月廿五日印刷納本
大正二年三月 一日發  行
發行兼 大塚 豐次
編輯人 東京市芝區露月町二番地
印刷者 宮村 富男
    東京市芝區露月町二番地
印刷所 凸版印刷株式會社
    本所分工場
發行所 實業之世界社
    東京市芝區露月町二番地
    振替貯金口座三四三三番
    電  話 芝 五八四番
    大阪支局 大阪市天王寺
         堂ケ芝町五六四九
https://dl.ndl.go.jp/pid/10292863/1/64
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《下山京子》築地木挽町『一葉』【活人剣殺人剣】大正2年

《下山京子》築地木挽町『一葉』【活人剣殺人剣】大正2年

【活人剣殺人剣】大正2年
著者    鵜崎鷺城 著
出版者   東亜堂書房
出版年月日 大正2
   四  p99-101/215
築地木挽町に『一葉』と稱する待合あり、
待合としては必ずしも第一流にあらず、
其誇りとする關西料理は必ずしも
珍とするに足らず。
然るに最近其名の世に著聞し、
殊に政治家の間に傳唱さるゝは何ぞや。
交詢社と一葉との關係に入るに先ち、
事の順序として交詢社と
帝劇及び歌舞伎との關係につき、
少しく説明せざるべからずや。

毎月一回開く處の演藝會は役者、
藝人の出入し、聲妓舞姫を傍聽人とし、
淸友會の名に副はざるより、
一時可否の論喧しかりしが、
演藝方面を擔當したる一代の粹士
大河内輝剛の、
さる野暮論を叩き伏せて以來、
當時の不粹家も漸次粹化して、
今日は家族と共に賤業婦と伍するを
怪(あやし)まざるに及べり。
初め交詢社と歌舞伎とを
結びつけたるものは大河内なりしが、
其歿後井上角五郎・岡本貞烋の同座に關係するあり、
殊に定連の一人たる三宅豹三の總支配人たるあり。
隨(したがつ)て二者依然として
親密の干繫(かんけい)を維持す。

帝劇には福澤捨次郎關係し、勢力家なりと稱せらる。
西野惠之助の專務となり、
山本久三郎の支配人となりしは一に彼の援護に出づ。
乃ち交詢社と歌舞伎と兄弟の關係ありとせば、
帝劇とは正に親子の關係ありとすべく、
現に交詢社に於て帝劇の入場券を購ふを得るの便あり。

『一葉』の現はれしは女優界との干繫(かんけい)に出づ。
蓋し主婦下山京子は多くの友人を女優に有し、
帝劇の大勢力家にして交詢社の准元老たる
福澤捨次郎は一葉の『覆面せる主人公』なればなり。
女優は頻々一葉に出入し帝劇關係者も此に遊ひ、
殊に交詢社員の資格ある者は
舞臺上の名花を擁して春閨夢裏の人

となるの好チヤンスあり。
桃介の如きはチヤンスを捕ふるに
最も熱心なる一人なり。

下山京子は抑々如何なる女性なるか。
靜岡に生れ、高等女子師範豫備校に學びしといひ、
一通り文才ありといひ、
萬更素性も學問もなき婦人なりと惟(おも)はれざるが、
捨次郎に寵せられて小星となりしは
時事の婦人記者時代とす。
肉體的にも精神的にも堕落せる一種の婦人を以て
所謂る『新しき女』とせば、
京子の如きは確に新しき女の名を冠するを得べし。
今日上流の婦人、良家の處女が一種の虚榮心より
新らしき女と呼ばるゝを喜び、
良妻賢母たるを冀はずして
堕落婦人の顰に倣はんとするの多きは
社會風敎の爲めに慨すべきの至りとす。
靑鞜社の一連の如きは
矢場女の少(すこ)しく文字あるものに過ぎず。

余の勃窣(ぼつそつ)なる
未だ一葉なるものを知らず、
一日友人に伴はれて至る。
亭婢皆な京都大阪の茶屋女に倣(なら)ひて
赤前垂を膝にし俗惡堪ふべからず。
既にして京子の座に現はるゝを看れば、
其服装といひ、容貌といひ、
待合の女將といふよりも女優といふに幾(ちか)し。
世間の噂に據れば絶世の美人の如く想像さるゝも、
來(きた)つて實物を見れば、
名其實に過ぐるの嫌ひなからず。

交詢社に綠屋組と一葉組とあり。
高田信次郎・磯野長藏・松本隆治・
靑木徹等は前者に屬し、
一葉の定連には福澤一門の外に
菊地・小山・小坂・野間・堀切・名取あり。
是等はいづれも一葉の草分にして、
漸次顧客を紹介し犬養・尾崎・岡崎等も
牛に引かれて光善寺參りをなすに至れり。

今一人一葉の大熱心家として知らるゝは竹越三叉なり。
文章、演説其他行くとして可ならざるなき才人は、
近頃淸元に淫し造詣する處深しといふ。
初め望月小太郎を一葉に伴ひしは彼れなり。

望小太は氣障(きざ)と滑稽を搗き交ぜたる
『妙な男』なり。
彼の自ら誇りとする演説について
噴飯すべき奇談あり。
或時福井三郎と共に某地の演説會に臨むや、
三郎は元と專門の講釋師だけに巧みに望月の態度、
口吻を眞似(まね)して前席を勤め、
代はりて望月の得意となりて辯じ立つるや、
聽客は三郎の眞似(まね)をなすものとして
一齊に罵り笑ひ、
折角の名演説も臺なしに終りて
大に面目を損じたり。
初め望月は何の故なるかを知らざりしが、
後ち三郎の惡戯に出づるを知るに及び、
知團太を踏みて口惜しがれり。

一葉に於ても人の惡戯の爲めに一笑話柄を殘せり。
竹越は名取と諜謀し、
望月の財豪にして且つ大政治家なるを吹聽し、
特別の待遇を與ふるの
一葉の爲めに利なる所以を京子に説き、
一方望月に對しては京子の彼に意あるを告げたり。
京子の待遇尋常一樣ならざるを見て、
己惚(うぬぼれ)心強き彼は屢々(しばしば)行きて
甘たるき言を吐き、
果ては情人氣取りにて帳場に坐りて
餘計の世話を燒くなど、
京子も煩に堪へずして(つひ)に
竹越・名取に愁訴するに至れり。
大正二年六月三十日印刷 活人劍・殺人劍
大正二年七月 五日發兌  正價 金壹圓
著作者 鵜埼 熊吾
發行者 伊東芳次郎
    東京市神田區鍛冶町八番地
印刷者 高橋 賢治
    東京市小石川區久堅町百八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町百八番地
發行所 東亞堂書房
    東京市神田區鍛冶町八番地
    電話本局八八四番
    振替東京一七一番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)

《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん
【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)


【女性教養 12月(287)】1962
出版者   日本女子社会教育会
出版年月日 1962-12
 奈良県の美容界の先駆者
   田中直江さん
 日本美容界の発展の歴史は、つねに、
その時代の政治と社会の動きを反映して、
大きな波のうねり、そのままに日本の女性史、
女性の解放史の一コマを演じてきた
役割の偉大さも興味ふかい。

 かえりみると、明治の日本髪、大正の洋髪
昭和のパーマネントと、
大きな変動の歩みのあとは、
日本の欧米文化吸収の嵐で
忽ち一変してしまった。

 美容界にも東京と大阪のポイントがあり、
互に交流し、刺激し、発展しあったものである。
 明治大正のころの大御所は東京の伊賀トラ女史。

 そこへ大正の初期、
アメリカがえりの山野千枝子女史が丸ビルで開業して、
華やかな洋髪、洋装時代をリードしての十年間、
コテによるウエーヴの新しい黄金時代を謳歌した。

 次に昭和のはじめ、
東京日本橋の旅館の娘がアメリカで結婚し、
ロサンゼルスを中心のアメリカ美容と、
はじめてのパーマネントウエーヴ(永久的の意味)を
日本へ持ち帰ったのが、初代のメイ牛山。
神田に開業し、思いきって銀座の表通りに
七丁目のメガネやの二階に進出したのが、
このハリウッド美容室。
髪に電気をかけるなんぞ怖いとか、
チリチリにやけて丸坊主になるとか、
たいへんな評判のうちに、
日本の美容界はアッというまに、
パーマ一色に圧倒されてしまった。

 勢いにのったハリウッド美容室は、
横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、福岡と
支店を進出させて怒濤のように日本制覇を夢みたが、
やがて牛山夫妻の離婚と
メイ女史の再渡米から再婚、死去。
日本も満州事変から支那事変のひろがりと
日米開戦から敗戦へ。

 戦後はコールドパーマの全盛で、
山野愛子女史の抬頭と
巨大な美容学校の経営の成功。
芸術的技法というか、
センスの名和好子女史、
古くから松坂屋で陣どってた
横浜生れの芝山みよか女史。
日本美容界草分けのひとりの
マリールヰズ女史の養女千葉益子女史。
重鎮の牛山喜久子女史。
女史美術出身の早見君子女史。
着つけでは日本一の腕を誇った
銀座うらの遠藤波津子女史。

 牛山喜久子さんは、
メイ牛山の夫君牛山清人氏の弟の吉二郎夫人。
目白女大中退で、そのころ歌舞伎座近くの
ハリウッド美容学校の卒業生。
ヒノエウマ生れで、きかぬ気の、
パリパリ活躍中のメイ牛山女史の
タフな生活ぶりをそば近く驚嘆してきた一人で、
今日の美容界で、
経歴といい、頭脳、実力ともに
やはり第一人者のカンロクである。

 メイ牛山女史の出現は、
日本の美容界に大きな旋風をまき起した。
当時の読売婦人記者小川好子女史
(現東芝リビングサークル)のバックアップで
新宿に出現したのがマヤ片岡女史。
三越では小口みち子女史のにらみもあり、
大場静子女史、
高山たけ女史など一流が競っていた。

 とにかく、日本の美容界が、
昔ふうの髪結いさんクラスから、
洋行がえりの女史スタイルにまで
向上して拡がりをみせた。

 もっと偉い人もあった。
 山本久栄女史。

 この人は東京の赤坂見附に
「美粧倶楽部」の看板をかかげ、
紀尾井町に美容学校を経営し、
京都に店をもってご大典のおりの
十二ヒトヱやオスベラカシの髪を扱い、
大阪の堺筋の本町に店をかまえて、
東京大阪を忙しく往復し、
いわゆる上流家庭にふかく根をおろした
目ざましい活躍と手腕は、
いまも尚語りぐさをにぎわしている。

 山本久栄女史は伊賀トラさんに学び、
「思いつき夫人」とよばれたほどの
あらゆる新企劃を発表し、
「マガレット」コート
其他のたくさんの作品もある。

 神戸のスズ細野女史もアメリカがえり。
この人に学んだのが名和好子女史。
神戸という異国趣味の町でみがかれたセンスは
香り高く今日の名和女史の名声にうなづかれる。

 大阪の梅本文子女史。
 今日でもミニヨン美容室をもち、
大阪の淀君のような存在。
裕福な有閑夫人が、
子供のない生活のあきたらなさからか、
美容院の開業。
藤原あきさんクラスの
気品たかい美貌の人であった。

   修業時代
 いまの奈良美容界の元老は
タナカ美粧園の田中直江女史。

 東京大阪のこういう美容界の起伏をバックにして
田中直江さんの今日までの歩みをたどってみる。

 直江さんは明治36年生れ。
奈良県山辺郡福住村山田の出身。
父は直次郎、母はテル。
生家は山ふかい農家であったが、
母のテルさんは髪結いもした。

 13才のとき、
奈良市のおはるさんの
門下生として住みこみ修業にスタート。
当時の奈良には三人の髪結いの名手がいて、
おつねさんが元林院の芸妓衆あいて、
おはなさんが町方衆、
おはるさんは芸妓と娼婦が
お客さんに多かった。

 そのころの流行とは、
キモノにしろ、髪形にしろ、
だんぜん芸者さん優勢時代で、
いわばいまの映画スターなみ。

 直江さんは5人姉弟のいちばん上。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/16
   両親の教え
   独立から妹たち
   不屈な研究心
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/17
   アメリカ旅行で
   明日の美容師
   信仰に活きる
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/18
昭和三十七年十一月二十日印刷
昭和三十七年十二月 一日發行
    東京都港区芝公園十二号地
    日本女子会館
編集人 古川 八重
発行者 古川 八重
印刷者 松村  保
    東京都港区芝公園十二号地
    日本女子会館
発行所 財団法人 大日本女子社会教育会
    振替東京七四二〇〇番
    電話 芝(431)六八九二番 三七〇番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/26
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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